国家社会主義ドイツ労働者党 党史

国家社会主義ドイツ労働者党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/15 17:32 UTC 版)

党史

黎明期

第一次世界大戦中の1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」という労働者グループがブレーメンで結成された。国有鉄道ミュンヘン本工場に勤務する鉄道金具工[38]アントン・ドレクスラーはその地方組織を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。この団体はマルクス主義、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ人、フリーメーソン、戦時不当利得者、ヤミ商人と闘争することを目的としていた[39]

この委員会に参加したのはドレクスラーの同僚であるミュンヘン鉄道工場の熟練工たちが中心だったが、委員会の好戦的ナショナリズムは、厭戦気分が高まっていた大戦末の人民の感情とかみ合っておらず、支持者は一向に増えず、会員40人を超えることができないでいた[39]

そこでドレクスラーは10月2日にトゥーレ協会会員でジャーナリストのカール・ハラーとともに「政治的労働者サークル」を結成し、トゥーレ協会の後援を受けてドイツ労働者党の結成準備を行った。トゥーレ協会は右翼民族主義団体「ゲルマン騎士団」のバイエルン地方支部を基礎として1918年1月に結成された反ユダヤ主義的な右翼団体であり、当時バイエルンにおいて220人ほどの会員をもち、バイエルンにおける様々な右翼団体・反ユダヤ主義団体に影響力を持っていた[40]

ドイツ労働者党

1919年1月5日、ドレクスラーの同僚の鉄道員25人が集まったミュンヘンの酒場「フュルステンフェルダー・ホーフ(Fürstenfelder Hof)」での集会においてドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)の結党が行われた。党首にあたる第一議長にはハラーが就任した。結党時の党員は40人ほどであり、社会主義反ユダヤ主義の色彩を帯びたナショナリズムを標榜した[38]

この際にドレクスラーもトゥーレ協会へ加入し、ディートリヒ・エッカートゴットフリート・フェーダーといったトゥーレ協会員たちがドイツ労働者党に協力し、ドレクスラーの活動にも影響を与えるようになった[41]。「政治的労働者サークル」はもっぱらトゥーレ協会の指揮下にあったが、ドイツ労働者党は本質的にドレクスラーが作った党であり、彼の起草による方針を定めた。その方針には次のようなものがあった。「党は精神的および肉体的な意味での創造的な民族同胞をすべて糾合した社会主義的組織であって、ただドイツ人指導者によってのみ指導される。」「党はドイツ労働者の高尚化を欲する。熟練の定住労働者は中産階級としての評価を受ける権利を持つ。労働者とプロレタリアとの間には厳重な区別が設けられなければならない」「大資本はパン及び労働者の供給者であるから保護しなければならない。彼らが労働者を無遠慮に搾取して、労働者の人間らしい存在を不可能にしない限りは」「党はドイツ経済生活の社会化はドイツ国民経済を破滅させると考える。ゆえに社会化なしで労働者に対する利益の分配が必要である」「党は全力を挙げて不当利得者、物価つり上げに反対する。何らの価値も創造しない者、いかなる精神的・肉体的労働も行わない者が高い利得を得ることには反対する」「党の主要目標の一つは手工業の奨励である。最も有能な手工業者はもっと多くの利得を得るべきであり、熟練労働者は中産階級と同等の国家公民であるべきである。大資本主義者の犠牲となっている中産階級の増大と安定が必要である」[42]

バイエルンに社会主義政権が君臨している間は反ユダヤ主義に反対する空気がこの地方に強かったので、ドイツ労働党も公然たるユダヤ人攻撃は控えていたが、政府軍のミュンヘン進攻を受けてレーテ共和国が崩壊した後には反ユダヤ主義言論を強めるようになった[42]

ヒトラーの入党

ヒトラーの党員証

レーテ共和国崩壊後のアドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンを占領したアルノルト・フォン・メールドイツ語版歩兵大将を司令官とする政府軍(ドイツ国軍第4軍集団を名乗っていた)が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であるカール・マイヤー大尉にスパイを命じられたためであった。同党が1919年9月12日にミュンヘン中心部タール街ドイツ語版54番地にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイドイツ語版」で開いた集会に参加したヒトラーは、ドイツ統一主義者として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマンドイツ語版教授と激論した。これをきっかけにドレクスラーから注目され、彼のパンフレット『我が政治的目覚め あるドイツの社会主義的労働者の日記より (Mein politisches Erwachen aus dem Tagebuch eines deutschen sozialistischen Arbeiters)』を贈られるとともに再来を懇願された[43]

その後ヒトラーの下に「入党許可状」付きのはがきが送られてきて、9月16日にヘーレン通り(Herrnstraße)にある「アルテス・ローゼンバート(Altes Rosenbad)」で開催される党委員会に出席してほしいと要請があった[44]。『我が闘争』の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会に出席した後にヒトラーはこの党のために活動することを決心したという[45]。マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党した[46]

ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない[47]

ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任

ヒトラーは自身が党を指導するようになってから党員や聴衆が急増したことを印象付けようとして初期の党を実際以上に小政党に描こうとする傾向があり[48]、『我が闘争』の中では1919年10月16日の「ホフブロイハウス」での集会の聴衆を111人、11月13日の「エーベルブロイケラー」での集会を130人、12月20日の「ドイチェス・ビアホール」での集会を140人だったとしているが[49]、ミュンヘン警察情報部や軍情報部の記録によればどの集会も300人程度の聴衆があったようである。党はトゥーレ協会の後援もあって、300人程度の聴衆をコンスタントに集める組織力は結党時から持っていたとみられる。とはいえヒトラーが党の存在を一般民衆に広めようと精力的に活動し、彼の巧みな演説が人気を博して党勢の拡大につながったことは事実である[50]。ヒトラーは演説のうまさに加え、党最初の有給幹部でヒトラーの軍隊仲間だったルドルフ・シュスラー(Rudolf Schüßler)らの支持を受けていたため、ヒトラーの党内における地位は無視できないものとなった[51]

10月16日の「ホフブロイハウス」での集会から党は入場料の徴収と会場内での寄付金募集を行うようになった。入場料徴収と寄付金募集というのは右翼運動としては新しい形態だったが、これにより党財政は安定した[52]

初期の党委員会の会議はヘーレン通りの酒場「アルテス・ローゼンバート」の一室で行われることが多かった。党に送られてきた市民や党員からの手紙を読んだり、返信を書いたり、集会の打ち合わせをしたり、政治問題の議論をしていた。しかしヒトラーはこうした委員会の在り方を「おしゃべりクラブ」と呼んで、その不活発さにいら立っていた[53]

12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出し、党委員会は公開の党員集会で選出されること、また党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会から完全独立した委員会になることを要求した。トゥーレ協会員で党を特殊意識を育てる秘密政治サークルに留めようとしていたハラー議長はこれに怒ってヒトラーと対立したが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになった[54]

ミュンヘン・タール街ドイツ語版54番地「シュテルンエッカー・ブロイドイツ語版」の党本部事務所

12月22日にはこれまでも党集会場の一つとして使ってきた酒場「シュテルンエッカーブロイ」内の一室を賃貸して小さな党本部事務所を設けた。この賃貸契約書に党を代表して署名しているのはヒトラーである[55]

1920年1月5日にドレクスラーとヒトラーは議長であったハラーを解任し、ドレクスラーが新議長に就任した[56]。ハラーはトゥ-レ協会員として党を後援する立場にあったため、彼の追放により党とトゥーレ協会の直接の関係は切れることとなった[57]。ドレクスラー新党首の下でヒトラーは第一宣伝部長に就任した[58]

国家社会主義ドイツ労働者党に改名

1920年1月5日以来ドレクスラーによって「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」への党名変更が提案されていた。「ドイツ労働者党」ではマルクス主義的国際主義政党と間違われるというのがその理由だった[56]。「国家社会主義」というのは、ドレクスラーが影響を受けていたオーストリアドイツ国家社会主義労働者党に倣ったものである[53]。この党名変更は2月20日に行われた[59]

1920年1月1日時点において党員は190人ほどで平均年齢は32歳だった。そのうち熟練労働者と手工業者は33%、知的な自由職業者は14.5%、公務員と使用人は14%、軍人は13%、商業は12%、学生は7%、店舗・工場など事業所所有者は4%、不熟練労働者は2.5%となっている。比較的多数を占める熟練労働者と手工業者はドレクスラーとともにミュンヘン鉄道工場で働く者たちで、そのため初期の党には「鉄道労働者党」の感があった。知的な自由職業者の内訳は文筆家・ジャーナリスト・編集者などが7人、技師が6人、芸術家が6人、医者が3人である。190人の党員のうち182人までがミュンヘン在住者であった[60]

この時期の党は存在を広く知られていたわけではなかったから、党財政は各界の有力者の寄付によるよりも、大衆による献金と彼らの犠牲的献身によって支えられていた。したがって「支配勢力がナチ党を培養し育成した」云々の主張はデマであるが、当時のバイエルン支配勢力は再度のレーテ共和国樹立を阻止するためにバイエルン内のあらゆる反共・保守系団体に援助していたから、ナチ党もその範囲内で援助を受けることは一応できた[61]

2月4日に反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などを訴える25カ条綱領が起草された。この綱領はドレクスラーが主として作り、フェーダーとヒトラーが協力して完成させたものだと言われている[62]。綱領は2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた集会(参加者2000名)で正式採択された[26]

またこの集会での会場警備隊が党の一機関であることも正式に決定され、これがのちに突撃隊へと発展する[53]

また1920年中にハーケンクロイツを党のシンボルに採用し、党旗、党章、腕章などを取り入れた[63]。ハーケンクロイツは人種的ナショナリズムのシンボルであり、ドイツ攻守同盟やエアハルト海兵旅団などが使用していた。ハーケンクロイツには向きが左回りと右回りの二種類があったが、ヒトラーは党のハーケンクロイツを右回りで統一している[63]

12月17日にはディートリヒ・エッカートの尽力でトゥーレ協会の機関誌だった『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした[64]

ヒトラーとドレクスラーの対立

1920年8月7日から8日にオーストリア・ザルツブルクズデーテンとオーストリアのドイツ国家社会主義労働者党の共同大会があり[65]、この際にヒトラーとドレクスラーの間で国家社会主義労働者党の統一問題の論争が起きた。ドレクスラーはこれらの党と統一することに賛成、対してヒトラーはそれに反対の立場だった[66]

当時のオーストリアのドイツ国家社会主義労働者党は革命によってではなく議会によって変革することを目指しており、議会政治に参加していた。ドレクスラーが目指すのも議会政党であったが、当時のヒトラーは革命主義者で議会政治への参加に反対していた[67]

さらに1921年3月26日から28日にかけてのツァイクの大会においてドレクスラーとドイツ社会党ドイツ語版アルフレート・ブルンナードイツ語版が党を合同させようとした時にもヒトラーが反対した。ヒトラーは自分たちと他の国家社会主義政党では原則的にも戦術的にも相いれないため、統一によって規模が拡大したとしても内部的団結や闘争能力は弱まると考えていた[66]

いずれの合流計画もヒトラーの反対で流産したため、ドレクスラー派はヒトラーと対立を深めた[68]

ヒトラーの党首就任

ヒトラーは、1921年3月31日に軍を退役し、以降党務に専念するようになっていた[69]

1921年6月初めから7月にかけてヒトラーはエッカートとともに『フェルキッシャー・ベオバハター』の資金集めのためにベルリンへ赴いたが、その間にドレクスラーと反ヒトラー派の党幹部たちがヒトラーが反対していたドイツ社会党との連携を模索した。この動きを知ったヒトラーは7月10日にミュンヘンへ取って返し、11日にも党委員会に宛てて離党の手紙を書いた。これは党指導部には想定外のことで、党指導部はヒトラーを失うか、退陣するかの選択を迫られた。さらにヒトラーは7月14日に自分が再入党する条件として党委員会の即時辞職および独裁権限を持った議長の地位を要求した。一番聴衆を集められる稼ぎ頭の弁士だったヒトラーには自分抜きでは党は立ち行かないという自負があった[70]

7月15日に党委員会はヒトラーの要求を受け入れ、7月29日にホフブロイハウスで開かれた臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出された。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされた[71]

このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり[47]、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった(総統を参照)。

同年8月には党内組織「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。突撃隊の幹部は禁止されたドイツ義勇軍(フライコール)エアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。

またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラー・ユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはユリウス・シュトライヒャー率いるニュルンベルクのドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン州においてナチ党が禁止され、ザクセン州テューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の発展はバイエルン州に限られることになった。しかしドイツの不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた[72]。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ的なナチ党を庇護する方針をとった[72]

1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には国防軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。

ミュンヘン一揆

ミュンヘン一揆でミュンヘン市内を占拠するナチス党員

1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相の政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけ、工業の停止と、占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した(英語版記事)。ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。

5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲタードイツ語版がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、右翼はもとより左翼からも英雄視された[注釈 5]。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。

しかし5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にある、ヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。

不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホール「ビュルガーブロイケラー」においてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。

首謀者ヒトラーを初め、党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演会と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。

ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼の政治力は乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐドイツ民族自由党と共同して国家社会主義自由運動を結成し、1924年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、シュトラッサーの有力な腹心となった。同年12月の選挙では国家社会主義自由運動の議席は14議席に低下し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。

また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリング (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバンドイツ語版と改称された。

党勢の拡大

ヒトラーとヘス、シュトラッサー、ヒムラー。1927年

1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた[74]

1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー」においてナチ党再結党大会を行った。大会は公開で行われ、党関係者の他、一般聴衆も加わって参加者はおよそ3000人に及んだという[75]。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。

1925年3月29日の大統領選挙の第一次選挙にはルーデンドルフが出馬し、ナチ党も彼を支持したが、得票率1パーセントの泡沫候補で終わり、ルーデンドルフは政治生命を失った[76]

4月中旬、レームはヒトラーと会談し、再建される突撃隊をナチ党から自立した国防団体(国軍補助兵力)にすることを要求したが、ヒトラーはこれを拒否した。この決裂でレームは突撃隊司令官もフロントバン司令官も辞し、政界引退を表明した。その後軍事顧問として南アフリカへ渡っていった[77]

7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。

1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日バンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマール党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントなど各種団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない[78]

1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線英語版という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。

しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。

1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席[注釈 6]を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。

ナチス党の得票数の変化
投票年月日 得票数 得票率 当選数
1928年5月20日 810,000 2.6% 12人
1930年9月14日 6,410,000 18.3% 107人
1932年7月31日 13,750,000 37.3% 230人
1932年11月6日 11,740,000 33.1% 196人
1933年3月5日 17,280,000 43.9% 288人
1933年11月12日 39,655,288 92.2% 661人
1936年3月29日 44,462,458 98.8% 741人
1938年4月10日 44,451,092 99.5% 813人
ドイツ国会選挙の当選者数(1920 - 1938)
国会の政党 1920年6月6日 1924年5月4日 1924年12月7日 1928年5月20日 1930年9月14日 1932年7月31日 1932年11月6日 1933年3月5日 1933年11月12日 1936年3月29日 1938年4月10日
共産党 (KPD) 4 62 45 54 77 89 100 81 (*2) 禁止(*4) - -
ドイツ社会民主党 (SPD) 102 100 131 153 143 133 121 120 禁止(*4) - -
カトリック中央党 (*1) 65 81 88 78 87 97 90 93 解散(*4) - -
ドイツ国家人民党 (DNVP) 71 95 103 73 41 37 52 52(*3) 解散(*4) - -
国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) - - - 12 107 230 196 288(*3) 661 741 813
その他の政党 98 92 73 121 122 22 35 23 - (*4) - -
  • (*1) 保守的なカトリック政党であるバイエルン人民党 (BVP) を含む
  • (*2) 共産党議員は全員が逮捕・逃亡などで登院することが出来ず、彼らの議席は無効化された。選挙後の3月31日に正式に禁止され、共産党の81議席は消滅することとされた。
  • (*3) ナチ党は288議席(得票率43.9%)で単独過半数に至らなかったが、国家人民党(52議席)との連立で計340議席となり半数を超えた。更に上記 (*2) の81議席を計算から除外することで単独過半数となった。
  • (*4) 共産党は3月31日、社会民主党は6月22日に禁止され、地下活動および亡命を余儀なくされた。国家人民党は6月27日、中央党は7月3日に「自己解散」している。7月14日の政党新設禁止法により、ナチ党以外の政党の存在は禁止された。
  • 出典

ナチス党内閣成立

ヒトラー内閣成立を祝って松明行進を行う突撃隊。1933年1月30日

11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。

この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日ヒトラー内閣が発足した。発足当時、入閣したナチス党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。

独裁権力確立

組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。

選挙の結果、ナチス党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする各地方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている[80]

1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レーム党内左派など党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、独裁権力は確実なものとなった。ヴァイマル共和国軍資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。

党による全国支配

1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。

党の組織上の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲントへの加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。

敗戦後

1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマンが「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー無きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。1945年5月8日にドイツ国防軍連合国軍に降伏し、軍政下に置かれた。10月10日、ドイツの占領統治にあたった連合国管理理事会ドイツ語版が発出した連合国管理理事会指令第二ドイツ語版によって、ナチ党は廃止・禁止され、名称を変えての再建も禁じられた。またこの命令では、ゲシュタポ、ドイツ労働戦線などを含むナチ系の運動・組織の多くも禁止されている。1946年9月30日、ロンドン憲章に基づく「ニュルンベルク裁判」により、党指導部・親衛隊・ゲシュタポが「犯罪的な組織」と認定された。ニュルンベルク裁判や継続裁判など占領地域で行われたその後の非ナチ化法廷により15万人もの党員が逮捕されたが、実際に裁判を受けたのは3万人である。また占領下やその後の新ドイツにおいては、ナチ党の影響を減少させる「非ナチ化」の施策が行われた。




注釈

  1. ^ 党名のその他の邦訳については、下記の名称を参照されたい。
  2. ^ 村瀬興雄は「国民社会主義的ドイツ労働者党」と「的」の字を入れている[20]
  3. ^ マルクス経済学の研究者岩田弘は、「民族社会主義」の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表た[24]
  4. ^ 一例として1933年(昭和8年)11月12日付で永井松三駐独大使が外務省に打電した電報には「ヒットラー及びナヂ」要人』と表記されているほか、11月18日の電報では「ナチ議員」という表記もある[29]
  5. ^ ソビエト連邦共産党の幹部であり、コミンテルンカール・ラデックもシュラゲターを「共産主義者はこの反革命の良き兵士を革命の兵士として尊敬しなければならぬ」と賞賛した。これはドイツを反西欧陣営に迎えようとするナショナル・ボリシェヴィズムの立場によるものである[73]
  6. ^ これまでのヴァイマル共和政における最大議席数はドイツ社会民主党が得た163議席[79]
  7. ^ 1930年以降はヒトラーが司令官を兼務[81]
  8. ^ 突撃隊幕僚長は全国指導者扱い
  9. ^ ヴァイマル共和政期には戸別訪問は禁じられておらず、多くの政党が同じ行動を行った。
  10. ^ ナチス中央文書館の調査に基づく部数。ただし、1936年のドイツ社会民主党指導部ドイツ語版の機関紙は同時期に150万部を超えていたという観測を行っている[91]
  11. ^ 国家社会主義自由党(NSFP)として出馬。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ人民党(DVP)に次ぐ
  12. ^ 国家社会主義自由運動(NSFB)として出馬。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ民主党(DDP)、バイエルン人民党(BVP)に次ぐ
  13. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ中産階級帝国党("WP")、バイエルン人民党(BVP)に次ぐ
  14. ^ a b c d e f g ドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ
  15. ^ パウル・フォン・ヒンデンブルクに次ぐ得票
  16. ^ パウル・フォン・ヒンデンブルク(当選者)に次ぐ得票
  17. ^ 国家社会主義自由党(NSFP)として出馬。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ。ドイツ中産階級経済党(WP)と並ぶ
  18. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ中産階級帝国党("WP")、ドイツ民主党(DDP)、キリスト教国家農民及び農村住民党(CNBL)に次ぐ
  19. ^ ドイツ民族自由党(DVFP)とともに民族主義ブロック(Völkischer Block)として立候補。バイエルン人民党(BVP)に次ぐ。ドイツ社会民主党(SPD)と並ぶ
  20. ^ バイエルン人民党(BVP)、ドイツ社会民主党(SPD)、バイエルン農民・中産階級同盟ドイツ語版(BB)、ドイツ国家人民党(DNVP)に次ぐ
  21. ^ バイエルン人民党(BVP)に次ぐ
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 1933年3月31日に発令されたラントとライヒの均制化に関する暫定法律により、プロイセン州議会を除くすべての邦議会は1933年3月5日の国会選挙で各邦ごとに各党が獲得した票数に応じて議席数を再配分された[93]
  23. ^ 国家社会主義自由運動(NSFB)として出馬。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ中産階級経済党(WP)、ドイツ民主党(DDP)、公民権とデフレのための帝国党ドイツ語版旧派ザクセン社会民主党ドイツ語版(ASPS)に次ぐ
  24. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ中産階級帝国党("WP")、ドイツ国家人民党(DNVP)に次ぐ。ザクセン農村住民党ドイツ語版(SLV)と並ぶ
  25. ^ 中央党(Zentrum)、ヴュルテンベルク農民=ワイン醸造家同盟ドイツ語版(WBWB)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ国家人民党(DNVP)に次ぐ。ドイツ人民党(DVP)と並ぶ
  26. ^ 中央党(Zentrum)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)に次ぐ。ドイツ民主党(DDP)と並ぶ
  27. ^ 民族派合同名簿(Vereinigte völkische Liste)として立候補。テューリンゲン秩序同盟ドイツ語版ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ
  28. ^ 統一名簿(Einheitsliste)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ中産階級帝国党("WP")に次ぐ。ドイツ民主党(DDP)と並ぶ
  29. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、キリスト教国家農民及び農村住民党(CNBL)に次ぐ。ドイツ共産党(KPD)とドイツ中産階級帝国党("WP")と並ぶ
  30. ^ 国家社会主義自由運動(NSFB)として立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrumspartei)、ヘッセン農民同盟ドイツ語版ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ
  31. ^ 民族社会主義ブロック(Völkischsozialer Block)として立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ
  32. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ中産階級帝国党("WP")に次ぐ。中央党(Zentrum)と並ぶ
  33. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ中産階級帝国党("WP")に次ぐ。
  34. ^ メクレンブルク国家主義者統一名簿(ドイツ国家人民党ドイツ人民党)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ。
  35. ^ 郷土ブロック(ドイツ国家人民党ドイツ人民党)、中央党(Zentrum)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ。
  36. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、郷土ブロック(ドイツ国家人民党ドイツ人民党)、中央党(Zentrum)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ。
  37. ^ 国家社会主義自由運動(NSFB)として立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ中産階級経済党(WP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ。ブラウンシュヴァイク=ニーダーザクセン党と並ぶ。
  38. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ中産階級帝国党("WP")、ドイツ共産党(KPD)、民主主義者農民同盟(Demokraten und Bauernbund)、宅地所有者党(Haus- und Grundbesitzer)に次ぐ
  39. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、市民統一名簿(ドイツ人民党ドイツ国家人民党ドイツ中産階級経済党)に次ぐ
  40. ^ 国家社会主義自由運動(NSFB)として立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ共産党(KPD)、全国農村同盟ドイツ語版に次ぐ。
  41. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、民族共同体(ドイツ人民党全国農村同盟ドイツ語版ドイツ国家人民党や宅地所有者党の統一名簿)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ。借家人保護及び土地所有者党(Mieterschutz und Bodenreformer)と並ぶ
  42. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、全国農村同盟ドイツ語版ドイツ共産党(KPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、宅地所有者党(Haus- und Grundbesitz)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ。ドイツ中産階級帝国党("WP")と並ぶ
  43. ^ ドイツ民族自由党との共同名簿で立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ国家人民党(DNVP)に次ぐ。
  44. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ共産党(KPD)、家屋所有者党(Hausbesitzer)に次ぐ。
  45. ^ ドイツ人民党ドイツ国家人民党などと統一名簿で立候補。ドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ。
  46. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、経済共同体(ドイツ国家人民党ドイツ人民党の共同名簿)、ドイツ共産党(KPD)、地主党(Grundeigentümer)、ドイツ民主党(DDP)に次ぐ。
  47. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、ハンザ人民党ドイツ語版(HVB)、ドイツ共産党(KPD)に次ぐ。
  48. ^ ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ。
  49. ^ 国家主義ブロックとして立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)に次ぐ。ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)、シャウムブルク=リッペ職人同盟と並ぶ。
  50. ^ 中央党(Zentrum)、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ。
  51. ^ 市民権とデフレのための帝国党ドイツ語版と共同名簿で立候補。ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ国家人民党(DNVP)、中央党(Zentrum)、ドイツ共産党(KPD)、国民自由市民党(Nationalliberale Bürgerpartei)、ドイツ=ダンツィヒ人民党(Deutsch-Danziger Volkspartei)、ドイツ自由党(Deutschliberale Partei)、ポーランド党(Polnische Partei)、市民労働共同体(Bürgerliche Arbeitsgemeinschaft)、借家人=債権者党(Mieter- und Gläubigerpartei)に次ぐ。

出典

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