大久保房男 大久保房男の概要

大久保房男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/04 05:06 UTC 版)

経歴

三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣1943年に出征、海軍予備学生(第4期)を経て1944年暮に海軍少尉となったが、敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業する。民俗学徒を目指していたが、たまたま入社試験を受けた講談社に合格し、同年11月に同社に入社する。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務め、「文学の鬼」と言われて、石原慎太郎有吉佐和子の作品を一切掲載せず[注釈 1]、活気ある誌面を作った。吉行淳之介安岡章太郎など「第三の新人」と呼ばれた作家たちを陰で支えた。引退後の1992年、小説『海のまつりごと』で芸術選奨新人賞を受賞、70歳の新人賞で人々を驚かせた。

2014年7月25日午前11時10分、十二指腸乳頭部癌のため東京都練馬区の自宅で死去[3]。92歳没。

大阪大学名誉教授の大久保昌一は弟、国立遺伝学研究所教授の大久保公策は甥にあたる。

霊術家の浜口熊嶽は父の従兄にあたる[4]。自らと同じく国文学学生から海軍に入った阿川弘之とは編集者時代から長年にわたって親交があり、たびたび随筆などでその言動が「鬼のおくび」というニックネームのもとで記されている。

著書

  • 『文士と文壇』(講談社 1970年)
  • 『文芸編集者はかく考える』(紅書房 1988年)
  • 『海のまつりごと』(紅書房 1991年)
  • 『理想の文壇を』(紅書房 1993年)
  • 『文士とは』(紅書房 1999年)
  • 『人間魚雷搭乗員募集 一学徒兵の特攻』(光人社 1999年、光人社NF文庫 2005年)
  • 『文士のゴルフ 丹羽学校三十三年の歴史に沿って』(展望社 2000年)
  • 『終戦後文壇見聞記』(紅書房 2006年)
  • 『日本語への文士の心構え すぐれた文章を書くために』(アートデイズ 2006年)
  • 『文士と編集者』(紅書房 2008年)
  • 『戦前の文士と戦後の文士』(紅書房 2012年)

関連項目


注釈

  1. ^ ただし、最初に「『群像』は古臭くて、ぼくには何の興味もない」と大久保に対して発言したのは石原の側であるという。大久保は「これは、『群像』に書く気がないと宣言したのだと思い、縁がなかったと思うことにした」「石原氏の人気が沸騰しているのに、『群像』がその作品を掲載しないのは、石原氏の文学を認めていないからだ、と世間では言っていたが、それは逆で、石原氏が『群像』を認めていないからなのだ」と述べている[1]。しかし石原は西村賢太との対談にて、1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、大久保が「あの小説は許せない」と言ったため口論になり、「君にはもう、一生『群像』で書かせない」と言われたと語っている[2]

出典

  1. ^ 『終戦後文壇見聞記』pp.279-280(紅書房、2006年)
  2. ^ 石原慎太郎・西村賢太「小説家であり続けること ―― 作品の身体性とインテリヤクザ」『en-taxi扶桑社 2011年7月
  3. ^ 作家の大久保房男さん死去 「群像」元編集長 朝日新聞 2014年7月28日
  4. ^ 『終戦後文壇見聞記』p.177(紅書房、2006年)


「大久保房男」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大久保房男」の関連用語

大久保房男のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大久保房男のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大久保房男 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS