大正 改元

大正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 15:01 UTC 版)

改元

大正改元の詔書(1912年(明治45年)7月30日)
朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)[2]
  • 1926年(大正15年)12月25日 - 大正天皇が47歳で崩御し、その長男である皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が25歳で践祚したため昭和に改元。同日は「昭和元年12月25日」となった。なお、皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)11月25日以降、持病が篤くなった大正天皇の摂政を務めている。

出典

大正の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回(「元弘」「承応」「万治」「貞享」改元時[3])候補に上がったが、5回目で採用された。

なお、「大正天皇実録」によれば、明治に代わる新元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により大正に決定した。

森鴎外が『元号考』の執筆にあたり、賀古鶴所に宛てた書簡で「「大正」はベトナムで使用があり、御幣を担ぐわけではないが中国では「正」の字の元号を嫌う。「正」の字は「一而ニシテ止ル」と読めるので、「正」の字を付けて滅びた例を調べるべきなのに不確認である」と不満を述べている[4]

特徴

大正時代(1912年-1926年)は、大正天皇の在位した期間を指している。

日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳飛鳥奈良平安鎌倉室町安土桃山江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。


大正年間には、2度[5]に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄犬養毅[6]がその指導層となった。

大正デモクラシー時代は1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する原敬(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。

原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。

この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。

1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造民本主義[7]美濃部達吉天皇機関説などが現れた。

1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。力強い時代だった明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が大正9年(1920年)11月1日創建された[8]

1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。

日本も連合国として勝者の側につき、列強五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。

大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界していった時代で、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった[9]

国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国ソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。

しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して治安維持法が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。共産主義思想は日本のインテリ層に影響を与え、大正期の知識人は、改造革新革命維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。

文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた[10]。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、電話交換手や女子事務員など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や横浜大阪神戸などでは大企業外資系企業に勤める大学卒で高収入なホワイトカラーが登場し、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した[10]

大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。


注釈

  1. ^ 南北朝時代北朝の元号を含む。除く場合は229番目である。なお、南朝のみの元号を除く場合は238番目である。

出典

  1. ^ 世界大百科事典 第2版「大正時代」
  2. ^ 明治45年(1912)7月|大正と改元:日本のあゆみ”. 2020年8月30日閲覧。
  3. ^ 「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回、時事ドットコム、2019年02月02日15時19分。
  4. ^ 「昭和」を考案した男と「令和」にまで影響した森鷗外の執念”. 現代ビジネス. 講談社 (2019年5月2日). 2021年2月10日閲覧。
  5. ^ 第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。
  6. ^ 政党側の闘志であるこの二人は、中華民国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)
  7. ^ デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)
  8. ^ 明治神宮の鎮座と戦後復興”. 明治神宮崇敬会. 2020年11月29日閲覧。
  9. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目
  10. ^ a b c 『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015
  11. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁
  12. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁
  13. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁
  14. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁
  15. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
  16. ^ a b c d 『世界大百科事典』(平凡社)「大正」の項目
  17. ^ 『図説日本史通覧』253頁
  18. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁
  19. ^ 1925年(大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、アメリカの無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ
  20. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)200頁
  21. ^ a b 人的被害の9割が東京・横浜に集中 : 関東大震災を振り返る”. ニッポンドットコム (2019年8月30日). 2020年11月29日閲覧。
  22. ^ 大正から昭和へ少年少女日本の歴史202頁〜207頁
  23. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正71頁
  24. ^ 「明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化」14ページ、汐文社
  25. ^ 集英社学習漫画日本の歴史大正時代大正デモクラシー125頁
  26. ^ 江原絢子石川寛子「家事教科書からみた調理教育の営的研究(その2)―大正期―」『家政学雑誌』第37巻第1号、日本家政学会、1986年、 67-75頁。(72ページより)
  27. ^ 進藤健一"どんな揚げ物にはまってますか? 思わずパクつく「背徳のグルメ」"朝日新聞2014年8月30日付朝刊、週末be2ページ
  28. ^ 橋本直樹 (2016年4月14日). “変わり行く日本食 6 「洋食」物語”. 大人のための食育 食育博士の辛口レクチャー. 2017年3月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。
  29. ^ 長友麻希子. “洋食”. 京都市観光協会. 2020年8月9日閲覧。
  30. ^ 第5章 近代(明治から昭和の戦前)―洋食と和食”. 2013年経済学部ゼミナール大会報告論文 日本の食文化の歴史. 松山大学. 2016年8月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。
  31. ^ 木村智彦 (2011年5月24日). “本校の歴史その8 大正時代と旧制中学”. 浪速高等学校・中学校. 2016年8月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。
  32. ^ コロッケ検定”. 日本コロッケ協会. 2016年6月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年3月20日閲覧。
  33. ^ [1]
  34. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年148ページから〜151ページの大正時代の3大洋食-『明日もコロッケ』だった時代の項目
  35. ^ 「教科書に載っていない戦前の日本」55頁
  36. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正74頁
  37. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ224頁
  38. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正152頁
  39. ^ 大正から昭和へ少年少女日本の歴史224頁〜225頁
  40. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)228頁
  41. ^ 明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の37ページ。汐文社が出版社である
  42. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正153頁
  43. ^ 『「スペイン風邪」大流行の記録』平凡社東洋文庫、2008年、p.104。国会デジタルライブラリー『流行性感冒』
  44. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)212頁
  45. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)215頁
  46. ^ 松尾尊兊『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』118ページ〜120ページの復興する都市と女性の進出の項目
  47. ^ 『一冊でわかるイラストでわかる図解仏教』成美堂発行の73頁
  48. ^ マンガ日本の歴史現代編大戦とデモクラシー。石ノ森章太郎執筆の200頁
  49. ^ 同志会153議席,政友会108議席,中正会33議席、国民党27議席、大隈伯後援会12議席,無所属48議席
  50. ^ 松尾尊兊『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』15ページの上段の2コマ 集英社
  51. ^ 皿木喜久『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』216ページ10行目から〜17行目






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