報国丸 (特設巡洋艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 07:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動報国丸 | |
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![]() 報国丸。1940年撮影。 | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | 報国丸型貨客船 |
船籍 |
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所有者 | 大阪商船 |
運用者 |
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建造所 | 玉造船所 |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 |
愛国丸 護国丸 |
航行区域 | 遠洋 |
信号符字 | JCSN |
IMO番号 | 46833(※船舶番号) |
建造期間 | 668日 |
就航期間 | 880日 |
経歴 | |
起工 | 1938年8月18日 |
進水 | 1939年7月5日 |
竣工 | 1940年6月15日 |
最後 | 1942年11月11日被弾沈没 |
要目 | |
総トン数 | 10,439トン |
純トン数 | 6,134トン |
排水量 | 不明 |
全長 | 160.8m |
垂線間長 | 152.25m |
幅 | 20.2m |
深さ | 12.40m |
高さ |
26.21m(水面から1・4番マスト最上端まで) 17.98m(水面から2・3番マスト最上端まで) |
喫水 | 8.8m |
機関方式 | 三井製B&W式2衝程単働トランク型ディーゼル機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 19,427BHP |
定格出力 | 13,000BHP |
最大速力 | 21.148ノット |
航海速力 | 17ノット |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 |
1等48名 特別3等48名 3等304名 |
乗組員 | 不明 |
1941年8月29日徴用。 高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記) |
報国丸 | |
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![]() 1942年、シンガポール・セレター軍港での報国丸 | |
基本情報 | |
艦種 | 特設巡洋艦 |
艦歴 | |
就役 | 1941年8月29日(海軍籍に編入時) |
要目 | |
兵装 |
安式15cm砲8門(後に三年式14cm砲8門に換装) 九三式13mm対空機銃連装2基4門(後に九六式25mm連装機銃2基を増備) 六年式53cm連装水上発射管2基4門 |
装甲 | なし |
搭載機 | 九四式水上偵察機2機(1機は補用)(後に零式水上偵察機2機(1機は補用)に変更) |
その他 | 潜水艦用補給物資を搭載可能 |
徴用に際し変更された要目のみ表記 |
艦歴
大阪商船が南アフリカ航路へ投入する初めての新造船として計画、1940年(昭和15年)6月に完成した。優秀船舶建造助成施設の適用を受け、有事の徴用を前提として建造された。しかし、完成したものの実際に南アフリカ航海を行ったのは1度のみで、あとは専ら大連航路へと投入された。これは優秀船を近海で温存する方針だった政府の指令によるものである(優秀船舶建造助成施設の適用条件の一つとして、政府による運航命令に従うことが定められていた)。
1941年8月29日に海軍に徴用され、三菱長崎造船所で特設巡洋艦としての改装を受ける。
10月15日付で「報国丸」と「愛国丸」で第二十四戦隊(連合艦隊直属、司令官武田盛治少将(海軍兵学校38期[2])を編成[3]。第二十四戦隊は太平洋戦争開戦後南太平洋中部で通商破壊を行なうこととされた[4]。 11月15日夕方、愛国丸とともに岩国を出撃し[5]、11月24日にジャルート環礁に到着[5]。休息の後、11月26日に出撃してツアモツ諸島東方に向かった[5][6]。12月8日の開戦を南緯14度52分 西経133度19分 / 南緯14.867度 西経133.317度の地点で迎え[6]、シドニーとパナマ間の大圏航路を捜索する[7]。12月13日、南緯22度38分 西経118度14分 / 南緯22.633度 西経118.233度の地点で東航する米貨物船ヴィンセント[8](Vincent 、6,210トン)[9]を発見し、同船は戦隊に警告を受けたがこれを無視して逃走しようとしたため、砲撃された。砲撃のち雷撃により撃沈して[10]38名の乗員を捕虜としたが[7]、SOSを発信して警報が発せられたのを受信[11]。警戒が厳重になる事が予想されたため、ニュージーランド寄りの航路の捜索に転じることとなった[12]。12月21日に漂泊して整備を行い[13]、年明けの1942年(昭和17年)1月1日、水上偵察機を発進させて新たな獲物の捜索に乗り出した[14]。しかし、報国丸の水上偵察機が行方不明となり、その捜索を行っていたところ、翌1月2日に米貨物船マラマ(Malama 、3,275トン[14])[15]を発見して爆撃を行う[16]。やがて戦隊も追いついてマラマを撃沈し、乗員38名を救助して捕虜とした[16]。「報国丸」は魚雷1本を発射し命中させている[14]。また、報国丸の水上偵察機は未帰還となった[14]。マラマはすでにSOSを発信しており、ラロトンガ島の受信局がこれを受信して警報が発せられたのを傍受し、ツアモツ諸島北西海域に移動する[17]。折りしも雨季に差しかかった事や、マーシャル諸島近海にアメリカの機動部隊や潜水艦の出現の兆候が見られたことによりトラックへの帰投に決した[18]。2月4日にトラックに帰投後、次期作戦のため日本本土に回航されるが、2月11日に九州南方でソ連貨物船キム(Kim、5,113トン[19])を臨検するも、疑わしい所がなかったため釈放した[20]。2月12日に大分港に到着し、日系人1名を含む[21]捕虜76名を大分航空隊に引き渡した後、2月14日に呉に帰投[20]。
南太平洋での通商破壊は効率が良くなかったため、第二十四戦隊は3月づけで解隊され、報国丸と愛国丸は一時的に第六艦隊第八潜水戦隊の付属となった。これは同戦隊のインド洋での通商破壊に協力するためである。報国丸、愛国丸の両船とも、この任務のために燃料や魚雷を潜水艦へ補給するための設備を設け、その改装期間中に主砲を3年式14cm単装砲に換装した。
改装なって4月12日、報国丸は愛国丸とともに呉を出発、同25日にペナン島に到着した。ペナン出撃は4月30日で、その10日後の5月9日に早くもこの作戦の最初の戦果となるオランダのタンカー、ヘノタ(約15,000総トン)を拿捕する。ヘノタは後に特設給油艦大瀬となった。およそ一月後の6月5日、モザンビーク海峡南方でイギリスの商船エリシア(6,757総トン)を発見し、撃沈。6月17日には、第八潜水戦隊甲先遣隊に補給を行った。なお、甲先遣隊の内の何隻かは数週間前に特殊潜航艇をもってマダガスカルの戦いに参加したものである。これからまた一月ほど経った7月12日、ニュージーランドの貨物船ハウラキ(7,113総トン)を拿捕(ハウラキは後に伯耆丸と改名され海軍が徴用)、その後に作戦を終了しペナンに帰投した。作戦中、明記した以外にも報国丸と愛国丸の両船は何度か潜水艦に補給を行っている。
ペナンに帰港後、両船は南西方面部隊に所属し、シンガポール-ラバウル間の輸送任務に就いた。この間に、シンガポールのセレター軍港で25mm機銃と搭載機(補用機)の増備を行ったという。
11月1日、報国丸は再びインド洋で通商破壊を行うため、愛国丸とともにシンガポールを出撃した。スンダ海峡を抜けインド洋に出た報国丸は11月11日にオランダのタンカー、オンディナ(6,341総トン)とその護衛にあたっていたイギリス海軍(正確にはインド植民地海軍)の掃海艇ベンガルを発見する。この頃、愛国丸はやや離れた位置にあって索敵にあたっていた。オンディナは以前に拿捕したゼノタと同じくロイヤル・ダッチ・シェル系のラ・コロナ所属のタンカーであった。
報国丸はベンガルとオンディナに停船命令を発しつつ両船に近づいた。これに対し、ベンガルは75mm(12ポンド)単装砲1基と機銃若干のみという報国丸に比べれば遙かに劣勢な武装であったが、オンディナを逃走させるために前面に出て戦闘を開始した。オンディナも逃走を図りつつ唯一の備砲であった4インチ(102 mm)単装砲を発射、報国丸に数発の命中弾を与えた。この命中弾が報国丸にとって致命傷となる。被弾により報国丸の後部船体で火災が発生、火災は瞬く間に延焼し魚雷発射管の魚雷と搭載機にまで炎が及んで誘爆が始まった。消火作業と魚雷の投棄が命じられたものの火勢は強く、補給用の魚雷庫まで炎上させて、誘爆を拡大させた。正規軍艦に比べ防御力の弱い報国丸は損傷に耐えきれず、やがて沈没してしまった。合流した愛国丸も報国丸を救うことはできず、砲雷撃によってベンガルを逃走させオンディナを炎上・放棄させた以外には、報国丸の生存者を救助することしかできなかった。
なお放棄されたオンディナは、後に漂流中のところを脱出した同船乗組員が発見し、復旧の上フリーマントルに帰還している。
艦長
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- ^ Hokoku_Maru_class
- ^ 木俣『日本軽巡戦史』205ページ
- ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、40ページ
- ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、40、42ページ
- ^ a b c 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.9
- ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.7
- ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
- ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、42ページでは「セント・ビンセント」
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,41,42,50
- ^ 木俣『日本軽巡戦史』207ページ
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,9
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.45
- ^ a b c d 木俣『日本軽巡戦史』208ページ
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.43
- ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11,12
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.12
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.4
- ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.13
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.2
- ^ 『日本海軍史』第9巻、595頁。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、679頁。
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- 2 報国丸 (特設巡洋艦)の概要
- 3 同型艦
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