外山正一 外山正一の概要

外山正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 06:00 UTC 版)

外山 正一
1898年
人物情報
生誕 (1848-10-23) 1848年10月23日嘉永元年9月27日
武蔵国江戸小石川柳町(現東京都文京区
死没 (1900-03-08) 1900年3月8日(51歳没)
国籍 日本
出身校 ミシガン大学文理学部(選科生)
学問
研究分野 英学社会学
研究機関 東京大学文学部帝国大学文科大学東京帝国大学文科大学
学位 文学博士(日本・1888年)
称号 ミシガン大学名誉文学修士(1886年)[1]
東京帝国大学名誉教授(1900年)
主要な作品 『丶山存稿』(1909年)
学会 東京学士会院
哲学会
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外山 正一

第11代文部大臣
内閣 第3次伊藤内閣
在任期間 1898年4月30日 - 6月30日

選挙区勅選議員
在任期間 1890年9月29日[2] - 1900年3月8日

在任期間 1892年 - 1895年

牛込区会議員[4]
在任期間 1889年11月 - 1897年12月10日
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東京帝国大学(現東京大学文科大学長・総長、貴族院議員文部大臣を歴任した。

経歴

父は家禄220俵の旗本幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義。江戸小石川に生まれる。幼名を捨八。家族は武芸で名を挙げたかったのだが、正一は学問で頭角を表す。13歳で蕃書調所英語を学び、1864年には16歳にして開成所の教授方になるほど、若くしてその英才を謳われる。

外山正一 慶応2年11月1日英国留学の為め出発の途中上海にて。時に19歳。後列向って右より外山捨八(正一)、林桃三郎(董)、福沢英之助、杉徳三郎、億川一郎、安井真八郎、岩佐源二。前列向って右より市川盛三郎、箕作奎吾、成瀬錠五郎、中村敬輔(正直)、レベレンド・ウィリヤム・ロイド、川路太郎(寛堂)、伊東昌之助(岡保義)。最前列箕作大六(菊池大麓)。

勝海舟の推挙により1866年慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府の瓦解により1868年(明治元年6月)帰国[5]。一時東京を離れて静岡学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ、森有礼少弁務使の秘書として渡米。1871年(明治4年)、現地において外務権大録になる。しかし1872年に辞職し、奨学金を得てミシガン州アナーバー・ハイスクールを経て1873年にミシガン大学に入学[6]。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻し1876年(明治9年)に帰朝した。

帰朝後は官立東京開成学校社会学の教鞭をとり1877年(明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で、エドワード・S・モースを東京大学に招聘した。幕末期から明治初期にかけて欧米で学んだ外山の新知識は当時の政府には重要であった。しかし彼の講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始した。これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄された[7]

1882年(明治15年)、同僚の矢田部良吉井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表。いずれも習作の域を出ないが、従来の和歌俳句と異なる新時代の詩の形式を模索し、近代文学に多大な影響を及ぼした。1887年(明治20年)、東京学士会院会員に任命された。

1889年(明治22年)、元良勇次郎(元東大教授)、神田乃武(元東京高商教授)と共に、芝に正則予備校を開設。正則高等学校として現在に至る。

日本語のローマ字化推進のため『羅馬字会』を結成して漢字仮名の廃止を唱え、九代目市川團十郎依田学海らが実践していた演劇改良に参加、西洋列強と伍するためには教育の向上が必要であり、そのためには女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍した。東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣文部大臣などを務めた。1899年の読売新聞懸賞東洋歴史画題募集に応募し、外山の「素戔嗚尊」が第一等となる[8]

1900年(明治33年)3月8日、中耳炎からの脳症で死去、享年51。墓所は谷中霊園

著作活動も盛んで、『演劇改良私案』(1886)、『日本絵画の未来』(1890)、『日本知識道徳史』(1895)他多数の著書を残した。唱歌『皇国の守り』の作詞を行った(作曲は伊沢修二)。

エピソード

1898年撮影(51歳)
  • エリート階級で、大学や政府の要職を務めた外山だが、生活は質素で、「あのくらいの位置にいるのに、内には下女一人に、老僕しか使わない」(勝海舟『氷川清話』)暮らしぶりで、谷中墓地の墓も小ぶりである。
  • スタイリストであった外山は、山高帽に派手な色の外套という当時最新のファッションに身を包み「赤門天狗」と呼ばれていた。散髪のやり方次第で頭脳は発達すると考えて、どの店の散髪がよいか理髪店を絶えず替えていた。
  • 東大文科大学学長のときの1883年、ある新入生の面接を行った。外山が「君は何の為に勉強するのかね」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん」と答えた。この新入生が新渡戸稲造である。

  1. ^ General catalogue of officers and students, 1837 - 1911. University of Michigan, 1912. p. 589.
  2. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  3. ^ 『牛込区史』 東京市牛込区役所、1930年3月、214頁
  4. ^ 前掲東京市牛込区役所、214-217頁
  5. ^ 外山正ーとミシガン大学 秋山ヒサ、神戸女学院大学論集 29(1), p1-18, 1982-07
  6. ^ History of CJS Part 1: President Angell and the first Japanese students University of Michigan
  7. ^ 山下重一著 『スペンサーと近代日本』 御茶の水書房、1983年12月。
  8. ^ 『近代日本絵画史』河北倫明、 高階秀爾、中央公論社、1978、p121
  9. ^ 「バンザイ」っていつから唱えるようになったの?(明治神宮)
  10. ^ 『東京日日新聞』第2940号、1881年9月27日、1面。
  11. ^ 『東京日日新聞』第3812号、1882年7月21日、1面。
  12. ^ 『官報』第2237号、1890年12月11日、145頁
  13. ^ 『官報』第3764号、1896年1月18日、321頁
  14. ^ 『官報』第4473号、1898年5月31日、394頁
  15. ^ a b 『官報』第5003号、1900年3月9日、138頁
  16. ^ 『官報』第2701号、1892年6月30日、325頁
  17. ^ 『官報』第3901号、1896年7月1日、4頁


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