大岡昇平 大岡昇平の概要

大岡昇平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 14:34 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
大岡 昇平
(おおおか しょうへい)
1963年、日生劇場のベルリン・ドイツオペラにおける大岡昇平
誕生 1909年3月6日
日本東京市牛込区
(現:東京都新宿区
死没 (1988-12-25) 1988年12月25日(79歳没)
日本東京都文京区本郷
墓地 多磨霊園
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本
教育 学士(文学)
最終学歴 京都帝国大学文学部仏文科卒業
活動期間 1949年 - 1988年
ジャンル 小説
文芸評論
主題 日本史
太平洋戦争
文学活動 第二次戦後派
代表作俘虜記』(1949年)
武蔵野夫人』(1950年)
野火』(1952年)
花影』(1961年)
レイテ戦記』(1971年)
事件』(1977年)
主な受賞歴 横光利一賞(1949年)
読売文学賞(1952・1989年)
毎日出版文化賞(1961年)
新潮社文学賞(1961年)
毎日芸術賞(1972年)
野間文芸賞(1974年)
朝日文化賞(1976年)
日本推理作家協会賞(1978年)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

経歴

1929年、20歳頃の大岡

1909年明治42年)3月6日、 東京市牛込区(現:新宿区)新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた[1][2]。父貞三郎は和歌山市近郊の農家の三男で、昇平の生まれる前年上京して、兜町で株式仲買店に勤め、つるとの間には女児(大岡の5歳上の姉にあたる)がいた[1][3][4][5]。一家には後に弟が2人生まれた[5]。父の仕事の関係で家庭の経済状況には浮き沈みがあり、1912年(明治45年)春に麻布区笄町(現:港区南青山)に転居し、その後も数回渋谷近辺で転居を繰り返した[2][3][4]

大岡は読書が好きで、8歳ころから「立川文庫」や「日本少年」などを愛読していた[4]。文学の道を歩んだのは従兄大岡洋吉の勧めがきっかけであり、1919年大正8年)、「赤い鳥」に童謡『赤リボン』を投稿して入選を果たし、同年7月号に掲載された[2][4][5][6][7]北原白秋は『赤リボン』に対して「音楽的で面白い」という選評を寄せている[5]。その後の大岡は熱心な投稿者となった[7]。10歳ごろの大岡は原因不明の熱がもとで入院し、病床で雑誌や本を乱読したという[4]

1921年(大正10年)4月、 府立一中受験に失敗した[4]青山学院中学部に入学、キリスト教の感化を受け、将来は牧師になろうと決意していた[2][4][8]。秋、母・つるが芸妓だったことを知った[9]。大岡の信仰心は、『新旧合本聖書』購入をめぐって父と対立したことや夏目漱石に惹かれたことで薄らいでいった[4]。その後の大岡は、芥川龍之介ゲーテなどの文学や西田幾多郎の哲学書、マルクスなどの著書を読むようになった[4]

1925年(大正14年)12月に成城第二中学校4年に編入[2][6]富永次郎と友人になり、その兄・太郎(同年、24歳で病死)[4]の作品を知った[2][4][10]。同級に古谷綱武安原喜弘、加藤英倫らがいた。また、山口二矢の実父である山口晋平も同級である[11]1926年(大正15年・昭和元年)4月、成城中学校が7年制の成城高等学校となったため、高等科文科乙類に進学[2][6]

1927年(昭和2年)9月、アテネ・フランセの夜学でフランス語を学ぶ[2]1928年(昭和3年) 村井康男を通じて小林秀雄を紹介され、小林からフランス語の個人教授を受ける[2][12]。詩人中原中也とも小林を通じて知り合った[2][4]

1929年(昭和4年)3月、成城高等学校を卒業した[6]。同年4月、 京都帝国大学文学部文学科に入学した[6]河上徹太郎や中原中也らと同人雑誌「白痴群」を創刊した[2][6][4]。1930年(昭和5年)母・つるが46歳で死去した[4][10]。翌1931年(昭和6年)には株の暴落が原因となって、父・貞三郎が全財産を失っている[4][10]

大岡は1932年(昭和7年)3月に京都帝国大学を卒業した[2][13]。卒業論文はアンドレ・ジッドの『贋金つかい』であった[2]1933年(昭和8年)ころから、大岡はスタンダールへの傾倒を深めていった[13]

1934年(昭和9年)2月(4月説あり)[2]、大岡は国民新聞社に入社したが、翌年2月に退社している[2][13][14]。1937年(昭和12年)、父貞三郎が62歳で没した[2][4][10]。同年10月、中原中也も死去した[4]1938年(昭和13年)10月、大岡は神戸の帝国酸素に翻訳係として入社した[2][13]。1939年(昭和14年)翻訳書『スタンダアル』を刊行し、同年10月上村春枝と結婚した[2]。1941年(昭和16年)2月に長女鞆絵、1943年(昭和18年)7月には長男貞一が誕生した[2][4]。長男誕生と前後して、6月に帝国酸素を退社している[2][13]。同年11月、川崎重工業に入社した[13][4]

1944年(昭和19年)3月、大岡は教育召集で、東部第二部隊に入営した[2][13][4]。7月にフィリピンのマニラに到着[13]。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた[2][13][4]

1945年(昭和20年)1月、マラリアでこん睡状態に陥っていた大岡は米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される[2][13][4]。日本は8月に敗戦を迎え、同年12月に帰国し、家族の疎開先の兵庫県明石市大久保町に到着した[2][15]

1946年の4月末から5月末にかけて、『俘虜記』を執筆し、小林秀雄に見せた[2]。この年の6月からのちの『野火』の原型となる『狂人日記』の執筆を始めた[2]。この時期に新夕刊新聞社に入社したものの、翌月退社している[2][4]

1947年(昭和22年)、フランス映画輸出組合日本事務所 (SEF) 文芸部長に就任、字幕翻訳を手がける[2][16]1948年(昭和23年)1月に東京に行き、小金井に住んでいた富永次郎のもとに寄寓した[2]1949年(昭和24年)3月、『俘虜記』により横光利一賞を受賞した[15]。同年4月、 明治大学文学部仏文学講師に就任[2]。この時期に「鉢の木会」に参加している[4]

1952年(昭和27年)2月、『野火』を創元社より刊行、5月読売文学賞を受賞した[2][15][4]。1953年2月、大磯町(神奈川県)に転居した[4]1961年(昭和36年)5月 、『花影』を中央公論社より刊行した[17][18]。同年11月、『花影』により毎日出版文化賞新潮社文学賞を受賞した[17][18][4]

1964年(昭和39年)3月、中国作家協会などの招きで亀井勝一郎武田泰淳由起しげ子などとともに中国を訪問した[18][17][4]1971年(昭和46年)9月に『レイテ戦記』を中央公論社より刊行した[18][17]。同年11月に芸術院会員を辞退している[17][18]。1969年(昭和44年)10月、世田谷区祖師谷(現:成城)に転居し、後に『成城だより』などを執筆した[18][4]

1972年(昭和47年)1月、『レイテ戦記』により毎日芸術賞を受賞した[17][18]1974年(昭和49年)1月に『中原中也』を角川書店より刊行した[17][18]。同年11月『中原中也』で 野間文芸賞を受賞した[17][18]

1976年(昭和51年)1月、朝日文化賞を受賞した[18][19]1978年(昭和53年)3月、『事件』により日本推理作家協会賞を受賞した[18][19]

1988年(昭和63年)12月25日 - 順天堂大学医学部附属病院で[20]脳梗塞のため死去[21]。遺志により葬儀・告別式は行われなかった[19][4]。死後の1989年(平成元年)2月に『小説家夏目漱石』により読売文学賞を受賞している[18]

人物像・逸話

旺盛な好奇心

自宅書斎における大岡

今日では『俘虜記』『レイテ戦記』といった戦争ものが最もよく知られるが、創作のバックボーンであった仏文学にとどまらず、幅広い分野に強い関心を抱き続け、文壇を代表するディレッタントだった。手がけた作品のジャンルも多様である。

推理小説の愛読者でもあり、1950年代には海外推理小説『赤毛のレッドメーン』(イーデン・フィルポッツ作)や『すねた娘』(E・S・ガードナー作)を翻訳、自らも推理小説を執筆して、とりわけ『若草物語』の題で連載し、後に『事件』と改題した作品は日本推理作家協会賞を受賞し、映画やテレビドラマになるなど、高い評価を受けている。

武蔵野夫人』は『ボヴァリー夫人』に倣って書いた姦通小説で、ベストセラーとなったが、1980年代、ポルノ小説にこの題が使われたため抗議した。

また、河上徹太郎、小林秀雄らの愛人で、白洲正子の友人だった坂本睦子を8年あまり自らも愛人とし、妻の自殺未遂騒ぎを何度か経たのちに睦子と別れたが、その翌年、睦子が自殺。その後、彼女をモデルに『花影』を書き、新潮社文学賞毎日出版文化賞を受賞した。しかし高見順は、肝心の大岡自身の苦悩が描かれていないと批判、白洲正子も睦子が描かれていないと大岡の死後批判している。この小説は睦子を救えなかった青山二郎を指弾するものではないかという解釈があるが、大岡自身は、限定版『花影』のあとがきにおいて「ヒロインはその生れと性情の自然の結果として自殺するのですが、そのきっかけは、彼女の保護者で、父代わりである高島が黄瀬戸の盃を二重売りして、彼女を裏切ったためでした。(中略)あとは私が作った物語ですが、もし高島にモデルがあるなら、私の想像はその人を傷つけることになるでしょう」と述べているだけで、大岡自身が青山二郎を指弾する目的で書いたと言及しているわけではない。

後述のように歴史小説を巡って多くの論争を引き起こしたが、自身でも『将門記』『天誅組』などの歴史小説を書いた。これらは、事実に対して強いこだわりを持っていた大岡らしく、小説というより史伝に近いものである。

また、若い頃から演劇にも関心を示し続け、舞台「赤と黒」の台本を書いたりした。しかしこの際、演出の菊田一夫と対立し、初演を愛知での「レイテ同生会」への出席を理由に欠席した。また後年、仲代達矢の演じる「ハムレット」には、「未熟」との厳しい評価を下している。

好奇心の対象は芸術の外にも及び、50歳を過ぎて本格的に始めたゴルフにのめりこんだ挙句、『アマチュアゴルフ』なるゴルフ指南書を出版したほどである。なお、腕前はハンディ22。

囲碁についても趣味としており、アマチュア有段者の腕前で、昭和30年代の文壇本因坊戦に参加していた[22]

旺盛な好奇心は晩年になっても変わらず、1980年(昭和55年)から『文学界』に約5年間『成城だより』を、二回の中断をはさみ連載。この中では、記号論不完全性定理、さらに漫画(萩尾望都高野文子、「じゃりン子チエ」など)、ロック(村八分ザ・クラッシュジミ・ヘンドリックスドアーズなど)、ポップス(中島みゆきアバなど。当人は「残念ながら、音楽は洋楽種の方がいいようなり」と述べている)、映画(フィリピンをロケ地とした地獄の黙示録など)などに言及した。これらのセレクトには、長男の貞一の影響が大きい。またYMO坂本龍一が自分の担当編集者であった坂本一亀の息子であることを知り、「『げっ』と驚くのはこっちなり」[23]とも述べるまでの若々しい関心を示す様が、カリスマ的な人気を呼んだ。

論争家

「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』1962年(昭和37年)8月号上で論争した。松本清張の『日本の黒い霧』等の作品を謀略史観に基づくものとして批判したり、中原中也の評価について、篠田一士と論争したこともあった。

また江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』が出た時もこれを厳しく批判し、次いで森鷗外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者と論争になった。そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。本作が未完のまま大岡は急逝し、ほぼ9割は完成していたため、中央公論社から刊行された(のち中公文庫に収録)。

賞を巡って

『レイテ戦記』は日本の代表的な戦記といえるが、野間文芸賞を辞退した。これは選考委員の舟橋聖一との軋轢による[24]。のち『中原中也』で同賞を受賞するが、選評で舟橋は難癖をつけた。

1972年(昭和47年)、日本芸術院会員に選ばれたが「捕虜になった過去があるから」と言って辞退した。この記者会見の席にいた加賀乙彦によると、記者が帰った後に大岡は「うまいだろ」と言って舌をぺろりと出したという[25]。皮肉をこめた国家への抵抗との見方もある。しかし最晩年に昭和天皇の重態に際して「おいたわしい」と書いた(どちらも波紋を呼んだが、ともにウラを読まなければ普通の発言という見方もできる)。




  1. ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、3頁)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 中野孝次編『大岡昇平の仕事』(1997年、岩波書店、215-217頁)
  3. ^ a b 北九州市立松本清張記念館編集・発行『一九〇九年生まれの作家たち』(2009年、2-3頁)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 北九州市立松本清張記念館編集・発行『一九〇九年生まれの作家たち』(2009年、13-23頁)
  5. ^ a b c d 公益財団法人神奈川文学振興会編集『大岡昇平の世界展』(2020年、神奈川近代文学館、10-12頁)
  6. ^ a b c d e f 新潮日本文学アルバム 大岡昇平』104頁
  7. ^ a b 北九州市立松本清張記念館編集・発行『一九〇九年生まれの作家たち』(2009年、4-5頁)
  8. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、4頁)
  9. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、98頁)
  10. ^ a b c d 金井美恵子・他『群像日本の作家 19』(1992年、小学館、331-333頁)
  11. ^ 沢木耕太郎『テロルの決算』より
  12. ^ 北九州市立松本清張記念館編集・発行『一九〇九年生まれの作家たち』(2009年、7頁)
  13. ^ a b c d e f g h i j 新潮日本文学アルバム 大岡昇平』105頁
  14. ^ 北九州市立松本清張記念館編集・発行『一九〇九年生まれの作家たち』(2009年、10-11頁)
  15. ^ a b c 新潮日本文学アルバム 大岡昇平』106頁
  16. ^ 【印刷用】大岡昇平氏の翻訳原稿発見/仏映画「美女と野獣」 | 全国ニュース | 四国新聞社”. www.shikoku-np.co.jp. 2020年5月31日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h 新潮日本文学アルバム 大岡昇平』107頁
  18. ^ a b c d e f g h i j k l 中野孝次編『大岡昇平の仕事』(1997年、岩波書店、217-219頁)
  19. ^ a b c 新潮日本文学アルバム 大岡昇平』108頁
  20. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)58頁
  21. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁
  22. ^ 榊山潤編『碁がたき』(南北社)p.7
  23. ^ 『成城だより』1980年5月8日の記述より。
  24. ^ より詳しい記述は『成城だより』1980年9月10日に「選考委員の総体ではなく、(候補に挙げないのはおかしいと、選考の段階で欠席して、あとでクレームを入れた)クレーム委員とこの(それによって意見を変えた)翻意委員(舟橋聖一)に恩を着ることとなる」としている。
  25. ^ 加賀乙彦著『加賀乙彦 自伝』 集英社 2013年
  26. ^ a b c d 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、58頁)
  27. ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、59頁)
  28. ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み>』(1975年、筑摩書房、60頁)
  29. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、62頁)
  30. ^ 6.築き:源流”. 和歌山の日本酒・米焼酎【日本城蔵元 吉村秀雄商店】. 吉村秀雄商店. 2013年8月31日閲覧。
  31. ^ a b c d e f g h i 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、109頁)
  32. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、109-110頁)
  33. ^ 母が“姉さんのようにしていた”女性である
  34. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、103頁)
  35. ^ 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、110頁)
  36. ^ a b 大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、111頁)
  37. ^ 『大岡昇平展』神奈川近代文学館・財団法人神奈川文学振興会、1996年10月19日、2頁。
  38. ^ 『神奈川近代文学館 第54号』、1996年10月15日、1頁。
  39. ^ 『大岡昇平の世界展』県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、2020年3月20日、2頁。
  40. ^ 『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』日外アソシエーツ、2014年1月25日、81頁。
  41. ^ 『大磯町立図書館年報 平成4年度』。


「大岡昇平」の続きの解説一覧



大岡昇平と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

日本の小説家 清水紫琴  喜多みどり  大岡昇平  クライン・ユーベルシュタイン  藤田宜永
時代小説・歴史小説作家 井上祐美子  山本周五郎  大岡昇平  磐紀一郎  原田康子
推理作家 篠田節子  森下雨村  大岡昇平  藤田宜永  太田忠司
日本の推理作家 吉原忠男  山本周五郎  大岡昇平  藤田宜永  太田忠司
日本推理作家協会賞受賞者 香山滋  鶴見俊輔  大岡昇平  藤田宜永  梅原克文
戦記作家 吉田俊雄  大岡昇平  児島襄  御田重宝  井伏鱒二
日本の文学研究者 加藤典洋  河内清  大岡昇平  宮崎雄行  三谷邦明
日本の翻訳家 河内清  白石朗  大岡昇平  藤田宜永  若月紫蘭
太平洋戦争の人物 有泉龍之介  重光葵  大岡昇平  小栗一雄  保科善四郎
フランス文学者 高橋安光  河内清  大岡昇平  小林竜雄  岡谷公二
明治大学の教員 岡正雄  兼清弘之  大岡昇平  諸富祥彦  杉山利恵子

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大岡昇平」の関連用語

大岡昇平のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大岡昇平のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大岡昇平 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 Weblio RSS