大島映二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/10 03:30 UTC 版)
大島 映二 八段 | |
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名前 | 大島 映二 |
生年月日 | 1957年6月6日(66歳) |
プロ入り年月日 | 1976年10月1日(19歳) |
引退年月日 | 2015年3月12日(57歳) |
棋士番号 | 130 |
出身地 | 静岡県沼津市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 高柳敏夫名誉九段 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 大島 映二 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
竜王戦最高クラス | 3組 |
順位戦最高クラス | C級2組(28期) |
2020年4月1日現在 |
棋歴
将棋を覚えたきっかけは、10歳ぐらいのときに新聞の将棋欄に書かれていた「不思議な数字」(棋譜)に興味を持ったことであり[1]、後にプロになる者としては、かなり遅いスタートであった。
しかしながら、1971年、14歳で奨励会に入り、5年後の1976年に19歳でプロ入りを果たす。
1980年度、若手の登竜門である若獅子戦(第4回)で、棋戦初優勝。
1989年度、第2期竜王ランキング戦4組で準優勝し、3組へ昇級。ちなみに、このときの4組優勝者は森下卓五段(当時)であった。
1991年度、第32期王位戦でリーグ入り。
順位戦では、初参加の第36期C級2組(1977年度)以来、昇級も降級点もなく第54期(1995年度)を迎えた。この期では、残り1局の時点で8勝1敗で4番手という絶好のポジションにつけた。ライバルは、大島より順位が下で9勝無敗の北浜健介、および、大島より順位が上で同じく8勝1敗の先崎学、中田宏樹の計3名であった。自力ではないものの、最終10回戦で勝てば昇級の可能性は高かった。しかし、最終局では大島だけでなくライバル3人もすべて勝ったため、大島は9勝1敗で次点という“頭ハネ”を食らってしまった。以降、順位戦で勝ち越すことが出来ず、第56期(1997年度)に2勝8敗で初の降級点を喫する。第61期(2002年度)に2勝8敗で2度目の降級点。第63期(2004年度)に3勝7敗で3度目の降級点を喫し、フリークラスに陥落した。その後10年間でC級2組復帰を果たすことができず、フリークラス引退規定により2015年3月12日付で引退となった[3]。
人物
- 趣味はラテン音楽、落語、俳句[1]。
- 大のプロレスマニアで、特に悪役レスラーが好み。若手時代にプロレスのために大金はたいてビデオデッキを購入し、棋士仲間や連盟職員が住みかに集まると、次々とプロレスビデオをかけるというほか、プロレス会場にいくと子供にまじってレスラーにサインをねだっていたという[5]。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。
- 1971年 7級 = 奨励会入会
- 1974年 初段
- 1975年 三段
- 1976年10月1日 四段(三段で12勝3敗) = プロ入り
- 1984年4月1日 五段(勝数規定)
- 1989年8月22日 六段(勝数規定)
- 2000年3月6日 七段(勝数規定)
- 2015年3月12日 引退(フリークラス規定)
- 2020年4月1日 八段(引退棋士昇段規定)
固有名詞の分類
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