嘉納治五郎
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嘉納 治五郎(かのう じごろう、旧字体:嘉納󠄁 治五郞、万延元年10月28日〈1860年12月10日〉- 昭和13年〈1938年〉5月4日)は、日本の柔道家・教育者・貴族院議員。兵庫県出身。別表記:加納治五郎[1]。
注釈
- ^ 嘉納は自ら皇武館を訪れ、盛平の技を見て思わず「私の求めていた物はこれだ!!」と叫んだという。
- ^ 嘉納の銅像の原型は1936年11月、彫刻家の朝倉文夫(後の文化勲章受章者で、早稲田大学校賓)が制作した。講道館に置かれたものも含めて、2012年までに5体が同じ原型から造られた。原型が老朽化したため、新規鋳造された銅像が2019年2月、台東区役所1階に設置された[14]。
- ^ 嘉納が高等師範学校及び附属中学校の校長を務めたのは、1893年(明治26年)9月から1897年(明治30年)9月迄の4年間、同年11月から1898年(明治31年)6月迄の7か月、1901年(明治34年)5月から1920年(大正9年)1月迄(02年より東京高等師範学校に改称)の19年間弱と通算23年余に及んだ。同校の歴代校長の在任期間としては最長。
- ^ 「一部武道家として不満な点もあるが全てを清算してやはり他の追従を許さぬ所だと思うのである。合気道の創始者植芝盛平も本人は達人であっただろうが合気の完成システムを残せなかったことで嘉納治五郎に一歩譲らざるを得ないのである。[17]」
出典
- ^ 「日本伝起倒柔道」の免状
- ^ “夢と感動と愛を与えた日本柔道界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月15日閲覧。
- ^ 東憲一、飯島啓子 2015, p. 16-17.
- ^ 『ホワイトハウスにできた柔道場 恩師フェノロサを超えた嘉納治五郎』丸屋武士 SB新書
- ^ 「二松學舎入学生名簿」『二松学友会誌』第壱輯、1896年。
- ^ 松井利彦 1985.
- ^ 『週刊日本の100人 No.088 森鴎外』デアゴスティーニ・ジャパン 2013年
- ^ 『早稲田大学百年史』P212
- ^ 平岡勇三 1937, p. 163.
- ^ 「柔道」第3巻第5号、1932年5月
- ^ 『嘉納治五郎大系』第1巻、P.381「講道館の創立満五十周年を迎えて」
- ^ 桐生習作 2021.
- ^ 溝口紀子「女子柔道の誕生 -講道館神話の分析-」(第二部・第5章 明治から戦前における女性柔術・柔道の歴史 学校体育における柔術・柔道の採用‐女子の場合‐)2015年
- ^ 柔道の創始者・嘉納治五郎像 台東に堂々「発祥の地」シンボルに『読売新聞』朝刊2019年2月13日(都民面)2019年2月15日閲覧。
- ^ 嘉納治五郎略歴 公益財団法人日本オリンピック委員会
- ^ a b c 関正昭 1997, pp. 85–87.
- ^ a b 寺尾正充 1987, p. 13.
- ^ 寺尾正充 1987, p. 17.
- ^ 『東京高等師範学校沿革略志』1911年、p.51-52,61
- ^ 今泉朝雄 1998, p. 64.
- ^ a b 大熊廣明他「高等師範学校・東京高等師範学校による学校体育の近代化とスポーツの普及に関する研究」『筑波大学体育科学系紀要』28巻、2005年
- ^ 斉藤仁 & 南條充寿 2008, p. 16.
- ^ 柔道の神様、帰国の船中で死去『東京朝日新聞』(昭和13年5月5日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p77 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “第3章 戦争と東京大会返上”. 国立国会図書館. 2018年11月27日閲覧。
- ^ 茗水百年史,2002.筑波大学体芸図書館蔵)
- ^ 高橋宏幸 1990, p. 56.
- ^ 紙谷武 & 柏口新二 2015.
- ^ 『ゴング格闘技』302号(アプリスタイル)
- ^ 「ロシア柔道の祖」銅像を建立、極東ウラジオストクで除幕式(産経ニュース) 2016.09.24.
- ^ ウラジオに柔道の祖の銅像建立2016.09.26
- ^ 藤堂良明 2007, p. 133.
- ^ 『空手道: その歴史と技法』嘉手苅、小山、和田 2020年 日本武道館(ベースボールマガジン社)
- ^ 「『精力善用国民体育』の目的とその意義に関する研究」桐生習作 2020年 講道館
- ^ 灘校校長によるまとめ
- ^ 近藤哲・著『漱石と會津っぽ・山嵐』歴史春秋社 1995年
- ^ 夏目漱石・著『三四郎』第十章 1908年
- ^ 加藤仁平 1964, p. 17.
- ^ 豊富町: “嘉納久三郎さん”. とよとみ広報. p. 3 (2002年). 2006年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月15日閲覧。
- ^ 豊富・サロベツ原野文学散歩 1 宗谷紀行
- ^ 豊富八幡神社(豊富町) 北海道神社庁
- ^ a b c d e f 人事興信所 1931, p. カ31.
- ^ 『竹添履信』 - コトバンク(日本人名大辞典)
- ^ 早川万一『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ “柔道講道館 上村春樹氏が館長に再選、任期は2年 嘉納明石氏ら7人全員が再任”. 日刊スポーツ (2022年6月28日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ 水野雅士 2000, p. 135.
- ^ 水野雅士 2003, p. 322.
- ^ 植村昌夫 2011, pp. 200–217.
- ^ 『官報』第578号、明治18年6月6日。
- ^ 『官報』第1029号「叙任及辞令」1886年12月3日
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第3507号「叙任及辞令」1895年3月12日。
- ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
- ^ 『官報』第6687号「叙任及辞令」1905年10月11日。
- ^ 『官報』第8210号「叙任及辞令」1910年11月1日。
- ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日
- ^ 『官報』第2255号「叙任及辞令」1920年2月12日。
- ^ a b 『官報』第3406号「叙任及辞令」1938年5月14日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
- ^ 『官報』第8507号「叙任及辞令」1911年10月27日。
- ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
- ^ 『官報』第2234号「叙任及辞令」1920年1月17日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
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