大平正芳 生涯

大平正芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 14:42 UTC 版)

生涯

生い立ち

観音寺市豊浜八幡神社境内にある大平正芳像、2004年撮影。

香川県三豊郡和田村(後の同郡豊浜町、現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる[2]。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた[3]。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた[4][2]。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた[2]。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた[5][6]

学生時代

和田村立大正尋常高等小学校(現・観音寺市立豊浜小学校)、旧制香川県立三豊中学校(現・香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ[7][8]。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した[9]

1926年(大正15年)、中学4年の時に大平は腸チフスに罹り、4か月間生死の境をさまよった[10][11]。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった[11]。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助[11]や奨学金を得て、高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)に進学[10]

高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れたことがきっかけで、キリスト教に出会う[12][13]。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[14][15]

高商卒業後の進路について、大平は大学への進学を希望したが経済的に厳しく、断念せざるを得なかった[16]。就職するにせよ、昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった[17]

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現・坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て、東京商科大学(現・一橋大学)に進学した[18]。大平が23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中は経済哲学の助教授杉村広蔵、法律思想史の教授牧野英一らの講義を手当たり次第に履修した[18]。一橋大学時代、米谷隆三に私淑したという[19]。卒業論文は「職分社会と同業組合」[20]。引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した[18]

また、大学在学中、吉永榮助(のちに一橋大学名誉教授)や富樫総一(のちに労働事務次官)、武野義治(のちに初代駐イスラエル特命全権大使)、小島太作(のちに駐インド特命全権大使)らと、憲法田上穣治講師や国際法の教授大平善梧が中心となっていた研究会で高等試験の勉強を行った[21]

大蔵省時代

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた[22][23]。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された[24][25]。1936年入省、預金部に配属[26][27]。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

政治家としての活動

池田側近として

池田内閣のころ
外相時代の大平。KCIA長官の金鍾泌と(1962年)。

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、9月5日に大蔵省を退職[45]。10月1日に行われた第25回衆議院議員総選挙旧香川2区から自由党公認で立候補し初当選[46]。以後、連続当選11回。

1957年(昭和32年)、池田勇人が宏池会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。[47]。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる[48]

1960年(昭和35年)7月19日、第1次池田内閣内閣官房長官に就任[49][50]。「低姿勢」をアピールする同内閣[50]の名官房長官と評された[51]第2次池田内閣第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務めた。

1962年(昭和37年)7月18日、第2次池田内閣第2次改造内閣外務大臣に就任[52][53]。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた[53]

同年10月20日と11月12日、大韓民国中央情報部(KCIA)長の金鍾泌と国交正常化に向けた会談を東京で行った。経済協力をめぐり、無償で3億ドル、長期低利借款2億ドル、さらに民間信用供与1億ドル以上との内容に合意した。この合意内容はのちに「大平・金メモ」と呼ばれた[54][55][56]。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った[57]。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、長崎国旗事件によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した[58]。LT貿易の成立[59]、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現など、日中関係はこれまでに見られないほど進展した[60]

原子力・核問題への対応

また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取っており、核・原子力関連の問題が多かった[61]。1963年(昭和38年)1月には駐日大使エドウィン・ライシャワーを通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった[62]。この件については1年8か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが[62]、大平の秘書官を務めた森田一によれば、実際には1963年(昭和38年)4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う[63][64]

なお、核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することはなかったが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢に関し核アレルギーを感情的に煽っていると批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。

大平 (注:寄港申し出が)非常にショッキングなできごとのように取り上げられたので、わたし自身も多少驚いたのでございます。しかし、民主主義の政治においては、われわれ政治をやる者がこう思うからというだけではいけないので、やはり国民全体が理解し、それに協力するという雰囲気ができ、それで政策が実行に移されることが望ましいし、またそうすべきでございます。(中略)その論議は事実を踏まえた上で公正に行われるべきだと思います。
大平 核兵器とか言いますと、一般の受ける印象は非常に悪魔のようにつよい。(中略)核兵器と言う、みんなが悪魔みたいにみているものの持っている戦争抑止力というものに依存しておるということだから、これを一がいに平和の敵であるというような考え方は、非常に危険な考え方になるのではないだろうか。
大平 日本は一番、パブリックリレーション(広報・相互理解)の面で弱いですね。
大平 今日、原子力潜水艦の安全性というようなことから、今度は議論の焦点が最近はサブロックに移ってきたようだけれども[注釈 1](中略)事態が進みまして、こういったものの寄港問題が新しく出てくれば、それは事前協議の新しい問題として出てくるわけでございまして、いまの問題に関する限りは全然関係のない論議じゃないか。こういう論議に反対論の論調が集中してきたということは、逆に見れば本体のほうにあまり問題がなくなっているのではないかという感じがするのですね[注釈 2] — 大平正芳 西脇安[注釈 3]「原子力潜水艦寄港問題を語る 対談」『政策月報』1964年9月

寄港承認直後にも、サブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。防衛庁長官小泉純也ら新任閣僚が同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘したため、米側が危機感を募らせていたからだった[65][62]

宏池会会長

次の佐藤政権では政調会長[66][67]第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣通商産業大臣[68]を歴任したが、佐藤は大平を好いておらず、7年8ヶ月に及ぶ政権においては三角大福の中でも不遇だった[69]。通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた。このことも大平の佐藤への不信感を増幅させた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、通産相田中角栄の裁量によって妥結を見る)[70]。大平は佐藤の外交手法に批判的で、沖縄返還を巡る「核抜き本土並み」の方針について「猫が鯨に噛み付くようなものだ」と冷評していたという[71]

大平の属する派閥宏池会は池田の死後、前尾繁三郎が会長となり、世話人を前尾系の政治家で固めていたが、大平は派内の若手議員を集めて派中派の「木曜会」を作り、独自に政治資金の世話などをするようになった[72]1970年の総裁選で、佐藤は「前尾が出馬しなければ内閣改造をして宏池会を優遇する」と約束するが、これが反故となったことで前尾は求心力を失う。翌1971年(昭和46年)、田中六助ら木曜会に担がれる形の「大平クーデター」で前尾にかわって大平が宏池会会長に就任[73][74]、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。

三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では、立候補宣言した後に藤山愛一郎中垣國男灘尾弘吉ら有力者を訪ね支援を求めた[75]。選挙では3位につけて存在感をアピール[76]、その後も田中角栄と盟友関係を続ける[77]

第1次第2次田中内閣で再び外務大臣[78][79]、第2次田中改造内閣・三木内閣大蔵大臣を務め[80][81]、内政外政にかかわる要職を歴任していった。

田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた[82][83]。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。

その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張[84]。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ[85][84]。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが[86]、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り[87]、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく[88]

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立[89][90][82]。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した[91][90][注釈 4]保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める[92]

総理大臣就任

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に、福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する[93][94][82]。 事前の世論調査では福田が有利だったが[95]、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[注釈 5]を獲得[96][97]。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し[98]、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し[99][100]、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した[98][101][82]。就任直後の18日夕、首相官邸玄関で登山ナイフを持った右翼の男による襲撃事件(未遂)が発生した。

総理在任中の政策

1980年4月30日アンドルーズ空軍基地にて

大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱した[102][103]。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し[104][105][106]、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権だった[107][108][109]

また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり[101]、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし[110]、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した[111]。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印など、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた[112][111]

日本国憲法及び現皇室典範(何も1947年〈昭和22年〉5月3日施行)の下、法的根拠が消失していた日本の元号を、当時の元号使用の世論に鑑みて、法律に基づいて改元出来るようにした「元号法」が1979年(昭和54年)6月12日に施行された。これに基づいて、当時法的根拠が消失していた「昭和」が法的根拠として認められ、以後の元号である「平成」「令和」もこの政令で定められた法的根拠のある元号とある。

四十日抗争と衆参同日選挙

政権基盤が強固ではなく[82]田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと[113][114]、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」「自分が辞めたら誰が総裁になるのか?」として拒否[114]。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し[115]、自民党は分裂状態になった[114]。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案[注釈 6]も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。

選挙後国会首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派三木派中曽根派・中川グループが推す福田の一騎討ちとなった結果、138票対121票[注釈 7]で大平が福田を下して[116][注釈 8]、第2次大平内閣が発足した[117][114][82]

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ[118][82]。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため[82]、可決には当の野党も驚いた[119]。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散[120]、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした[121]。こうして第12回参院選は5月30日に、第36回衆院選は6月2日に公示された。両選挙の投票日は6月22日と決まった[119]

急死

1980年(昭和55年)5月30日、参議院議員選挙が公示される。大平は新宿での街頭演説で第一声を上げ、午前中の遊説を終えると、昼食のために党本部に戻った。食事は4階の総裁応接室に取り寄せていた。党幹事長の櫻内義雄や随行の議員らと蕎麦を食べる姿をマスコミ各社は夕刊用に撮影。午後の遊説に大平が出かけた直後、幹事長室に田村元が飛び込み、「おい!あの大平の顔は何だ。死に顔じゃないか!」と叫んだ[122]

午後、参議院神奈川県選挙区秦野章の応援のため横浜市内4か所で街頭演説を行った。午後6時半過ぎ自宅に帰ったが、家族に「体がだるい」と訴え横になった。往診に来た二人の主治医のすすめに従って、翌31日午前0時30分過ぎ、虎の門病院に緊急入院した[123][124]。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務[125]、70歳という高齢、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた[126]。以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、公表はされていなかった。

大平の入院に対し、反主流派の中川一郎は、健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも、国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に退陣を要求、反主流派の一部から大平おろしの声が上がりはじめた[127]。また6月9日には大平派の鈴木善幸が、大平の後は話し合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きが上がった。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、興亜院時代からの盟友で官房長官を務めていた伊東正義らにもそれを明言している[128]

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの[129]、6月12日午前5時過ぎ容態が急変した[130]。ただし、大平の秘書官を務めていた福川伸次は、午前0時半くらいの電話で容体急変と伝えられ、あわてて病院に駆けつけると首相はもう意識はなかった、いったん官邸に戻り、内閣総理大臣臨時代理の書類を作って病院に戻ったが鼓動は戻らなかったと述懐している[131]。妻・志げ子以下家族、伊東、田中六助に看取られながら、5時54分死去した[132][133]。70歳3か月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された[134][82]

この突然の大平の死により、官邸の方は伊東が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は副総裁西村英一が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は外務大臣大来佐武郎が大平の代理として首脳会議に出席する[注釈 9]という、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった[82]

48年ぶりの現職総理の死去[注釈 10]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった[135][82]。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。「香典票」と呼ばれた同情票も自民党有利に働いたとされることもある[注釈 11]。結局、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した[136][135][注釈 12]。大平の選挙区だった香川2区へは娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。

多磨霊園にある大平家(左)と大平正芳(右)の墓

死没日をもって大勲位菊花大綬章追贈、正二位に叙される。葬儀は7月9日に内閣と自民党の合同で行われた[135]。党内からは現職首相の死亡なので国葬という意見もあったが、控えめのほうが大平にふさわしいという伊東の主張により内閣・自民党合同葬となった[135]。葬儀では一般市民も4000人近くが長い列を作った[139]。墓所は東京の多磨霊園と郷里豊浜の豊浜町墓地公園にある。豊浜の墓碑銘には正面に「大平正芳之墓」、左面に盟友の筆による「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已ざりき 伊東正義 謹書」、右面に戒名「興國院殿寛道浄基正芳大居士位」が刻まれている。「永遠の今」は大平が生前よく揮毫した一句である。

郷里の観音寺にあった選挙事務所は没後に大平正芳記念館となったが、建物の老朽化にともない2015年(平成27年)3月末で閉館した[140]。 閉館後、文書類は国立国会図書館に寄託、大平の蔵書は香川県立図書館に寄贈されることになり[140][141]、2016年2月に県立図書館内の「大平正芳文庫」としてオープンした[142]。遺品については地元の観音寺市に寄贈される[143]。その後、地元の有志が復活に向けて動き、2016年11月5日に同じ観音寺市内にある世界のコイン博物館2階に新たな記念館がオープンした[141]


注釈

  1. ^ サブロックは潜水艦用の核弾頭付ミサイルである。対談でも触れられているが、当時サブロックはまだ開発中であった。
  2. ^ なお、サブロックに関する発言での小見出しは「核兵器と潜水艦とは別の問題」である。
  3. ^ 当時東京工業大学理学博士。専門は放射線防御工学。
  4. ^ ただし、福田は著書『私の履歴書』で「大福密約」は存在しなかったとしている。
  5. ^ 福田47万2499票に対し大平55万0889票。
  6. ^ 内閣総理大臣と自民党総裁に別人が就くこと。ここでは大平総理、福田総裁の案が示された。それに対して大平は「福田総裁代行」案を提示したが、反主流派の容れるところとはならなかった。
  7. ^ 新自由クラブを除く野党は欠席した。
  8. ^ この138票というのが首班に指名された者が獲得した最も少ない票の記録となっている。
  9. ^ 外相会議と全体会議には急遽同行させた佐々木義武通商産業大臣を大来の代理として出席させた。なお、大平の急死を受けて首脳会議はまず大平に対する黙祷から始められている。
  10. ^ 1932年5月15日に五・一五事件犬養毅が官邸で青年将校に暗殺されて以来、また病死としては1926年1月22日に加藤高明が心臓麻痺で急死して以来。
  11. ^ 大平を伝記で好意的に評価している福永文夫などもこの観点で記述し、野党の一つ、社民連もその党史にて自民党が弔い合戦に努めたことを敗因に挙げている。'80参議院選挙~ダブル選挙 『社民連十年史』
  12. ^ この選挙については上記のような「同情票」といった見方が少なくないが、今日の政治学では1977年参院選から始まった自民党の党勢回復の一環であったと位置づけるものが多い[137][138]
  13. ^ 総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位。
  14. ^ 伊藤昌哉『自民党戦国史』では、料亭の女将が伊藤との会話で大平を指して「おとうちゃん」と言及する記述がある。
  15. ^ 大平はこう述べた。「私が娘に対しまして、早く嫁に行けということを申し上げたのは事実でございます。私は、娘を持つ父親といたしまして、できるだけ早く良縁を得て、身を固めてもらいたいという念願を持っておりましたので、「女に学問は要らない、早く嫁に行け」という言葉は、熟しない御批判をいただく余地が十分あると思いますけれども、父親といたしまして、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちはおくみ取りいただけるのではないかと思います。婦人に対しましてどう考えておるかということでございますが、私は、婦人は――ここに男性の方が多いようでございますけれども――男性よりは物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ、子供をもうけるなどという手ごたえのある人生経験は、男にはできないことでございます。私は女性を尊敬いたしております」

出典

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