塙保己一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 09:14 UTC 版)
塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。
注釈
- ^ 『塙先生伝』に「母をうしないてこひしのぶこと尋常ならず、是より漸く東都に出て、業を成すべき心起こされ」とある。
- ^ 15歳で江戸に出て、雨富須賀一に入門したとする説もある。その根拠として、保己一の結婚まもなくの頃に書かれた随筆『一話一言』の中で、親友大田は「十余歳にして江戸に出て、高井下総守殿につかふ」と記している。『温故先生伝』に「十三のとし江戸へいてて鍼術をまなひけるにすこふるその妙をえたり」「数年高井大隅守に宿居いた」とある。
- ^ その年の10月に真淵が死去。保己一が教えを受けたのはわずか半年であった。
- ^ 版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている[2]。
- ^ それまでは医者は男性しかなることができなかった。
- ^ やがて昭和2年(1927年)に温故学会会館(東京都渋谷区)を建設。同会館は2000年に登録有形文化財に登録された。
- ^ 現在の「株式会社国書刊行会」(1971年10月創業)とは無関係
- ^ 現在ではその結論は否定されている。
出典
- ^ 「近世の考証的学問から近代国学へ」藤田大誠『近世日本の歴史叙述と対外意識』所収p393-p394
- ^ 熊田淳美『三大編纂物:群書類従・古事類苑・国書総目録の出版文化史』(勉誠出版、2009年。ISBN 9784585032212)に詳しい。
- ^ 埼玉県立久喜図書館 (2009年11月18日). “塙保己一のことを詠んだ「番町で目明き盲に道をきき」という川柳の出典を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2023年11月5日閲覧。
- ^ 宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)より。
- ^ a b ヘレン・ケラー温故学会を訪問
- ^ “塙保己一墓所の移転(平成24年9月1日号)”. 本庄市 (2020年10月1日). 2022年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月27日閲覧。
塙保己一と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 塙保己一のページへのリンク