四日市ぜんそく 公害の歴史

四日市ぜんそく

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公害の歴史

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  • 塩浜地区を中心に子供が死亡するケースや公害患者の自殺事件が発生した。四日市公害問題は高度経済成長がもらした公害の典型であった[42]

公害前期

四日市市の石油化学コンビナートの建設は旧海軍燃料廠跡地に通産省の指導でイギリスシェル=三菱系の石油関連資本に払い下げられた1955年にはじまり、昭和34年頃から第1コンビナートの本格的な操業が開始された。続いて昭和38年に大協石油大協和石油化学・中部電力の第2コンビナートが操業を開始した[43]。四日市コンビナートの誘致と建設で有名な言葉となり、四日市市民に定着している用語の『コンビナート』(企業集団)とは戦後に広まった新しい外来語で、当時(昭和時代)の社会主義国であったソビエト連邦で誕生したロシア語であった。四日市市民にこのロシア語が日常用語として使用された[44]

昭和40年代になり、塩浜地区の磯津港で水揚げされる魚は臭い汚染された魚と見られて、風評被害で水産物の購入が敬遠された[45]。塩浜地区民に異常な変な咳の症状の被害が発生した。ぜいぜいと息をする喘息症状の発作が起きるなどの病気が集団発生して塩浜地区民に健康被害が急増した。磯津地区の開業医であった中山医師は、「正確には喘息と確定ではないが喘息の様な特異な疾患」に「塩浜ぜんそく」と命名して、喘息発作止めの注射を打つなどの注射投与による治療方法を考案した。中山医師は注射による措置が有効として公害患者には特別な治療行為をした。 三重県の革新知事であった田中覚は四日市コンビナートの建設によって『輝ける伊勢湾時代』を展望して『大四日市』を構想していた。四日市の工業生産は急成長をしていたが、人口の伸びが鈍り1964年頃には四日市市転入人口より転出人口の方が多くなり人口の構造が逆転して、四日市市の人口30万人都市計画は挫折した。「これは公害の問題ではない。現実の四日市市民が困っている事態で市長として見捨てられない。四日市市が見舞金として支出しても良いではないか。四日市が踏み切れば、国家と三重県が放っておくまい。必ず四日市市に同調をする」以上が平田市長の考えであった。厚生省の反対を押し切り四日市市単独で患者の医療費の補償制度を開始した[46]。街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内で漁業が盛んだった塩浜地区・富田地区・富洲原地区の漁村では漁業が衰退した[47]

1963年に異臭魚の被害が拡大した事で「磯津漁民一揆」がおきる。国の黒川真武博士を中心に以下の数10人の一流の学者で調査団が構成された。2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする[48]。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。

以下の公害運動をする環境団体が結成された。

  1. 公害市民学校が開校[49]された。
  2. ミニコミ公害トマレが発刊[50]された。
  3. 四日市地域の三泗地域地区労
  4. 公害患者を守る会
  5. 日本社会党日本共産党の支持組織で組織された「四日市公害対策協議会」が結成された。
  6. 自治労が推薦する「四日市公害訴訟を支持する会」が結成された。
  7. 磯津の住民による「公害を記録する会」が結成された。
  8. 新左翼系の「四日市公害と戦う市民兵の会」[51]が結成された。
  9. 革新系の四日市市議会議員を長とする「公害患者を励ます会」が結成されたが各組織が1つの組織にまとまらなかった。

地区労の大部分をし占める「三重県化学産業労働組織協議会」は四日市公害訴訟には中立的立場で不支持を表明をした。1964年に公害健康被害補償法公害紛争処理法が成立した。1962年にばい煙規制法と改正工業用水法が成立した[52]。代わって昭和40年代に大気汚染防止法騒音規制法が制定される。

公害後期

1967年に九鬼喜久男市長が四日市市の更なる工業化のため、四日市市議会の自民党系議員に第3四日市コンビナートを建設する議案の採決を働きかけ、強行した。霞ヶ浦地区を埋め立てて昭和40年代に第3四日市コンビナートを建設する議案が[53]強行採決された。第3コンビナート建設予定地の周辺の地区(四日市市北部地域の羽津地区・富田地区・富洲原地区で公害が拡大する事が想定された)で「ノーモア塩浜」のスローガンで公害になると反対していた富田地区連合自治会長・富田地区の住民が見守り、公害が発生していた塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区・日永地区などの四日市市南部地域と中部地域に在住する公害患者が喘息で咳こみ苦しんだり、強行採決に怒りながら傍聴していた。前川辰男議員などの革新クラブ(日本社会党系議員・日本共産党系議員)・公明党・新風クラブ(民社党系議員)の必死の抗議と反対を押しのけて富田地区・富洲原地区の自民党系議員と四日市市西部の農村の自民党系議員によって、四日市第3コンビナートを建設する議案が与野党の激しい乱闘の末に四日市市議会の議場で、賛成が(自民党系)の26票、反対が(野党の日本社会党・日本共産党の革新系と公明党・民社党の中道系)の15票の賛成多数で強行採決された[54]

四日市公害によって地区別では塩浜地区で600人以上の犠牲者、次に被害があった海蔵地区で約200人の死者、中部地区・橋北地区・日永地区でもそれぞれの地区で100人近くの犠牲者が出たと云われる。またそれ以上に自殺者が多数いて、乳児死亡者が多数いて、因果関係不明の死亡者が多数出た。実際の犠牲者は公害病の認定患者とされるのは約1000人だが、塩浜地区民(人口15000人)の内、約40%の住民が身体の異常を訴え、6000人近くの軽度の喘息患者がいたという。よって、公害患者以外の因果関係不明の死亡者を含むと四日市公害の犠牲者は1000人を超え2000人以上の四日市市民が死亡した可能性がある。一方で四日市市北部の富田地区・富洲原地区と四日市市西部の地区では犠牲者は0人であった。

治療は塩浜病院で行われた。1965年に「四日市市公害病認定制度」が発足して、「公害対策委員会」も発足したが、四日市コンビナートは規模を拡大する一方であった。1969年3月に 四日市公害裁判中だった78歳の原告男性が死亡した。 1969年12月 石原産業の工場排水で伊勢湾が汚染されて四日市海上保安部が摘発した。1971年7月 に佐藤内閣によって「環境庁」が発足して四日市公害裁判の38歳で原告だった女性がぜんそく発作で死亡した。1972年4月に 「三重県公害防止条例」が改正、硫黄酸化物の総量規制がされる。1972年7月24日に「四日市公害病裁判」で患者側が勝訴した。1972年9月2日に小学4年の女児がぜんそく発作で死亡した。1973年10月に 「公害健康被害補償法」が成立した。1974年「三重県公害防止条例」が改正されて、窒素酸化物及びCOD総量規制がされる。1987年9月に 「公害健康被害補償法」が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止する。1994年に公害病患者の減少で塩浜病院は閉鎖され、三重県立総合医療センターとなった。

被告企業

第二次世界大戦中に第二海軍燃料廠が塩浜地区に大日本帝国海軍によって建設されたが、海軍燃料廠は四日市空襲により甚大な被害を受けて壊滅した。戦後、国有地である塩浜地区の旧海軍燃料廠跡地約660万m2昭和石油昭和シェルグループ・三菱両グループに払い下げ、跡地に石油化学コンビナートを建設する計画が1955年鳩山一郎内閣の閣議によって決定された。

1956年に約100万m2の敷地を持つ昭和石油・コスモ石油などの製油所の建設が開始された。翌年の1957年には製油所から原料の供給をうける四日市コンビナートの工場群の建設が進められた。三菱グループ系企業は三菱油化・三菱化成工業三菱モンサント化成の工場を建設した。埋立地の石原町には石原一族が経営する石原産業が建設された。石原産業は1969年に塩浜地区付近の四日市港に強酸性溶液を垂れ流していた「石原産業事件」や平成期にはフェロシルトの大量不法投棄問題を引き起こすなど化学物質の汚染事件を頻繁におこしている。

昭和四日市石油の工場では、重油を原料にしてガソリンを生産する新しい生成技術が導入された。昭和石油と中部電力は石油・石炭・ガソリンなどを原料として、四日市コンビナート内での発電設備や石油精製で協力していた。中部電力の三重火力発電所が、石炭を燃料に発電をしていた。中部電力の発電所からは四日市市内のすぐ南側の中部地区・すぐ西側の橋北地区・西側の海蔵地区・市内最も南側の塩浜地区に向けて真っ黒な煙が出て黒いスモッグが発生した。昭和四日市石油が操業した後は、石炭から重油に原料を転換した。石原産業と三菱グループ系の企業からの排煙で塩浜地区周辺に白いスモッグが発生した。四日市市南部に北西の風が吹くと塩浜地区の漁村である磯津地区全域に石炭のすすが落下するようになった。

昭和四日市石油は製油所施設であり、中東から四日市港に輸送されてきた原油からガソリン灯油重油及び石油化学工業製品の基礎原料となるナフサなどを精製していた。三菱油化は昭和石油で精製されたナフサの供給を受けて、第二次製品となるエチレンポリプロピレンなどを製造した。第二次製品の供給を受けて三菱モンサント化成・三菱化成工業・石原産業などが第三次製品から最終製品を生産した。液体気体の石油化学製品の原料を輸送するため四日市コンビナート各社はパイプによって結合して一体化した操業を行った。

中部電力の三重火力発電所が昭和四日市石油から重油の供給を受けて発電を行った他、コンビナートの製品製造各社も製品製造のため重油を使用燃料とした。原告が暮らしていた磯津地区は鈴鹿山脈から吹き下ろす風が塩浜に立地する四日市コンビナート各社の汚染物質が上空を通過する際に、亜硫酸ガス硫酸ミストを運び直撃する位置にある[55]

大気汚染と引き替えに1956年には約500億円だった四日市の工業生産額は10年後の1966年には約5倍になった。1960年には7411人だった石油化学産業の従事者は10年後の1970年代には13699人と倍増した。三菱油化・石原産業・中部電力の3社は株式上場企業であった。三菱油化は石油化学のトップメーカーとみなされ、年間売り上げは320億円を超えた。三菱化成や石原産業の酸化チタンの設備能力は世界有数と呼ばれた。中部電力は電力業界第3位の企業であった。株式未上場の昭和四日市石油は三菱グループオランダ本拠地とするシェルグループが25対75の比率で出資して昭和32年に設立した会社であり、昭和石油が輸入する原油を精油する子会社であった[56]

  1. (企業名)石原産業四日市工場(生産製品)酸化チタン農薬
  2. (企業名)昭和四日市石油四日市製油所(生産製品)ガソリン灯油重油
  3. (企業名)三菱化成工業四日市工場(生産製品)カーボンブラック
  4. (企業名)三菱油化四日市工場(生産製品)エチレンポリエチレン・ポリプロレン
  5. (企業名)三菱モンサント化成四日市工場(生産製品)スチロール系樹脂
  6. (企業名)中部電力三重火力発電所(生産製品)電力
  7. (企業名)日本合成ゴム四日市工場(生産製品)合成ゴム
  8. (企業名)味の素東海工場(生産製品)グルタミン酸ソーダー
  9. (企業名)四日市合成四日市工場(生産製品)界面活性剤
  10. (企業名)日本ブタノール四日市工場(生産製品)ブタノール
  11. (企業名)松下電工四日市工場(生産製品)熱硬化性樹脂
  12. (企業名)三菱江戸川化学四日市工場(生産製品)過硬化水素
  13. (企業名)油化バーディッシュ四日市工場(生産製品)発泡性ポリスチレン[57]

三重県警察と衝突した磯津漁民一揆

重油発電に転換した第2四日市コンビナート内にある中部電力三重火力発電所(四日市火力発電所)が第1コンビナートからの排水で生物ゼロの死の海となった伊勢湾周辺の四日市港(各四日市コンビナート工場の汚排水が流れ込む)伊勢湾の海水を午起地区から取水して、中部電力の発電機の冷却に使用していた。

中部電力は伊勢湾の海水を冷却した後、その冷却した温排水を港と反対側の塩浜地区と楠町の中間の鈴鹿川へ放流していた。水質汚染で塩浜地区の磯津漁港付近の伊勢湾は死の海と変化して磯津漁師の生活権を奪った。 塩浜地区の磯津港近辺の魚がくさく異臭をするようになり風評被害で売れないことから、漁村である磯津の漁師は、鈴鹿川の水を冷却に使い港へ放流する方法の要求と、使用した海水を四日市港へ放流するなどの処置を中部電力に要求したが聞き入れられなかった。

1963年6月21日に、昭和史(特に戦後史)では珍しい貴重な一揆であり、通称名で磯津漁民一揆と呼ばれた漁民一揆が発生をした。三重県・四日市市・会社側(中部電力)と磯津漁民との間で度重なる交渉があったが、返答に業を煮やした磯津漁民は「中部電力の排水口を閉じてしまえ」と10隻の漁船に100人が乗り込み、陸から150人がスコップを手に排水口に押しかけた。

400人程度の磯津漁港の漁民が、廃船と土のうを使用する方法で法的に暴動と誤解される磯津漁民一揆と呼ばれた刑事事件を犯した。しかし磯津漁民の実力行使に対して中部電力と三重県の要請で、三重県警察の警官隊が大量出動をした。工場側は警察権力で水門を警備する事とした。

磯津の漁民は、三重県警の警官隊の制止を無視した。警察の言う事を聞かず、力ずくで磯津漁港の漁民が実力行動に移った。三重県警察は機動隊80人と私服警官30人と警備艇2隻を動員した。磯津漁民による磯津漁民一揆の罪状は「水利妨害の刑法123条違反」であった。塩浜地区連合自治会長であった男性が、この事態が一大事として「留め男」となって塩浜地区の磯津漁民と中部電力の仲介を三重県に頼んだ。同じ塩浜地区出身の田中覚知事に解決をせまることにした[58]

公害の種類

  1. 大気汚染(亜硫酸ガス)
  2. 水質汚濁(濃硫酸・濃硫酸垂れ流し・異臭魚)
  3. 悪臭・騒音・振動・地盤沈下・爆発・火災
  • 無臭の亜硫酸ガスは気管支ゼンソク・慢性気管支炎・肺気腫を引き起こした[59]

調査結果

「広報よっかいち」に四日市市公害対策委員会が進めていた調査結果が公表された。公害対策委員会は汚染地域に亜硫酸ガス測定器を設置して、系統的な化学分析を行っていた。

  • 降雨に含まれる謀煙やチリの降雨量は、冬季では磯津地区の29.9g(平方m)が最高で、これに東橋北地区の21.1gと築港地区の14gが続き、一番少ないのは三重地区の5.5gであった。
  • 夏は築港地区の25.6gが最高であった。降雨に含まれる謀煙やチリの降雨量が多い地区は以下の順番で第2位の地区が塩浜地区の15.5gであった。旧市街地地区の15.5g、三浜地区の12.1gが続いた。
  • それにより住民の生活環境はさらに悪化して、塩浜地区では四日市市による調査世帯の約4割(40%)が何らかの症状を訴えており、中でもアレルギー症状疾患・心臓病・慢性気管支炎などの症状が多かった。
  • 調査結果では以下の順位である。
    1. 四日市市内で有病者が多い第1位の地区は塩浜地区が有病世帯比率が最多であった。
    2. 次に有病者が多かった第2位の地区は海蔵地区の38%であった。
    3. 以下の順番で有病者が多かった。四日市市の調査では、有病者が多い地区の第3位は三浜地区であった。
    4. 有病者が多い地区の第4位は浜田地区であった。
    5. 有病者が多い地区の第5位は東橋北地区であった。
    6. 有病者が多い地区の第6位は日永地区であった。
    7. 有病者が多い地区の第7位は納屋地区の順番で有病者が多かった。
    8. 以下は順位不明の有病者が多い地区の中位に西橋北地区中部東小学校区中部西小学校区羽津地区と続いていた。
    9. 四日市市の調査対象地区で、有病者の比率の最低比率であった三重地区四郷地区でも27%であった。
  • 工業地域で大気汚染がある塩浜地区では学童の16.1%にアレルギー性疾患・心臓病・慢性気管支炎の症状があったのに対して、農村地帯の三重地区では7.9%に留まっていた[60]
  • 四日市市当局が三重大学名古屋大学に調査してもらったところ、四日市市内の硫黄酸化物名古屋市の4倍近い事が分かった。四日市市立三浜小学校(公害汚染地域の塩浜地区)の4年生の身体症状を調査したら、8割以上の児童が変な異臭を訴えて、頭痛、喉の痛み、眼の痛み、吐き気などを経験していた。石油化学コンビナートが大気汚染原であると報告された。しかし、四日市コンビナートの企業、日本政府、四日市市は調査の結果を秘密にした。昭和38年には第2コンビナートに隣接する高浜地区で連日のように悪臭硫酸ミスト(霧)、騒音などの公害事件がおこり、新聞テレビで報道された。それでも四日市市は第3コンビナートの建設をすすめようとした[61]

四日市公害訴訟

  • 1967年(昭和42年)9月1日関東大震災の発生日を選び民事裁判を提訴。9人の四日市公害訴訟裁判の原告は、全員の住所が四日市市内の塩浜町在住である。
  • 三重県立大学付属塩浜病院公害病室に入院中の男性7人と女性2人の合計9人である。(四日市公害記録写真集編集委員会 1992)
    1. 当時35歳の男性。職業は船大工と漁業。四日市公害により気管支喘息に発病した。1964年7月頃から、男性に咳が出始める。1964年春頃より1日2回から3回の喘息が起きる。1965年6月に公害病認定患者となる。1965年11月より塩浜病院へ入院をする。
    2. 当時56歳の男性。職業は漁業。四日市コンビナートによる四日市公害で喘息性気管支炎に発病した。1962年10月頃より、発作が出始める。1965年6月頃には注射をうっても発作が鎮らない程ひどくなった。1965年6月に三重県立塩浜病院に入院し、公害病認定患者となる。
    3. 当時40歳の男性。職業は漁業。四日市公害によって気管支喘息に発病する。1962年頃より喉が鳴り出す。1963年から1965年に通院治療をした。発作時に注射している。1965年6月に公害病認定患者となる。1965年9月、三重県立大学付属塩浜病院へ入院する[62]
    4. 原告最年長の当時77歳の男性。職業は漁業。四日市コンビナートによる大気汚染で喘息と発作を併発した慢性気管支炎に発病した。1961年8月頃より1週間に一度から二度発作となる。1963年6月に三重県立大学付属塩浜病院に入院する。風向きにより何度も発作を起こす。1965年5月に公害病認定患者となる。1969年3月に四日市公害裁判中に78歳で死去する。
    5. 当時61歳の男性。職業は青果業。四日市コンビナートによる大気汚染によって肺気腫に発病した。1961年10月頃から、急に気管支炎に発病する。最初は風邪の様な症状であったが悪化した。1964年2月に三重県立大学付属塩浜病院へ入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。「あそこが一番の発生源だ」と塩浜病院のベッドから訴えていた。四日市公害裁判勝訴から4年後の1976年に、74歳で亡くなった。
    6. 当時62歳の女性。職業は主婦と内職の煮干加工である。四日市公害によって喘息性気管支炎に発病した。1961年5月頃より咳が月に1回か2回、3時間ほど続く。1961年9月に身体衰弱に陥る。1962年6月に三重県立大学付属塩浜病院に入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。
    7. 当時35歳の男性。職業は漁業と自由労働者である。四日市ぜんそくの症状で気管支喘息に発病した。1962年頃より1週1回程度の発作がある。1964年頃より3日に1回程度の発作となる。1965年6月に三重県立大学付属塩浜病院へ入院し、公害病認定患者となる。
    8. 当時73歳の男性。職業は漁業。四日市ぜんそくの症状で喘息性気管支炎に発病する。1961年4月下旬から突如喘息発作が毎日のように起きる。1964年8月に三重県立大学付属塩浜病院へ検査のため10日間入院する。1966年4月に塩浜病院に入院する。1965年6月に公害病認定患者となる。
    9. 原告最年少の当時34歳の女性。職業は主婦と網内職である。四日市ぜんそくの症状で気管支喘息に発病した。1962年11月頃より風邪をひく程度の咳が出る。1963年夏頃より1日2回程度喘息発作が起きる。特に夜中に喘息発作が起きて、昭和46年に病院に搬送されたが間に合わず38歳の若さで死亡した。1964年3月に三重県立塩浜病院に入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。1971年7月10日に四日市公害裁判中に38歳で死去する。四日市公害裁判の傍聴席から病死に対する黙とうの呼びかけがあったが、石原産業や三菱系の企業など被告企業が黙とうを拒否した。同じ原告の野田(2019年に死亡した語り部)は『恐れていた事が起きてしまった。雨が降る中汚染された四日市の街で(女性の名字)さんの涙の雨だあ』と泣きながら叫んだ。生前は夜は幼い子どもたちの面倒をみるため自宅に帰り、朝は夫や子どもたちを送り出すと小さな末の子を連れて病院のベッドで暮らす生活であった[63]。夫と3人の子供が代わりに四日市公害の遺族として原告となった[64]
  • 津地方裁判所四日市支部は昭和47年7月24日に被告企業6社に8800万円の損害賠償を命じた。裁判長は四日市公害裁判の翌日に定年で退官した。
  • 被告側も控訴せず、公害防止に努力すると約束した。
  • 公害患者の1人(野田)の「ありがとうの一言は四日市市内に青空が回復した後に言います」の野田メッセージがあった[65]
  • 三重県知事の田中覚と四日市市長の九鬼喜久男も行政責任を認めて塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・中部地域の住民に謝罪した。
  • 前川辰男四日市市議は1964年に『四日市で公害訴訟を起こせるのか』と野呂汎弁護士に相談した。1964年4月に公害犠牲者第1号が出た事を伝える報道があり、法廷で企業の責任を追及する事が日本社会党日本共産党の議員の間で議論された。野呂汎は名古屋市に事務所を置く弁護士で労働問題を手掛けていた東海労働弁護団の一員であった[66]
  • 四日市公害裁判の結果は原告の全面勝訴であった。津地裁四日市支部は企業6社に対して、原告(公害患者7人と死亡した原告2人の遺族5人の合計12人)に対して合計8821万1823円の損害賠償の支払いを行う事を命じた。
  • 要旨は次の5つである。
    • ①注意義務。四日市コンビナート付近の塩浜地区住民の生命の危険・身体の危険に考慮しなかった注意義務。
    • ②予見可能性。明治時代に発生した足尾銅山事件などで人の健康被害の前例があった。
    • ③共同不法行為。他の複数の石油化学企業とのばい煙の排出に対する共同不法行為の認定。公害被害・健康被害に対する共同責任があった。
    • ④違法性の不存在。人の生命の貴重さ・身体の貴重さから違法性が無いと認められない。
    • ⑤予防措置。世界最高の技術知識を動員してでも、公害発生の防止措置を講ずるべきであった[67]

最初に認定された公害患者の死亡例

1964年に塩浜地区に在住する62歳の男性が、石原産業を退職後に気管支喘息を発病して、塩浜病院に入院していた。1964年3月31日から三日間の期間内に、猛烈なスモッグが塩浜の町を襲っている最中に1964年4月2日に肺気腫で死亡した。男性は主治医に「死後、自身の身体を解剖して、病気の原因を調査してほしい」との遺言を残して息を引き取った。「産業医学研究所」のスタッフと吉田克己教授が解剖した結果、山口県宇部市で開催された(大気汚染協議会)で「四日市公害」による最初の死亡例として報告された。平田市長は四日市コンビナートの誘致による重工業化政策によって四日市市(四日市地域)が驚異の経済発展をした事に自信があり、日本横断運河の建設などの大型公共事業を推進していたが、男性の葬儀に四日市市長として参列をした際に、塩浜地区民から責任を追及された事で、塩浜地区民への罪悪感を持つようになった[68]

教育著名人の公害病死

三重県の旧制中学出身の教育者で四日市公害の犠牲者がいる。三重県教育界で文学的な教育活動で有名だった三重県立桑名高等学校校長の鷲野義俊校長が昭和42年10月5日に64歳で塩浜病院で四日市公害の被害により気管支疾患で死去した[69]。平成30年度の厚生労働省総務省国勢調査の統計で100歳以上の老人が四日市125人での津市が171人となっている。人口が3万人少ない三重県内の都市の津市より四日市市の100歳以上の老人が少ない要因は、四日市公害の影響で明治大正生まれの老人の病死が急増した事であると公害関係者から主張されている[70]

子供の被害

公害病認定患者872名中では小中学生は224名にのぼる。

塩浜小学校6年生の男子は塩浜病院小児科病練に入院していた。近くの塩浜小学校と病院との生活が日課であった[71]

塩浜中学校3年の女子生徒の公害病死

1967年10月26日午前1時、七ツ屋町〔三菱油化に隣接〕に住む公害病認定患者の塩浜中学校3年生の女子生徒が、喘息による心臓発作で呼吸困難となり、紙片に「家に帰りたい」と最後の言葉を残し15歳で病死した。東京都への修学旅行に行く事で「塩浜よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前であった。同年10月31日の吉田茂元総理大臣の国葬の同日に1500人の四日市市民により大規模な追悼集会が開かれ「彼女が死んだなんて言うな殺されたのだ」のプラカードが掲げられた[72]

海蔵小学校1年生の男子児童の公害病死

1970年11月5日、四日市市立海蔵小学校1年生(7歳)の男子が死亡した[73]。気管支ぜんそくによる「急性呼吸不全」だった。入院と通院を繰り返しながら酸素テントに入りきりの状態であった。また公害死者の最年少記録を更新し、塩浜地区以外の地区の死亡児童となった。御霊前海蔵小学校の供え物と釈精信の戒名が付けられた写真がある[74]

男子児童の追悼と抗議の市民集会が男子児童の母親も参加し、四日市市中心部の中部地区諏訪公園で開かれた。雨が降りしきる中を、四日市市内の「四日市母の会」は乳のみ子を背負いながら幼子の手を引いて、たすきがけで30人の母親たちが参加した。三重県・四日市市の行政機関と四日市コンビナートの企業が「ぜんそくで死ぬのは高齢者で子供が死ぬことはない大丈夫と言っていたのに、死んだじゃないか」と公害病患者の子供たちへの保護者の不安が高まり、四日市市内の母親たちは、空気のきれいな四日市市西部にぜんそく児童の養護学校の建設を三重県に要求することにした[75]。海蔵小学校2名、中部西小学校1名、塩浜中学校1名の「教え子たちの追悼集会」を1972年9月11日の四日市公害の判決後に「三重県教職員組合三四支部」が催した。

中部西小学校4年生の女子児童の公害病死

さらに四日市公害裁判勝訴1972年7月の2カ月後、四日市市立中部西小学校の4年生(当時9歳)の女子がぜんそくによる発作が連続して起きた結果、心臓麻痺によって病死した。5歳のときに喘息症状が出始め、気管支喘息の病名で認定患者となり、中部地区周辺の病院で通院治療を受けていたが症状がなかなか良くならず、健康を心配した両親によって、鈴鹿山脈側の三重郡菰野町に新居を購入して、公害で空気が汚染された中部地区の四日市市西新地の繁華街の自宅から空気が綺麗な環境に移住して治療する方法の転地療法をし、中部西小学校へはバス通学をしていた。「2学期になったら女の子同士一緒の班グループになってもう一度国語係になりたい」[76][77]と記した日記を前月の8月に書き、9月2日の放課後に容態が急変して救急車で緊急輸送をされて「お父さん注射、注射、注射を」との言葉を残していた。

担任の先生は「欠席が多い子でした。2学期の始業式に体重が20キロまで増加して健康になってきたと喜んでいたのに」と声を詰まらせて、中部西小学校のクラスメイトが参列して、涙を流す悲しみの葬儀が行われた。「担任の先生に良く従い、良く勉強する努力家で、家でもノートや日記を毎日書き、絵を描いたりしていた。早い時期に空気の綺麗な地域に引っ越せば良かった」 女子の母親は、9歳で亡くなった長女の写真を平成24年の四日市公害裁判勝訴から40年たった40周年式典後に新聞記者の取材の前に見つめていた。昭和40年代に、近鉄四日市駅付近に住んでおり、女児は幼稚園時代からせき込み初めは風邪と思ったが、四日市市中部地区の四日市市立病院で四日市ぜんそくと診断された。「名古屋市で喘息専門医の診察を受け、空気の綺麗な地域への移住を勧められて菰野町に引っ越してからは喘息の発作が減少して、喜んでいたのに」と母親が振り返り、最後の言葉は 「お母さん、お医者さんに連れてって下さい」だった。

中日新聞に投書した海蔵小学校4年生の男子児童の公害病死

1974年10月18日夜に第2コンビナート付近の〔海蔵地区の三ツ谷町〕に住んでいた公害患者の海蔵小学校4年生(10歳)が激しい発作で死亡した。小中学生の死者は、これで6人目だった[78][79]。死亡した男子児童は1973年6月に中日新聞の発言欄に公害防止を求める投書をしていた。

「僕は夜中に喘息が出てきて、いつも発作の心配をしています。ぜんそくであるのが嫌で、こんな病気がなかったらいいなと思います。公害なんか存在しないといいなと思います。子供らしく早く元気になって虫取りがしたい」

— 題「喘息は注射じゃ治らない」

保育園も休む事が多く、海蔵小学校の運動会も遠足も発作を心配してほとんど欠席していた。

公害患者の自殺

納屋地区の男性の自殺

1966年7月10日に第2四日市コンビナート内の大協石油付近の納屋地区に住む76歳になる男性が「病気の完治する見込みがなくて喘息がいっこうに良くならない。どうしてこんなに苦しまなければならないのだ」と喘息の発作に何度も嘆いていた。入院していたが「死ぬなら自分の家で」と自分から退院して「死ねば薬もいらずに楽になれる」「死んだら仏様になって見守りたい」と遺書を残して自殺した[80]。納屋地区の男性の公害苦による自殺は3日後の国会審議でも取り上げられた[81]

「九鬼喘息やってみろ」と遺書を書いた男性の自殺

1966年7月14日「四日市公害対策協議会」によって自殺した男性の追悼集会が開催されて、追悼集会で「自殺した男性の死を無駄にするな」と書かれたプラカードを持って行進したり、[82]1967年2月に、 第3コンビナートを誘致して建設工事と埋立て工事を許可する議案が強行採決された 四日市市議会に傍聴して公害反対を訴えていた男性が、1965年に発足した「四日市公害患者を守る会」の副会長を務めていた。公害と戦う四日市市民の中心となっていた60歳になる四日市公害患者を守る会の副会長であった四日市ぜんそく(公害病)の認定患者の男性は甘納豆を作っている岡女堂の主人であった。亜硫酸ガスへの逃避行を繰り返して、鈴鹿山脈側の菰野町と四日市市中部地区を行き来して、疲れ果てていた。1967年6月13日に「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して自殺を図り、加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市へは「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするために四日市コンビナートが必要と嘘をついた」と不満を記した日記と「九鬼(四日市市長)喘息やってみろ」と市長を恨む遺書を残して喘息を苦にして自殺するなど、ついに公害での死者も出た[83]。明らかになったのは、この2件であるが、その他の自殺者については表にはならず不明である。公害患者を守る会副会長だった自殺した菓子製造業を営み男性は首つり自殺する10日前の日記に「午後5時よりスモッグがひどい。亜硫酸ガスのために咳がやまず。弁当をつくって早々に我が家を飛び出し、空気の綺麗な所へ逃げる。ああ残念。家にいたくてもさびしい所に行かねばならない。くやしい。九鬼市長ゼンソクやってみろ。わかるだろう。公害の影響で死にたくない」と記されていた[84]

その他の自殺や精神的な公害問題

この他に、公害裁判後の1985年1月5日には、三重郡楠町で四日市公害認定患者の女性(52歳)が病気を苦に、自宅の庭で灯油をかぶって焼身自殺をしている。公害被害者と僧侶によって公害企業を呪い殺す「公害企業主呪殺祈祷僧団」が組織されて祈祷が行われた。 伊勢新聞1972年9月3日の地域記事では、四日市市の患者が死亡するのは、例年決まって夏の終わりから晩秋にかけての時期に多い。医療関係者と公害問題の関係者は「夏バテで身体が弱体化している状態で、秋口の涼風に刺激されて発作が起きやすくなっているのでは」とコメントをして、公害の原点であると言われる最汚染地区の磯津地区でも、北西の風が吹く、秋口から初冬にかけての季節が汚染のピークであった[85]

公害統計

硫黄酸化物や窒素酸化物などの汚染された大気を吸って窒息障害になり多くの四日市市民が死亡した。昭和時代高度経済成長期の四日市市は、塩浜地区を中心とする四日市市市南部地域と中部地区を中心とする四日市市中部地域と富洲原地区を中心とする四日市市北部中心の人口構造から、四日市市西部地域の郊外の人口が急増していて、公害が発生した戦後の高度経済成長期は四日市市民が約20万人いたが、その内、塩浜地区を中心に市民の100分の3の割合(3%)に当たる約5000人が公害患者と全員が認定されなかったが、軽度から重度の喘息症状に発症していた。その内2216人が四日市ぜんそくの公害患者と認定された。公害認定患者は9歳以下の子供たちが4割(40%)近くであり、患者は男性の方が多くて、男性では4割4分(44%)以上が9歳以下の子供で、19歳未満では半数を超えた。女性患者も子供たちが最多で、30歳から40歳までの中年女性が、全体の2割5分(25%)の4分の1を占めた。入院を必要とする重病患者の約3分の1に当たる、3割3分(33%)が塩浜地区内の磯津漁港がある磯津町民で、認定患者の4割(40%)が塩浜地区民であった[86]

公害死亡者数については、子供や若い年代の患者の場合は公害で死亡した可能性が高く、公害死亡者として断定できるが、四日市ぜんそくは高齢者の患者が多数であったため、死亡原因が老化によって喘息以外の病気で死亡した可能性があるため因果関係が難しい事情がある。約600人が公害によって死亡したとする説もあるが、因果関係の判断が難しい乳児死亡や高齢者の死亡者もあるため、公害死者の実数はさらに多数とみられる。自殺者と公害裁判後の病死者を含める統計では、2008年までに946人が死亡し、因果関係がの判断が難しい患者を含めると、四日市市内で四日市空襲の死者808人を超える犠牲者が出た。四日市公害によって約1000人近くが死亡した。四日市市に合併前の三重郡楠町では67名の犠牲者が出た。三重郡楠町は日本史保健体育の教科書の戦後の4大公害の項目に四日市ぜんそくと云う名称で四日市市のみに公害が発生して楠町の被害の記述がない事から楠町の公害被害の記述の加筆を要望していた。

2011年の時点で、四日市公害の認定患者が441名いる。大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決があった1972年7月24日から5年後の1977年に四日市市営の墓地である大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者の慰霊碑が建立された。1977年10月23日に四日市ぜんそくの病死者と自殺の公害被害者の慰霊祭が実施された。1977年の慰霊碑の建立当時に調査した統計では、すでに病死や自殺で死亡した公害認定患者は184名だった。慰霊祭は現在まで毎年継続し、公害死亡者は年々増加し2008年9月21日の第26回慰霊祭では、946人が四日市喘息の慰霊碑に公害病の死者とされている。患者は10代の子供と、50代から60代の中高年が多かった。明治生まれの高齢者に死亡者が多く、大部分は平成時代までに四日市ぜんそくの影響で死亡しており、塩浜地区を中心に四日市市の平均寿命が全国平均より短かった。平成期に生存している世代では、当時小学生くらいの子供であった新人類世代に公害患者だったものが多く、2010年代に50代の中年となっている。

大気汚染による代表的な公害病の一つである。喘息の以外の症状として感冒の症状・扁桃炎(へんとうえん)の増加・結膜炎の増加・むかつきの症状・嘔吐の症状・頭痛の症状・気管支炎の症状・肺がんの発症が増加するなど、これらの症状で塩浜地区の平均寿命が、全国平均や四日市市の汚染されていない他の地区と比較して低下する健康問題がおきた。四日市公害で喘息症状になったのは、未成年が多くて、子供の健康被害が大きかったが、児童や生徒の公式な四日市喘息の死者は10人前後と少ない。しかし、原因不明の死亡が多かった四日市公害は四日市市の健康調査の統計でも明らかだが市内の平均寿命や乳児死亡は悪化しており、公害が健康や原因不明の死亡に強い影響を及ぼした。

昭和30年代から昭和50年代まで市の平均寿命と乳児死亡率は、四日市ぜんそくによる塩浜地区を中心とする四日市市南部地域と中部地域の老人の病死が増加した事や公害苦による自殺の増加によって高齢者の死亡率が高かった事から全国平均より明らかに平均寿命が短くて、乳児死亡率は全国平均より明らかに高くなっていた。同じ四日市市内で公害による健康被害があった塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区の子供と、公害汚染がない空気が綺麗な水沢地区・小山田地区・富洲原地区・保々地区の子供の健康状態を比較する健康調査が実施された。これらの死亡記事が四日市市民の怒りになり訴訟のきっかけとなる。

乳児死亡率統計

  • 年間の平均乳児死亡率の統計
  • 1000人に対して何人かの割合(昭和42年度の統計)
    1. 塩浜地区 の乳児死亡率: 36.1人
    2. 四日市市全体の乳児死亡率: 25.6人
    3. 全国平均の乳児死亡率: 18.1人
  • 昭和35年までの乳児死亡率は全国平均以下だった[87][88]

集団移転政策

塩浜地区では公害による生活環境悪化から逃れるため、一部地域の住民が四日市西部の鈴鹿山脈側に集団移転し、ゴーストタウンの様に消滅した町もあった。塩浜地区は第1コンビナートが立地する工業地帯と(塩浜地区・三浜地区)の住宅地で構成されていた。住宅地と工業地の混合地域であったことが、公害を悪化させた原因である。

小学校の問題

煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する四日市コンビナートの大工場は稼動開始当初は四日市の街の誇りであった。この工業化の誇りはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。この校歌は塩浜小学校の保護者の抗議を受けて変更された。四日市市史によると、1965年3月に公害汚染地区である4つの小学校(塩浜地区の塩浜小学校・三浜小学校・中部地区の納屋小学校・橋北地区の東橋北小学校の各小学校)の教職員と児童全員に「公害予防マスク」が配られた。そして1965年4月には厚生省によって汚染被害地区の塩浜小学校・三浜小学校と非汚染地区の四日市市西部の四日市市立桜小学校・四日市市立神前小学校・四日市市北部の富洲原小学校の2年生と6年生の児童の公害検診が実施された。1965年10月には中村梅吉文部大臣が三浜小学校を視察した折にPTAからの陳情がされた。四日市市内の教職員が公害問題に積極的に取り組んだ。1965年1月の三泗教職員組合により公害対策専門職員の配置と定期無料検診などの実施が要望されて、1965年2月には四日市学校保健研究会で、「四日市ぜんそく」の実態の調査報告がされた。1965年11月には日本教職員組合が公害調査のために公害汚染地区の学校や工場を調査している。1967年12月には三重県教職員組合が「第1回公害と教育研究集会」を四日市市内で開催している。そして1971年8月には三重県教職員組合が三泗支部編「四日市の公害と教育〜教育実践と地域実践〜第1集」が発刊されて、続いて1972年8月には小中学生の作文集「みんなが被害者、四日市公害を訴える子供たち第1集」が発刊された[89]

1966年に三浜小学校の児童会会長であった6年生(12歳)の男子が佐藤栄作総理大臣に手紙を書き、「公害に悩む私たちの学校にもようやく空気清浄機が入りました。しかし夏には暑くて勉強ができません。どうかクーラーを入れて下さい。夏に公害対策として窓の閉鎖が行われて暑さから授業ができずクーラーを設置してほしい」と救援 (sos) の手紙を書いた[90]。手紙を読んだ佐藤栄作首相は、四日市の子供がこんな悲惨な目にあっているのかと涙を流した。九鬼市長を呼びつけて問いただしたが、「子供の話は大した事はなく、四日市には公害がない」と発言して無責任市長の悪評が広がった。

公害汚染がひどかった塩浜地区内の塩浜小学校・三浜小学校と、中部地区内の納屋小学校、橋北地区内の東橋北小学校の4つの四日市市立の公立小学校は、公害による被害で地域住民が引っ越した事で児童数が急激に減少して、同じ塩浜地区内の塩浜小学校と三浜小学校は統合計画が成立して、同じ中部地区内の四日市市立納屋小学校は中部東小学校と統合されて四日市市立中央小学校となり、同じ橋北地区内の東橋北小学校は西橋北小学校と統合計画が進んでいる。

参考文献の『おはなし歴史風土記第24巻 三重県』の『校歌がさびる卒業式』の内容では以下のような公害物語のエピソードが記載されている。『港のほとりに並び立つ科学の誇る工場は平和を守る日本の希望の希望の光です。塩浜小・塩浜小、僕たちは明日の日本を築きます』昭和41年度の四日市市立塩浜小学校の卒業式で塩浜小学校の校歌が流れた。児童たちにはさまざまな子供がいたと紹介されている。

  1. 雑巾を振り回して先生に叱られると「空気を吹いているのや」とみんなを笑わせた男子児童。
  2. 「工場は鬼だ」を節分の絵を描いた男子児童。
  3. 登山水泳も禁止されて、四日市公害に負けてしまった女子児童。
  4. 卒業式が終わると公害対策から東京都に近い千葉県に引っ越す女子児童など全員が校歌を歌った。

卒業式のスピーチで「皆さんは近代科学の町の中心の塩浜で学びました。公害に負けない体力作りをはげみました。これからも、元気で明るく、明日の日本を築く人になれるように努力して、中学校へ進学しても頑張ってください」塩浜小学校の校長が励ましの言葉を述べた。「汚れた空気を吸わない事」できない不可能なことを何度も塩浜の児童たちは先生たちから言われていた[91]

この『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県の記述では「四日市は、工業を盛んにするために青い海を売った。青い空を売った。綺麗な空気と汚れた空気を取り換えた。今では子供や老人の命まで売っている」四日市ぜんそく物語で以下の内容が記述されている。四日市市教育委員会が作成した文集に「みんな被害者」と云う出版物もある。

高煙突化対策

1966年ころから、公害対策として塩浜地区の四日市コンビナートには、大気汚染の排煙を遠方へ拡散させるために100mを超す高い煙突が立ち並んだ。1971年には赤色と白色のだんだら模様の高煙突が20本も立ち並び、中には150m級の高煙突があった[92]。煙突を高くする対策で第1四日市コンビナート付近の塩浜地区の硫黄酸化物の濃度が低くなったが、煙が遠方まで汚染物質が流されて、塩浜地区以外の三重郡楠町と日永地区・浜田地区まで大気汚染が拡大した

(菅井益郎 2001)

四日市市の対応

四日市市は公害患者は子供と高齢者に多いが、「喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なない」と云う見解であった。子供が死亡した時の四日市市民の怒りが高く、子供の追悼集会が開かれて、中高年の死亡した時より子供が死亡した時のニュースが大きく報道された。中高年の死亡は原告や公害運動をしていた患者が死亡した場合は大きく報道されたが、高齢者の死亡は大きく報道されなかった。九鬼喜久男市長を中心とする四日市市は本当に四日市コンビナートが喘息の原因で公害によって四日市ぜんそくになったのか、違う原因ではないかと責任を認めていなかった。四日市コンビナートの被告企業も社会的責任を取りたくないので、自己の会社の無罪を主張していた。


注釈

  1. ^ 塩浜地区など四日市市南部地域と海蔵地区など四日市市中部地域のみで四日市公害が発生した。患者は「死ぬより辛い」というほどの発作に苦しんだ。四日市市北部地域の富田地区・富洲原地区と四日市市西部地域は四日市公害の被害とは無関係である
  2. ^ 四日市市のみの公害と誤解されるが隣接する三重郡楠町にも公害患者が多数いた
  3. ^ 簡易表記や教育内容の教科書や正式名の四日市ぜんそくの呼称以外に難解漢字表記や医学用語では四日市喘息や水質汚染や喘息以外の病気など公害全体を指す四日市公害の呼称や四日市喘息の呼称がある
  4. ^ 四日市ぜんそくは他の三つの公害の水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病を日本政府が昭和43年に公害病と認定したが、四日市ぜんそくは日本政府の公害病認定がなくて公害病扱いされず、四日市のぜんそく事件と呼ばれていて、公害病ではなくて事件扱いされていた。
  5. ^ 戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。
  6. ^ 静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた
  7. ^ 2000年代の日本の都道府県で1人当たりの県民経済計算の所得がプラスとなったのは三重県・愛知県・静岡県・神奈川県・東京都・鹿児島県の6都県のみ。それ以外の府道県はマイナス成長か0%成長であった。三重県はシャープの立地、鹿児島県はキャノンの立地によるものである。
  8. ^ 社会科日本史戦後の公害の記述では四日市ぜんそくについては亜硫酸ガスが原因とされているが、水俣病・イタイイタイ病のように原因物質が正確には立証や特定されていない

出典

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  12. ^ (引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
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  33. ^ 塩浜中女子生徒・海蔵小学校1年生死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、635頁
  34. ^ 公害予防マスク・文部大臣視察。汚染地区非汚染地区小学校健康比較の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、708頁
  35. ^ 広報よっかいちの公害統計の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、731頁
  36. ^ 最初の公害患者の死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、739頁
  37. ^ 公害患者の自殺の記述。公害患者の年齢・性別・地区別の統計。四日市市史(第19巻)通史編現代、752から755頁
  38. ^ 雨池町・平和町の集団移転の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、618頁
  39. ^ 日本横断運河の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、703頁
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  93. ^ 参考文献は、四日市市史(第14巻)史料編現代I、の四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟についての記述。
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  95. ^ 四日市コンビナートを誘致した公害初期に四日市の市長であった平田市長の記述。塩浜地区出身の田中覚三重県知事の記述。平田佐矩の後任の四日市市長は九鬼喜久男であり、午起地区に第2四日市コンビナートを建設して、塩浜地区以外の四日市市南部・中部の臨海部に公害を拡大させた。四日市市の大気汚染をさらに悪化させたのに加えて、公害対策を怠り、四日市市民が死亡するケースとして子供の病死や公害患者の自殺など被害を拡大させた。四日市市の九鬼喜久男市長が、「四日市公害」の歴史に関わった記述を引用。
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  119. ^ (参考文献)は国史大辞典(四日市ぜんそくの項目で公害対策と環境技術の革新についての内容)の記事。
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  121. ^ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%96%98%E6%81%AF/四日市喘息用語辞書 [リンク切れ]
  122. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)736頁
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  124. ^ 四日市ぜんそく公害訴訟判決その後 私記 公害四日市の戦後
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  126. ^ 2012年(平成24年)1月6日読売新聞社会面25頁
  127. ^ 読売新聞三重版、2011年10月3日






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