土方久功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:29 UTC 版)
土方 久功 ひじかた ひさかつ | |
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生誕 | 同 1900年7月13日 ![]() |
死没 | 1977年1月11日(76歳没) 東京都 |
国籍 | ![]() |
教育 | 東京美術学校(現在の東京藝術大学) |
著名な実績 | 彫刻家 民俗学者 画家 |
代表作 | 『パラオ連作』、絵本『ぶたぶたくんのおかいもの』『おによりつよいおれまーい』 |
人物・来歴
1900年(明治33年)7月13日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1]。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵・土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵・柴山矢八、築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる[2]。
旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学する[3]。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した[2]。1924年(大正13年)、同学を卒業[4]。同年、土方与志が築地小劇場を設立、同劇場の「葡萄の房」章は久功がデザインしたものである[2]。
1929年(昭和4年)、パラオに渡り[1]、公学校(現地住民の初等教育学校)の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する[2]。1931年(昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島(現在のサタワル島)に渡り、7年間を同島で過ごす[2]。1939年(昭和14年)、パラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務する[2]。トラック諸島(現在のチューク諸島)、ポナペ島(現在のポンペイ島)、クサイ島(現在のコスラエ島)、ヤルート(現在のジャルート環礁)、サイパン島、ロタ島を引き続き調査する[2]。1942年(昭和17年)、小説家の中島敦とともに帰国した[2]。同年、ボルネオ調査団に参加し、同年から日本が統治した北ボルネオを調査した[2]。
1944年(昭和19年)、病を得て帰国、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開する[2]。第二次世界大戦終了後、1949年(昭和24年)、東京都世田谷区に移転、彫刻家となる[2]。
『サテワヌ島民話』(1953年)は、土方が文字を持たないサテワヌ島で民話を採録しローマ字表記と日本語対訳を収録したもの。彫刻家としての制作の傍ら、「非詩集ボロ」(1955年)「青蜥蜴の夢」(1956年)などの詩集も刊行。土方はまた、福音館書店の編集者松居直に是非にと請われて、1963年から1975年にかけて月刊絵本こどものともで計4冊の絵本を手掛けている[5]。
1977年(昭和52年)1月11日、心不全で死去した[1][2]。満76歳没。
家族
- 父・土方久路(1870-1919) - 伯爵土方久元の弟(土方久用四男)。兄の久成(久用三男)が36歳で没したため久成の養子となり死籍を継ぐ[6]。陸軍士官学校を経て、ドイツ駐在後、千葉県四街道の陸軍野戦砲兵射撃学校教官、陸軍砲兵大佐となったが、肺病で休職、退役、死去した[7][8]。
- 母・初枝 - 男爵柴山矢八の長女
- 兄・土方久俊
- 弟・土方久顕
- 妹・英子 - 中澤佑の妻
- ^ a b c d e 土方久功、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年1月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「土方久功 年譜」、やしの実大学、2010年1月2日閲覧。
- ^ 『官報』第1998号、大正8年4月4日、p.116.
- ^ 『東京美術学校一覧 従大正12年至大正14年』東京美術学校、1925年、204頁。NDLJP:940892/109。
- ^ 松居直「土方久功の造型」『絵本・物語るよろこび』99-109ページ
- ^ 土方家・本田家系図清水久夫、国立民族学博物館調査報告89、2010-02-26
- ^ 書籍の紹介『土方久功日記』一般社団法人太平洋協会
- ^ 『土方久功著作集, 第3巻』三一書房, 1990、p272
- ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2010年1月2日閲覧。
- 1 土方久功とは
- 2 土方久功の概要
- 3 ビブリオグラフィ
- 4 参考文献
固有名詞の分類
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