夏目漱石 経歴

夏目漱石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 23:48 UTC 版)

経歴

講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。

大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。

帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンカムデン区ランベス区などに居住した。

帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。

幼少期

夏目漱石誕生之地碑
夏目漱石の母・千枝

夏目 金之助(後の漱石)は、1867年2月9日慶応3年1月5日)に江戸牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった[6]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。

名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。

金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[7]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。

5、6歳頃の金之助

金之助はその後、1868年明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[8]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校[注 2]に入学したが、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[9]。しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注 3]に入学し、頭角を現した。

大学予備門時代の漱石

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注 4]

正岡子規との出会い

夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル)

1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。

帝国大学時代の漱石(1892年12月)

1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移す[10]。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退。

イギリス留学

高等師範学校教師の漱石(1894年3月)

1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉円覚寺釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。

愛媛県尋常中学校教師の漱石(1896年3月)

1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。

1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。

1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[11]

1900年7月頃[12]、イギリス留学に当たり熊本市冨重写真館で撮影した送別写真[13]。前列右が漱石、左が奥太一郎、後列左が遠山参良、右は五高生徒木村鎮太か[12]
ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家。ランベス区#関係者も参照

1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発[14]。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており[15]精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという[16]

当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館[17]。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された[18]

作家への道と朝日新聞社入社

帰国後の漱石が居住した千駄木の邸宅(現在は博物館明治村へ移築)。漱石の前は森鷗外が住んでいた。

1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国[19]。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった[注 5]

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。川田順のように「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に転じた学生もいた。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務める(月給30円)。


その年の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊っちゃん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

千駄木邸書斎の漱石(1906年)

1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆鈴木三重吉森田草平などが出入りしていたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたすようになったので、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになった(1906年10月8日付書簡によれば、10月11日から。)。

漱石が東京帝国大学総長の濱尾新へ宛てた辞表(1907年)

1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)栃木県塩原心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。

1909年(明治42年)、親友だった南満州鉄道総裁・中村是公の招きで満州朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。

修善寺の大患

早稲田南町の邸宅「漱石山房」における晩年の漱石(1915年7月)
夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)

1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾患になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。

同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、にかかり通院。1912年大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。

1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最期の言葉ともされる[注 6]

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出されたは寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。

1984年昭和59年)から2004年平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。


注釈

  1. ^ 原武哲『喪章を着けた千円札の漱石―伝記と考証』(笠間書院 2003年 ISBN 978-4305702548)によれば9月19日と推測している。
  2. ^ 当時は学校のあった地名をとって一ツ橋中学ないし一ツ橋尋常中学とも呼ばれた。
  3. ^ 現在の成立学園とは無関係。
  4. ^ スコットランド出身のジェームズ・マードックにかわいがられ、教室以外でも先生の家に招かれて教えられ、「マードックさんは僕の先生だ。……英国人もあんな人許(ばかり)だと結構だが」と野間真綱宛ての書簡に書いたり、マードックの『日本史』に推薦文を書いたりしている(平川祐弘『漱石の師マードック先生』講談社学術文庫 1884年)。
  5. ^ 狩野宛書簡に「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰つて来た。日本人が英国人を真似ろ\/と云ふのは何を真似ろと云ふのか今以て分からない」と書いている。
  6. ^ 夏目伸六の『父・漱石とその周辺』によれば次のよう。

    ふと眼を開けた父の最期の言葉は、

    「何か喰いたい」
     という、この期に及んで未だに満し得ぬ食欲への切実な願望だったのである。で、早速、医者の計いで一匙の葡萄酒が与えられることになったが、
    「うまい」

     父は最後の望みをこの一匙の葡萄酒のなかに味わって、又静かに眼を閉じたのである。

  7. ^ 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)
  8. ^ 茂木健一郎所蔵。『アナザースカイ』(日本テレビ) 2009年7月3日放映分にて披露。100万円で購入したそうである。
  9. ^ 『硝子戸の中』に関連する記述あり。
  10. ^ 松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
  11. ^ 菊池寛との親交が深かったことで、「父・夏目漱石」(文藝春秋社)を発表した。
  12. ^ 門下生が集まれば必ず牛鍋を囲む。羊羹、お汁粉、ケーキなど甘いものが好きで、特にお気に入りは自家製アイスクリームだった。胃弱のためには大量の鶏肉を使ったスープを飲んでいたという。なぜか鳥類のもらい物も多かった。シャモ、カモ、山鳥、キジなどで、知人宅での雁の料理に舌鼓を打ったこともあったらしい(河内一郎『漱石、ジャムを舐める』新潮文庫
  13. ^ 「吾輩は-」には1か月に8缶も舐めたとの記述がある。
  14. ^ 医師の松本健次郎は「漱石非精神病説」を主張している。漱石の精神病説の根拠は熊本の五高を辞職する時に出された神経衰弱の診断書と、妻、夏目鏡子の回想記『漱石の思ひ出』などに描かれた漱石の言動の記述や、同書で東大精神科の呉秀三が、漱石を診断し、鏡子に漱石が病気であると告げたという記述があることであるが、辞職のために、五高に提出した診断書も書いた呉は、漱石が親しい菅虎雄の親友であり、また夏目家の家庭医、尼子四郎とも親しかった。当時、実家に戻っていた、鏡子を、尼子を通した依頼で呉が説得した言葉が、鏡子のなかで漱石が精神病者であるという記憶に変わっていったのではないかと主張している。『漱石の思ひ出』の記述を引用しただけの漱石の病跡学は学問的でないと主張している。『漱石の精神界』松本 健次郎 (著) 金剛出版 (1981/01) ISBN 4772401377
  15. ^ 山下浩初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』を参照。
  16. ^ これより前に漱石が使用した例としては「同時にスコット一派の浪漫派を生まんがために存在した時期である。」(『野分』11章、1907年1月)が最も早い。また翌年の講演『創作家の態度』では「浪漫派」「浪漫主義」の語句が多く用いられている。
  17. ^ 初版は十字屋書店。昭和41年(1966年)に、朝日新聞社で新装再刊。
  18. ^ たとえば押韻の問題について全く踏まえていないなどの問題があるとされる[要出典]
  19. ^ 夏目漱石他著の小説文庫版の巻末参照

出典

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  36. ^ 「思い出るまま(九)師弟と朋党」(『徳田秋聲全集』第22巻、2001年、八木書店)。紅葉の場合、門下生に交替で自宅の玄関番をさせたり、代作をさせたりするなど、徒弟制の性格が強いものであった。
  37. ^ 「夏目先生のこと」(『阿部次郎全集』第13巻、1962年、角川書店)
  38. ^ 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 (朝日新聞出版、2018年)
  39. ^ 永田哲夫「白樺派研究 漱石への接近」、高知大学学術研究報告人文科学17(10)、1969年3月、高知大学
  40. ^ 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 (朝日新聞出版、2018年)
  41. ^ 佐々木亜紀子 野上彌生子の 先生 漱石という体験 教養と教育 共通科目研究交流誌 5 2005年 愛知教育大学
  42. ^ 『日本の文学 夏目漱石(三)』付録32「漱石山脈について」(中央公論社、1966年9月)
  43. ^ 現代に於ける「漱石文化」(『世界の一環としての日本』白揚社、1937年)
  44. ^ 『武者小路実篤全集』第9巻「後書き」(1955年、新潮社)
  45. ^ 長尾剛『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年
  46. ^ 1993年版全集第25巻「後記」
  47. ^ 漱石の全集未収録随筆を発掘 作家の黒川創さんが小説に 1/2産経新聞』(2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
  48. ^ 夏目漱石「韓満所感」(抜粋) 『産経新聞』(2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
  49. ^ 日本人に生まれて、まあよかった 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 1/4 『産経新聞』(2013年4月3日). 2013年8月7日閲覧。
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  51. ^ 夏目漱石「韓満所感」(抜粋) 『産経新聞』(2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
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  57. ^ 一橋大学・景(加藤)慧(Jing, Hui)ら
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  59. ^ 岩波書店刊行
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  61. ^ 『漱石の漢詩』(文藝春秋・文春学藝ライブラリー(文庫)、2016年(平成28年))
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  63. ^ 漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト(東北大学附属図書館 2019/11/05 公開) - Readyfor
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  65. ^ 世界文学のスーパースター夏目漱石』講談社インターナショナル、2007年
  66. ^ 江上茂『差別用語を見直す』p.81
  67. ^ a b 江上茂『差別用語を見直す』p.124
  68. ^ a b 夏目漱石『硝子戸の中』
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  70. ^ 野町均『永井荷風と部落問題』リベルタ出版、2012年、74-77頁。
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  72. ^ a b 不朽の名作×人気漫画家!『BLEACH』作者が『地獄変』表紙を描き下ろし”. ORICON NEWS. ORICON (2009年6月18日). 2018年3月14日閲覧。
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  78. ^ にぐるた「「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証」『にぐるたの物置』
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