大宰府学校院跡 大宰府学校院跡の概要

大宰府学校院跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 07:57 UTC 版)

学校院跡

概要

大宰府学校院は、中央の大学・典薬の両寮、地方の国学に相当するものである。その成立時期は明らかではないが[1]律令制度の整備が進むにつれて、学校に相当する機関が設立されたと考えられている。

天応元年(781年)3月の太政官符に「府学校に六国[2]の学生・医生・算生[3]は二百余人あり」と見えるのが文献上の初見史料である。

発掘調査

1969年昭和44年)から、大宰府史跡調査の一環として発掘調査が行われた。学校院の中央部から掘立柱建物4軒が検出された。そのうち2軒は2間×3間の総柱で倉庫風の建物、他の2軒のうち1軒は4間×7間の南北に庇を持つ建物と推定されており、中心的建物と考えられている。この建物の時期は平安時代前半と推測されている。学校院の東辺部からは掘っ立て柱建物7軒、南北溝、築地状遺構などが検出されている。建物は3回建て替えられ、奈良時代の後半頃の建物が一番古い。南北溝は、平安時代から室町時代にかけて存続しており、築地状遺構も平安時代前半頃の築造と考えられており、学校院の東を区切る[4]ものであったと推測されている。学校院の全体の発掘調査は今後の課題である。

交通アクセス

脚注

参考文献

  • 磯村幸雄 著「大宰府学校院跡」、文化庁文化財保護部史跡研究会監修 編『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0927-7 

関連項目


  1. ^ 存続についても明らかではないが、11世紀代までは続いたと推定されている。
  2. ^ 大宰府管内の九国三島のうち筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・のことであろう。これら六国以外は教官(大宰府では明経(みょうきょう)博士が専任、音博士・明法博士、太宰医師、太宰算師など)を派遣したようである。
  3. ^ 大宰府では学生・医生・算生の三者を同一機関で学ばせていたようであるが、中央では学生・算生を大学寮で、医生は典薬寮で教育した。また、地方では学生・医生のみが教育を受けた。
  4. ^ 観世音寺との境界か。


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