大徳寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 16:23 UTC 版)
塔頭
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
- 徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
- 竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。明治11年養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、大正14年(1925年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
- 如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは昭和48年(1973年)に再興されたもの。
- 真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
- 養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
- 龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
- 大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
- 興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は日本で最初のものといわれる。
- 瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
- 聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
- 総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。明治11年大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
- 黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。明治11年昌林庵と合併[2]。
- 三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。明治11年清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
- 正受院 - 里村紹巴の墓がある。
- 大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
- 高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。明治11年泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
- 玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
- 大徳寺保育園
- 大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。明治11年清源庵と合併[2]。
- 龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。明治11年寸松庵・看松庵と合併[2]。
- 芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。明治11年高林庵と合併[2]。
- 孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
- 龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、昭和33年(1958年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会日本支部を設立し、庵を復興。
門外塔頭2寺
- 来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。明治11年に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
- 雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
- 瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
旧塔頭
- 松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、明治11年に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
- 天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
- 金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。明治11年龍源院へ合併[2]。
- 大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。明治11年三玄院へ合併[2]。
- ^ 切縮は龍源院、興臨院、聚光院、大仙院の4寺で、法類・檀家協議の上で建物の一部を売却して、建物の営繕資金に当てるとともに、維持費を圧縮した(『官路諸雑記』、(竹貫(2010))p.254)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 1878年(明治11年)3月11日に京都府知事槇村正直宛に提出した「合併切縮之儀ニ付御伺」(竹貫(2010)pp.252-255)。
- ^ 張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.28
- ^ 加藤繁生「聚楽第余聞(1) 国宝大徳寺唐門の素性-尼崎本洛中洛外図を読み解く-」2020『史迹と美術』(史迹美術同攷会)905号所収
- ^ 『京都・紫野 大本山大徳寺』による(頁付なし)
- ^ 書下しは以下のとおり。昨日被仰出候 / 牧渓〔ママ〕ふよう〔芙蓉〕御絵 / 被進之候一段見事 / 様子別而御秘蔵 / 尤奉存候猶致 / 祗候可申上候此等之 / 趣宜預御被露候 / 恐々謹言 / 抛筌斎 宗易(花押) / 七月十日 / 球首座
- ^ 奈良国立博物館 東京文化財研究所編集・発行 『大徳寺伝来五百羅漢図』 思文閣出版、2014年5月20日、ISBN 978-4-7842-1743-4。
- ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第26号
- ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について〜」(文化庁サイト、2019年3月18日発表)
- ^ 平成25年6月19日文部科学省告示第106号
- ^ 平成17年6月9日文部科学省告示第87号
- ^ 平成28年9月8日文部科学省告示第125号。
- ^ a b 大徳寺方丈庭園 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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