外交官 世界(日本以外)の著名な外交官一覧

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外交官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/14 08:54 UTC 版)

世界(日本以外)の著名な外交官一覧

紀元前1001年以前に生誕した者

紀元前1390年頃生。アッシリアen:Assyriazh:亚述)の王(紀元前1365年-紀元前1330年)。アマルナ文書en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、エジプトアメンホテプ4世(イクナートン、 en:Akhenaten)に送る。
アッシリア(紀元前2500年頃-紀元前609年)は、アッシュール・ウバリト1世の頃から勢力を伸長し、紀元前10世紀の後半に、メソポタミアからエジプトを含むオリエント世界を統一し、史上初の世界帝国(新アッシリア帝国(紀元前911年-紀元前609年、 en:Neo-Assyrian Empirear:الإمبراطورية الآشورية الحديثةfa:امپراتوری آشوری نوzh:新亚述帝国)となる。
紀元前1380年頃生。バビロニアen:Babyloniazh:巴比倫尼亞)の王(紀元前1359年-紀元前1333年)。アマルナ文書en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、古代エジプトアメンホテプ4世(イクナートン、 en:Akhenaten)に送る。この書簡の内容は、アッシリアアッシュール・ウバリト1世アメンホテプ4世に書簡を送ったことについて、アッシリアは自らの臣下に過ぎないとして、相手にしないよう忠告するものである。
紀元前1362年頃生。古代エジプトの王(紀元前1353年頃-紀元前1336年頃)。アマルナ文書en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、アッシリアアッシュール・ウバリト1世バビロニアのブルナ・ブリアッシュ2世 から受け取り、ブルナ・ブリアッシュ2世に外交書簡を送る。
紀元前1314年頃生。古代エジプトの王(紀元前1290年頃-紀元前1224年頃、又は紀元前1279年頃-紀元前1212年頃)。紀元前1286年頃、ヒッタイト帝国(紀元前16世紀-紀元前1180年、en:Hittiteszh:赫梯)のムワタリ2世en:Muwatalli II)とカデシュの戦いを行い、紀元前1269年、カデシュ平和条約(en:Egyptian–Hittite peace treatytr:Kadeş Antlaşmasızh:埃及赫梯和約)を締結する。これは世界初の平和条約であるとされる。
紀元前1011年頃生。旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエルイスラエル王国)の第3代の王(在位:紀元前971年-紀元前931年頃)。父はダビデen:Davidhe:דודar:داودtr:Davudzh:大衛王)。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築く。

紀元前1000年から紀元前1年に生誕した者

紀元前710年頃生。中国春秋時代国の君主。管仲を宰相として国力・軍事力・文化の向上に成功する。紀元前651年諸侯と会盟を執り行い、覇者となる。春秋五覇の筆頭に挙げられる。
中国(zh:中國・Zhōngguó、en:China)では(紀元前1900年頃-紀元前1600年頃、zh:夏朝en:Xia dynasty)、(紀元前17世紀頃-紀元前1046年、zh:商朝en:Shang dynasty)に続き(紀元前1046年頃-紀元前256年、zh:周朝en:Zhou dynasty)が華北の統一王朝とされるが、勢力を減じて周が東遷した紀元前770年から、が三国()に分裂した紀元前403年までを春秋時代と呼ぶ。
紀元前550年頃生。古代ギリシャスパルタel:Αρχαία Σπάρτηen:Sparta)の王。紀元前6世紀末にペロポネソス同盟el:Σπαρτιατική Συμμαχίαen:Peloponnesian League)を結成する。
他方、アケメネス朝ペルシアの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイel:Αρχαία Αθήναen:Classical Athens)を中心としてデロス同盟el:Συμμαχία της Δήλουen:Delian League)が結成される。紀元前431年には両同盟によるペロポネソス戦争el:Πελοποννησιακός Πόλεμοςen:Peloponnesian War)が勃発し、紀元前404年、アテナイの敗北が決まるとデロス同盟は解散する。
紀元前430年頃生。アケメネス朝ペルシャの王。紀元前387年、スパルタの外交官アンタルキダスとの間でアンタルキダスの和約(大王の和約)を締結する。
キュロス2世en:Cyrus the Greatfa:کوروش بزرگzh:居鲁士二世)が創建したアケメネス朝古代ペルシア語ではハカーマニシュ朝、紀元前550年-紀元前330年、fa:شاهنشاهی هخامنشیen:Achaemenid Empireel:Οίκος των Αχαιμενιδώνzh:阿契美尼德王朝)は、紀元前550年にメディア王国を滅ぼして独立し、さらにリュディア新バビロニア等を滅ぼし、紀元前525年エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世en:Darius Ifa:داریوش یکمzh:大流士一世)の治世に始まったペルシャ戦争(紀元前499-紀元前449年、en:Greco-Persian Warszh:波希战争)ではギリシャの都市国家連合軍に敗れるが、その後も広大な版図(東はインダス川流域・ソグディアナから西はエジプトバルカン半島アナトリア半島に及ぶ。)の支配を続ける。しかし、アレクサンドロス大王el:Αλέξανδρος ο Μέγαςfa:اسکندرen:Alexander the Greatzh:亚历山大大帝)の大遠征により紀元前330年に滅亡する。アケメネス朝では、楔形文字で表記される古代ペルシア語のほか、アラム文字で表記されるアラム語が公用語として使用される。
なお、ヨーロッパ中心的な世界史観[46]では、アレクサンドロス帝国の下で、先進的なギリシャ文明が、オリエント・ペルシア文明に影響を与え、ヘレニズム文化が発展したかのように説明される[47]。しかし、この時点までの歴史の厚み[48] を考慮すれば、ギリシャ文明よりもオリエント・ペルシア文明の方が遥かに先進的であり、ギリシャ人がオリエント・ペルシア文明から多くを学んだと考える方が自然である[49]。ヘレニズム概念が西洋列強による世界進出が進んだ19世紀に考案されたことも勘案すれば[50]、今後、古代ギリシャ文明・ヘレニズム文化の生成過程については再検証が必要と思われる(そもそも紀元前700年頃から、紀元前499年に始まるイオニアの反乱まで、イオニアミレトスリュディア・ペルシアの支配下にあった。また、例えば、哲学者・数学者のタレス(紀元前624年頃-紀元前546頃)はエジプトで学び、原子論デモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)はペルシア・エジプトで学んでいる。医学の父とされる古代ギリシャのヒポクラテス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)も、アメンホテプの神殿(エジプト)で医学を学んだ(古代エジプト医学参照)。)。
紀元前400年頃生。古代ギリシャスパルタの外交官。紀元前387年、アケメネス朝ペルシアfa:شاهنشاهی هخامنشیen:Achaemenid Empire)のアルタクセルクセス2世との間でアンタルキダスの和約(大王の和約)を締結する。
紀元前350年頃生。中国戦国時代(紀元前403年-紀元前221年)の遊説家。張儀と並んで縦横家の代表人物。司馬遷史記によれば、文公に進言してとの同盟を成立させ、更にの王を説いて回り、戦国七雄のうちを除いた六国の間に同盟(合従)を成立させ、六国の宰相を兼任する。
紀元前370年頃生。中国戦国時代の遊説家。の人。司馬遷史記によれば、蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、(紀元前778年-紀元前206年、zh:秦国en:Qin)の宰相として蘇秦合従策を連衡策で打ち破り、その後の秦の始皇帝zh:秦始皇en:Qin Shi Huang)による中国統一(紀元前221年)に貢献する。
紀元前330年頃生、中国戦国時代国の公族・宰相。司馬遷史記によれば、紀元前299年に招かれ、同国を表敬訪問する。しかし、孟嘗君がこのまま斉に帰国すると秦の脅威になるとして命を狙われるが、食客である盗みの名人、物真似の名人の協力で難を逃れる(『鶏鳴狗盗』)。
紀元前320年頃生。中国戦国時代国の武将。司馬遷史記によれば、孟嘗君を宰相としが最盛期を迎えていたが、孟嘗君が失脚した後の紀元前286年、楽毅は趙、魏、韓、秦と連合を形成し、斉軍を済西の戦いで破る。後に亡命し、「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」を記す。
紀元前315年頃生。中国戦国時代の家臣。司馬遷史記によれば、趙の宝物「和氏の璧」を巡り、強国が璧と自国の十五城との交換を申し出てきたため、使者として秦を訪れる。しかし、秦側に城を渡す気がないと判断したため、璧を完うして帰国する(『完璧』の語源)。勇将廉頗との信頼関係は『刎頸の交わり』、『刎頸の友』の語源となる。
紀元前300年頃生。中国戦国時代(紀元前403年‐紀元前228年)の平原君食客司馬遷史記によれば、紀元前259年、に趙の首都邯鄲が包囲されたため、の救援を求める必要が生じたときに、「嚢中の錐」の例を示して自薦し(毛遂自薦)、平原君らとともにに赴き、楚の考烈王との合従(同盟)に成功する。
紀元前268年生。中国から楚漢戦争期の儒者説客司馬遷史記によれば、zh:汉朝en:Han dynasty)の劉邦に従う。紀元前203年大将軍韓信攻略を進めているとき、酈食其は劉邦に進言して斉との和平交渉に臨み、斉の七十余城の帰順に成功する。しかし酈食其に功績を独占されることを恐れた韓信とその腹心の蒯通は、進軍停止命令がないことを理由に斉への攻略を継続した。そのため、和議の反故に怒った斉王田広に酈食其は煮殺されてしまう。
紀元前268年生。中国末から前漢初期にかけての説客司馬遷史記によれば、の大将軍韓信に従う。韓信がを平定した際、韓信を説いて劉邦に斉王即位を認めさせる。さらに、斉を地盤として独立し、劉邦(漢)、項羽)に対抗する『天下三分の計』を韓信に進言する。しかし、韓信が悩んだ末、これを採用しなかったため、蒯通は後難を恐れて出奔する。
紀元前230年頃生。匈奴(紀元前4世紀-紀元後93年、zh:匈奴en:Xiongnu)の単于(君主、在位:紀元前209年-紀元前174年)。紀元前200年、白登山の戦い前漢劉邦の親征軍を敗り、有利な講和を結び、モンゴル高原を中心とする中央ユーラシア東部に一大遊牧国家を築く。
紀元前200年頃生。前漢前期の宦官。司馬遷史記によれば、匈奴(紀元前4世紀‐紀元後93年、zh:匈奴en:Xiongnu)に嫁ぐ女の守り役として使節への参加を強制され、「必ずや、私は漢にとって災いを為す者になるであろう」と言い残す。匈奴の老上単于の側近となり、漢への侵攻を唆す。

紀元後1年から1400年に生誕した者

70年頃生。後漢(25年-220年、zh:东汉en:Eastern Han)の人。ローマに向けて派遣された中国の軍事大使。紀元97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマ帝国との国交を開く任務を託される。現在のシリアにあったとされる条支国パルティア王国の西の国境まで到達したとされる。
121年生。ローマ帝国(紀元前27年-紀元後1453年、la:Imperium Romanumen:Roman Empirezh:羅馬帝國)の皇帝(161年-180年)。パルティア(紀元前247年-紀元後224年、en:Parthian Empirefa:شاهنشاهی اشکانی)との戦争(パルティア戦争)に勝利した際、中国のに使者を送り、後漢書大秦国王安敦(アントン)と記される。
181年生。蜀漢(221年-263年)を建国した劉備の軍師、蜀漢の丞相。208年、劉備軍と孫権軍を同盟させ、赤壁の戦い曹操軍に勝利する。曹操の子曹丕が、後漢献帝から禅譲を受けて(220年-265年)を建国すると、諸葛亮は劉備と蜀漢を建国し、孫権の(222年-280年)とともに「天下三分の計」を実現する。
227年の北伐にあたり上奏した「出師表」(すいしのひょう)は名文として有名である。
生没年不詳。『古事記』(712年完成)及び『日本書紀』(720年完成)によれば、応神天皇15年(404年)、百済を発ち、翌16年(405年)、『千字文』と『論語』(漢字儒教)を日本に伝えたとされる。百済に渡来した中国人とされる。
483年生。東ローマ帝国(395年-1453年)の皇帝(在位:527年-565年)。先に滅亡した西ローマ帝国(395年-476年)の、ローマを含む旧領土の多くを回復する。『ローマ法大全』(『勅法彙纂』、『学説彙纂』、『法学提要』及び『新勅法』から成る)を編纂する。
サーサーン朝ペルシアとの戦争では、532年と562年にホスロー1世との間で、東ローマ帝国に不利な講和条約を締結する。
500年頃生。百済(4世紀前半-660年、ko:백제en:Baekje)の王(523年-554年)。538年、倭国に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などとともに仏教を伝える(仏教公伝)。
510年頃生。サーサーン朝ペルシア(226年-651年、fa:شاهنشاهی ساسانیen:Sasanian Empirezh:萨珊王朝)の第21代君主(在位:531年-579年)。東ローマ帝国ユスティニアヌス1世と戦い、562年アンティオキアで東ローマ帝国軍を破って優位に立ち、和平条約を締結。突厥tr:Göktürkleren:Göktürks)西面の室点蜜と同盟し、567年までにエフタルen:Hephthalite Empirezh:嚈噠)を滅ぼす(en:Hephthalite–Persian Wars)。
ペルシア語(ファールシー語、Fārsī)は、サーサーン朝の滅亡後いったん衰退したが、サーマーン朝(873年-999年、fa:سامانیانen:Samanid Empire)において行政言語、文学・歴史・哲学などの学術用語として使用され、以降もガズナ朝(955年-1187年、fa:غزنویانen:Ghaznavids)、セルジューク朝(1038年-1306年、fa:سلجوقیانtr:Selçuklularen:Seljuq dynasty)、イルハン朝(1258年-1353年、fa:ایلخانانen:Ilkhanate)、ティムール朝(1370年-1507年、fa:تیموریانen:Timurid Empire)、サファヴィー朝(1507年-1736年、fa:صفویانen:Safavid dynasty)、ムガル帝国(1526年-1858年、fa:گورکانیانen:Mughal Empire)などの多くの国で公用語として使用され、19世紀前半まで中央アジア、インド亜大陸からメソポタミア、小アジアにかけて広大なペルシア語圏が成立し、ペルシア語は重要な国際共通語(リングワ・フランカ)であった。
510年頃生。突厥(552年-582年、tr:Göktürkleren:Göktürks)の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。サーサーン朝ホスロー1世と同盟し、エフタルを挟撃し、これによりエフタル領であったシャシュ(石国)、フェルガナ破洛那国)、サマルカンド等を占領する。
567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)等を占領する。この頃、室点蜜はサーサーン朝にソグド人使節団を派遣し、絹を売る許可を要求したが、ホスロー1世はこれを拒否し、使者を毒殺したため、突厥とサーサーン朝の関係は悪化する。
568年、室点蜜は東ローマ帝国にソグド人使節団を派遣し、エフタル攻滅の報告と、絹貿易の盟約をかわす。その使節団の帰路に東ローマ帝国の使節団が同行し、突厥の領土を見聞する。
582年、突厥は内紛により、東突厥(582年-745年)と西突厥(582年-741年)に分裂する。
570年頃生。推古天皇15年(607年)に小野妹子らの遣隋使の派遣に対し、翌推古天皇16年(608年)(581年‐618年、zh:隋朝en:Sui dynasty)の煬帝の命令で答礼使として日本(倭国)に派遣される。
710年頃生。高句麗系の(618年-907年、zh:唐朝en:Tang dynasty)の軍人。西域で活躍し、751年、タラス河畔の戦いen:Battle of Talasar:معركة نهر طلاسzh:怛罗斯战役)でアッバース朝(750年-1517年、ar:الدولة العباسيةen:Abbasid Caliphate)のイスラム軍と交戦し、敗れる。この戦いで捕虜となった者が製紙技術を中国から西方に伝える。
955年頃生。キエフ大公国の大公(在位:978年-1015年)。988年、貴族の反乱に悩む東ローマ皇帝バシレイオス2世に援軍を送る見返りに、帝妹アンナと結婚し、キエフ大公国の権威を上昇させるとともに、キリスト教国教として導入し、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れる。
キエフ大公国は、11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、1240年モンゴル来襲により事実上崩壊する(タタールのくびき)。
961年生。北宋(960年-1127年、en:Northern Song Dynastyzh:北宋)の宰相。北方の(916年-1125年、en:Liao dynastyzh:辽朝)が勢力を伸ばす中、1004年、南遷の意見を退け、北宋が遼に毎年絹・銀を送ることを条件に、国境の現状維持、不戦、遼を弟を位置づけることを約する澶淵の盟en:Chanyuan Treatyzh:澶渊之盟)を締結する。
1091年生。南宋(1127年-1279年、en:Southern Songzh:南宋)の宰相(1115年-1234年、en:Jin dynastyzh:金朝)との講和を進め、1141年南宋にとって屈辱的な紹興の和議を結び、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺・平民へ落とし、その後も恐怖政治を敷く。後世、売国奴の代名詞となり蔑まれる。
1137年頃生。エジプトのアイユーブ朝(1169年-1250年、 ar:الدولة الأيوبيةen:Ayyubid dynasty)の始祖。クルド民族の英雄。1189年からイングランド王リチャード1世等による第3回十字軍と戦い、1192年休戦協定を締結する。
1182年生。イタリア・ヴェネツィア共和国it:Repubblica di Veneziaen:Republic of Venicezh:威尼斯共和国)の修道士。1241年モンゴル帝国(1206年-1634年、 en:Mongol Empiremn:Их Монгол улсde:Mongolisches Reichru:Монгольская империяzh:蒙古帝国ar:إمبراطورية المغولfa:امپراتوری مغول、 ko:몽골 제국)の遠征軍にポーランド・ドイツ連合軍が完敗したワールシュタットの戦いde:Schlacht bei Liegnitzpl:Bitwa pod Legnicąen:Battle of Legnicamn:Легницийн тулалдаан)を契機として東欧・西欧にモンゴル帝国(1206年-1634年)の脅威が及んだのに対し、ローマ教皇インノケンティウス4世の命令により、モンゴル帝国のバトゥの元に交渉役として派遣される。
1217年生。元朝の官僚。文永の役(1274年)の直前の1271年と1272年の二度、元朝の使節として来日する。
1220年頃生。フランスfr:Francezh:法国・法兰西)の修道士。1253年フランス国王ルイ9世の命令によりモンゴル帝国に派遣される。翌年モンゴル帝国の都カラコルムを訪れ、モンケ・ハン(憲宗)に謁見する。その時の見聞にもとづき、モンゴル中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える貴重な旅行記「東方諸国旅行記」を書き残す。
1242年生。元朝の官僚。文永の役(1274年)の直後の1275年、元朝の使節として来日するが、北条時宗に斬首される。
1247年生。フランチェスコ派修道士。1289年ローマ教皇ニコラウス4世の命令により教皇庁の公式使節としてローマを出発し、1294年(1271年-1368年、zh:元朝en:Yuan dynasty)の大都(現在の北京)に到着し、皇帝テルムに拝謁、カトリックの布教活動を行う。
1343年頃生。イングランド王国(927年-1707年、en:Kingdom of Englandfr:Royaume d'Angleterrezh:英格兰王国)の外交官・詩人。外交使節としてイタリアを訪問し、人文主義者で詩人のペトラルカと親交を結ぶ。1378年にはリチャード2世の密命を帯びてミラノに渡航し、ヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触、傭兵を雇い入れるために交渉する。『カンタベリー物語』の著者。
1353年生。デンマーク・ノルウェー連合王国の摂政。1397年、スウェーデンを含むカルマル同盟da:Kalmarunionenen:Kalmar Union)を成立させる。
1371年生。(1368年-1644年、en:Ming dynastyzh:明朝)の宦官・武将。1405年から1433年にわたる、南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジアインドからアラビア半島アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。

1401年から1700年に生誕した者

1411年生。ミラノ公国(it:Ducato di Milanoen:Duchy of Milan)の外交官。1446年、世界初の常駐大使(resident ambassador)としてフィレンツェ共和国のコジモ・デ・メディチit:Cosimo de' Medici)の下に派遣されたとされる[51]
1447年生。ブルゴーニュ公国fr:Duché de Bourgogneen:Duchy of Burgundy)とフランスの外交官。ルイ11世とシャルル8世に仕える。専門的な外交官による外交交渉の重要性を主唱。コミーヌの著した『回想録』("Mémoires" ed. J. Blanchard, Geneve, Droz, 2007, 2 vol.)は当時の最良の外交理論として広く読まれる[52]
1469年生。フィレンツェ共和国(1115年-1532年、it:Repubblica di Firenzeen:Republic of Florencezh:佛罗伦萨共和国)の外交官。『君主論』(”Il Principe”)の著者。
1478年生。イングランド王国(927年-1707年、en:Kingdom of Englandfr:Royaume d'Angleterrezh:英格兰王国)の外交官・法律家・思想家。ヘンリー8世に仕え、ラテン語を駆使してヨーロッパ大陸での外交で活躍。ネーデルラント使節、1525年対仏講和委員。第1次囲い込みen:Enclosurezh:圈地运动)を批判した『ユートピア』の著者
1483年生。フィレンツェ共和国の歴史家・政治家・外交官。スペイン常駐大使(1512年-1514年)。外交における時機の重要性を力説。国家と国家が戦争によって強さを競い合うのみならず、外交交渉や同盟関係を駆使して勢力均衡状態を作り出すことができると考え、そのための外交の意義を強く認識する。「国家理性」(ragione di stato)という用語を最初に使用する[53]
1494年生。オスマン帝国(1299年‐1922年、tr:Osmanlı İmparatorluğuar:الدولة العثمانيةen:Ottoman Empirezh:奥斯曼帝国)の第10代皇帝(在位:1520年-1566年)。1529年、第一次ウィーン包囲を敢行し、1533年、オーストリア大公国コンスタンティノープル条約を締結する。
1535年、ハプスブルク家に対抗するため、フランス国王フランソワ1世と同盟を結ぶ。1536年のカピチュレーションは「強者」たるオスマン帝国が「弱者」たるフランスに対して与えた恩恵的特権であったが、結果として19世紀以降に西欧諸国がアジア諸国に押し付けた不平等条約の原型となる。
1500年生。神聖ローマ帝国(962年‐1806年、de:Heiliges Römisches Reichen:Holy Roman Empirezh:神圣罗马帝国)の皇帝(在位:1519年-1556年)、スペイン国王(カルロス1世、在位:1516年-1556年)。ハプスブルク家de:Haus Habsburges:Casa de Habsburgoen:House of Habsburgzh:哈布斯堡王朝)の絶頂期に君臨する。「太陽の沈まない国」と称される、ヨーロッパ、新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を統治する。1555年、アウクスブルクの和議を成立させる。
1583年生。オランダの法学者。「国際法の父」と称される。主著『自由海論』、『戦争と平和の法』。1634年、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフより、駐仏スウェーデン大使に任命される。
1585年生。フランス(ルイ13世)の宰相。三十年戦争(1618年-1648年)に介入し、オーストリア・ハプスブルク家スペイン・ハプスブルク家に対抗する姿勢をとる(対ハプスブルク同盟)。1624年ヨーロッパで最初となる外務省(le secrétariate d'État aux Affaires étrangères)を設立する。1635年「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設する。中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて、ルイ14世fr:Louis XIVzh:路易十四)時代の絶対王政の基礎を築く。これらの結果、17世紀にヨーロッパの外交公用語がラテン語からフランス語に推移し、フランス語の世界の外交公用語としての地位は第1次世界大戦まで続くことになる。
1594年生。スウェーデン王国の王(在位:1611年-1632年)。同国に「バルト帝国時代」と呼ばれる最盛期をもたらす。三十年戦争では、フランスのリシュリューが主導する対ハプスブルク同盟に参加し(ベールヴァルデ条約fr:Traité de Barwaldsv:Fördraget i Bärwalde)、新教諸侯を支援するが、1632年、リュッツェンの戦いで戦死する。
1608年生。神聖ローマ帝国皇帝(在位:1637年-1657年)。1648年、ヴェストファーレン条約de:Westfälischer Friedefr:Traités de Westphalienl:Vrede van Westfalenes:Paz de Westfaliaen:Peace of Westphaliazh:威斯特伐利亚和约)を締結し、三十年戦争(1618年-1648年)を終結させる。同条約は、領邦の自立権(主権)、オランダネーデルラント連邦共和国)とスイスの独立を正式に認めたため、事実上神聖ローマ帝国は滅亡したに等しくなる。
1629年生。ポーランド・リトアニア共和国(1569年-1795年)の君主(在位:1674年-1696年)。1683年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟し、オスマン帝国tr:Osmanlı İmparatorluğuen:Ottoman Empire)との戦いで活躍し、同年の第二次ウィーン包囲で勝利して英雄として名を馳せる。
ポーランド・リトアニア共和国pl:Rzeczpospolita Obojga Narodówlt:Abiejų Tautų Respublikaen:Polish–Lithuanian Commonwealth)は、ポーランド王国の王位とリトアニア大公国の大公位を兼ねるヤギェウォ朝(1386年-1572年、pl:Jagiellonowielt:Jogailaičių dinastijaen:Jagiellonian dynasty)が断絶する直前の1569年、ルブリン合同により両国が合同した複合国家である。16世紀・17世紀には、21世紀におけるポーランドリトアニアに加えベラルーシウクライナの領土のほとんどを支配する強大な国家であった。しかし、ロシアの台頭とともに衰退し、1795年、第3回ポーランド分割pl:Rozbiory Polskien:Partitions of Poland)により消滅してしまう。
1630年頃生。の官人。1689年、ロシアとの間でネルチンスク条約の締結を行う。
1645年生。フランスの外交官。外交論の名著『外交談判法』(”De la manière de négocier avec les souverains”)の著者。
1672年生。ロシア・ツァーリ国ツァーリ(在位:1682年-1725年、ru:Царьen:Tsar)、初代ロシア皇帝(在位:1721年-1725年)。
摂政が実権を握っていた1689年、康煕帝時代の朝との間で、ロシアに不利なネルチンスク条約が締結される。
親政開始後の1697年3月から1698年8月まで、約250名の使節団をヨーロッパに派遣し、自らも偽名を使い一員となり、アムステルダムでは造船技術の習得に専心する。
1683年から続くオスマン帝国との大トルコ戦争に関し、ヨーロッパ諸国は1699年カルロヴィッツ条約を締結し、ロシアは1700年コンスタンティノープル条約を締結し、アゾフ領有が認められる。
1699年反スウェーデン同盟(北方同盟)を締結し、1700年から1721年まで大北方戦争を戦い、スウェーデンに勝利し、ニスタット条約を締結、バルト海の覇権を握る。1721年、大北方戦争の勝利を記念し、元老院から皇帝(インペラートル)の称号を与えられ、国名をロシア帝国とする。
1703年サンクトペテルブルクの建設に着手し、1712年モスクワから遷都する。

1701年から1800年に生誕した者

1706年生。アメリカ合衆国(en:United States of Americafr:États-Unis d'Amériquede:Vereinigte Staaten von Amerikaes:Estados Unidos de Américaru:Соединённые Штаты Америкиzh:美国・美利堅合眾國、ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّةfa:ایالات متحده آمریکاtr:Amerika Birleşik Devletleri)の駐フランス公使・物理学者。1776年アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に署名した。独立戦争中は欧州諸国との外交交渉に奔走し、独立戦争へのフランスの協力・参戦と、他の諸国の中立に成功する。
1711年生。オーストリア大公国de:Erzherzogtum Österreichハプスブルク帝国)の駐フランス大使・宰相。マリア・テレジアヨーゼフ2世に仕える。オーストリア継承戦争(1740年-1748年)の結果、プロイセンシュレージエンを奪われたため、同国の孤立化を図り、1756年ヴェルサイユ条約を結んでフランスと同盟し、いわゆる外交革命de:Renversement des alliancesfr:Révolution diplomatiqueen:Diplomatic Revolution)を実現する。七年戦争(1756年-1763年)でも、プロイセンからシュレージエンを奪回することはできなかったが、この結果ハプスブルク家zh:哈布斯堡王朝)とフランスのブルボン家zh:波旁王朝)との長年の対立が緩和され、1770年マリー・アントワネットMarie-Antoinettezh:玛丽·安托瓦内特)のフランス王家への輿入れにつながる。
1772年第1回ポーランド分割en:Partitions of Polandde:Teilungen Polensfr:Partages de la Pologneru:Разделы Речи Посполитойpl:Rozbiory Polskizh:瓜分波蘭)に参加。
1737年生。イギリスの外交官。アイルランド王国生まれのスコットランド人。1763年七年戦争の講和会義に参加。駐ペテルブルク公使。1793年乾隆帝に謁見し、貿易改善・条約締結を要請するが拒否される。その際、朝貢使節が皇帝に対して行う清式の儀礼である三跪九叩頭の礼を拒否する。
1743年生。米国の駐フランス公使・初代国務長官・大統領。1776年アメリカ独立宣言の起草委員となり、起草を担当し、ベンジャミン・フランクリンらと共に署名した。1793年、フランスがイギリスと開戦した時、ジョージ・ワシントンen:George Washingtonzh:乔治·华盛顿)大統領は米国が巻き込まれるべきではないと考えたが、国務長官のジェファーソンはフランスを支持した。
1749年生。1782年イギリス(グレートブリテン王国(1707年-1801年)、en:Kingdom of Great Britainfr:Royaume de Grande-Bretagne)の初代外務大臣に就任。パリに外交代表を置いてヨーロッパ大陸諸国とアメリカ合衆国独立について交渉に当たる。
1754年生。フランスフランス革命期から、第一帝政復古王政七月王政までの政治家・外交官。ナポレオン・ボナパルトfr:Napoléon Bonapartezh:拿破仑一世)のブリュメール18日のクーデターに参加し、統領政府で外務大臣となり、リュネヴィルの和約およびアミアンの和約の成立に貢献する。ウィーン会議fr:Congrès de Viennezh:维也纳会议)ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍。
ウィーン会議で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高く、名外交官としてオーストリアのメッテルニヒと並び称され、現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものの代名詞として使われる。
1758年生。米国の外交官・国務大臣・大統領。1803年フランス駐在の外交官としてルイジアナ買収交渉に貢献。米英戦争(1812年-1815年)では国務長官・陸軍長官として重要な役割を演じる。1823年大統領として米国がアメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を容認しないとする、いわゆるモンロー主義en:Monroe Doctrinezh:门罗主义)を発表する。
1759年生。1783年24歳で最年少のグレートブリテン王国(1707年‐1800年、en:Kingdom of Great Britain)首相就任。1805年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年‐1927年、en:United Kingdom of Great Britain and Irelandfr:Royaume-Uni de Grande-Bretagne et d'Irlande)の首相として第三次対仏大同盟en:Third Coalitionfr:Troisième Coalitionzh:第三次反法同盟)を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いに敗北する。
1764年生。ロシア帝国の外交官。1799年、勅許会社である露米会社ru:Российско-американская компанияen:Russian-American Company)を設立する。アダム・ラクスマンに交付された信牌を持って、1804年、長崎の出島に来航するが、通商を拒絶される。
1766年生。ロシア帝国の軍人。1792年(寛政4年)、通商を求め根室に来航する。長崎以外では国書を受理できないとして退去を求められ、長崎への入港許可証(信牌)の交付を受け、帰国する。
1769年頃生。オスマン帝国の属州エジプトzh:埃及)の支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年-1849年)。民族的な出自はアルバニア系と言われる。
エジプト・シリア戦役ナポレオンのエジプト遠征、1798年-1801年)においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進める。
エジプト・トルコ戦争(1831年-1833年、1839年-1840年)ではヨーロッパ列強の介入を招き、勢力伸長を危険視したイギリスによりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。
1769年生。イギリスの陸軍元帥・外務大臣・首相。ウィーン会議en:Congress of Vienna)に英国首席全権代理として出席。会議の期間中にエルバ島を脱出したナポレオンを、ワーテルローの戦いen:Battle of Waterloozh:滑铁卢战役)で迎え撃ち、勝利する。
1769年生。イギリスの外務大臣(1812年-1822年)。ウィーン会議en:Congress of Vienna)に英国首席全権として出席。陸軍・植民地大臣。
1770年生。イギリスの外務大臣(1807年-1809年、1822年-1827年)・首相(1827年)。ウィーン体制を支えた神聖同盟ロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国)とは一線を画した外交政策を行う。ロシアのレヴァント進出を阻止する意図でギリシア独立を支援。またラテンアメリカでのスペインからの独立運動を、自国の市場拡大をもくろんで支持。これらは以降の英国の「自由貿易帝国主義」の基礎となる。外務大臣、首相。
1772年生。ガージャール朝ペルシアのシャー(在位:1797年-1834年)。第1次ロシア・ペルシア戦争(1804年-1813年)に敗れ、1813年ゴレスターン条約を締結し、現在のジョージア(グルジア)アゼルバイジャンをロシアに割譲する。
さらに第2次ロシア・ペルシア戦争にも敗れ、1828年トルコマーンチャーイ条約を締結し、現在のアルメニアをロシアに割譲する。同条約は、ロシアに領事裁判権を認める不平等条約であった。
1773年生。イギリスの外交官。1816年清を訪問し、嘉慶帝に対する謁見を求めたが、朝貢使節が皇帝に対して行う清式の儀礼である三跪九叩頭の礼を拒否したため謁見は叶わず、貿易改善交渉も開始できなかった。その後、ベンガル総督(1823年-1828年)となる。この頃、清へのアヘンの流入が急増し、1827年にはアヘン貿易が茶貿易を上回っている。
1773年生。オーストリア帝国(1804年-1867年、de:Kaisertum Österreich)の外相としてウィーン会議de:Wiener Kongresses:Congreso de Viena)を主催。ウィーン会議では中心的役割を果たし、国際政治における勢力均衡・反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序の創出を図る。ウィーン会議後も、ドイツでのブルシェンシャフト運動に対してカールスバート決議で抑圧を図るなど、自由主義ナショナリズムを抑圧することで、ヨーロッパの平和・安定を追求する。墺国宰相。
1784年生。イギリスの外務大臣(1830年-1834年、1835年-1841年、1846年-1851年)・首相(1855年-1858年、1859年-1865年)。ヨーロッパでは会議外交により各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行う。非ヨーロッパの低開発国に対しては砲艦外交en:Gunboat diplomacy)で不平等条約en:Unequal treaty)による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国en:Informal empire)に組み込む「自由貿易帝国主義」(en:The Imperialism of Free Trade)を遂行する。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」(en:Pax Britannicazh:不列颠治世)を象徴する人物。
1848年3月1日の英国庶民院en:House of Commons)での演説で、「英国には、永久の同盟国もいなければ、永遠の敵もいない。永久永遠のものは英国の利益であり、我々はそれに従う義務がある。」と述べる。
1784年生。シャムの国王(在位:1824年-1851年)。1826年、イギリス(東インド会社en:East India Company)のヘンリー・バーネイ(en:Henry Burney)との間でバーネイ条約(en:Burney Treatyth:สนธิสัญญาเบอร์นี)を締結する。
1794年生。米国の海軍軍人。1853年、琉球王国小笠原諸島浦賀を訪れ(黒船来航)、翌1854年、日米和親条約および琉米修好条約を締結する。
1799年生。メキシコの外交官。米墨戦争(1846年-1848年、en:Mexican–American Wares:Intervención estadounidense en México)後、カリフォルニア州などメキシコ割譲地es:Cesión mexicanaen:Mexican Cession)の米国への譲渡を定めるグアダルーペ・イダルゴ条約en:Treaty of Guadalupe Hidalgoes:Tratado de Guadalupe Hidalgo)に調印する(さらに、米国側は批准に際して、メキシコ側に不利な修正を行う。)[54]
1800年生。米国の外交官。米墨戦争(1846年-1848年)後のグアダルーペ・イダルゴ条約に調印する。

1801年から1830年に生誕した者

1802年生。イギリスの外交官・外務事務次官(1854年-1873年、en:Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs)。外務官僚の地位を確立し、この時期に旧外交(Old Diplomacy)の伝統が確立する[55]
1803年生。ロシアの海軍軍人。イギリスがアヘン戦争の結果、南京条約を結んだためプチャーチンはロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言し、1843年、清及び日本との交渉担当を命じられる。1852年、米国のマシュー・ペリー日本との条約締結のため出航したとの情報に基づき、ロシアも日本と条約を締結するため遣日全権使節に任じられる。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に4隻の艦隊を率いて長崎に来航する。川路聖謨らと交渉し、1855年2月7日(安政元年12月21日)日露和親条約の締結に成功する。
1858年、清でのアロー戦争に調停の名目で介入し、清との間で天津条約を締結し、同年、日本と日露修好通商条約を締結する。
1804年生。米国の初代駐日領事・初代駐日公使。1858年(安政5年)に大老井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しに日米修好通商条約の締結に踏み切り、これによりハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖し、1859年(安政6年)元麻布善福寺に公使館を置く。
1804年生。シャムの国王(在位:1851年-1868年)。1855年、イギリスと通商・貿易に関するボーリング条約(en:Bowring Treaty)を締結する。同条約は治外法権などを含む不平等条約である。
小説『アンナとシャム王』(映画・ミュージカル『王様と私』)等の王のモデルである。
1805年生。仏国の外交官。実業家に転身し、1869年スエズ運河en:Suez Canalar:قناة السويس)を開設。さらにパナマ運河en:Panama Canal)開設を試みるが失敗に終わる。
1808年生。フランス第二共和制の大統領(1848年-1852年)、フランス第二帝政の皇帝(1852年-1870年)。クリミア戦争(1853年-1856年、fr:Guerre de Criméeen:Crimean Warzh:克里米亚战争)によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図る。またアフリカアジアにフランス植民地を拡大させる。しかし米国の南北戦争(1861年4月-1865年、en:American Civil War)中に、イギリス・スペインと実施したメキシコ出兵(1861年12月-1867年、fr:Expédition du Mexiqueen:Second French intervention in Mexico)の失敗で体制は動揺する。普仏戦争(1870年-1871年、fr:Guerre franco-allemande de 1870en:Franco-Prussian Warzh:普法戰爭)でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊する。
1809年生。イギリスの駐清領事・初代駐日総領事・初代駐日公使。現在も港区高輪に所在する東禅寺(国史跡指定)が宿所・公使館として使用される。『大君の都』を著す。
1809年生。フランスの外交官・幕末維新期の駐日公使。フランス公使として横須賀製鉄所建設(1865年工事開始)、横浜仏語伝習所設立(1865年開校)、 軍事顧問団の招聘(1867年1月訓練開始)などの徳川幕府支援を行う。
1810年生。サルデーニャ王国の首相、イタリア王国首相兼外相。ガリバルディマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」。英仏と同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853年 - 1856年)に参戦し、サルデーニャの国際的地位の向上に努める。1858年ナポレオン3世プロンビエールの密約it:Accordi di Plombières)を結び、フランス軍の対オーストリア参戦を約束させ、1959年オーストリアとの第二次イタリア独立戦争en:Second Italian War of Independenceit:Seconda guerra di indipendenza italiana)に勝利する。1960年ガリバルディから両シチリア王国の献上を受け、1961年イタリア統一を達成する。
1813年生。オランダの外交官。江戸時代末期の最後のオランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官。米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしていることを、オランダ風説書とともに提出した「別段風説書」で江戸幕府に予告する。その際、米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言し、交渉を開始するが不調に終わる。安政2年12月23日(1856年1月30日)日蘭和親条約を締結、安政4年8月29日(1857年10月16日)日蘭追加条約を締結、安政5年7月10日(1858年8月17日)日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結。日本語の研究を進め、1857年、日本語の文法書『日本文法稿本(Proeve eener Japansche spraakkunst)』を作成する。
1815年生。プロイセン王国en:Kingdom of Prussiade:Königreich Preußen)の首相兼外相、ドイツ帝国初代首相。1867年の普墺戦争en:Austro-Prussian Warde:Deutscher Krieg)の勝利で北ドイツ連邦を樹立。次いで1871年の普仏戦争en:Franco-Prussian Warfr:Guerre franco-allemande de 1870de:Deutsch-Französischer Kriegzh:普法戰爭)の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国en:German Empirefr:Empire allemandde:Deutsches Kaiserreichzh:德意志帝國)を樹立する。
三帝同盟(1873年)の締結、露土戦争後の国際関係を調整するベルリン会議 (1878年)の主催、三国同盟 (1882年)の締結、アフリカ分割en:Scramble for Africafr:Partage de l'Afriquezh:瓜分非洲)に関するベルリン会議(1884年-1885年)の主催等、卓越した外交力で国際政治を主導し、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築する。
1817年生。フランスの外交官・初代駐日領事・初代駐日公使。清におけるアロー戦争に参加した後、1858年(安政5年)日仏修好通商条約の交渉のために来日。
1823年生。zh:清朝en:Qing dynasty)の直隷総督北洋通商大臣洋務運動を推進し、清朝末期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力する。
1871年、日本の伊達宗城日清修好条規zh:中日修好條規)を締結する。
朝鮮における甲申政変(1884年12月)によって生じた日清両国の緊張関係の緩和と事後処理のため、1885年4月、日本の伊藤博文天津条約(李・伊藤条約、zh:中日天津会议专条)を締結する。
清仏戦争(1883年-1885年、fr:Guerre franco-chinoiseen:Sino-French Warzh:中法战争)の講和条約である天津条約(李・パトノートル条約、fr:Traité de Tianjinzh:中法新约)を、1885年6月、フランス公使ジュール・パトノートル(fr:Jules Patenôtre)と締結し、ベトナムに対する清の宗主権を放棄する。
日清戦争(1994年-1995年、zh:甲午战争)の講和条約である下関条約zh:马关条约en:Treaty of Shimonoseki)を清側の欽差大臣(全権大使)として調印し(会場『春帆楼』)、台湾・遼東半島(後に三国干渉により返還)を割譲し、朝鮮に対する清の宗主権を放棄する。
1896年、ロシアの財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーと、日本を仮想敵とする相互防御同盟を目的として露清密約zh:中俄密约)を締結し、満州におけるロシアの駐留・権益拡大を承認する。
1824年生。阮朝ベトナムの官僚、首相、摂政。1873年フランシス・ガルニエハノイ占領軍を追い出し、1874年、フランスとの間の第二次サイゴン条約(vi:Hòa ước Giáp Tuấtzh:第二次西貢條約)に署名する。
1828年生。イギリスの駐日公使。フランスの駐日公使・ロッシュは、ときには本国の意向を無視して江戸幕府を支援した。これに対し、パークスは、薩英戦争四国艦隊下関砲撃事件後、薩摩藩長州藩が外国との通商を強く望んでいることを知り、表面上は中立の立場をとりながら薩摩藩長州藩と接近する。
1869年(明治2年)、箱館戦争に際しては、フランス・オランダとともに榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めない立場を取り、アメリカ・イタリアプロイセンと対立する。
1830年生。イギリスの外務大臣・首相。19世紀後半に内政では漸進的な改革を行い、外交面では帝国主義政策を遂行して大英帝国の更なる拡張を果たす。日英同盟en:Anglo-Japanese Alliance)締結。

1831年から1860年に生誕した者

1831年生。ガージャール朝ペルシアのシャー(在位:1848年-1896年)。「上からの改革」を推進する大宰相アミール・キャビールfa:امیرکبیرen:Amir Kabir)を疎んじ、1852年に暗殺する。
1857年、ペルシア支配下にあったアフガニスタンをイギリスの勢力下におくこと、治外法権関税自主権の放棄を認めるパリ条約に調印する。
1872年に「ロイター利権」をポール・ジュリアス・ロイターに、1890年に「タバコ利権」をジェラルド F.タルボットに供与し、翌1891年のタバコ・ボイコット運動を引き起こす。
1836年生。イギリスの通商大臣(1880年-1885年)、植民地大臣(1895年-1903年)。南アフリカにおけるトランスヴァール共和国再併合計画に主導的な役割を果たし、第二次ボーア戦争(1899年-1902年)を引き起こす。オースティン・チェンバレンネヴィル・チェンバレンの父。
1838年生。米国の外交官・国務長官(1898年-1905年)。日清戦争(1994年-1995年)で敗れたに対する欧州列強の分割競争に乗り遅れていた米国(その間に、ハワイ併合米西戦争を行う。)が、貿易活動において中国市場に割り込むため、1899年ジョン・ヘイは中国に関する第1次門戸開放通牒を行う。さらに、翌1900年義和団の乱zh:义和团运动en:Boxer Rebellion、Yihetuan Movement)が起こる中、門戸開放・機会均等に加え、領土保全を強調する第2次通牒を発する。
1901年11月、駐米イギリス大使ポンスフォート卿(en:The Lord Pauncefote)とヘイ=ポンスフォート条約(en:Hay–Pauncefote Treaty)を締結し、パナマ運河建設におけるアメリカの優越的地位を約束させる。1812年の第2次米英戦争、英領カナダと米国の国境線画定問題など、19世紀の英米関係は緊張・対立・相互不信を基調としていた。ヘイ=ポンスフォート条約は、1890年代から独仏露三国とイギリスとの対立が深刻化し(光栄ある孤立en:Splendid isolation)、1901年3月に英独日三国同盟構想が挫折した状況下における、イギリスの譲歩による英米の協調関係の確立の試みである[56]
米国の人口は、1800年6百万人、1850年24百万人、1900年76百万人、1950年158百万人、2000年284百万人と急増した(歴史上の推定地域人口参照))。
イギリスは1800年12百万人、1850年22百万人、1900年38百万人、1950年50百万人、2000年59百万人。
フランスは1800年28百万人、1850年36百万人、1900年40百万人、1950年42百万人、2000年59百万人。
ドイツは1800年23百万人、1850年34百万人、1900年54百万人、1950年68百万人、2000年82百万人。
ロシアは1800年25百万人、1850年38百万人、1900年72百万人、1950年103百万人。2000年147百万人。
日本は1800年30百万人、1850年32百万人、1900年45百万人、1950年84百万人。2000年127百万人。
中国は1800年334百万人、1850年410百万人、1900年398百万人、1950年555百万人、2000年1251百万人。
1848年生。清末の外交官。駐英公使、駐仏公使兼駐露公使。1881年、ロシアとの間のイリ条約締結交渉を行い、イリ地方の一部を清に返還させることに成功する。
1843年生。イギリスの駐日公使・駐清公使。『一外交官の見た明治維新』・『A Guide to Diplomatic Practice by Sir E. Satow, (Longmans, Green & Co. London & New York, 1917)』の著者。
1867年(慶応3年)12月、大政奉還の詳細の探知と兵庫開港の準備のために大坂に行き、後藤象二郎西郷隆盛伊藤博文らと会談する。
1868年(慶応4年)1月、王政復古の大号令が出されたため、京都を離れ大坂城に入った徳川慶喜ハリー・パークスの謁見で通訳を務める。
1844年生。エチオピア帝国の皇帝(在位:1889年-1913年)。第一次エチオピア戦争(1895年-1896年)においてイタリア王国を破り(アドワの戦い)、1896年、アディスアベバ条約を締結し、エチオピアの独立を承認させた。当時のアフリカ大陸の諸王国の中で、唯一独立を保つことができた事例である。
しかし、エチオピアは第二次エチオピア戦争(1935年-1936年)に敗れ、1936年から1941年の間、イタリアの植民地イタリア領東アフリカ帝国となる。
1848年生。イギリスの首相・海軍大臣・外務大臣。1917年イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵に対して送った書簡で、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束する(バルフォア宣言en:Balfour Declaration)が、この宣言とフサイン=マクマホン協定サイクス・ピコ協定の存在が、現在まで続くパレスチナ問題の原因となる。
イギリス本国と自治領の関係を新たに定義する1926年のバルフォア報告書en:Balfour Declaration of 1926)にも委員会議長として名を残し、その内容が1931年のウェストミンスター憲章として成文化される。
なお、アイルランド独立戦争(1919年‐1921年)を経て、1921年英愛条約en:Anglo-Irish Treaty)が成立し、翌1922年アイルランド島南部26州がアイルランド自由国ga:Saorstát Éireannen:Irish Free State)として分離する。1927年、イギリスは正式名称をグレートブリテン及びアイルランド連合王国en:United Kingdom of Great Britain and Ireland)からグレートブリテン及び北アイルランド連合王国en:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)に改称する。
1849年生。ドイツ帝国の外交官、外務大臣(1897年-1900年)、宰相(1900年-1909年)、駐イタリア大使(1914年-1915年)。1897年、外相として「問題は、われわれが植民地を獲得したいか否かではない。われわれの希望にかかわらず、植民地は獲得しなければならない。」[57]として植民地獲得の強い意欲を示す。
1849年生。ロシア帝国の財務大臣・首相。1896年、李鴻章露清密約を締結。日露戦争(1904年-1905年)の講和交渉のロシア側代表であり、日本の外務大臣小村寿太郎と交渉を繰り広げ、ポーツマス条約を締結する。
1852年生。1898年から1905年までフランスの外相。一貫して反ドイツ的な政策をとる。ファショダ事件では対英宥和策をとって両国関係の改善に努める。ロシアとは露仏同盟fr:Alliance franco-russe)の強化を図る。また、水面下でイタリアと交渉し、1902年に両国間で密約(仏伊協定)を締結して独墺伊の三国同盟de:Dreibund)を揺さぶる。1904年の英仏協商en:Entente Cordiale)は彼の外交的成功の1つで、英国のエジプトにおける優先権、フランスのモロッコにおける優先権を確認。また英露の緊張緩和を図り、1907年の英露協商en:Anglo-Russian Convention)を導く。これらによりビスマルク体制と呼ばれるドイツ中心のフランス包囲網を解体する。
1853年生。シャムの国王(在位:1868年-1910年)。チャクリー改革などを通してタイを近代化させた名君として評価が高い。イギリスにマレー半島の一部を、フランスにラオスカンボジアを割譲することにより独立を保つ。
1856年生。フランス共和国(第三共和制)の陸軍元帥・最後の首相、フランス国(ヴィシー政権)の主席・初代首相。第一次世界大戦に際して卓越した指揮官との名声を得、英雄視される。第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻(5月10日-6月21日、de:Westfeldzugfr:Bataille de France)でフランス軍が敗北を続ける中、首相に就任し、同年6月22日独仏休戦協定fr:Armistice du 22 juin 1940)を締結する。
1856年生。米国の駐英大使・国務長官(1925年-1929年)。1928年、フランスの外相アリスティード・ブリアンと共にパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)の締結に尽力する。国際司法裁判所判事(1930年-1935年)。
1856年生。米国の大統領(1913年-1921年)。
メキシコ革命(1910年-1917年)に際して、1914年米軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉する。
第一次世界大戦en:World War Ifr:Première Guerre mondialede:Erste Weltkriegzh:第一次世界大战)への参戦を決断し、大戦末期に「十四か条の平和原則」を発表する。戦後、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟en:League of Nationsfr:Société des Nationsde:Völkerbundes:Sociedad de las Nacioneszh:國際聯盟ru:Лига Нацийar:عصبة الأممfa:جامعه مللtr:Milletler Cemiyeti)の創設に尽力する。
パリ講和会議の国際連盟委員会最終会合において、日本の牧野伸顕による人種的差別撤廃提案に対し、議長であるウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、日本代表・フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、3分の2を超える計11名の委員が賛成したにもかかわらず(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対又は保留)、ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、人種的差別撤廃提案の実現を阻む。
1857年生。米国の陸軍長官(1904年-1908年)、大統領(1909年-1913年)、最高裁判所長官(1921年-1930年)。1905年、桂太郎との間で桂・タフト協定en:Taft–Katsura agreementko:가쓰라-태프트 밀약)を結び、日本の大韓帝国ko:대한제국)に対する支配権と米国のフィリピンに対する支配権を相互に確認する。
1858年生。米国の大統領(1901年-1909年)。棍棒外交と呼ばれる西半球において積極的に介入する拡張政策を採る。パナマ運河建設に先立ち、1903年コロンビアからパナマ共和国を独立させる。日露戦争に際しては講和を斡旋し、ポーツマス条約を締結させ(1905年)、翌年ノーベル平和賞を受賞する(米国人初のノーベル賞受賞)。
大統領就任前(米西戦争en:Spanish–American Wares:Guerra hispano-estadounidensezh:美西战争)前)には、「キューバからスペインを追い出す」、「イギリスと戦争をしてカナダを征服する」と主張する[58]
1859年生。清末・中華民国初期の軍人・政治家。中華民国の第3代大総統。英米の支援を受ける直隷派軍閥(en:Zhili clique)を率いて、段祺瑞安徽派en:Anhui clique)、張作霖奉天派en:Fengtian clique)と政争を繰り広げる。
1859年生。フランスの外交官。第一次世界大戦開始時の駐ペテルブルク大使。露仏同盟を全面的に信奉する。オーストリア最後通牒への対応を検討するロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(ru:Сазонов, Сергей Дмитриевичen:Sergey Sazonov)に対し、フランスが同盟国としての諸義務を果たす決意にあると、勝手に保証する。[59]
1859年生。ドイツ帝国の皇帝。大英帝国女王ヴィクトリアの孫であり、1897年頃まではイギリスと協調的な外交姿勢をとる。オーストリア=ハンガリー、ルーマニア、イギリスとの関係を重視し、1890年の独露再保障条約の更新を拒絶し、1894年の露仏同盟の遠因を作る。1890年代後半からは海外植民地の獲得・拡大を目指す世界政策をとり、イギリス(建艦競争)・フランス(第一次モロッコ事件第二次モロッコ事件)との対立を深めていく。1914年のサラエヴォ事件(七月危機、 en:July Crisisde:Julikrisefr:Crise de juilletru:Июльский кризис)に際しては、オーストリア=ハンガリーを全面的に支援することを約束し、第一次世界大戦へと拡大する、オーストリア=ハンガリーの対セルビア宣戦布告を後押しする。
1859年生。米国の外交官。義和団の乱のどさくさに紛れて、列車数両分の美術品や陶器を国から略奪し、その一部はニューヨークのメトロポリタン美術館に保管されていると言われる[60]
1859年生。清末・中華民国初期の軍人・政治家・北洋軍閥の総帥。清の北洋通商大臣直隷総督・第2代内閣総理大臣・中華民国の第2代臨時大総統・初代大総統。諸外国から多額の借款を受け入れ、近代化資金を確保し、インフラ整備を行う。1915年12月12日から1916年3月22日のごく短期間、皇帝を名乗り、国号を「中華帝国」と改めるが、全く支持を得られなかった。

1861年から1870年に生誕した者

1862年生。フランスの外相・首相。1925年、ロカルノ条約を締結し、ルール占領の混乱を収拾する。1929年、アメリカの国務長官フランク・ケロッグパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)の締結に尽力する。
1862年生。イギリスの外相(1905年-1916年。イギリス外相の最長在任記録。)。1914年のサラエヴォ事件オーストリア最後通牒(七月危機、 en:July Crisisde:Julikrisefr:Crise de juilletru:Июльский кризис)に際して、独墺露仏の四大国による戦争を回避するため、仲裁・外交的解決を試みるが失敗に終わる(さらにドイツのロシアに対する宣戦布告(8月1日)により、四大国の開戦不可避となった後も、イギリスの中立のための条件を駐英ドイツ大使カール・マックス・フォン・リヒノフスキー(de:Karl Max von Lichnowsky)と交渉するが、これもドイツのベルギー侵攻により頓挫する。)[61]。この結果、オーストリアの対セルビア宣戦布告が第一次世界大戦に発展することとなる。
1862年生。イギリスの外交官。1915年から翌年にかけてメッカar:مكةen:Mecca)の太守であるフサイン・イブン・アリーar:الحسين بن علي شريف مكةen:Hussein bin Ali)とイギリスの駐エジプト高等弁務官であったマクマホンの間の書簡の中で、イギリスが対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束する(フサイン=マクマホン協定en:McMahon–Hussein Correspondence)。
1863年生。オーストリア=ハンガリー帝国の外交官・外相。1914年のサラエヴォ事件に際して、外相として対セルビア強硬策を取り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の全面的支援を取り付け、セルビア政府にオーストリア最後通牒を発し、対セルビア宣戦布告を主導し、これにより第一次世界大戦を惹起することとなる。
1863年生。イギリスの外務大臣(1924年-1929年)。1925年ロカルノ条約の締結に成功し、第一次世界大戦後の独仏間の利害調整、ドイツの国際連盟加盟を実現する。1930年代後半に独伊に対する宥和政策を取り、1938年にミュンヘン会談に参加したネヴィル・チェンバレンは異母弟である。
1864年生。イギリスの外交官。1907年ドイツ帝国をイギリスの仮想敵国と位置付ける最初の重要な公式文書であるクロウ・メモランダム("Memorandum on the Present State of British Relations with France and Germany")を作成する。この中で、イギリス外交が(1)本質的に地理環境に規定されること、(2)勢力均衡を求める伝統があること、(3)できるだけ他国に恩恵を与え、できるだけ他国を挑発しない伝統があることを指摘する[62]。クロウは、父がイギリス人、母がドイツ人で、ドイツで育ち、ドイツ人女性と結婚し、ドイツ文化を愛していたが、プロイセンがドイツ諸侯国を軍事的に支配していることに憤慨していた[63]
1865年生。清末及び1911年の辛亥革命後の軍閥が割拠する時代の中華民国の軍閥政治家(安徽派)・初代陸軍総長・国務総理。李鴻章に引き立てられ、1889年から2年間、ベルリンで軍事理論を学び、火砲の世界的メーカークルップで実習経験を積む[64]。辛亥革命直後は袁世凱に従い陸軍総長等を務めるが、袁の皇帝即位の目論見には反対する。1916年袁の死後、黎元洪が大総統に就任し、段は国務総理に就任する。段は安徽派を形成し、馮国璋直隷派を形成する。直隷派が英米の支援を受けるのに対し、段の安徽派は日本の支援を受け、1918年西原借款en:Nishihara Loans)を受け入れた。しかし、1920年安直戦争で安徽派は直隷派に敗れ、段は下野する。1924年の第二次奉直戦争奉天派張作霖直隷派を壊滅させると、1925年段は臨時執政に擁立されたが、影響力は限定的なものに止まった。
1866年生。1911年の辛亥革命後の1912年に成立した南京の中華民国の臨時大総統、中国国民党総理。1878年(米国の傀儡国家になる前の)ハワイ王国(1795年-1893年)に移住する。1905年汪兆銘らと東京で中国革命同盟会(のちに中国同盟会と改称)を設立。辛亥革命後、アメリカから中国に戻り、1912年1月1日中華民国を設立し、臨時大総統となる。しかし、同年2月12日に袁世凱に臨時大総統の地位を譲る。1917年のロシア革命後「連ソ容共・労農扶助」と方針転換する。1922年のコミンテルンru:Коммунистический интернационалen:Communist Internationalzh:第三国际)極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年ソ連のアドリフ・ヨッフェと、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援・ソ連との連帯を明らかにする「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表し、第一次国共合作を成立させる。
1868年生。フランスの外交官。駐日大使(1921年-1927年)、駐米大使(1927年-1933年)。外交官のかたわら劇作家詩人としても活動する。
1870年生。フランスの外交官。イギリス人の中東学者マーク・サイクスとともに、英仏露によるオスマン帝国領の分割を約束したサイクス・ピコ協定en:Sykes–Picot Agreement)の原案を作成する。

1871年から1880年に生誕した者

1871年生。米国の国務長官(1933年-1944年)。日米開戦直前に最後通牒ともいえるハル・ノートを提示する。国際連合en:United Nationsfr:Organisation des Nations uniesde:Vereinte Nationenes:Organización de las Naciones Unidaszh:联合国ru:Организация Объединённых Нацийar:الأمم المتحدةfa:سازمان ملل متحد)の発案者である。11年9か月に及ぶ国務長官在任期間は米国史上最長である。
1872年生(女性)。ロシア帝国の革命家、ソビエト連邦の外交官。世界初の女性大使。21歳で結婚し、子供も持つがマルクス主義に傾倒し、1898年、家庭を捨て、チューリッヒ大学でマルクス主義研究に入る。1919年、ヨーロッパ初の女性閣僚(人民委員)に就任、1923年、駐ノルウェー大使(世界初の女性大使)、駐メキシコ大使、駐スウェーデン大使。
1872年生。ソビエト連邦の外務人民委員・外務大臣(1918年-1930年)。1918年ブレスト=リトフスク条約に調印。1922年、ソ連全権としてジェノア会議に出席し、その間にドイツ外相ヴァルター・ラーテナウと、相互に領土・金銭要求を放棄するラパロ条約を電撃的に締結する。その後、ヴェルサイユ条約違反となる、ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める独ソ秘密軍事協定が締結される。
1874年生。米国の商務長官(1921年-1928年)、大統領(1929年-1933年)。大統領在任中の1929年10月24日、ニュー・ヨークウォール街株式市場の大暴落が起こり(暗黒の木曜日)、世界恐慌に突入した際、スムート・ホーリー法に基づき米国の関税を記録的な高さに引き上げ、保護貿易政策をとる。これに対し、多くの国が報復関税を課し、世界恐慌がより深刻なものとなる。
1874年生。イギリスの海軍大臣・首相。米国人の母を持ち、フランクリン・ルーズベルト米国大統領に粘り強く、ドイツ戦への参加を働きかけ、1941年8月大西洋憲章を締結。1945年2月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンヤルタ会談を行い、英米仏ソによるドイツの分割占領、ソ連の対日参戦、国際連合構想などを合意する。帝国主義的・人種差別的な思想傾向を持つ。
第二次世界大戦en:World War IIfr:Seconde Guerre mondialede:Zweiter Weltkriegzh:第二次世界大战)による英国の没落について、テヘラン会談(1943年)の際に、「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らす。
1945年7月1日、米国(ハリー・S・トルーマン大統領)が日本に対して原爆使用することに最終同意する。米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないことを定めた1943年8月の米英間のケベック協定en:Quebec Agreement)に基づく[65]
回顧録において、「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と記す。
1946年「鉄のカーテン」演説によりソ連の脅威を訴え、米国の政策に多大な影響を及ぼす。
1875年生。1911年の辛亥革命後の軍閥が割拠する時代の中華民国の軍閥政治家(奉天派)・大元帥。1922年の第一次奉直戦争では、英米に支援された直隷派呉佩孚)に敗れるが、1924年の第二次奉直戦争直隷派を壊滅させ、1925年段祺瑞を臨時執政に擁立する。当時国民党国民革命軍)はソ連コミンテルン)の強い影響下にあったため(第一次国共合作)、日英米は揃って張を支持し、1926年12月張は北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言する。しかし、1927年の南京事件上海クーデターを経て、蒋介石が共産主義者への弾圧を開始すると、英米は国民党の支援に転じ、1928年張は国民革命軍との戦争(北伐)に敗れ、北京を脱出する。その後奉天に向かう途中列車ごと爆殺される(張作霖爆殺事件)。張学良の父。
1876年生。ソビエト連邦の外交官・駐英代表・外務人民委員(外務大臣)・駐米大使。外相として、従来の善隣外交と革命輸出という二元外交から、ソ連と資本主義諸国との平和的共存に方針を転換し、米ソ国交回復(1933年)、常任理事国としての国際連盟加盟(1934年)、仏ソ相互援助条約締結(1935年)、チェコスロバキア=ソ連相互援助条約締結(1935年)を実現する。ミュンヘン会談(1938年)により英仏への猜疑心を募らせたスターリンは、リトヴィノフを外相から解任し、独ソ不可侵条約を締結する(1939年8月23日)。しかし、独ソ戦(1941年6月22日)が始まるとリトヴィノフは外務次官に復帰し、イギリスとの関係修復に努める。
1876年生。イギリスの外交官。国際連盟の初代事務総長(1920年-1933年)。このとき"Bushido: The Soul of Japan"(『武士道』)の著者として有名な新渡戸稲造が国際連盟事務次長に就任している(1920年-1926年)。満州事変に際しリットン調査団を派遣する。
1876年生。インド・ムスリム連盟の指導者、独立パキスタンur:پاکستانen:Pakistanzh:巴基斯坦)の初代総督。1947年6月、ムスリム連盟の要求に従い、インド総督ルイス・マウントバッテンインド・パキスタン分離独立案を発表し、8月にイギリス国王国家元首に頂く独立君主制国家パキスタン(現在のバングラデシュを含む)が成立し、ジンナーはその総督に就任する。
1877年生。ドイツの外交官。1904年ドイツ帝国外務省入省。駐神戸総領事・駐東京参事官・駐南京公使。1937年11月から1938年1月16日までの期間に日本と中華民国国民政府間の和平交渉を仲介する(トラウトマン和平工作)。
1878年生。ドイツの外相・首相。1924年、ドーズ案による賠償金の減額に成功する。1925年ロカルノ条約を締結し、第一次世界大戦後の独仏間の対立を収拾し、ドイツの常任理事国としての国際連盟加盟を実現する。同年、フランスのブリアン外相とともにノーベル平和賞を受賞する。ヴェルサイユ条約改正論者でありオーストリア併合を含むドイツ東部国境の見直しを目指していた。
1879年生。フランスの財務官僚。1916年駐英大使館勤務し金融問題を担当。1922年国際連盟の財務官として財政改革に取り組む。国際連盟事務総長(1933年-1940年)として日本の連盟脱退、第二次エチオピア戦争、ドイツによるアンシュルス(オーストリア併合)、ポーランド侵攻等の困難な問題に次々と直面する。1940年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、アヴェノルは連盟のイギリス人職員を解雇し、ヴィシー政権首班となったフィリップ・ペタンに忠誠を宣誓する書簡を送る。
1879年生。1917年、ウラジーミル・レーニンen:Vladimir Leninzh:弗拉基米尔·伊里奇·列宁)とともにロシア十月革命を主導し、ロシア共和国外務人民委員として、第1次世界大戦のドイツ帝国との講和交渉を担当し、1918年のブレスト=リトフスク条約締結に関わる。1924年のレーニンの死後、閑職に追われ、1929年にソビエト連邦から国外追放される。
1880年生。米国の軍人。1905年駐日米国大使館付武官副官。GHQの最高責任者である連合国軍最高司令官(en:SCAP)を務め、占領下の日本に重要な指導力を発揮する。陸軍元帥。
1880年生。米国の外交官。日米開戦時の駐日大使であり、開戦回避に努めた。

1881年から1890年に生誕した者

1881年生。、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領。第一次世界大戦中の1918年10月30日、オスマン帝国と連合国の間でムドロス休戦協定が成立したが、1919年、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の前身となるアンカラ政府を樹立し、二重政府状態が出現する。
1920年8月10日、オスマン帝国(イスタンブール政府)は連合国とセーヴル条約を締結したが、アンカラ政府はこれに反対し、1921年、ウラジーミル・レーニン指導下のボリシェビキ政府と友好条約(モスクワ条約)を締結する。
1922年10月のローザンヌ講和会議には、オスマン帝国政府とアンカラ政府の双方が招聘されたが、同年11月オスマン皇族を全て国外退去させ、二重政府状態を解消し、翌1923年7月アンカラ政府が連合国とローザンヌ条約を締結する。
1923年10月23日、共和制を宣言し、ムスタファ・ケマルが初代大統領に就任し、以降、脱イスラム国家化を進める。
1882年生。イランパフラヴィー朝(1925年-1979年、fa:دودمان پهلویen:Pahlavi dynasty)の首相。1951年民主的選挙により首相に選出、石油国有化法を成立させ、アングロ・イラニアン石油会社(en:Anglo-Persian Oil Company)から利権を取り戻し、石油産業の国有化を実行する。国際石油資本(メジャー)の報復によるイラン産石油の国際市場から閉め出し、米国中央情報局(CIA、 en:Central Intelligence Agency)と英国秘密情報部(SIS、 en:Secret Intelligence Service)による秘密工作により、1953年モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝(パーレビ国王)派クーデターが起こり、モサッデクは逮捕され、失脚する。
1883年生。中華民国の外交部長、南京国民政府(汪兆銘政権)の主席。1905年孫文らと東京で中国革命同盟会(のち中国同盟会に改称)を設立。1912年中華民国の成立宣言を起草。1933年塘沽停戦協定の締結に関わる。日中戦争が始まると、徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆被害・共産化を憂慮する和平グループの中心的存在となり、1938年重慶を脱出、1940年南京国民政府(汪兆銘政権)を設立する。1943年大東亜会議に出席する。
1883年生。イギリスの経済学者・官僚。1906年インド省(en:India Office)入省、1915年大蔵省入省。1919年パリ講和会議に大蔵省主席代表として参加し、対独賠償要求に反対して辞任し、「平和の経済的帰結」("en:The Economic Consequences of the Peace")を発表。1936年「雇用・利子および貨幣の一般理論」("en:The General Theory of Employment, Interest and Money")を発表。
1883年生。ソビエト連邦の外交官。1917年ドイツ帝国等の中央同盟国との休戦協定に署名する。1923年孫文に対しソ連が中国国民党を支援する孫文・ヨッフェ共同宣言を発表する。
1886年生。フランスの首相(閣僚評議会議長)・外務大臣。1950年、独仏間の緊張の主な原因を取り除くことを求め、ジャン・モネの計画(『モネ・プラン』)を採用して、ドイツに石炭と鉄鋼業を共同で運営することを要請した(『シューマン宣言』)。この要請が欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の基礎になり、その後欧州連合(EU、en:European Unionfr:Union européennede:Europäische Uniones:Unión Europearu:Европейский союзzh:欧洲联盟tr:Avrupa Birliğiar:الاتحاد الأوروبيfa:اتحادیه اروپا)に発展した。ジャン・モネらとともに欧州連合の父と称される。
1886年生。イギリスの外交官。オックスフォード大学ベリオール校卒業後、イギリス外務省に入省、1929年まで勤務。
パリ講和会議にイギリス代表団の一員として参加。ウッドロウ・ウィルソンen:Woodrow Wilsonzh:伍德罗·威尔逊)米国大統領の頑迷・横柄な交渉態度に絶望的に批判的評価を示す。
『外交』("Diplomacy")(斎藤真・深谷満雄訳、東京大学出版会, 1965年/UP選書, 1968年)において、公開外交や外交の民主化によって世論の影響力が強まる状況にあって、外交の立法的側面(政策決定)と執行的側面(交渉)を区別し、後者を専門家に任せる必要を説く。
"Peacemaking 1919"(revised edition, Constable, 1943)において、パリ講和会議の交渉における外交の民主化の問題点を「自国民の民意の興奮状態での期待感と、永続的な平和構築へ向けての冷静な考慮を調和させることは困難である。」と指摘。
1888年生。中華民国初期の外交官・国民党政府政治家袁世凱の下で外交部参事を務め、以後、外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議ワシントン会議の各中華民国全権代表などの要職を歴任。1931年国民党政府に参加し、以降外交部長、駐仏大使、駐英大使、駐米大使を歴任。国際司法裁判所判事(1957年-1967年)。
1888年生。米国の国務長官(1953年-1959年)。封じ込めen:Containment)政策から巻き返しen:Rollback)政策への転換を主導する。北大西洋条約機構(NATO、1949年)、太平洋安全保障条約(ANZUS、1951年)、日米安全保障条約(1951年)、東南アジア条約機構(SEATO、1954年)、中央条約機構(CENTO、1955年)の設立に尽力する。ミサイル・ギャップ論争がなされていた1958年、米国はソ連の攻撃を抑止をするに「十分な軍事力」を持つ限り、ソ連に対してあらゆる分野でいつも優位である必要はなく、米国に必要なのは「尊敬される軍事力」であって、「世界最大の軍事力」ではない、と主張する[66]。CIA長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは実弟。
1888年生。アイルランドの外交官。1923年外務省入省。国際連盟の最後の事務総長を務める(1940年8月31日-1946年4月18日)。アイルランド最高裁判所長官。
1889年生。ソビエト連邦の外交官。1919年外務人民委員代理として中華民国が清から継承した不平等条約の即時・無条件撤廃を表明し(カラハン宣言)、中国での共産主義への支持を広げる。1925年駐華大使であるときに、日本の芳澤謙吉日ソ基本条約を締結する。
1889年生。ドイツの軍人・外交官。駐東京ドイツ大使館付武官・駐日大使。ドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、日本の政界に知人が多く日本の政治などに関して豊富な知識を持つナチス党員のリヒャルト・ゾルゲを顧問としていたが、1941年10月にゾルゲはソ連のスパイであることが発覚する(ゾルゲ事件)。
1889年生。1947年に独立したインドの初代首相兼外務大臣(1947年-1964年)。インド国民会議議長。日露戦争での日本の勝利について「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」(『父が子に語る世界史』)と記す。
インド国民会議派の幹部としてマハトマ・ガンディースバス・チャンドラ・ボース等とイギリスからの独立運動を指導する。
独立後、「非同盟・中立」外交を推進し、1954年周恩来と「平和五原則」を発表し、翌1955年には第三世界の中心的存在として、周恩来、インドネシア大統領のスカルノエジプト大統領のナセルと共にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催し、反帝国主義・反植民地主義を謳い、「平和十原則」を発表した。
1890年生。ソビエト連邦外務人民委員・外相。ヨシフ・スターリンen:Joseph Stalinzh:约瑟夫·维萨里奥诺维奇·斯大林)の片腕として活動。、1939年独ソ不可侵条約en:Molotov–Ribbentrop Pactzh:苏德互不侵犯条约)調印。1941年日ソ中立条約en:Soviet–Japanese Neutrality Pact)調印。戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。
1890年生。米国の軍人、大統領(1953年-1961年)。第二次世界大戦における連合国遠征軍最高司令官en:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、SCAEF)、陸軍参謀総長・陸軍元帥、NATO軍最高司令官(欧州連合軍最高司令官)。冷戦が長期に及ぶ前提の下、過大な国防予算が米国の兵営国家化、財政破綻を招くことを懸念し、通常戦力の削減により財政均衡を図る一方、大量報復戦略(en:Massive retaliation strategy)に基づく核軍拡を実施する[67]
1956年、第二次中東戦争(スエズ動乱)に際し、ソ連のニコライ・ブルガーニンが英・仏・イスラエルへの核兵器使用の可能性を示唆したのに続き、アイゼンハワーが英仏に対し米国による安全保障をあてにしてはいけないと明言し、両国を愕然とさせる[68]
1890年生。フランス第五共和政の初代大統領(1959年-1969年)。ド・ゴール主義fr:Gaullismeen:Gaullism)と呼ばれる、西ドイツ共産主義諸国との協力を進め、米英と距離を置く独自外交路線を取る。
1960年2月原爆実験に成功し、米ソ英に次ぐ核保有国となり、1963年の部分的核実験禁止条約に加盟せず、以降も核実験を繰り返す。
1966年北大西洋条約機構(NATO)の軍事機構から脱退し、イギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟を拒否する。

1891年から1900年に生誕した者

1891年生。中華民国の思想家・外交官・駐米大使(1938年-1942年)・北京大学学長。台湾政府外交部顧問。1917年陳独秀の依頼に基づき、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」を寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱。1935年「日本切腹中国介錯論」を発表し、中国が日本に負け続けたとしても持久戦になった場合には、米ソ両国と衝突する日本が自壊することを予想する。
1892年生。ドイツの外交官・外相。非公式の外交機関リッベントロップ事務所に所属し、1936年の日独防共協定締結に関わる。外相として1940年の日独伊三国軍事同盟の締結に関わる。1941年駐南京国民政府汪兆銘政権特命全権大使。1943年から駐日ドイツ大使。
1892年生。イギリスの外交官・歴史学者・政治学者。1916年から1936年までイギリス外務省勤務。1939年『危機の二十年』("The Twenty Years' Crisis 1919-1939")、1961年『歴史とは何か』("What is History?")等の著作多数。
1892年生。米国の外交官、国務次官(1937年-1943年)。フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問であった法学者ハンス・ケルゼン、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルとともに、1941年大西洋憲章を起草する[69]
1893年生。米国の外交官・中央情報局(CIA)長官(1953年-1961年)。1945年、OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局、CIAの前身)のスイスベルン支局長として、日本と降伏条件の交渉を行う。CIA長官として、イランアーバーダーン危機に対するモハンマド・モサッデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、1953年 en:Operation Ajax)やグアテマラハコボ・アルベンス・グスマン政権転覆作戦(PBSUCCESS作戦、1954年)を指揮し、ピッグズ湾侵攻計画を策定した。国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスは実兄。
1893年生。米国の国務次官・国務長官。経済担当国務次官補として1944年戦後国際金融秩序を構想するブレトン・ウッズ会議に出席する。国務次官として、トルーマン・ドクトリンマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たす。国務長官として、共産主義の封じ込め政策を継続し、北大西洋条約機構en:North Atlantic Treaty Organization(NATO)fr:Organisation du traité de l'Atlantique nord(OTAN))の結成に尽力する。
1893年生。ナチス・ドイツen:Nazi Germanyzh:納粹德國)の非公式の外交特使・駐英大使・外務大臣。以下の各条約に調印し、アドルフ・ヒトラーde:Adolf Hitlerzh:阿道夫·希特勒)政権の外交政策を推進。
1935年英独海軍協定(de:Deutsch-britisches Flottenabkommenen:Anglo-German Naval Agreement
1936年日独防共協定de:Antikominternpakten:Anti-Comintern Pact
1939年独ソ不可侵条約de:Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakten:Molotov–Ribbentrop Pact
1940年日独伊三国軍事同盟de:Dreimächtepakten:Tripartite Pact
1894年生。ソ連の第4代最高指導者(1953年-1964年)。ウクライナ人。1954年、クリミア半島をロシアからウクライナに移管する。1956年スターリン批判を行うとともに、米国、フランスなどの資本主義諸国と平和共存外交を進める。1956年日ソ共同宣言に先立ち、平和条約締結後に歯舞・色丹を引き渡すことに合意し、1959年ソ連の指導者として初めて米国を訪問する(雪融け、en:Khrushchev Thaw)。しかし、1962年キューバに核ミサイルを配備することを企図し、キューバ危機を引き起こす。
1896年生。ノルウェー出身。初代国際連合事務総長(1946年-1952年)。
1898年生。中華人民共和国zh:中华人民共和国・Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó、 en:People's Republic of Chinafr:République populaire de Chinede:Volksrepublik Chinaes:República Popular Chinaru:Китайская Народная Республикаar:جمهورية الصين الشعبيةfa:جمهوری خلق چینtr:Çin Halk Cumhuriyeti)の初代国務院総理(首相)・初代外交部部長。
1936年12月の西安事件に際して、中国国民党の蒋介石を説得し、中国共産党との一致抗日に方針転換させる。
1954年のジュネーヴ会議第一次インドシナ戦争休戦の実現に尽力。同時に、インドジャワハルラール・ネルー首相と平和五原則を発表。翌1955年インドネシアアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で平和十原則を発表。毛沢東zh:毛泽东en:Mao Zedong共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命zh:文化大革命en:Cultural Revolution)中も失脚しなかった。1972年田中角栄首相と日中共同声明zh:中日聯合聲明)に調印。
1900年生。米国の国連大使、1962年キューバ危機en:Cuban Missile Crisis)に際して国連大使として、外交的に手段による解決を主張するとともに、国際連合安全保障理事会en:United Nations Security Council)で、ソ連の国連大使ワレリアン・ゾリンru:Зорин, Валериан Александровичen:Valerian Zorin)と論争し、キューバのミサイル配備を世界中に知らしめることに成功する。映画『13デイズ』(2001年、監督ロジャー・ドナルドソン、主演ケビン・コスナー)の中でスティーブンソンの活躍が好意的に描写されている。
1900年生。イギリスの外交官。テヘラン会談ヤルタ会談ポツダム会談など多数の国際会議に出席する。1945年8月に国際連合設立準備委員会事務局長となり、同年10月事務総長代行を務める。国際連合顧問・国連大使・駐仏大使。

1901年から1920年に生誕した者

1903年生。ベネズエラの外交官、開発相(1945年‐1948年)、鉱山・炭化水素相(1959年-1963年)。資源ナショナリズムが高揚する中、1959年のアラブ連盟第1回アラブ石油会議に招待された際、石油メジャーに対抗するため、南米と中東の石油産油国を団結させる協定の構想を示し、1960年の石油輸出国機構(OPEC)設立を実現させる。OPECの父と言われる。
1904年生。米国の外交官。1940年代から1950年代末にかけての米国の外交政策立案者で、ソ連封じ込めを柱とするアメリカの冷戦政策を計画する。"American Diplomacy, 1900-1950", (University of Chicago Press, 1951)(近藤晋一・飯田藤次訳『アメリカ外交50年』(岩波書店, 1952年))著。
1904年生。米国の外交官・政治学者。第一次中東戦争(1948年-1949年)での調停(en:1949 Armistice Agreements)の功績が認められ、1950年、黒人として初めてノーベル賞(平和賞)を受賞する。国際連合の創設・発展にも尽力する。
第一次中東戦争は、国際連合によるパレスチナ分割決議パレスチナのアラブ人及びアラブ諸国が拒絶したことに起因する。
1904年生。中国共産党中央軍事委員会主席・事実上の最高指導者。1978年日中平和友好条約の批准のため来日。1984年香港の返還に関する合意書に英国のマーガレット・サッチャーen:Margaret Thatcherzh:玛格丽特·撒切尔)首相と調印。1992年南巡講話を発表し、「韜光養晦」(とうこうようかい)の大方針の下、「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付、有所作為(冷静に観察し、足場を固め、落ち着いて対処し、できることをやる。)」の姿勢で、中国の改革開放路線を推進し、経済成長に専念しつつ、国際場裏では自国の主張を強く押し出さないように控えめな外交姿勢をとる[70]
1905年生。スウェーデンの外交官・大蔵官僚。大蔵次官・スウェーデン銀行総裁・外務次官。第2代国際連合事務総長(1953年-1961年)。1956年第二次中東戦争(スエズ戦争)に際して第一次国際連合緊急軍(スエズ国連軍)を組織する。
1906年生。ソ連の外交官。1942年から駐日大使を務め、終戦直前の1945年6月には、広田弘毅首相から非公式での終戦斡旋の相談を受ける。しかし、同年8月には日本政府に最後通牒、後に宣戦布告文書を手交する。戦後、駐英大使として松本俊一全権代表と日ソ国交回復交渉を行う。
1907年生。ソ連の第5代最高指導者(1964年‐1982年)。1968年チェコスロバキアのプラハの春と呼ばれる改革運動に対しワルシャワ条約機構軍を投入し、弾圧する(「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論))。1972年、米国と戦略兵器制限条約(SALT I)に調印し、デタント(緊張緩和)をもたらす。しかし、1979年アフガニスタン侵攻を実施する。
1908年生。米国の大統領(1963年11月22日-1969年)。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に伴い副大統領から大統領に就任する。1964年のトンキン湾事件を契機にベトナム戦争(1955年-1975年)に本格的に介入し、北爆・地上軍投入を開始するも泥沼化させる。これにより、米国における大幅な財政赤字の派生、インフレの昂進、ドルの海外流出、経済競争力の低下を惹起する[71]
1909年生。イギリス領インド帝国ビルマ(現ミャンマー)出身。第3代国際連合事務総長(1961年-1971年)。国連総会において、1963年に人種差別撤廃宣言を採択し、1965年に人種差別撤廃条約を採択する。
人種差別撤廃条約の正式名称は『あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約』である。
en:International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination
fr:Convention internationale sur l'élimination de toutes les formes de discrimination raciale
de:Internationales Übereinkommen zur Beseitigung jeder Form von Rassendiskriminierung
es:Convención Internacional sobre la Eliminación de todas las Formas de Discriminación Racial
pt:Convenção internacional sobre a eliminação de todas as formas de discriminação racial
ru:Международная конвенция о ликвидации всех форм расовой дискриминации
ar:الاتفاقية الدولية للقضاء على جميع أشكال التمييز العنصري
fa:معاهده بین‌المللی محو همه اشکال تبعیض نژادی
tr:Her Türlü Irk Ayrımcılığının Ortadan Kaldırılmasına İlişkin Uluslararası Sözleşme
zh:消除一切形式种族歧视国际公约
ko:모든 형태의 인종차별 철폐에 관한 국제협약
vi:Công ước quốc tế về xóa bỏ mọi hình thức phân biệt chủng tộc
ta:அனைத்துவகை இனத்துவ பாகுப்பாட்டையும் ஒழிப்பதற்கான அனைத்துலக உடன்படிக்கை
he:האמנה בדבר ביעור כל צורות האפליה הגזעית
1909年生。米国の外交官。ケネディ及びジョンソン政権で国務長官(1961年-1969年)を務めた。朝鮮半島の分断線を北緯38度(38度線)と決定したのはラスクであるといわれている。1962年のキューバ危機en:Cuban Missile Crisis)ではエクスコムのメンバーとして危機に対応する。
1909年生。ソビエト連邦の外交官。28年間外務大臣を務める(1957年-1985年)。駐英大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側の代表となる。ブレジネフ書記長時代のデタント(緊張緩和)を実現するが、1979年のアフガニスタン侵攻によってデタントの終焉を招く。
1913年生。米国の副大統領(1953年-1961年)、大統領(1969年-1974年8月9日)。外交においてヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官(その後、国務長官)を重用する。
1969年11月、佐藤栄作首相と1972年の沖縄返還を合意する。
1971年7月、翌年の中華人民共和国訪問を発表する(第1次ニクソン・ショック)。
1971年8月、ドルと金の交換停止を発表する(第2次ニクソン・ショック、ドル・ショック)。
1972年5月、ソ連のブレジネフ書記長と第一次戦略兵器制限条約(SALT I)と弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)に調印する。
1973年1月、パリでベトナム和平協定に調印する。
1913年生。西ベルリン市長、西ドイツ外務大臣・首相。1961年西ベルリン市長としてベルリンの壁建設に対応。西ドイツ首相として東ドイツソビエト連邦を始めとする共産主義諸国との関係改善を進める「東方外交」を展開し、1969年に核拡散防止条約en:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)に調印、1970年に初の東西ドイツ首脳会談を実現、西ドイツとソ連との国境不可侵と武力不行使を誓うモスクワ条約を調印、ポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を調印、1971年の米英仏ソのベルリン4ヶ国協定の締結につなげる。社会主義インターナショナルen:Socialist Internationalru:Социалистический интернационалzh:社會黨國際)議長(1976年-1992年)。
1914年生。イラク共和国の初代首相(1958年-1963年)。1960年、石油輸出国機構(OPEC、en:Organization of the Petroleum Exporting Countries)の創設を呼びかけ、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国によりバグダードで同機構を設立する。その後、OPECには、カタール、リビア、アラブ首長国連邦(UAE)、インドネシア等が加盟する。
OPEC加盟国のうち中東6カ国及びアラブ石油輸出国機構(OAPEC、en:Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)は、1973年第四次中東戦争が勃発すると、原油価格の引き上げを実施し、日本を含む先進工業国にオイルショックと呼ばれる混乱を引き起こす。
1918年生。エジプト共和国の大統領・首相、アラブ連合共和国の初代大統領兼首相。1952年ムハンマド・ナギーブとともにクーデターを起こし、国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握、翌1953年エジプト共和国を建国する。汎アラブ主義の政策をとり、1956年スエズ運河の国有化に成功し、1958年にはシリアと合邦してアラブ連合共和国を建国し、初代大統領兼首相に就任する。
汎アラブ主義は、アラブ独自の民族主義社会主義が融合したものであり、バアス党(アラブ社会主義復興党)、リビアのムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)、イラクのサッダーム・フセインなどに影響を与える。
1918年生。1945年オーストリア外務省入省。外交官・連邦外務大臣、第4代国際連合事務総長(1972年-1981年)、第6代オーストリア大統領(1986年-1992年)。
1918年生。アラブ連合共和国の第2代大統領(1970年-1971年)、エジプト・アラブ共和国の大統領(1971年-1981年)。1972年、シリアリビアアラブ共和国連邦を結成する。1973年、シリアと共同でイスラエルに対し開戦し第四次中東戦争en:Yom Kippur Warar:حرب أكتوبر)を起こす。その後、外交路線を転換し、1978年、米国のジミー・カーター大統領の仲介のもと、イスラエルのメナヘム・ベギン首相との間でキャンプ・デービッド合意を成立させ(同年、サーダートとベギンはノーベル平和賞受賞)、1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、アラブ国家として初めてイスラエルを国家承認する。
1920年生。ペルーの外交官、首相兼外務大臣。第5代国際連合事務総長(1982年-1991年)。

1921年から1940年に生誕した者

1921年生。米国の国防総省総合評価局局長(初代、1973年-2015年)。超長期の安全保障戦略の立案を担当する。冷戦を勝利に導く立役者となるとともに、ソ連が崩壊した1991年頃にはいち早く中国との覇権争いを予測する[72]。晩年、ハイテクの拡散により米軍が世界で死守してきた優位が、中国などに崩されてしまうことを懸念する[73]
1922年生。イスラエルhe:ישראלen:Israelzh:以色列)の参謀総長、駐米大使、首相(1974年-1977年、1992年-1995年)。パレスチナ問題についてアラブ側との和平を進め、1993年にオスロ合意en:Oslo I Accord)に調印し、1994年にはヨルダンとの平和条約(en:Israel–Jordan peace treaty)に調印する。ラビンのこの功績によりヤーセル・アラファトパレスチナ解放機構議長、シモン・ペレスイスラエル外相と共にノーベル平和賞を受賞する。
1922年生。エジプトの国際法学者、外交官、第6代国際連合事務総長(1992年-1996年)。
1923年生。米国のニクソン政権・フォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官(1969年-1975年)、国務長官(1973年-1977年)。1971年、ニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問。周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。米中和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。岡崎久彦監訳『外交(上・下)』(日本経済新聞社, 1996年)、伏見威蕃訳『国際秩序』(日本経済新聞社, 2016年)の著者。
1926年生。韓国の初代中央情報部(KCIA)部長(1961年-1963年)、国務総理(1971年-1975年、1998年-2000年)。大日本帝国時代の忠清南道出身。1961年、朴正煕(パク・チョンヒ)と5・16軍事クーデターを主導する。交戦当事国ではなかった韓国の対日請求について、1962年、日本の大平正芳外相と「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意し(金・大平メモ)、1965年の日韓基本条約締結に尽力する。
1928年生。アルゼンチン生まれの革命家、キューバのゲリラ指導者。裕福な家庭で育ち、ブエノスアイレス大学医学部を卒業し、医師免許を取得。1956年メキシコ亡命中のフィデル・カストロと出会い、従軍医として反独裁闘争に参加し、1959年キューバ革命に成功、キューバの国立銀行総裁に就任、通商使節団を連れてアジア・アフリカ歴訪の一環で来日し、広島の原爆資料館を訪問する。1960年石油関連産業を接収、国有化する。1964年国際連合総会でキューバ主席として演説する。1965年以降国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れ、1967年ボリビアで捕らえられ、処刑される。
1928年生。ソビエト連邦の外務大臣(1985年-1990年)。ミハイル・ゴルバチョフru:Горбачёв, Михаил Сергеевичen:Mikhail Gorbachevzh:米哈伊尔·谢尔盖耶维奇·戈尔巴乔夫)書記長の新思考外交を推進する。グルジア大統領(1995年-2003年)。
1928年生。米国カーター政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官(1977年-1981年)。ポーランドワルシャワで出生。外交官であった父のカナダ赴任に伴い、1938年にカナダに移住。1939年のナチス・ドイツポーランド侵攻により帰国できなくなる。そのままカナダで成長し、マギル大学で学部と大学院修士課程を修了し、ハーバード大学大学院で博士号を取得する。大統領補佐官として1979年のイランアメリカ大使館人質事件に対応する。
1930年生。米国の国務長官(1989年-1992年)。1991年、「アジア太平洋地域における米国の利益は、商業的なアクセスを保全し、米国とその同盟国に対して敵対的な覇権国あるいは国家連合の台頭を阻止することにある。」と表明する[74]
1931年生。ソビエト連邦共産党書記長(1985年-1991年)・最初で最後の大統領(1990年-1991年12月25日)。内政ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し、外交では新思考外交に基づき東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させる。1987年米国大統領ロナルド・レーガン中距離核戦力全廃条約を締結する。
ソ連の崩壊により独立したウクライナカザフスタンベラルーシは、自国領土に配備された核兵器をロシアに引き渡す代わりに、西側からの経済支援と体制保証を受けた(ナン・ルーガープログラム、en:Nunn–Lugar Cooperative Threat Reduction Program)[75]
1937年生。米国の国際政治学者、国務副次官(1977年-1979年)、国家情報会議議長(1993年-1994年)、国防次官補(1994年-1995年)。2007年、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)においてリチャード・アーミテージと連名で「第二次アーミテージ・レポート」(正式名称:"The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020")を発表し、日米同盟を英米同盟のような緊密な関係へと変化させ、東アジア地域の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることを提言する。
2018年10月26日、東京都内のシンポジウムにおいて「米国と中国とは、協力と競争の両方の関係がある。米中は安全保障や貿易で対立するが、気候変動や国際的な金融制度の安定では協力が必要だ。米中冷戦と言ってしまうと意味のある政策が機能しなくなる。」、「もし北朝鮮の非核化ではなく、核施設の廃棄の見返りとして朝鮮半島の終戦宣言を出すようなことがあれば間違いだ。」と発言する[76]
1937年生。米国の軍人・国家安全保障問題担当大統領補佐官(1987年-1989年)・統合参謀本部議長(1989年-1993年)、国務長官(2001年-2005年)。アフリカ系アメリカ人初の国務長官。陸軍大将。1996年の大統領選挙に際して、世論調査では幅広い層からの圧倒的な支持があったが、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対もあり出馬しなかった。
1937年生。イラク共和国の大統領(1979年-2003年)。
1980年、イラン・イラク戦争(1980年-1988年、en:Iran–Iraq War)を開始し、イランの「イスラム革命の波及」を恐れる欧米、ソ連、中国、湾岸アラブ諸国の支援を取り付け、終戦までに世界第4位の軍事大国と呼ばれるほどの力をつける。
1990年、クウェートに侵攻し、湾岸戦争en:Gulf War)を引き起こす。
2003年、米国が開始したイラク戦争en:Iraq War)に敗北し、逮捕され、失脚する。
イラクの首都バグダードは、アッバース朝(750年-1517年、ar:الدولة العباسيةen:Abbasid Caliphatezh:阿拔斯王朝)の都として栄え、ギリシャペルシャインドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響を与えた。
1937年生。ノルウェーの政治家。防衛大臣・外務大臣。1993年のイスラエルパレスチナ解放機構(PLO)の間のオスロ合意パレスチナ暫定自治協定、en:Oslo I Accordar:اتفاقية أوسلو)の仲介に中心的な役割を果たす。
1938年生。ガーナ出身。1962年世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国際連合に勤務。国連職員から初めて事務総長に選任される(第7代国際連合事務総長、1997年-2006年)。
1940年生。の政治学者ハーバード大学ケネディ行政大学院の初代院長。第一期クリントン政権の政策担当国防次官補。主著、"Essence of Decision: Explaining the Cuban Missile Crisis", (Little, Brown, 1971)、邦訳 『決定の本質-キューバ・ミサイル危機の分析』(宮里政玄訳、中央公論社、1977年)、"Destined for War: Can America and China Escape Thucydides’s Trap?", (Houghton Mifflin Harcour, 2017),邦訳 『米中戦争前夜』(藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017年)。
1940年生。米国の中央情報局(CIA、 en:Central Intelligence Agency)工作員。1979年のイランアメリカ大使館人質事件の際に、人質になることを免れてカナダ大使公邸等に避難した6名の米国外交官を、映画制作隊に偽装させてイラン国外へ出国させ救出する(カナダの策謀en:Canadian Caper)。その活躍は『アルゴ』(2012年、ベン・アフレック監督・主演、第85回アカデミー賞作品賞受賞)として映画化される。

1941年から1945年に生誕した者

1942年生。リビアの軍人、革命家、最高指導者。1969年クーデターを起こし、革命指導評議会議長となる。
1972年、汎アラブ主義に基づき、エジプトのアンワル・アッ=サーダートシリアハーフィズ・アル=アサドと組んで三か国によるアラブ共和国連邦を構想するが、本格的な統合には至らなかった。
2002年、アフリカ統一機構からアフリカ連合en:African Unionfr:Union africainear:الاتحاد الأفريقيzh:非洲联盟)への改組で主導的な役割を果たす。
2003年、核放棄を宣言し、査察団の受入れを行い、米国などの経済制裁を解除され、2006年に米国とリビアの国交正常化を実現する。
1943年生。大日本帝国時代の平安北道出身。北朝鮮の外交官。
2018年5月16日、北朝鮮核・ミサイル問題に関する米朝首脳会談の開催を前に、第1外務次官として、「トランプ米政権が一方的な核放棄だけを北朝鮮に強要しようとするなら、我々は対話にもはや興味を持たず、朝米首脳会談に応じるかどうか再考せざるを得ない。」、「我々は、朝鮮半島の非核化の用意を表明し、そのためには米国の敵視政策と核脅威による恐喝を終わらせることが先決条件になると数度にわたって明言したが、米国はわが国の寛容な措置を弱気の表れと誤解し、彼らの制裁と圧迫攻勢の結果だと主張している。」、ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)らが核放棄を先行させる「リビア方式」や「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)」の実現を主張していることについて「対話を通じて問題を解決するのでなく、大国に国を委ねて崩壊したリビアイラクの運命をわが国に強要しようとしている。」、「米国は我々が核を放棄すれば、経済的補償や恩恵を与えると騒いでいるが、我々は米国に期待して経済建設を進めたことは一度としてなく、今後もそのような取引を決してしないだろう。」との談話を発表する[77]
2018年5月25日、ドナルド・トランプ米国大統領が6月12日開催予定であった米朝首脳会談の中止を発表したことに対し、「極めて遺憾である。」とした上で、「北朝鮮としては問題解決のため、いつ、いかなる形ででも直接会談する意向があることを改めて米側に伝える」と述べる[78]
1944年生。ドイツ連邦共和国の首相(1982年-1998年)。1990年東西ドイツの再統一について定める統一条約、米英仏ソの占領国としてのドイツに対する権利の放棄を定めるドイツ最終規定条約を締結し、ドイツ再統一を実現する。1992年欧州連合(EU、en:European Unionfr:Union européennede:Europäische Uniones:Unión Europearu:Европейский союзzh:欧洲联盟tr:Avrupa Birliğiar:الاتحاد الأوروبيfa:اتحادیه اروپا)の創設を定めるマーストリヒト条約を締結する。
1944年生。大日本帝国時代の忠清北道出身。韓国の外交官・外交通商部長官(外相)。第8代国際連合事務総長(2007年-2016年)。
1945年生。米国の国防次官補(1983年‐1989年)、国務副長官(2001年‐2005年)。知日派として知られる。2015年、旭日大綬章授章。
2007年、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)において政策提言報告「第二次アーミテージ・レポート」(正式名称:"The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020")を発表、日米同盟を英米のような緊密な同盟関係へと変化させ、東アジアの地域秩序の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることを提言する。
2018年10月26日、東京都内のシンポジウムにおいて、「ウラジーミル・プーチンロシア大統領は北方領土の問題を解決しようとは思ってないはずだ。日本は失望し続ける状況になるだろう。」と発言する[79]

1946年から1950年に生誕した者

1946年生。韓国の外交官、国家安全保障室長。2018年3月5日、韓国大統領府の特使団代表として朝鮮民主主義人民共和国に派遣され、金正恩委員長と面会し、南北首脳会談の開催で合意する。
北朝鮮核ミサイル問題に関する南北首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月12日、米国のジョン・ボルトン国家安全保障担当大統領補佐官と協議を行う。
1946年生。ソビエト民政庁北朝鮮人民委員会統治下の両江道出身。北朝鮮の軍人・政治家。朝鮮労働党統一戦線部長。北朝鮮核ミサイル問題の渦中、2018年2月25日、韓国での平昌オリンピック閉会式に出席し、金正恩の同年3月25日、5月7日の訪中、4月27日の南北首脳会談に同行する。
2018年5月30日、31日に訪米し、6月12日開催の米朝首脳会談を前に、マイク・ポンペオ国務長官と会談し、最終調整を行う[80]。同年6月1日、ドナルド・トランプ大統領とも会談し、異例の厚遇を受ける[81]
1946年生。米国の第45代大統領[82](2017年1月20日~)。
2017年1月、「アメリカ第一主義」を掲げ、気候変動枠組に関するパリ協定からの離脱、環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱、北米自由貿易協定(NAFTA、en:North American Free Trade Agreement)の再交渉、イラン核合意(JCPOA、en:Joint Comprehensive Plan of Action)の見直しを表明する。
2017年12月18日、国家安全保障戦略を発表し、「アメリカ第一主義」、「力による平和」の堅持を主張する。
2018年2月2日、核体制の見直し(NPR, en:Nuclear Posture Review)を公表し、重大で戦略的な非核攻撃に対し核兵器で反撃する可能性と、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM、en:Submarine-launched ballistic missile)用の小型核弾頭等を開発する方針を示す。
2018年2月23日、イスラエルの米国大使館をテルアビブからエルサレムに移転することを正式に発表する(同年5月14日、移転が実行され、ガザ地区で移転に抗議するデモ隊とイスラエル軍が衝突し、多数の死傷者を出す[20]。)。
2018年3月1日、ロシアと対立するウクライナへの対戦車ミサイル売却を許可したと公表する。
2018年3月8日、通商拡大法en:Trade Expansion Act)232条に基づき安全保障en:National security)に与える影響を理由に、暫定除外されたカナダ、メキシコ以外からの鉄鋼製品に25%、アルミニウム製品に10%の関税を課す輸入制限を発動することを決定する(その後、同月22日にEU、韓国、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンを暫定除外し、同月23日から主にロシア、トルコ、日本からの鉄鋼製品、ロシア、UAE、中国のアルミニウム製品を対象として関税が課される。さらに同年6月1日、EU、カナダ、メキシコに関税を課し、三者が報復関税を課すことを表明する[83]。)。
2018年3月22日、中国の知的財産権問題をめぐる調査も考慮し、スーパー301条による中国製品への関税賦課を米国通商代表部(USTR)に指示する。同年6月15日、中国の知的財産侵害に対する制裁関税の最終リスト(500億ドル相当、1102品目)を公表する[38](これに対し、中国も翌16日、500億ドル相当の報復関税を実施することを発表する[84]。)。さらに、同年7月10日、中国の知的財産侵害に対する制裁関税の追加措置案(2000億ドル相当、6031品目)を発表する[85](同年9月24日実施され、中国は直ちに600億ドル相当の報復措置をとる[86]。)。
2018年4月12日、米国通商代表部(USTR)のロバート・ライトハイザーen:Robert Lighthizer)代表と、ラリー・クドローen:Larry Kudlow国家経済会議(NEC)委員長に対して、TPP復帰の検討を指示する。
2018年4月27日の南北首脳会談板門店宣言)を受け、「北朝鮮が非核化するまでは最大限の圧力を加え続ける」と述べ、安易に制裁緩和に応じない方針を維持すると強調する[87]
2018年5月8日、イラン核合意(JCPOA)から米国が離脱すること、及びイランに対する経済制裁を再び実行することを表明する(同表明をイスラエル及びサウジアラビアは支持したが、アントニオ・グテーレス国連事務総長その他主要国は懸念・失望を示す[88]。また、元CIA長官のジョン・オーウェン・ブレナンen:John O. Brennan)は、トランプ大統領の狂気が、米国のコミットメントに対する国際的信頼を蝕み、米国の最も近しい同盟国たちを遠ざけ、イランのタカ派を勢いづけ、北朝鮮に核兵器を維持するさらなる理由を与えてしまったと、批判する[89]。2018年6月4日、イランのタカ派とされる最高指導者ハメネイ師は、イラン核合意が無効になった場合にはウラン濃縮活動を加速させるとし、国内担当機関に準備を指示する[90]。)
2018年5月23日、通商拡大法en:Trade Expansion Act)232条に基づき安全保障に与える影響を理由に、自動車・自動車部品に追加関税を課す輸入制限の検討に入ると発表する[91]
2018年5月23日、同年夏に実施予定の環太平洋合同演習(RIMPAC)への中国に対する招待を取り消したと発表する。南シナ海での軍事拠点化を進める中国を牽制するものであり、バラク・オバマ前政権からの転換を象徴する動きである[92]
2018年5月24日、北朝鮮核ミサイル問題等に関して同年6月12日に開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明する[93]。しかし、1日も経たないうちに態度を変え、北朝鮮当局者と生産的な話し合いが持たれたとして、米朝首脳会談が依然として実現し得るとの見解を示す[94]
2018年6月12日、北朝鮮の金正恩と米朝首脳会談を行い、朝鮮半島の完全な非核化、北朝鮮の安全保証等に言及する共同声明を発表する(同声明には、全ての大量破壊兵器及び全ての射程の弾道ミサイルの完全、検証可能かつ不可逆的な廃棄/非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement/Denuclearization)並びにその具体的プロセス及び期限、拉致問題の解決、並びに朝鮮戦争の終結合意について言及がなかった。)[95]
2018年8月9日、衛星利用測位システム(GPS)からミサイル発射検知センサーに至るまで宇宙に関連する軍事能力を管轄する「宇宙軍」(Space Force)を2020年までに創設する計画を表明する[96]
2018年10月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)を見直した、米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA、en:United States–Mexico–Canada Agreementfr:Accord États-Unis-Mexique-Canadaes:Acuerdo Estados Unidos-México-Canadá)の締結を3カ国で合意する。
2018年10月20日、旧ソ連と締結し(1987年)、ロシアに承継された中距離核戦力(INF)全廃条約en:Intermediate-Range Nuclear Forces Treatyru:Договор о ликвидации ракет средней и меньшей дальностиzh:中程导弹条约)を破棄する意向を表明する[97](2019年2月2日、同条約の破棄が正式に通告される[98]。)。射程500kmから5500kmの中距離核戦力は、ロシアにとって主として欧州を標的とするものであるが、シベリアからは日本、中国全体も射程内である。
2018年12月31日、アジア諸国との安全保障、経済面の包括的な協力強化を盛り込むアジア再保証推進法(ARIA、en:Asia Reassurance Initiative Act of 2018)に署名し、成立させる。同法は、台湾への防衛装備品の売却推進等を盛り込み、中国を牽制するものである[99]
2019年1月17日、弾道ミサイルに加え巡航ミサイル、極超音速ミサイル(ハイパーソニック兵器)を含むあらゆるタイプのミサイルに対する防衛力強化に向け、宇宙空間への兵器配備、ミサイルの探知・追跡能力の向上等を提言する新戦略ミサイル防衛見直し(MDR、en:Missile Defense Review)を発表する[100](日本は、米国の最も強力なミサイル防衛のパートナーの1国と表現される。中国、ロシアはMDRを強く批判するが、新たな軍拡競争の懸念が生じる[101]。)。
2019年1月24日、政情混乱が続くベネズエラes:Venezuela)の野党指導者フアン・グアイドes:Juan Guaidó)国会議長を暫定大統領として承認すると発表する(これに反発し、ニコラス・マドゥロes:Nicolás Maduro)ベネズエラ大統領は米国との断交を宣言する。)[102]
2019年2月の第2回米朝首脳会談に際して、北朝鮮による非核化の取組みが不十分と判断し[103]、北朝鮮に対する制裁の解除を拒否し、両首脳による合意文書への署名を拒否する(日本の安倍晋三首相は、安易な譲歩をせず、北朝鮮の具体的な行動を促すトランプの決断を全面的に支持する、と表明する。)[104]
2019年3月25日、米国がゴラン高原en:Golan Heights)におけるイスラエルの主権を正式に認める文書に署名する[105](ゴラン高原は、第三次中東戦争(1967年、en:Six-Day Warar:حرب 1967)でイスラエルがシリアから占領し、1981年に自国領土であることを宣言したが、イスラエルによる併合は国際法上無効である("the Israeli decision to impose its laws, jurisdiction and administration in the occupied Syrian Golan Heights is null and void and without international legal effect;")とする国連安保理決議497が全会一致で採択される。)。
2019年4月8日、イランへの圧力を強めるため、イランの精鋭軍イスラム革命防衛隊fa:سپاه پاسداران انقلاب اسلامیen:Islamic Revolutionary Guard Corps)を外国テロ組織に指定する。外国政府の機関がテロ組織に指定されるのは初めてである(これに対し、イランも米軍をテロ組織に認定する。)[106]
2019年4月9日、EUが航空機大手エアバスに支給する補助金が不当だとして110億ドル分のEU製品に関税を課す意向を表明する(これに対し、EUも対抗措置を検討する。)[107]
1947年生。ロシアの外交官。1970年ソビエト連邦外務省入省。駐韓大使・第一アジア局長・駐タイ大使・駐日大使(2012年-2018年)。
1947年生。オーストラリアの西オーストラリア州首相(1993年-2001年)、駐日オーストラリア大使(2017年~)。日豪経済交流への貢献により、2008年旭日重光章を受章。
1948年生。中国の国務院副総理(2008年-2013年)、副主席(2018年3月~)。北京市長(2003年-2007年)として2008年開催の北京オリンピックの準備に当たる。
イラン核合意からの米国の離脱、米国による通商拡大法232条に基づく関税引上げ、北朝鮮核・ミサイル問題、シリア騒乱などが懸案となっている2018年5月24日、国家副主席としてロシアを訪問し、ウラジーミル・プーチン露大統領と会談し、両国関係の一層の強化で一致する[108]
1948年生。イランの国家安全保障最高評議会議長(1989年‐2005年)、核問題交渉最高責任者(2003年‐2005年)、大統領(2013年~)。テヘラン大学を卒業後、英国のグラスゴー・カレドニアン大学に留学し、博士号を取得。2013年11月24日、米英仏露中独(P5プラス1、the five permanent members of the United Nations Security Council plus Germany)と、イランの核開発の透明性を高める代わりに対イラン制裁の一部を緩和する「第1段階の措置」で合意。2015年7月14日、P5プラス1、EUと「イラン核合意」(JCPOA、en:Joint Comprehensive Plan of Actionfa:برنامه جامع اقدام مشترک)を行い、これによりイランは濃縮ウラン貯蔵量の削減、遠心分離機の削減など原子力分野の活動を大きく制限される代わりに、米国、EU、国連による制裁が解除される。
2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意離脱表明を受け、同日、同表明を批判するとともに、米国を除く5カ国(独英仏露中)と協議して核合意の目的が達成されるなら、イランは現状を維持する、と表明する[88]
2018年7月22日、ドナルド・トランプ米国政権がイラン産原油の輸入停止を各国に呼びかけていることを受け、禁輸が実行された場合にホルムズ海峡fa:تنگه هرمزen:Strait of Hormuzzh:霍爾木茲海峽)を封鎖する可能性を示唆する[109]
2018年9月7日、イランを訪問したロシアのウラジーミル・プーチン大統領、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と個別に会談し、3国に経済制裁を課すトランプ米政権に対抗するため連携することで一致する[110]
2019年3月中旬、イラクバグダードを訪問し、安全保障・経済面での両国の強い絆を誇示する。イランとイラクは、イラン・イラク戦争(1980年-1988年)を戦ったが、米軍のイラク侵攻(2003年~)により、サッダーム・フセイン政権が倒れた後にイラクの政権がシーア派支配に変わったこともあり、2011年の米軍撤退後、シーア派の盟主であるイランの影響力が一気に強まる[111]
1948年生。米国の外交官。国務次官(軍備管理・国際安全保障担当、2001年-2005年)、国連大使(2005年-2006年)、国家安全保障問題担当大統領補佐官(2018年~)。国務次官として、開戦への慎重論も多かった国務省内において、対イラク開戦推進派としてイラク戦争(2003年-2011年)への流れをつくる。
北朝鮮核ミサイル問題に関する日米首脳会談、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月12日、日本の谷内正太郎国家安全保障局長、韓国の鄭義溶国家安全保障室長と協議を行う。
2018年4月27日の南北首脳会談板門店宣言)を受け、4月29日、米国が目指す、北朝鮮の核放棄の具体的な方策として「リビア方式」を念頭においていると述べる。「リビア方式」とは、リビアカダフィ政権が核開発計画を放棄する際に採った行程であり、同政権の非核化宣言を受け、査察の実施により核計画の完全放棄が確認された後に制裁解除と経済支援を行った一連のプロセスである[112]
2018年5月13日、北朝鮮に要求する恒久的な非核化(PVID)の内容として、全ての核兵器の廃棄・除去(米国への搬入)、ウラン濃縮・プルトニウム再処理能力の放棄、弾道ミサイル及び化学・生物兵器の廃棄を挙げる[113]
2018年7月22日、イランが米国にとって「負の行動」をとった場合に過去にほとんど経験したことがない代償を払うことになるとドナルド・トランプ米国大統領が考えている、との声明を発表する[114]
2018年10月12日、中国は通商、軍事、政治などあらゆる分野で行動を改める必要がある、と発言する[115]
1948年生。イギリスのヨーロッパ担当大臣(1994年-1997年、 en:Minister of State for Europe)・欧州連合離脱大臣en:Secretary of State for Exiting the European Union、2016年7月13日-2018年7月8日)。テリーザ・メイen:Theresa Mayzh:文翠珊)首相の下で、内閣府の欧州部門、外務・英連邦省en:Foreign and Commonwealth Office)欧州局、EU英国政府代表部(en:Committee of Permanent Representatives)出身の職員が統合されて組織された欧州連合離脱省en:Department for Exiting the European Union)を統括する。しかし、2018年7月8日、EUとの通商関係を重視するメイ首相の示した穏健な離脱方針に反発し、スティーブ・ベーカー(en:Steve Baker)EU離脱担当副大臣とともに辞任する[116]。(さらに、翌9日、ボリス・ジョンソンen:Boris Johnson)外相も同様の理由で辞任する[117]。)
1948年生。タジキスタンの外交官・外相。外務次官(1995年-2002年)、駐米大使(非常駐、2002年-2006年)、外相(2006年-2013年)、駐日大使(2015年~)。
1949年生。ポルトガルの首相(1995年-2002年)、社会主義インターナショナルen:Socialist Internationalru:Социалистический интернационалzh:社會黨國際)議長(1999年-2005年)、国連難民高等弁務官(UNHCR、2005年-2015年)、第9代国際連合事務総長(2017年~)。
2017年7月7日、核兵器禁止条約(核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約、en:Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)を国連総会で採択する。但し、全核保有国、及び米国の核の傘の下にある日本、ドイツ、カナダ、オーストラリア、韓国などは不参加。
2018年8月8日、安倍晋三首相との共同記者発表において、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化によって、北朝鮮が国際社会の正常なメンバーになることを推進する。」と表明する[118]
2018年8月9日、長崎の平和式典に現職の国連事務総長として初めて参加し、「長崎を地球最後の被爆地にしよう」と呼びかけ、国際社会に核軍縮に全力で取り組むよう求める[119]
1949年生。イスラエルの首相(1996年-1999年、2009年~)。「イラン核合意」(en:Joint Comprehensive Plan of Actionfa:برنامه جامع اقدام مشترک)の修正又は破棄を繰り返し求め、2018年4月30日、イランによる秘密裏の核兵器開発計画に関する新たな証拠を入手したと発表する(ただし、イランが核合意の後に、積極的に核兵器の取得に動いた証拠は示さなかった。)[120]
2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意の離脱表明前の同年4月9日から、イスラエルはシリア領内のイラン軍事施設などの空爆を継続し、イランを挑発し、緊張を高める[121][122][123][124]
2018年8月20日、イスラエル訪問中のジョン・ボルトン米国大統領補佐官と共同会見し、イランの核兵器保有を阻止することが最優先課題であると主張し、イラン核合意の存続を目指す欧州諸国に対してイランへの圧力を強めるよう求める[125]
2019年3月25日、トランプ米国大統領と会談し、ゴラン高原に対するイスラエルの主権を米国が認める文書を交わす[126]
2019年4月6日、パレスチナヨルダン川西岸地区に建設したユダヤ人入植地をイスラエルに併合することに前向きな姿勢を示す[127](2016年12月23日、国連安保理決議2334が、イスラエルによるパレスチナ占領地への入植が国際法違反であることを確認している("the establishment by Israel of settlements in the Palestinian territory occupied since 1967, including East Jerusalem, has no legal validity and constitutes a flagrant violation under international law and a major obstacle to the achievement of the two-State solution and a just, lasting and comprehensive peace;")。)。
ユダヤ系米国人は親イスラエル的であることが多いが、J Streeten:J Street)のように平和志向的で、パレスチナとの二国家共存を主張するユダヤ人ロビー団体も存在する。
1950年生。1972年ソビエト連邦外務省入省。ロシアの外務次官・国連大使(1994年-2004年)・外務大臣(2004年~)。
2018年5月14日、イランザリフ外相と会談し、米国が離脱表明したイラン核合意の堅持を確認し、在イスラエル米国大使館の移転問題にも触れ、米国政権は重要な国際合意を修正しようとしていると述べ、欧州や中国を交えた対応協議に意欲を示す[20]
2018年5月31日、北朝鮮を訪問し、李容浩外相と会談し、「北朝鮮の非核化にはいくつかの段階を経なければならない」と指摘し[128]、さらに金正恩国務委員長と会談し、「ロシアは朝鮮半島と北東アジア全体の平和と安定、繁栄に関心がある」と述べる[129]
1950年生。中華人民共和国の外交官。駐米大使(2001年-2005年)、外交部長(2005年-2013年)、国務委員(外交担当、2013年~)。
2018年11月9日、マイク・ポンペオ米国務長官、ジェームズ・マティス米国防長官と米中外交・安全保障対話を行い、米国から南シナ海問題台湾問題ウイグル族(en:Uyghursug:ئۇيغۇر مىللىتىzh:维吾尔族)ら中国内の弾圧の問題を指摘されたことに対し、激しく反発し、米国による航行の自由作戦の中止を要求する[130]
1950年生。1982年ソビエト連邦外務省入省。ロシアの外務次官(2008年~)

1951年から1953年に生誕した者

1951年生。フランスの欧州問題担当国務大臣・外務大臣、域内市場・サービス担当欧州委員、ブレグジットen:Brexit)に関する欧州連合(EU)の首席交渉官(2016年~)。2018年5月14日、ブレグジットに関し、アイルランド国境問題などで交渉が難航していると指摘し、「英国の秩序ある離脱に向けた準備にはさらなる作業が必要である」とし、同年3月以降、交渉の顕著な進展がないとして、同年秋の最終合意までの時間的な懸念を表明する[131](同年11月25日、離脱案がEU首脳会議で承認される[132]が、2019年1月15日、イギリス下院がその離脱案を否決する[133]。)。
1951年生。米国の外交官。アフガニスタンで、パシュトゥーン人の父、タジク人の母の間に生まれる。イスラム教徒。1985年国務省入省。駐アフガニスタン大使(2003年-2005年)、駐イラク大使(2005年-2007年)、国連大使(2007年-2009年)。
1951年生。スペインの外交官。駐スイス大使(2003年-2008年)、駐アラブ首長国連邦大使(2009年-2011年)、外務副大臣(2012年-2014年)、駐日大使(2014年~)。
1952年生。シンガポールの首相(2004年~)。2018年4月28日、東南アジア諸国連合(ASEAN、en:Association of Southeast Asian Nationszh:东南亚国家联盟)の首脳会議を議長として開催し、台頭する保護貿易主義と反グローバル心理に深い憂慮を表明するとともに、ASEANが進める東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnershipzh:区域全面经济伙伴关系协定)の交渉を加速させ、自由貿易を推進する立場を明確にすると表明する[134]。父はリー・クアンユーen:Lee Kuan Yewzh:李光耀)。
1952年生(女性)。インドの外相(2014年~)。2018年5月28日、ドナルド・トランプ米国政権によるイラン核合意からの離脱・対イラン経済制裁の再開に関し、国連による制裁措置のみを遵守し、米国による対イラン制裁など他国の措置には従わない方針を示す。イランはインドの主要原油調達先で、両国は長年にわたり政治・経済面で良好な関係を保っている[135]
1952年生。米国の第69代国務長官(2017年2月~2018年3月)。北朝鮮の核・ミサイル問題が続く2017年12月22日、北朝鮮が崩壊する事態に備え中国と話し合い、核兵器をきちんと回収するため米軍が北緯38度線を越えて北朝鮮に進入したとしても、「環境が整えば」米軍は撤退することを中国に保証している、と発言する[136]ドナルド・トランプ大統領のイラン核合意の破棄、NAFTA離脱、鉄鋼・アルミニウムの輸入制限等の主要な方針を抑制する立場であったが、2018年3月に国務長官を解任される[137]エクソンモービル会長兼CEO(2006年-2017年)
1952年生。ギリシャの外務大臣(1999年-2004年、2009年-2010年)、首相(2009年-2011年)。首相として2010年欧州ソブリン危機に対応する。社会主義インターナショナル議長(2008年~)。
1952年生。米国の外交官。東アジア・太平洋担当国務次官補北朝鮮核問題をめぐる六者会合のアメリカ首席代表や駐イラク大使を歴任する。2005年9月に北朝鮮の『段階的』な核放棄を盛り込んだ共同声明を取りまとめる[138]
1952年生。ルーマニアの外交官。駐韓大使・駐中国大使。駐日EU大使(駐日欧州連合代表部の代表、2014年-2018年)。
1952年生。ロシア連邦大統領(2000年-2008年、2012年~)、首相(1999年-2000年、2008年-2012年)。2001年5月中国、中央アジア諸国と上海協力機構en:Shanghai Cooperation Organisationzh:上海合作组织fr:Organisation de coopération de Shanghaide:Shanghaier Organisation für Zusammenarbeitru:Шанхайская организация сотрудничестваtr:Şanghay İşbirliği Örgütüfa:سازمان همکاری شانگهایar:منظمة شانغهاي للتعاون)を設立、同年7月中国の江沢民中露善隣友好協力条約en:2001 Sino-Russian Treaty of Friendship、 zh:中俄睦邻友好合作条约、 ru:Российско-китайский договор о добрососедстве, дружбе и сотрудничестве)を締結。2014年クリミア危機際してクリミア半島をロシア連邦に編入する(en:Annexation of Crimea by the Russian Federation)。
2018年6月12日開催予定の米朝首脳会談の直前である、同月8日、訪中し、習近平と会談し、中露の友好関係を強調するとともに、北朝鮮の非核化へ歩調を合わせて対応する方針を表明する[139]
2018年8月18日、ドイツを訪問し、アンゲラ・メルケル独首相と、独露間を直接結ぶ天然ガスパイプライン事業「ノルドストリーム2」を推進することで一致する。米国に加え、バルト3国、ポーランド、ウクライナも、自国を通過する欧露間のパイプラインの重要性が低下し、ロシアの威圧を受け易くなるとして、反発する[140]
1953年生。中華人民共和国zh:中华人民共和国・Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó、en:People's Republic of China (PRC))の国家主席(2013年~)。中国共産党zh:中国共产党・ Zhōngguó Gòngchǎndǎng、 en:Communist Party of Chinafr:Parti communiste chinoisde:Kommunistische Partei Chinases:Partido Comunista de Chinaru:Коммунистическая партия Китаяar:الحزب الشيوعي الصينيtr:Çin Komünist Partisi)の中央委員会総書記(2012年~)・中央軍事委員会主席(2012年~)。
一帯一路』(zh:一带一路・Yídài yílù、en:One Belt One Road Initiative)の経済圏構想を唱える。
2015年に台湾の馬英九総統とシンガポールで、1949年の中台分断後初の首脳会談を行い、「一つの中国」原則を確認した「92コンセンサス(九二共識)」を基に、平和的な関係を築く考えで一致する。
2015年11月、中国と中東欧16カ国をメンバーとする第4回中国・中東欧諸国首脳会議において「16プラス1協力」が中国と欧州の包括的・戦略的パートナーシップの重要な構成部分、有益な補完であると指摘する[141]
2017年の中国共産党第十九回全国代表大会では、小康社会(少しゆとりのある社会、zh:小康社会)の全面的完成を目標とし、「中国の夢の実現は平和な国際環境と切り離しては考えられない」と述べる[142]
父である習仲勲(シー・チョンシュン)は、胡耀邦党総書記に並ぶ開明派であり、全人代常務副委員長として、1982年の憲法改正を主導し、行き過ぎた党治・人治が文化大革命を引き起こしたとの反省から、個人独裁を防ぐため、「法に基づく国家統治(法治)」を目指し、国家主席任期を2期10年に制限した[143]。しかし、習近平は、2018年3月の全人代で国家主席の任期を撤廃する憲法修正を行う。
ドナルド・トランプ米国大統領によるNAFTA見直し、在イスラエル米国大使館のエルサレム移転、イラン核合意離脱表明、鉄鋼・アルミニウムに対する高関税賦課により、米国と、EU、日本、カナダメキシコの足並みが乱れる中、カナダで開催される第44回G7首脳会議(サミット)に重ねて、2018年6月9日、上海協力機構(SCO)首脳会議を開催し、ロシアプーチン大統領)、インドモディ首相)、イランロウハニ大統領)との連携を図る。
2018年6月下旬、外交政策に関する共産党中央外事工作委員会(zh:中央外事工作委员会en:Central Foreign Affairs Commission)において、(1)大国関係はうまく整え、安定的でバランスのよい関係に向けた枠組み作りを目指す、(2)周辺外交に取り組み、中国に有利な近隣環境を作る、(3)発展途上国は国際実務における生来の同盟軍であり、協力と団結に取り組む、との方針を示す[85]
2018年11月5日、第1回国際輸入博覧会の開幕演説において、「目下の国際、国内の経済情勢の下、中国経済の発展も突出した矛盾と問題に突き当たっている。一部中国企業の経営が困難に直面し、リスクが増大している。」と述べる[144]
米国における、台湾との関係強化を打ち出すアジア再保証推進法(ARIA、 en:Asia Reassurance Initiative Act of 2018)の成立を受け、2019年1月2日、「外部の干渉や台湾独立勢力に対して武力行使を放棄することをしない」と強硬姿勢を示す[145]
2019年3月23日、イタリアのジュゼッペ・コンテ首相と一帯一路協力に関する覚書に署名する。イタリアは先進7カ国(G7)の中で初めての一帯一路参加国となる[146]
中国は、2014年以降、購買力平価(PPP)ベースの国内総生産(GDP)で米国を上回り、世界1位であり、欧州連合加盟国の合計をも上回っている(PPPベースのGDPリスト参照)。
1953年生。駐日インドネシア大使(2017年~)。バンドン工科大学で化学工学博士号を取得。国営肥料会社ペトロキミア・グレシック(id:Petrokimia Gresik)に勤務し、1986年から1987年にかけて日本事務所長として日本に滞在。持株会社ププック・インドネシア(id:Pupuk Indonesia Holding Company)社長(2010年-2015年)。
1953年生。ドイツの外交官。1984年西ドイツ外務省入省。2007年駐中国大使館文化参事官・政治部長・公使。駐日ドイツ大使(2014年~)。
1953年生。中国の外交官。1982年中華人民共和国外交部入省。駐日大使館参事官(1989年-1994年)、駐日大使(2004年-2007年)、外交部長(外相、2013年~)、国務委員(2018年~)。中国共産党中央委員(2007年~)。
尖閣諸島国有化問題(zh:日本政府购买钓鱼岛事件)を契機に途絶えていた、8年ぶりとなる日中ハイレベル経済対話zh:中日经济高层对话)を、2018年(平成30年)4月16日、王毅が河野太郎外務大臣と共同議長として開催し、自由貿易体制の重要性、並びに日中韓の自由貿易協定(FTA)及び東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnershipzh:区域全面经济伙伴关系协定)の締結に向けた協力を確認する[39]
北朝鮮の核・ミサイル問題に関し、2018年4月27日の南北首脳会談板門店宣言)の後、米朝首脳会談を前に、同年5月2日から3日、北朝鮮を訪問し、金正恩国務委員長、李容浩外相と会談する。
2018年5月23日、同年夏に実施予定の環太平洋合同演習(RIMPAC)への中国に対する招待を米国が取り消したのに対し、「非建設的で軽率な行動だ。中米の相互理解の役に立たない。」と批判する[92]
2018年5月28日、上海協力機構首脳会議を6月9日、10日の両日に青島市で開催すると発表する。ウラジーミル・プーチンロシア大統領、ハサン・ロウハーニーイラン大統領が出席予定であり、6月12日開催の米朝首脳会談の直前に、北朝鮮の段階的非核化の立場を擁護し、ドナルド・トランプ米国政権を牽制する可能性がある[147]
1953年生。メキシコの大統領(2018年~)。2019年3月25日、約500年前のエルナン・コルテスes:Hernán Cortés)率いるスペイン人による征服行為やその後の植民地時代を通じて人権侵害などがあったと指摘し、旧宗主国であるスペイン国王フェリペ6世ローマ法王フランシスコに対し、侵略から植民地時代における人権侵害などに謝罪するよう求める書簡を送ったことを公表する[148]

1954年から1956年に生誕した者

1954年生。朝鮮民主主義人民共和国の外交官。駐英大使(2006年-2011年)、国連常駐代表(2014年-2018年)。2017年12月15日に開催された、北朝鮮の核・ミサイル問題を協議する国連安全保障理事会閣僚級会合に出席し、核開発が米国の脅威に対する自衛措置であるとして、「北朝鮮は、世界で最強の核軍事国家として、大きく発展するよう前進する」と発言する。
1954年生(女性)。ドイツの環境・自然保護・原子力安全担当大臣(1994年-1998年)・首相(2005年~)。ポーランド系ドイツ人。西ドイツのハンブルグで出生したが、生後まもなく東ドイツに移住する。同国で理論物理学を専攻し博士号を取得する。1990年の同国最後の選挙で当選し、ドイツ再統一後、女性・青少年問題担当大臣に抜擢される。2014年4月、訪独した習近平中国国家主席に、新疆チベット内蒙古の領土外であった頃の古地図を贈る。2015年、100万人を超える難民のドイツへの移入を許可する。
2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱表明を受け、同日、テリーザ・メイイギリス首相、エマニュエル・マクロンフランス大統領と共同声明を発表し、全関係者にイラン核合意実施継続への努力維持と責任感ある行動を要請する、と表明する[149](2019年1月31日、独英仏3カ国は、米ドル決裁の回避によるイランとの貿易継続に向けて貿易取引支援機関(INSTEX)の設立を発表する[150]。)。
2018年5月18日、ロシアを訪問し、ウラジーミル・プーチン大統領と会談し、イラン核合意、ロシアが軍事介入するシリアウクライナの問題を協議し、「欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)とロシアの対話を支持する」と表明し、「米国第一」を掲げるトランプ米国大統領への不信感を背景に、ロシアとの協調を図る[151]
2018年5月24日、中国を訪問し、李克強中国首相と会談し、自由貿易体制の堅持とイラン核合意の維持で合意し、トランプ米国政権を牽制する[152]
2018年8月18日、ドイツを訪問した、ロシア大統領プーチンと、独露間を直接結ぶ天然ガスパイプライン事業「ノルドストリーム2」を推進することで一致する。米国に加え、バルト3国、ポーランド、ウクライナも、自国を通過する欧露間のパイプラインの重要性が低下し、ロシアの威圧を受け易くなるとして、反発する[153]
2018年11月13日、欧州議会en:European Parliament)において、NATOの下での欧州と米国の協力と両立できるとの認識を示しながら、「欧州を守るには欧州自体が強くなるしかない」と強調し、「私たちはいつの日か、真の欧州軍を創設するという構想に取り組まなければならない」と訴える(これは、フランスのマクロン大統領の提唱に同調したものである。)。また、欧州安全保障理事会(en:European Security Council)の設立も呼び掛ける[154]
2019年1月22日、フランスのマクロン大統領と、両国の協力強化を定めた独仏協力・統合条約(アーヘン条約)を締結する。両国の第二次世界大戦後の和解の基礎となった1963年の仏独協力条約(エリゼ条約、fr:Traité de l'Élyséede:Élysée-Vertragen:Élysée Treaty)以来、56年ぶりの包括的友好条約である。
1954年生。中国の外交官。1973年日中国交正常化後初の中国人留学生として来日。1977年から1983年まで駐日大使館勤務。2003年駐日公使、駐マレーシア大使、駐韓大使、駐日大使(2010年~)。
1954年生。中華民国(台湾)の外交官、駐米代表(2007年-2008年)、外交部長(2018年~)。2018年5月24日、西アフリカのブルキナファソが台湾に断行の通告を行ったことに対し、「中国が唯一の原因である」と非難する。蔡英文政権成立後、台湾と断行した国は4カ国目であり、台湾と外交関係のある国は18カ国に減少する[92]
1954年生。韓国の外交官。慶應義塾大学訪問研究員として研究生活を送る。1993年、外交部通商第1課長として日韓貿易分野を担当する。1996年12月から在日韓国大使館の参事官を務める。駐日大使(2016年~)。
1954年生。米国の外交官。韓国で生まれ、1964年まで同国で育つ。駐マレーシア大使(2013年-2016年)。米国の北朝鮮担当特別代表(2016年10月~2018年3月)。
2019年1月、日本経済新聞の取材に対し、米国はすでに「朝鮮半島の完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」から方針転換しており、北朝鮮の非核化を段階的に進める方向に舵を切っているとの認識を表明する。他方、日本を射程に収める中距離核ミサイルが北朝鮮に残ることを米国が容認するとは考えられないとの認識も示す[155]
1954年生(女性)。米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官(2001年-2005年)・国務長官(2005年-2009年)。アフリカ系アメリカ人女性初の国務長官。
1954年生。ルクセンブルクの首相(1995年-2013年)、欧州委員会委員長(2014年~)。
2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱、経済制裁の再実施の表明を受け、同月17日、米国による経済制裁から欧州企業を守る義務があるとして、対抗手段として、欧州企業に対してEU域外の第三国による経済制裁に従わないよう命じる「ブロッキング規則」の発動プロセスに入ると表明する。同規則は1990年代に米国の対キューバ制裁への対抗策として制定されたが、これまで発動されたことはない。また欧州投資銀行(EIB)にイラン関連融資を認める方針を表明する。[156]
2018年5月31日、トランプ米政権がEU、カナダ、メキシコから輸入する鉄鋼、アルミニウムに6月1日から追加関税を発動すると発表したことに対し、直ちに、EUによる報復関税と世界貿易機関(WTO)への提訴の方針を発表する[83](同月8日、WTOにおける米EU間の協議に日本が参加意向であることをWTOに通知する[42]。)。
2018年9月12日、欧州議会の施政方針演説で、EUの共通外交政策の意思決定を早め、EUの国際的な存在感を強めるため、全会一致原則を見直し、加盟国の規模などを加味した「特定多数決」の活用を提案する[157]
1955年生。第28代駐日アメリカ合衆国大使(2009年-2013年)。2010年8月6日、米国政府代表として初めて広島平和記念式典に出席、同年9月26日、長崎県の原子爆弾落下中心地碑に献花をした。2012年8月9日、駐日米国大使として初めて長崎平和祈念式典に参加した。株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループグローバル・アドバイザリーボード委員(2013年~)、ソニー株式会社取締役(2014年~)。
1955年生(女性)。大韓民国の外交官・外交部長官(外務大臣)。英語通訳の能力を買われ、1999年外交官試験を経ずに外交通商部に特別採用され、外交通商部長官補佐官に就任。2001年国連代表部公使。2006年国際連合人権高等弁務官事務所副代表。2017年から韓国史上初の女性の外交部長官。
2018年6月12日の米朝首脳会談後の同年8月、ASEAN地域フォーラム(ARF)の際に、北朝鮮の李容浩外相に会談を打診したが拒否される[158]
1955年生。中国の国務院総理(首相、2013年~)。2018年5月、3年ぶりに開催された日中韓首脳会談のために来日し、日中韓自由貿易協定(FTA)と東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の交渉を加速させることを表明するとともに、ドナルド・トランプ米国政権を念頭に「経済のグローバル化を推し進め、合理的に問題を解決し、高く貿易の自由化を掲げ、保護主義に対抗していこう」と呼びかける。
2018年5月24日、訪中したアンゲラ・メルケルドイツ首相と会談し、朝鮮半島問題についてメルケルが非核化の実現に期待を示したのに対し、李克強は対話による解決を主張し、米朝首脳会談の開催を支持する[159]
2018年8月12日、日中平和友好条約の署名40年を迎え、安倍晋三首相と祝電を交換し、「互恵協力を深め、意見の相違を適切にコントロールし、中日関係の長期的で健全かつ安定した発展を推進していく」と表明する[158]
2019年4月9日、ドナルド・トゥスクEU大統領、ジャン=クロード・ユンケル欧州委員長と首脳会談を行い、2020年までに投資協定を妥結する方針で合意する。EU側が求めた、世界貿易機関(WTO)改革など、市場を歪める措置の是正も明記される[160]
1956年生。神奈川県横須賀市出身。母は神戸出身の日本人。アメリカ海軍軍人海軍大将en:Admiral)、第24代アメリカ太平洋軍司令官。米国海軍史上初のアジア系(日系)の大将である。2018年5月18日、駐韓米国大使に指名される。2018年4月、旭日大綬章受賞。
2018年5月30日、米国の太平洋軍は、ハリスの軍司令官離任式において、米国戦略構想でインド洋の重要性が高まっていることを反映して、インド太平洋軍(Indo-Pacific Command)に改称すると発表される[161]
1956年生(女性)。イギリスの首相(2016年7月13日~)。デーヴィッド・キャメロン前首相の下で、2016年6月13日に行われたイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票で離脱票が過半数となった責任を取り、キャメロンが辞任したため、後任首相となる。同年7月14日、欧州連合離脱省en:Department for Exiting the European Union)を設置する。2017年3月29日、ドナルド・トゥスクEU大統領に対し、リスボン条約第50条に基づき、イギリスの欧州連合離脱en:Brexit)を正式に通知する。以降、秩序ある脱退に向け、脱退後のEUとイギリスの関係について交渉が開始される。デイヴィッド・マイケル・デイヴィス欧州連合離脱担当大臣を辞任した後の2018年7月24日、「自らがEUとの交渉を率い、欧州連合離脱担当大臣は私の補佐としての役割を担う」を表明する[162](同年11月25日、離脱案がEU首脳会議で承認される[163]。しかし、2019年1月15日、イギリス下院がその離脱案を否決する[164]。)。
1956年生。朝鮮民主主義人民共和国の外交官・外務大臣。2003年駐英大使、2011年、北朝鮮の核開発問題を話し合う6カ国協議en:Six-party talkszh:六方会谈ru:Шестисторонние переговорыko:6자 회담)の主席代表、2016年から外務大臣・国務委員会委員。
2018年6月12日の米朝首脳会談後の同年8月、ASEAN地域フォーラム(ARF)の際に、韓国の康京和外相に会談を打診されたが拒絶する[158]
2018年8月9日、米国によるイラン核合意からの離脱・経済制裁再開の問題の渦中にあるイランを訪問し、ラリジャニ国会議長と会談し、「北朝鮮は米国との交渉で非核化に合意したが、核に関する科学的知識は保持していく。米国がわれわれへの敵対心を捨てないことを知っているからだ。」と述べる[165]。なお、北朝鮮は、過去、イランの核開発計画に協力したことがあると言われる(イランと北朝鮮の関係)。
2018年9月29日、国連総会の一般討論演説で、「米国との信頼関係なくしては国家の安全保障に自信を持つことができず、先に一方的に核武装を解除することは断じてない」として、非核化措置を先行させる考えを否定し、朝鮮戦争の終結宣言を通じた体制の保証を要求する[166]

1957年から1959年に生誕した者

1957年生。トルコの外交官。1980年財務省入省、1981年外務省に転省。駐シンガポール大使(2007年-2009年)、駐ウクライナ大使(2009年-2011年)、外務省国際安全保障局長(2011年-2014年)、駐日大使(2014年-2017年)。配偶者は日本生まれでトルコ国籍のアイリン・クミコ。
1957年生。ポーランドの首相(2007年-2014年)、欧州連合大統領(欧州理事会議長、2014年~)。2018年6月27日、EU加盟国首脳らに米欧関係の悪化を巡って、最悪のシナリオに備えなければならないと呼びかけ、ドナルド・トランプ米国大統領の「米国最優先」の政策が米欧の通商分野の対立にとどまらず、第二次世界大戦後の安定を支えてきた大西洋同盟全体に亀裂をもたらしているとの懸念を強調する[167]
1957年生。イタリア出身の欧州公務員。日本・EU経済連携協定(EPA)のEU側の主席交渉官。欧州委員会貿易総局次長(Deputy Director-General, Directorate-General for Trade, the European Commission、2014年~)。
1957年生(女性)。第29代駐日アメリカ合衆国大使(2013年-2017年)。前任の駐日大使ジョン・ルースと同様に広島市長崎市での平和式典に出席(2016年を除く)するとともに、国務長官ジョン・ケリーとともに現職の大統領バラク・オバマの広島訪問を推し進めた一人とされる。父ジョン・F・ケネディ第35代米国大統領と母ジャクリーン・ケネディの長女。
1958年生。インドの外交官。中国と東アジアを専門とする。インド国家安全保障委員会(en:National Security Council of India)事務局勤務(2009年-2012年)、駐日大使(2015年~)。
1958年生。サウジアラビアの外交官。1982年外務省入省。国連サウジアラビア政府代表部(2002年-2008年)、外務省国際関係総局長(2008年-2010年)、駐韓国大使(2010年-2015年)、駐日大使(2015年~)。
1959年生。ノルウェー王国の首相(2000年-2001年、2005年-2013年)、北大西洋条約機構事務総長(2014年~)。2019年4月3日、米国上下両院合同会議で演説し、NATO内の貿易、地球温暖化、イラン核合意等をめぐる深刻な意見の相違を指摘する一方、独善的傾向を強めるロシアやテロの脅威拡大を前に加盟国の結束を訴える[168]
2019年4月4日、NATO外相理事会において、米国のマイク・ポンペオ国務長官が「NATOは中国との戦略的競争という差し迫った脅威に対抗する必要がある。」と対中政策での結束を呼び掛けたのに対し、ストルテンベルグは、中国との関係について「適切なバランスを見つけるべきだ。」と指摘し、中国による経済支援などを一方的に排除しようとする米国を牽制する[169]
1959年生。イギリスの外交官。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院にて日本語を学ぶ。1980年-1987年、貿易産業省(現、国際通商省、DIT、en:Department for International Trade)。1988年外務・英連邦省入省、4年間日本に赴任(経済・貿易政策部一等書記官)。駐日大使(2017年~)。
1959年生。米国の副大統領(2017年~)。2018年10月4日、ワシントンの政策研究機関ハドソン研究所(en:Hudson Institute)で演説し、中国の外交政策等を批判し、国際慣行を無視した経済活動や覇権主義的な海洋進出を展開する中国に「決して屈しない」と訴え、中国に態度変更を厳然と求めていくと強調する[170]。この演説を、第二次世界大戦後のソ連との冷戦の到来を告げたウィンストン・チャーチル元英首相の「鉄のカーテン」演説と重ねる向きもある[171]
2018年11月17日、アジア太平洋経済協力(APEC、en:Asia-Pacific Economic Cooperationzh:亚太经济合作组织)首脳会議のため訪問したパプアニューギニアにおいて、習近平の面前で、巨額の対米貿易黒字を抱える中国を非難し、不均衡是正のための輸入関税の上乗せを正当化し、中国が貿易慣行を改めるまで変更しないと強調し、さらなる追加制裁関税も示唆する[172]。同年のAPECは、米中対立のため、首脳宣言採択の断念という異例の事態となる[173]
2019年2月16日、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conferencede:Münchner Sicherheitskonferenzfr:Wehrkunderu:Мюнхенская конференция по безопасностиzh:慕尼黑安全会议)で演説し、「力による平和」を目指し、トランプ政権が1980年代以来となる資金を使い「史上最強の軍事力を構築している」と説明し、核戦力増強、ミサイル防衛システム開発を進める考えを強調する[174]
米国ドナルド・トランプ政権の対中政策に関しては、①米国の経済的利益、特に国外に流出した雇用を取り戻すことを最優先し、日欧その他の同盟国への制裁、保護貿易策も辞さない「経済ナショナリスト」、②中国が軍事的・政治的影響力を拡大し、米国・同盟国・友好国の安全保障を脅かすことの阻止を目指し、同盟国との連携を重視する「安全保障優先派」、③中国との敵対化を不可避とし、中国の弱体化を目指す「敵対派」、④対話と交渉で中国との対立の緩和を目指す「穏健派」、に分けて考えることができ、前二者が主流派である[175]
1959年生。中国の外交官。朝鮮族出身。大学で日本語を学び、日本での勤務経験も10年を超える。外務次官(2018年~)。
1959年生(女性)。イギリスの外交官。1981年外務・英連邦省(FCO、en:Foreign and Commonwealth Office)入省、日本語研修後、東京で三等書記官として勤務(1984年-1987年)。在ジュネーブ国連機関常駐代表(2012年-2015年)、駐アフガニスタン大使(2015年-2016年)、国連大使(2018年~)。
1959年生。ベトナムの外交官。外務副大臣(2008年-2011年、2014年-2015年)、駐米大使(2011年-2014年)、駐日大使(2015年~)。
1959年生。駐日ミャンマー大使(2015年~)。ミャンマーの防衛大学で修学後、国軍に入隊。2012年に外務省に入省。
1959年生。イランの外交官。駐日イラン大使(2018年~)

1960年から1962年に生誕した者

1960年生。イランの外交官。国連大使(2002年-2007年)、外相(2013年~)。2015年7月14日、P5+1EUとイランの核開発問題に関するイラン核合意(en:Iran nuclear deal framework、包括的共同作業計画(JCPOA)、en:Joint Comprehensive Plan of Actionfa:برنامه جامع اقدام مشترک)に調印する。
イラン核合意は、一定期間に限りイランによる開発・実験を制限するにとどまる(サンセット条項)ことに加え、イランによるミサイル開発・実験について言及しておらず、かつ、「核兵器を搭載可能な弾道ミサイルの開発と発射」を禁じる、合意以前の安保理決議1737号、1747号、1803号及び1929号を失効させることになったが、新たな安保理決議2231号(2015年7月20日)では、イランは「核兵器を運搬できるように設計されたミサイルを発射しないように要請された」(Iran is called upon not to undertake any activity related to ballistic missiles designed to be capable of delivering nuclear weapons)にとどまる[176]
2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意離脱表明を受け、同日、同表明を批判するとともに、ロウハニ大統領の指示により、イランが核合意から十分な恩恵を得ることを、他の合意当事国(独英仏露中)が担保するか否かを見極める外交的取り組みを主導する、と表明する[177]。同月13日に中国の王毅外相と、同月15日にロシアのラブロフ外相と、同月16日に独英仏の各外相とモゲリーニEU外交安全保障上級代表と協議し、米国抜きでも核合意の堅持を目指す方針を確認する[178]
2018年7月16日、イランは、国際司法裁判所に米国の核合意離脱を巡り、米国による経済制裁の即時解除を求めて提訴する(米国とイラン革命前の王制イランが締結した1955年の友好経済関係条約(Treaty of Amity and Economic Relations)に違反すると主張する。)[179]
1960年生。ロシアの外交官。駐インドネシア大使(2012年-2017年)、駐日大使(2018年~)。駐日ソ連大使館(1983年-1986年)、駐日ロシア大使館(1992年-1997年、2001年-2008年)に勤め、ロシア外務省で日本を担当する第3アジア局長(2010年-2012年)を務めた知日派であり、日本語・英語に堪能で、日露首脳会談の通訳の経験もある[180]
1960年生。第30代駐日アメリカ合衆国大使(2017年~)。ボストン・コンサルティング・グループの上級駐在員として東京に3年間(1988年-1991年)滞在したことがある。
1960年生。イランの外交官。1989年イラン外務省入省。駐フィンランド大使(1999年-2003年)、駐日大使(2007年-2011年)、法律・国際問題担当外務次官(2013年~)。P5+1(5常任理事国とドイツ)との核協議における首席交渉官。姓を「アラグチ」と表記されることが多いが、日系人ではなく、日本姓との関連はない。
1960年生。韓国系米国人。米国の外交官。韓国で生まれ、1973年まで韓国で育つ。駐韓国大使(2011年-2014年)、駐フィリピン大使(2016年~)。バラク・オバマ政権での六カ国協議担当特使(2008年-2011年)、北朝鮮担当特別代表(2014年-2016年)を務め、ドナルド・トランプ政権での、北朝鮮の核・ミサイル問題に関する2018年6月12日開催の米朝首脳会談の実務者協議団代表を務める(北朝鮮側のカウンターパートは崔善姫外務次官。)[138]
1960年頃生(女性)。北朝鮮の外交官。1980年代半ばに外務省入省。米州局副局長、六者会合次席代表、北米局長。外務次官(2018年~)。2018年5月24日、外務次官として、『核対核の最終決戦』にも言及し[181]、「米国が我々の善意を冒涜して非道に振る舞うなら、朝米首脳会談の再考を金正恩委員長に提起する」として、首脳会談を取りやめる可能性に言及する[91]。(その後、同日、ドナルド・トランプ米国大統領は、同年6月12日開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明する[91]。)
2018年10月9日、中国・ロシアとの外務次官協議を行い、3カ国の共同声明として、北朝鮮が有意義かつ実践的な非核化措置をとっており、適切な時期に同国に対する制裁の見直しを始める必要性について見解の一致を見たと発表する(これを受け康京和韓国外相も独自制裁緩和を示唆し、韓国と日米両国との足並みの乱れが示される。)[182]
1961年生(女性)。デンマーク生。グローバル企業に持続可能かつ社会的責任ある政策を採用することを促す国連グローバル・コンパクトen:United Nations Global Compact)事務局長(2015年~)。
1961年生。アメリカ合衆国(en:United States of America、 fr:États-Unis d'Amérique、 de:Vereinigte Staaten von Amerika、 es:Estados Unidos de América、 ru:Соединённые Штаты Америки、 zh:美国・美利堅合眾國、 ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、 fa:ایالات متحده آمریکا、 tr:Amerika Birleşik Devletleri)の第44代大統領(2009年-2017年)。史上初のアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)の米国大統領。
オバマ政権は、「中国が国際的なルールを遵守する限りにおいて、平和的で繁栄する中国の台頭を歓迎する。」との基本的な立場をとる[183]
2009年プラハ演説で、米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意を表明する。
2010年3月、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領と新戦略兵器削減条約(新START、en:New Strategic Arms Reduction Treaty)を合意し、2011年2月、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conference)において批准書を交換し、発効させる。
2015年キューバと54年ぶりに国交正常化実現、翌年キューバを訪問する。
2016年現職の大統領として初めて広島を訪問し、広島平和記念公園広島平和記念資料館を視察、慰霊碑に献花し、「核兵器なき世界」に向けた所感を述べた。
1961年生(女性)。ドイツの外交官。駐日欧州連合代表部特命全権大使(2018年~)。
1961年頃生。パキスタンの外交官。1990年から1991年に日本にて語学研修。在東京パキスタン大使館二等書記官(1993年-1996年)。九州大学にて国際経済法及び国際商法博士号取得(2002年)。国連パキスタン政府代表部公使・参事官(2004年-2010年)、駐日大使(2017年~)。
1962年生。サウジアラビアの外交官。駐米大使(2007年-2015年)、外務大臣(2015年~)。2018年5月8日にドナルド・トランプ米国大統領がイラン核合意(JCPOA)からの離脱を表明したことを受け、同月9日、もしイランが核開発を再開するのであれば、サウジアラビアもあらゆる手を尽くして同じことをする、と明言する[184]
1962年生。ロシアの外交官。国連大使(2017年~)。2018年4月12日、国連安全保障理事会において、ニッキー・ヘイリー米国国連大使が提案した、シリア騒乱における化学兵器使用の加害者を特定する独立調査団の設置案に対し、拒否権を行使する(なお、中国は棄権。これに対し、同月13日(ニューヨーク時間午後9時頃、シリア時間14日未明)、英米仏軍は、シリアの化学兵器関連施設を巡航ミサイルトマホークで攻撃する。)。
1962年生。ウクライナの外交官。駐ルーマニア大使(1998年-2000年)、外務副大臣(2000年-2003年)、駐ポーランド大使(2003年-2005年)、駐英大使(2005年-2010年)、駐日大使(2013年~)。2014年クリミア危機に際して、度々、ウクライナの領土保全を主張する。
1962年生。イランの外交官。駐フィンランド大使(兼駐エストニア大使、2006年-2009年)、駐日大使(2012年-2017年)。
1962年生。米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官(2017年2月~2018年4月)。陸軍中将。

1963年から1965年に生誕した者

1963年生。中国の外交官、駐豪大使(2013年-2016年)、在ジュネーブ国連機関常駐代表(2016年-2018年)、国連大使(2018年~)。
1963年生。フランスの外交官、駐カナダ大使(2008年-2011年)、駐米大使(2011年-2014年)、国連大使(2014年~)。
1963年生。イタリア系アメリカ人。米国の中央情報局(CIA)長官(2017年-2018年4月)、国務長官(2018年4月26日~)。
2017年、CIA長官として韓国を訪問し、脱北した北朝鮮の元駐英公使と金正恩体制への反乱煽動、転覆可能性などを協議するとともに、CIAに北朝鮮対応の専従組織を新設する。
北朝鮮の核・ミサイル問題等を協議する米朝首脳会談に先立ち、2018年4月1日頃、CIA長官として秘密裏に訪朝し、金正恩国務委員長と会談し、非核化実現への「行程を示す用意がある」との発言を引き出す[185]
2018年4月12日、上院外交委員会の開催した国務長官指名を承認するための公聴会において、北朝鮮の「体制転換を求めていない」、イラン核合意(en:Joint Comprehensive Plan of Action)の「見直しが可能か模索する」と表明する[186]。同月26日承認。アメリカ合衆国上院外交委員会en:United States Senate Committee on Foreign Relations)は、上院の主要な外交政策の立法と論議を担当し、対外援助計画に対する監督(ただし運営はしない)及び資金提供、並びに同盟国に対する兵器売却、訓練の資金提供について一般的な責任を負い、また、国務省の高官の指名について公聴会en:United States congressional hearing)を開催する。
2018年4月27日の南北首脳会談板門店宣言)を受け、「透明で検証可能な行動が不可欠である」として、北朝鮮に対し非核化に向けた実質的な取り組みを求める[87] とともに、過去には約束が交わされ、希望が出てきたところで、北朝鮮に粉々にされた歴史があると強調する[134]
2018年5月2日、国務長官就任宣誓において、(イラン核合意のサンセット条項を意識してか)北朝鮮の核兵器を含む大量破壊兵器の『恒久的で』、検証可能かつ不可逆な廃棄(PVID)を遅延なく行うことを約束する(“We are committed to the permanent, verifiable, irreversible dismantling of North Korea’s weapons of mass destruction program and to do so without delay.[187]” )と演説する[188]。(なお、この演説で、短・中距離弾道ミサイルの廃棄(PVID又はCVID)について言及されたのか報道からは明らかでない。)
2018年5月9日、平壌で金正恩国務委員長と会談し、北朝鮮に拘束されていた韓国系米国人3名の解放を実現する。
2018年5月13日、米国のイラン核合意(JCPOA)離脱による経済制裁の再開は、欧州を狙ったものではないと説明し、イランの弾道ミサイルの開発や中東での影響力を制限する新しい合意を目指す考えを強調する。同月21日、イランに対し、「前例のない経済的圧力」をかけ、(1)ウラン濃縮停止、(2)国際原子力機関(IAEA)による全施設査察、(3)シリア撤退、(4)弾道ミサイル拡散停止、などを要求することを明らかにする[189]
米朝首脳会談を翌日に控えた2018年6月11日、米国が受け入れられる唯一の結果は、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)であるとし、北朝鮮が非核化するなら安全保障を提供する準備ができていると述べる[190]。米朝首脳による共同声明は、朝鮮半島の非核化、北朝鮮の安全保証等に関する抽象的な内容に留まったところ、同月13日、共同声明以外にも、両国間の合意事項が多くあることを明らかにしたが[42]、同月24日、非核化に向けた北朝鮮との交渉に期限を設けるつもりはないと述べ[191]、北朝鮮の核保有既成事実化の術中に嵌まったかの様相を呈する(北朝鮮に対する要求水準もCVIDから「最終的かつ完全に検証された非核化」(FFVD、en:Final, Fully Verified Denuclearization)に引き下げられる[192])。
2018年8月16日、国務省内にイラン政策を統括する組織を立ち上げると発表し、同省のブライアン・フックen:Brian Hook)政策企画局長をイラン担当特別代表に任命し、同組織のトップに充てる[193]
2019年3月13日、中国における人権侵害を批判し、ウイグル族(ug:ئۇيغۇر مىللىتىen:Uyghurszh:维吾尔族)のイスラム教徒、チベット族bo:བོད་མི།en:Tibetan peoplezh:藏族)、キリスト教徒に対する迫害を例示する[194]
1963年生。米国の北朝鮮担当特別代表(2018年~)。2019年2月の第2回米朝首脳会談に向け、北朝鮮の金革哲金赫哲〕(キム・ヒョクチョル、en:Kim Hyok Chol)米国担当特別代表と実務者協議を開催する[195]フォード・モーター副社長。
1964年生。フランスの外交官。ジャン=マルク・エローfr:Jean-Marc Ayrault)首相官房外交顧問(2012年-2014年)、駐オランダ大使(2014年-2016年)、ジャン=マルク・エロー外務・国際開発大臣官房長(2016年-2017年)、駐日大使(2017年~)。
2018年11月20日、有価証券報告書虚偽記載罪の容疑で東京地検特捜部に逮捕された、ルノーfr:Renault)・日産自動車三菱自動車工業の取締役会会長を兼任するカルロス・ゴーンpt:Carlos Ghosn)と東京拘置所で面会する[196]
1964年生(女性)。米国のアフリカ担当国務次官補(1997年-2001年)・国際連合大使(2009年-2013年)・国家安全保障問題担当大統領補佐官(2013年-2017年)。アフリカ系アメリカ人女性初の米国国連大使。
1965年生。シリアar:سورياen:Syriazh:叙利亚)の大統領(2000年~)。対イスラエル闘争を続けるパレスチナen:Palestinezh:巴勒斯坦地区)のハマスレバノンen:Lebanonzh:黎巴嫩)のヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、米国はシリアを「テロ支援国家」に指定し、また北朝鮮と核開発で協力しているとみている。ロシアen:Russiazh:俄罗斯)、イランen:Iranzh:伊朗)、北朝鮮と友好関係にある。2011年から続くシリア騒乱の当事者であり、イスラム国(ISIL、Islamic State in Iraq and the Levant)等と抗争する。
シリアの首都ダマスカスは、アンダルス(現在のスペイン)からインドまで広がるウマイヤ朝(661年-750年、en:Umayyad Caliphatees:Califato Omeyaar:الدولة الأمويةfa:خلافت امویzh:倭马亚王朝)の首都として栄えた。

1966年以降に生誕した者

1968年生(女性)。スウェーデンの政治家・欧州委員。スウェーデンの欧州担当大臣(2006-2010)、欧州連合の貿易担当欧州委員(en:European Commissioner for Trade、2014年~)。2017年、日本の岸田文雄外相と日本・EU経済連携協定(EPA)につき閣僚交渉を行う(日本・EU経済連携協定は2019年2月1日発効予定[197]。)。
2018年3月、米国通商拡大法232条に基づき安全保障を理由として米国が提案した、鉄鋼・アルミニウムに対する関税による輸入制限への対応を行う。米国がさらに自動車・自動車部品への関税措置の検討を表明する中、2018年5月31日、日米欧三極貿易担当閣僚会合に際して、世耕弘成経済産業大臣と共同声明を発表し、米国の関税措置につき、安全保障により正当化されるものではなく、WTOルールに基づく多角的貿易体制を崩壊させかねないとして、かかる懸念の米国との議論にあたって日本とEUが密接に協力し、他国にも連携を呼び掛ける方針を確認する[80]
1968年生(女性)。カナダの政治家、通商大臣(2015年‐2017年)、外務大臣(2017年~)。2018年6月1日、ドナルド・トランプ米国政権が欧州連合(EU)、カナダ、メキシコに対して鉄鋼・アルミニウムへの関税賦課による輸入制限を行ったことに対し、同日、カナダが世界貿易機関(WTO)に提訴したことを発表し、米国の安全保障を口実とした保護主義的な政策はWTO協定に違反していると主張し、同じくWTOに同日提訴したEUと緊密に連携していくと表明する[198](同月8日、WTOにおける米加間の協議に日本が参加意向であることをWTOに通知する[42]。)。
2018年7月25日、メキシコを訪問し、エンリケ・ペーニャ・ニエトes:Enrique Peña Nieto)大統領、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールes:Andrés Manuel López Obrador)次期大統領、グアハルド経済相、ビデガライ外相と個別に会談し、NAFTA再交渉について、米加墨3カ国での枠組みを守りながら、早期妥結に向け努力することで一致する[199]
2019年1月29日、政情不安が続くベネズエラ情勢(en:Crisis in Venezuelaes:Crisis en Venezuela)への対応を協議するため、同年2月4日、カナダと中南米13カ国で構成されるリマ・グループ(en:Lima Groupes:Grupo de Limapt:Grupo de Lima)の緊急会合をカナダのオタワで開催すると表明する[200]
1971年生。カナダの政治家、首相(2015年~)。2018年5月31日、ドナルド・トランプ米国政権が、米国通商拡大法232条に基づき安全保障を理由として欧州連合(EU)、カナダ、メキシコに対して鉄鋼・アルミニウムへの関税賦課による輸入制限を行うと発表したことに対し、同日、「米国民に他意はない。いずれ常識が戻るだろう。しかし、今回の決定にその兆しは見られない。」「過去150年の歴史の中で、カナダは米国とノルマンディーからアフガニスタンまで、戦いと死を共にした。そのカナダが米国安全保障上の脅威とは信じがたい。」と米国を非難する[83]
トランプ米国大統領による鉄鋼・アルミへの高関税賦課、イラン核合意離脱表明、等による米国と他の6カ国の対立が鮮明になる中、2018年6月9日、G7首脳会議(サミット)の議長として、「自由で公正で相互に有益な貿易と投資が成長と雇用の原動力である。」、「関税引下げや非関税障壁の撤廃に向け努力する。」、「イランの核開発が平和的なものであることを恒久的に保証できるよう努力する。」等の内容の首脳宣言をまとめる[201](しかし、途中退席していたトランプが、事後に宣言を承認しないと発表する[202]。)。
父であるピエール・トルドーは、首相として1971年に「多文化主義宣言」を行い、公用語を英仏二カ国語とするなど現在の多文化国家カナダの原型を作り上げる一方、米国との関係について「象と一緒に眠っているようだ。」と警戒感を示す(1969年)。
1972年生(女性)。米国の政治家。インド系アメリカ人。サウスカロライナ州知事(2011年-2017年)、米国の国際連合大使(2017年-2018年)。安全保障理事会においてシリア騒乱北朝鮮核ミサイル問題などの懸案に対応する。
在イスラエル米国大使館のエルサレム移転に抗議するガザ地区のデモ隊に対し、イスラエル軍が発砲し、多数の犠牲者が出たことを受け開催された、2018年5月15日の国連安保理緊急会合において、会合冒頭の犠牲者への黙祷には参加せず、各国からイスラエル軍への非難が相次ぐ中、イスラエルを擁護し、終盤のパレスチナ自治政府の国連大使の演説の前に議場を立ち去る[203]
2018年6月1日、安保理において、クウェートが提出した、イスラエル軍の武力行使にさらされるパレスチナ市民の保護を求める決議案に対し、フランス・ロシアなど10カ国が賛成(イギリスなど4カ国は棄権)したにもかかわらず、「テロ組織であるハマスに言及がなく、イスラエルの非難ばかりして一方的である。」と主張して米国のみが反対し、拒否権を行使する。他方、米国はハマスの暴力への非難を盛り込んだ決議案を提出して対抗したが、拒否権を持つロシアなど3カ国が反対し、11カ国が棄権し、同案も否決される[198]
2018年6月19日、米国が国際連合人権理事会en:United Nations Human Rights Council)から公式に離脱すると表明する[204]
1972年生。ベネズエラの外交官、駐日大使(2005年~)。父母ともに日系ベネズエラ人。
ベネズエラes:Venezuela)の原油確認埋蔵量は、サウジアラビアを上回り、世界1位である。しかし、政治・経済が不安定であり、2010年代に入ってから、ハイパーインフレーションが慢性化し、市民生活が混乱に陥る危機的状況(en:Crisis in Venezuelaes:Crisis en Venezuela)となっている[205][206]。政情混乱が続く2019年1月24日、ベネズエラの野党指導者フアン・グアイドes:Juan Guaidó)国会議長が暫定大統領就任を宣言すると(en:2019 Venezuelan presidential crisises:Crisis presidencial de Venezuela de 2019)、米国を初めとする米州各国がこれを承認したのに対し、ニコラス・マドゥロes:Nicolás Maduro)ベネズエラ大統領はこれに反発し、米国との断交を宣言する[207]
2019年2月1日、イシカワは、グアイド暫定大統領に正統性がないと表明する一方、米国による軍事介入を回避するため、マドゥロ政権は野党勢力との対話の道を閉ざしていないと訴える[208]
1973年生(女性)。イタリアの政治家。イタリアの外務大臣(2014年2月-2014年10月)、欧州委員会副委員長兼欧州連合外務・安全保障政策上級代表en:High Representative of the Union for Foreign Affairs and Security Policy、2014年11月~)。2015年イランの外相モハンマド・ジャヴァード・ザリーフfa:محمدجواد ظریفen:Mohammad Javad Zarif)と、イランの核開発問題に関するイラン核合意(en:Iran nuclear deal framework、包括的共同作業計画(JCPOA)、en:Joint Comprehensive Plan of Actionfa:برنامه جامع اقدام مشترک)の交渉にあたり、2015年7月14日に協定を取りまとめる。
2018年4月、G7外相会合において、カナダ外相クリスティア・フリーランド(en:Chrystia Freelandfr:Chrystia Freelandzh:方慧蘭)と共同で、女性の活躍を後押しすること等を目的に、世界の女性外相を集めた会合を同年9月に開催することを表明する[209](9月21日モントリオールで開催。日本の河野太郎外相が唯一の男性として出席する[210]。)。
2018年10月、ドナルド・トランプ米政権が中距離核戦力(INF)全廃条約の破棄を表明したことに対し、同盟国、世界全体の安全保障へ及ぼす影響を考慮するよう、米国に要求する[211]。射程500kmから5500kmの中距離核戦力は、ロシアにとって主として欧州を標的とするものであるが、シベリアからは日本、中国全体も射程内である。
1977年生。フランスの大統領(2017年~)。2018年4月25日、米国議会での演説に際し、「米国第一主義」に基づく、貿易、気候、核拡散防止におけるドナルド・トランプ大統領の政策に反対姿勢を表明し、「われわれは、新たな種類の多国間主義fr:Multilatéralismeen:Multilateralismzh:多邊主義)を基礎に、より効果的で、責任ある、結果志向の多国間主義を基礎に、21世紀の世界秩序を構築することができる」("We can build the 21st century world order based on a new breed multilateralism, based on a more effective, accountable, and results-oriented multilateralism.[212]")と述べ、ルールに基づく世界秩序を擁護する[213]
2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱表明を受け、同日、アンゲラ・メルケルドイツ首相、テリーザ・メイイギリス首相と共同声明を発表し、全関係者にイラン核合意実施継続への努力維持と責任感ある行動を要請する、と表明する[149]
2018年11月11日の第一次世界大戦終結100周年を前に、同月5日、中国ロシア米国から欧州を防衛するために、「真の欧州軍」が必要であると発言する。EUは2017年、欧州の軍事力の増強、戦略的自立のために欧州防衛基金(EDF、en:Eupopean Defense Fund)を創設している[214]
2019年1月22日、ドイツのメルケル首相と、両国の協力強化を定めた独仏協力・統合条約(アーヘン条約)を締結する。両国の第二次世界大戦後の和解の基礎となった1963年の仏独協力条約(エリゼ条約、fr:Traité de l'Élyséede:Élysée-Vertragen:Élysée Treaty)以来、56年ぶりの包括的友好条約である。
1980年生。カタールの首長(2013年~)。2017年6月5日、サウジアラビアと対立するイランへの過度な接近やムスリム同胞団への支援を理由に、サウジアラビア等のペルシャ湾岸諸国、エジプトなどから国交断絶を宣言される(2017年カタール外交危機)。
1984年生。朝鮮民主主義人民共和国の第3代最高指導者(2011年~)、朝鮮人民軍第3代最高司令官(2011年~)。母は大阪市生野区鶴橋生まれの元在日朝鮮人高英姫(コウ・ヨンヒ)。金与正(キム・ヨジョン)は実妹。
北朝鮮核ミサイル問題などの中心にいる。
2018年3月6日、韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安全保障室長との会談で、「朝鮮半島非核化」の意思と、「体制の安全」が保障されれば核を保有する理由がないことを示す。[215]
北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談(2018年4月27日開催)、米朝首脳会談(同年6月12日開催)に先立つ、同年4月20日、(米国を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM、en:Intercontinental ballistic missile)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言する(なお、すでに保有する、日本全域・グアム島を含む東アジアを射程とする短距離弾道ミサイル(SRBM、en:Short-range ballistic missile)及び中距離弾道ミサイル(IRBM、en:Intermediate-range ballistic missile)、並びに核兵器の放棄には言及していない)。
2018年4月27日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と、軍事境界線のある板門店で、11年ぶりとなる南北首脳会談を開催し、「完全な非核化を通じて、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」とする「板門店宣言」(ko:판문점 선언en:Panmunjom Declarationzh:板门店宣言)を共同発表する[216]。なお、同宣言は北朝鮮拉致問題、非核化に向けた具体的プロセスに言及していない。
2018年5月7日・8日に訪中し、習近平国家主席に対し、米国と非核化について包括的合意に至った場合における、非核化プロセスの中間段階での中国からの経済的支援を要請する[217]
2018年5月16日、李善権(リ・ソングォン)祖国平和統一委員長の名前で、米韓合同空軍演習「マックスサンダー」が実施されていることを理由に、同日開催予定であった南北閣僚級会談の無期延期を通告する[77]金桂冠(キム・ゲグァン、ko:김계관en:Kim Kye-gwan)第1外務次官の談話として、ボルトン米国大統領補佐官が「核放棄先行」や「完全で検証可能かつ不可逆な非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)」を要求していることを非難し、トランプ政権が一方的な核放棄を強要するなら朝米首脳会談に応じるか否かを再考せざるを得ない、と表明する[178]
2018年5月24日、トランプ米国大統領が米朝首脳会談の中止を発表したことを受け、同月25日午後、文在寅韓国大統領に「形式は問わないので会いたい」と伝え、翌26日、秘密裏に板門店で会談し、「半島の完全な非核化についての意思が確固としている」ことを表明する[218][219]
2018年6月12日、シンガポールにおいて、トランプ米国大統領と史上初の米朝首脳会談を実現し、朝鮮半島の完全な非核化、北朝鮮の安全保証等を内容とする共同声明を発表する[95]
生野区に在日朝鮮人・韓国人が多い(2016年10月現在約2万3500人、区人口の約18%)のは、1910年の韓国併合後の時期に生野区(旧猪飼野地域)で実施された平野川治水工事に朝鮮半島から多くの作業員が参加し、定住し、さらに1922年の大阪-済州島ko:제주도en:Jeju Island)間定期直行船君が代丸の就航、1948年の済州島四・三事件により出稼ぎ者や避難者が知人・親戚を頼り、生野区に移り住んだためである。
なお、7世紀にも朝鮮半島の百済(346年頃-660年、ko:백제en:Baekje)から同国の王子善光百済王氏(くだらのこにきしし)の始祖)を含む多数の渡来人が来日し、知識・技術をもたらした。生野区西部、天王寺区南東部、東住吉区北部などに定住し、これらの地域に百済郡(くだらのこおり)、北百済村南百済村関西本線百済駅がかつて存在し、現在でも百済貨物ターミナル駅に名残がある。

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