多田銀銅山 多田銀銅山の概要

多田銀銅山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/20 06:36 UTC 版)

多田銀銅山
位置

主な鉱石は黄銅鉱斑銅鉱方鉛鉱輝銀鉱および自然銀であり、鉱脈の成因は熱水鉱床である。

概要

多田銀銅山は、大阪平野中心部から北約20 kmの中国山地南東、北摂の山並みに広がる十数km四方に及ぶ鉱脈の総称で、寛文年間に本格的な採鉱が開始されてから、昭和48年の閉山までの間、採掘の場所や規模及び主体者を変えながらも、ほぼ継続的にの採掘が行われた[3]

伝承によると、東大寺の大仏造営に伴い銅を献上したことが採銅のはじまりとするが、史料上の初見は『壬生家文書』に見える長暦元年(1037年)頃の能勢採銅所設置の記事である。採銅所は現在の能勢町域に所在したと考えられており、当初は摂津国の国衙から料物を支給され、在郷住民を雇用して採鉱を行っていた[3]。弘安2年(1279年)からは、付近の公領や荘園の農民を寄人・徭人に編成して労働力として確保し、採鉱する体制をとったことにより、採銅所が周辺村落に対する支配権を有する様になったことが知られる。採銅所は下級官人の小槻氏(壬生家)が世襲したが、南北朝の動乱時に守護や多田院御家人である能勢氏、塩川氏らの侵略を受け、天正5年(1577年)に解体された。天正年間には現在の猪名川町域において豊臣秀吉が鉱山開発にあたったと伝えられている。中世の鉱山経営の実態と変遷が判明する希有な事例である[3]

万治3年(1660年)に大口間歩で銀の含有率の高い良好な鉱脈が発見されたことにより本格的な鉱山経営が開始される。寛文元年(1661年)には幕府の直山となり「銀山町」が置かれ、代官所と四つの口固番所が普請されるとともに、周辺70余村を「銀山付村」として幕府の直轄とした。寛文4年(1665年)には銀3600貫目、銅75万斤を産出し吹屋の数は76軒、「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいを見せた[3]

しかし、その後は多量の湧水により採鉱が困難になったこともあり、産出量が減少し続け、天和2年(1682年)には直山から請山になり、代官所も採掘の許可と運上金の徴収などを行う役所に変わり、口固番所も廃止された。それ以降は、村民により小規模な採鉱が行われるようになるが、村民らは大坂の有力商人との結びつきを深め、その援助を受けながら、江戸時代を通じて主に銅を採鉱するようになる。なお、代官所は明治2年(1869年)に廃止されるまで、多田銀銅山と銀山付村を支配した[3]

江戸時代の多田銀銅山は、大坂京都などの大都市に近接する鉱山として最先端の技術が用いられていたことも知られ、寛永頃には南蛮吹きが取り入れられていたこと、生野銀山に製錬技術を伝えたこと、大坂へは粗銅ではなく抜銀された鍰銅を出荷していたことが分かっている。また、18世紀前半以前に成立したとされる『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』には、採鉱から製錬に至るまでの諸工程が詳細に描かれている。この他にも、最盛期である寛文年間に描かれたと考えられる『銀山町間歩絵図』や『柵内銀山町御用地略絵図』(幕末に寛文年間の絵図面を参考に作成したと考えられる)などの複数の絵図が残されており、これらから銀山地区の間歩や諸施設の配置と構成が判明している[3]

猪名川町教育委員会は江戸時代の多田銀銅山の中心である銀山地区を対象として、平成12年度から代官所跡をはじめとする主要施設の発掘調査及び間歩群などの詳細分布調査、史料調査等を行った[3]

代官所跡は銀山地区の南部、銀山川の南西岸に位置する。明治6年(1873年)の『元鉱山御役所御払下ヶ願』には、建物の配置が克明に記されている。発掘調査では明治6年の絵図に見える建物跡が検出されており、周辺には絵図に見える高札場跡や稲荷社のものと考えられる土壇が良好な状態で残っている[3]

番所は四箇所あり、そのうち大坂口番所跡には切り通し状の道と石垣、5箇所の平坦面が残っており、発掘調査では建物の基礎固めと考えられる盛り土遺構、木戸跡と考えられる柱穴などが検出された。出土遺物は、17世紀後半のものであり、口固番所の存続時期と合致している[3]

間歩群は14地点で確認されている。瓢箪間歩群、台所間歩群は銀山地区の北側に位置する。露頭掘り、 追掘り、横相の坑道、立坑といった多様な採鉱跡が確認でき、長期間にわたって採鉱が行われていたことが分かる。また、大金間歩群の坑道前面で行った発掘調査では、選鉱に用いられた淘槽と考えられる長辺約90cm、短辺70cmの木枠を検出した。明治時代のものと考えられ、採鉱から選鉱までの作業工程は坑道周辺で行われていたことが分かった[3]

焼窯や吹屋などの製錬関係の遺構は、主に銀山川に面した本町付近で認められる。『柵内銀山町御用地略絵図』には吹屋とみられる建物と対岸に焼窯が描かれており、絵図が示す場所には江戸から明治時代のものと考えられる2基の焼窯が良好な状態で残っている。焼窯1は東西2m以上、南北6.7mにわたって石積みが残っており、少なくとも3連の窯からなっている。窯の背面にはそれぞれ煙出しが付く。石積みの内側では被熱したスサ混じりの粘土層が確認されたことから、本来は窯壁を持っていたことが分かる。また、窯の周辺では多数の桟瓦が認められることから、瓦葺きの覆屋の存在が想定される[3]

この対岸には江戸末期から明治初期に建てられたと考えられる吹屋が昭和前期まであったことが知られるとともに、厚さ1.5mにも及ぶスラグ層が確認できる。また、銀山川の河床は平滑に削られており、河床の岩盤に円形や方形のピットが掘り込まれている。これらのピットは橋脚や井堰に伴うものと考えられ、井堰は製錬の工程で用いる水を確保する目的で、河川の水位を上げるために設置された可能性が考えられている[3]

このように、多田銀銅山遺跡は平安時代末期から採鉱が行われているだけでなく、その経営の在り方と変遷が史料から確認できる数少ない遺跡である。また、大坂などの都市に近接する鉱山として最先端の製錬技術が採用されており、その技術は生野銀山をはじめとする各地の鉱山にも影響を与えている。さらに、江戸時代における鉱山の管理及び生産に係る遺構が良好に残るとともに、豊富な史料や遺構から江戸から明治時代に至るまでの鉱山の在り方や産業技術史を考える上でも重要である[3]

歴史

天平時代より銅山として開発され、このときの神教間歩から産出した東大寺大仏鋳造用に使用されたといわれるが記録に乏しい。奈良時代皇朝十二銭の鋳銭材料を供給した銅山の記録があるが、畿内にも拘らず、ここに多田鉱山が登場していないことからこの時代の産出は疑わしい。平安時代源満仲多田荘多田院を設けて開発したとも伝えられる。産銅の確実な記録は平安後期の長暦元年(1037年)、能勢採銅所が設けられた時期まで降る。

天正年間に入り、を産出するようになり豊臣秀吉の直轄領となった。ただし慶長3年(1598年)の豊臣氏への運上高は476枚(約76kg)であり、生野銀山の62,267枚(約10トン)には比べるべくもない量であった。このため関ヶ原の戦い以降も徳川家康石見銀山および生野銀山のように天領としなかったといわれる。これは秀吉が地下奥深くの鉱脈を隠匿し将来の蓄財に備えた為であるとする、いわゆる埋蔵金説が存在するが、確証できる資料は存在しない[4]

しかし寛文年間に銀および銅の産出が急増するに至り銀山に代官所が置かれ、銀山村が形成され天領となり幕府の支配が強化された。寛文年間初頭には年間の産出高が、銀1,500(約5.6トン)、銅70万(約420トン)に達したという。

これより前の寛永年間より南蛮吹による精錬が行われ、荒銅より灰吹銀が採取され、抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。

その後産出高は次第に減少し、宝永年間には年間銅14万斤(約84トン)前後、正徳年間には年6万斤(約36トン)前後となった。天保11年(1840年)、高槻藩の預り所となり、天保14年(1843年)に大坂代官所の支配となったが、弘化元年(1844年)、再び高槻藩の預り所となった[5]

明治時代に入り、三菱が稼行し、明治28年(1895年)、島根県津和野の実業家、堀藤十郎礼造が先代の「堀藤十郎伴成」名義で「多田鉱山」という名称で採掘特許を得た。明治40年(1907年)秋にはじまった銀・銅の価格暴落によって、明治41年(1908年)に鉱山は休業した。

昭和19年(1944年)には日本鉱業が買収し操業を続けたが、昭和48年(1973年)に閉山した。

平成19年(2007年)4月には、多田銀銅山 悠久の館が開館し、多田銀銅山の歴史を紹介している。

明治時代に建設された堀家製錬所跡に平成25年(2013年)、多目的ゾーンと遺構展示ゾーンからなる悠久広場が整備された。この他、坑道内を体験できる間歩「青木間歩」や「代官所跡」などが残されている。

平成27年(2015年)に国の史跡に指定されたことを受け、平成30年(2018年)に史跡多田銅銀山保存活用計画が猪名川町により策定された。


  1. ^ 国史跡「多田銀銅山遺跡」/猪名川町”. www.town.inagawa.lg.jp. 2021年2月7日閲覧。
  2. ^ 多田銀銅山遺跡 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2021年2月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2021年2月7日閲覧。
  4. ^ 発端は税務署員の投稿?-20兆円超の「豊臣秀吉埋蔵金」とはdot・週刊朝日記事(2016/11/29)
  5. ^ 小葉田淳 『日本鉱山史の研究』 岩波書店1968年


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