嘉納治五郎 嘉納治五郎の概要

嘉納治五郎

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嘉納かのう 治五郎じごろう
誕生 (1860-12-10) 1860年12月10日万延元年10月28日
日本・摂津国菟原郡御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影
別名 甲南、進乎斎、帰一斎()、伸之助(幼名
死没 (1938-05-04) 1938年5月4日(77歳没)
太平洋上(氷川丸船中)
墓地 東京都立八柱霊園千葉県松戸市
職業 官吏教育者柔道家
国籍 日本
最終学歴 東京大学文学部
代表作 『青年修養訓』(1910年)、『Judo (Jujutsu)』(1937年)
配偶者 須磨子(竹添進一郎次女)1891年
子供 範子(長女・綿貫哲雄妻)、履信(長男・竹添進一郎養子)、爽子(三女・生源寺順妻)、履正(次男)、希子(四女・畠中恒治郎妻)、篤子(五女・鷹崎正見妻)、履方(三男)
親族 治郎作(父)、定子(母)、藤井希璞(伯父)、久三郎(長兄)、謙作(次兄)、柳子(長姉・南郷茂光妻)、勝子(次姉・柳楢悦妻)
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政治家としての経歴
所属政党 同和会

選挙区勅選議員
在任期間 1922年2月2日 - 1938年5月4日
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講道館柔道創始者であり[2]、柔道・スポーツ教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本におけるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また、「日本の体育の父」とも称される。

生涯

生い立ち

1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。柳宗悦の母は治五郎の姉。のちに菊正宗酒造白鶴酒造を経営した嘉納三家とは分家筋に当たる。

嘉納家は御影において屈指の名家であり、祖父の治作は酒造廻船にて甚だ高名であった。治五郎の父・治郎作はその長女・定子に婿入りし、治作は当初、治郎作に家を継がせようとしていたが、治郎作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは灘五郷の清酒を江戸に送る樽廻船業に従事した。幕府の廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負った。勝海舟を無名時代から評価していた函館の豪商である渋田利右衛門は自分が死んだ後でも勝の後援者になってくれる人物として、竹川竹斉、濱口梧陵、嘉納治郎作を紹介した。

1866年慶應2年)6歳の頃、画家山本竹雲と医師「山岸某氏」のもとで漢学・儒教と書道を習う。

1869年明治2年)9歳の頃、母・定子が亡くなる。

1870年(明治3年)、明治政府要人となっていた勝海舟の推挙で新政府に出仕する父に伴い、9歳の治五郎も上京。

1871年(明治4年)、生方桂堂が主宰する成達書塾に入塾し、を学ぶ。

1872年(明治5年)、生方桂堂の助言で、洋学者箕作秋坪が主宰する浜町の三叉学舎に入塾し、英語を学ぶ。

東京大学時代

嘉納治五郎(32歳)、1892年頃

1873年(明治6年)、芝烏森の育英義塾(校主は有栖川宮熾仁親王)に転塾し洋学、英語、ドイツ語を学ぶ。1874年(明治7年)、官立外国語学校(後の東京外国語大学)に入学。1875年(明治8年)、同校卒業後、官立開成学校に進学。1877年(明治10年)に開成学校が東京大学に改組され文学部第一年に編入。1881年(明治14年)7月、文学部政治学理財学科を卒業(文学士)、同年中に撰科生として文学部哲学科に編入、翌1882年(明治15年)7月に同科を卒業した。[3]

東京大学在学中は、漢文学を中村正直三島毅(中洲)、島田重禮(篁村)等に、和学横山由清小中村清矩黒川真頼等に、印度哲学原担山、吉谷覚寿等につき、講師であった渋沢栄一の経済学の講義も受けた。またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学び[4]、特にスペンサー哲学に感銘を受ける。また1878年(明治11年)には三島の漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる[5]

文学部の同級生には、末岡精一(帝大法科大学教授)、坪井九馬三(文科大学長)、都築馨六(枢密顧問官)、辰巳小次郎(諸方の私立学校教師)、田中稲城(和漢学、帝国図書館長)らがいた。また嘉納と同期卒業生には森鴎外医学部)もおり、その小説『』(1911年9月–1913年連載、1915年刊行)は鴎外の卒業間際の明治13年、14年頃をモチーフに執筆したとされ、登場人物「石原」のモデルは嘉納という説もある[6][7]

1882年(明治15年)1月より学習院の政治経済科講師(立花種恭院長)を務めた。当時同校はまだ小規模な私立学校で、生徒は嘉納より年長者が多く、子爵山口弘達、子爵大久保忠順、子爵佐竹義理、子爵牧野貞寧などが在学していた。

柔道創始

育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流の大島一学に短期間入門するなどした後、幕府の最後の講武所師範であった天神真楊流柔術福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。

1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて、来日中のグラントアメリカ大統領の前で、学友・五代竜作を相手に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智、同門で湯島天神下同朋町で修心館を開いていた井上敬太郎に同流柔術を学ぶ。

1880年(明治13年)、東京大学で開かれた戸塚派楊心流柔術一門の演武披露に飛び入り参加。小柄の治五郎が楊心流戸塚一門の巨漢と試合をして勝ち、一躍、世間の話題となる。

1881年(明治14年)、東京大学文学部卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。

1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁将棋から段位制を取り入れ講道館を設立。

1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝

1889年(明治22年)、講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」において、柔道修行の目的を勝負法(武術/真剣勝負/護身)、体育法(体育)、修心法(知育/徳育/応用)と定義した。

治五郎は柔術のみならず、剣術棒術薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平[注釈 1]神道夢想流杖術清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』では、この薙刀術が戦時下国民学校の標準となったされるが、国民学校令施行以前に既に大日本武徳会式の薙刀術は学校教育に採用されている)。

なお、第五高等中学校長時代(1891-93年)には、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流した。

1897年(明治30年)3月頃には、創部したての東京専門学校(現・早稲田大学)柔道部の柔道場にも指導に訪れていたという[8]

1905年(明治38年)5月、大日本武徳会から柔道範士号を授与される[9]

1922年大正11年)、講道館文化会を設立し、柔道の理念としてそれまでの「柔の理」から新たに発展させた「精力善用」「自他共栄」を発表する。

精力善用国民体育

1927年(昭和2年)、嘉納は講道館文化会において「精力善用国民体育」を発表する。それは国民生活の改善のために体育武術を兼ねており、いつでもどこでも稽古が実施可能であり、多様な目的を有する体育法として作成されたものだった。その中には1909年(明治42年)に嘉納が発表した「擬働体操」に含まれた、物を磨く動作及び当身技(突き、蹴り)と類似した動作も含まれていた。

嘉納は「精力善用国民体育」が「攻防式国民体育」と「舞踊式国民体育」(昭和6年以降の表記名、昭和5年以前表記名「表現式国民体育」)の2種によって構成されることを言及している。「表現式」「舞踊式」は「五の形」の中にあるような天然の力(逆浪の断崖に打つかり戻る水の動く有様、風のために物体が動揺する有様、天体の運行、その他百般の天地間の運動)や、能や舞踊にあるような人間の観念・思想、感情を、人間の身体をもって巧みに形容し表現し、体育の理想に適うように組合わせ、色々の組織を立てたものとされる。嘉納は研究途中であった「舞踊式」の完成を図っていることを、次のように語っている。 「今日すでに案出せられている攻防式国民体育の普及を図ると同時に、今一層深くこれを研究して改良に努め、国民体育中、いまだ完成に至らざる舞踊式のごときは、研究を続け、なるべく早く世に発表することに努力するつもりである」[10][11]

この形には嘉納が乱取競技を認めつつ、その弊害を是正するための研究成果が随所にあり、柔道における競技性と武術性のバランスをいかにとるべきか、嘉納の視点を学ぶ上で貴重な資料となっている。[12]

柔道舞踊

柔道舞踊は、講道館の黎明期から昭和の終わりごろまで女子部員によって踊られていた、柔道の技を取り入れた舞踊である。当時は女性に試合の機会が少なかったため、嘉納治五郎が、「男女平等に柔道を普及させたい」と発案したとされる。女性にも取り組みやすいような踊りを取り入れるなど工夫されたという。嘉納が研究を続けていた「精力善用国民体育」のうちの「舞踊式」を探る上での資料ともなる。[13]

教育者・文部官僚として

嘉納治五郎

嘉納は教育者としても重用され、1882年(明治15年)1月からの学習院講師を皮切りに、同年8月に教師(宮内省御用掛兼務)、同校が官立化した1884年(明治17年)に教授補、1885年(明治18年)に幹事兼教授、1886年(明治19年)には教授兼教頭に抜擢された(1884年には駒場農学校の理財学教授も委嘱された)。

1891年(明治24年)8月に第五高等中学校長(小泉八雲を招聘)、1893年(明治26年)6月には短期間ながら第一高等中学校長に任ぜられた後、同年9月より3期23年余にわたって高等師範学校(1902年に東京高等師範学校に改称。現 筑波大学、キャンパス内に立像あり[注釈 2])及び附属中学校(現 筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた[注釈 3]

この間、文部官僚として、文部省年報編纂方取調委員、大臣官房図書課長、中学校学則取調委員、図書編纂審査委員長、文部省参事官、普通学務局長を兼務し、さらに修身教科書調査委員、国語調査委員会委員、高等教育会議議員、教員検定委員会委員、教科用図書調査委員会委員、教育調査会会員、臨時教育会議委員、臨時教育委員会委員、兵式体操振興ニ関スル調査委員などを歴任、臨時教育会議においては師範大学設置=高等師範学校の大学昇格の論陣を張った。

その他、1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館東洋大学の前身)でも講師を務め、棚橋一郎とともに倫理学を担当(同科の哲学館講義録も執筆)。

また、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(のちの灘中学校・高等学校)の設立に関与し、日本女子大学創立委員に名を連ねた。

独自の教育活動としては、1882年(明治15年)2月に上野永昌寺私塾・嘉納塾を、5月に南神保町に英語学校「弘文館」を創立[15]。また、高等師範学校長時代の1896年(明治29年)には文部大臣西園寺公望から託された清国留学生13名を受け入れ(組織的な「留学生に対する日本語教育」の嚆矢とされる[16])、1899年(明治32年)には留学生教育のために私塾「亦楽書院」を、1902年(明治35年)には規模拡大のため牛込弘文学院を開設(のち宏文学院と改称、翌03年より松本亀次郎が校長)、留学生500名を数え、1904年(明治37年)には分校4校を開いた[16]。後に中国文学革命の旗手となる魯迅も同校で学び、嘉納に師事した[16]

武道家・武術家として

日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」[17] とも評される武術・柔術界の第一人者であった。[注釈 4]

嘉納は講道館柔道の創始と共に、大日本武徳会設立にも参加し、「武徳会柔術試合審判規定」(1899年)、「武徳会柔術形制定委員会」(1906年)において諸流派の委員をまとめる委員長を務めた。柔道(柔術)家・剣道(剣術)家等の武道(武術)家の称号制定に際しては、当初から武徳会全武術の最高位の範士号・教士号の審査を担当する選考委員3名のうちにあり(共に担当した委員は北垣国道渡辺昇)、嘉納自身が範士号を授与されたのも他の授与者と比較して40代という若さでであった。また、1914年12月に武術詮衡委員が「柔道」「剣道」「居合」「弓術」「槍術」の各武術毎の委員に委嘱され選考されるようになった際にも、嘉納は全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱されている。

また、嘉納は多彩を極める古流の中には心眼流大東流など乱捕りという共通部分を持たない特殊なものも多い事を認識し、講道館柔道の完成と普及に尽力する一方、各古流の道場を廻って講道館に組み入れる事の出来なかった他流の技法の保存と伝承に力を入れていた[18]

高等師範学校でのスポーツ奨励と体操科教員養成

嘉納の高等師範学校長時代の特徴的な取り組みとして、課外活動での各種スポーツの奨励と体育科(特科)の設置が挙げられる。

1894年(明治27年)秋に同校初の「大運動会」が開催され、1896年(明治29年)3月には嘉納は運動部を統括する「運動会」を結成(初代会長に就任)、柔道部(1894年創部)の他、撃剣(剣道)及び銃槍部・弓技(弓道)部・器械体操部・ローンテニス(庭球)部・フートボール(蹴球)部・ベースボール部・自転車部の8部を設置し、生徒は必ず一つ以上の運動部に所属して毎日30分以上の運動をすること、毎月1回の遠足、水泳・漕櫓等の臨時開催が定められた。1901年(明治34年)10月、嘉納の提案で寄合会と運動会を統合した「校友会」が発足した。[19]

一方、1890年代からの中等学校進学者の増加に伴う教員不足に対処するため、文部官僚として嘉納もその制定に関与した1894年4月の「高等師範学校規程」では、第12条で必要に応じての「専修科」設置=特定教科の短期教員養成が可能とされた[20]。同規程に基づき、同校は体操(体育)の専修科として、1899年(明治32)に「体操専修科」が初めて設置(修業年限2年)された。以後、嘉納校長時代に「修身体操専修科」「文科兼修体操専修科」などが開設されたが、1913年大正2年)に設置された「体操専修科」では、専攻・学科目に体操と並んで柔道・剣道が初めて追加された(1911年の中学校体操科での撃剣・柔術の採用に対応)。[21]

さらに、1915年(大正4年)2月の文部省令「高等師範学校規程」改定に基づき、東京高等師範学校(1902年改称)では文科・理科の2学科に特科として体育科が加わった。これ以降、体操伝習所以来、実質的に中断されていた恒常的な体操科教員の養成及び体育研究が再開されることとなった。[21]

1910年(明治43年)に嘉納は自身の体育・スポーツ観として、「筋骨発達、身体を強健にする」こと、「自己に対し、人に対し道徳や品位の向上を図ることができる」こと、「運動の習慣、長く継続することで心身共に常に若々しく生きることができる」こと、そしてそれによって社会に貢献することができるとした。

大日本体育協会の設立と東京オリンピック招致

1920年アントワープオリンピックの選手たちと(前列中央)。その左は茂木善作、後列右端に金栗四三

日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)国際オリンピック委員会(IOC)委員となる[22]

1911年(明治44年)に大日本体育協会(のちの日本スポーツ協会)を設立してその会長となる。1912年明治45年)7月、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。

1922年(大正11年)2月、貴族院議員勅選)となる。

1924年(大正13年)合気道・柔道家の富木謙治が早大柔道部で謦咳に接し、影響を受ける。

1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に日中戦争の激化などにより返上)招致に成功した。

帰国途上の客死

1938年(昭和13年)、カイロエジプト)で行われたIOC総会に赴き、東京大会招致活動に尽力。アメリカ経由での帰国途上の5月4日、氷川丸船内で肺炎により死去。乗船前から風邪のため体調が優れず、船内では静養に努めていたが、横浜港到着の2日前に悪化して帰らぬ人となった[23]遺体は氷詰にして持ち帰られ、横浜港では棺にオリンピック旗をかけられて船から降ろされた[24]。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所千葉県松戸市東京都立八柱霊園

柔道における修心活動 文化会・啓蒙雑誌・講演活動

嘉納は1882年創立の嘉納塾以降、1888年善用塾、成蹊塾、1900年全一塾と対象年齢毎の私塾を展開していく。そこでは知育、徳育、体育のどれにも偏らない教育を塾の方針とし、そこから杉村陽太郎高島平三郎南郷次郎嘉納徳三郎苫米地英俊など様々な各方面に活躍する多くの卒業生が巣立っている。

また1898年に嘉納は嘉納塾以外の私塾を統合して造士会を創立し、1915年に柔道会、1922年に講道館文化会の創立をし、教育薫陶、世の中に有益な人物の輩出を目的として対象を広げていく。

1898年の「造士会創立の趣旨」において造士会の事業として、

  1. 塾舎を設けて子弟を教育薫陶する
  2. 講道館柔道やその他の武芸体操を教授する
  3. 雑誌を刊行して本会の趣旨の貫徹を図る

とある。

1915年の「柔道会創設の趣旨」において、「講道館と連携し、柔道会を設け柔道のみならず人間形成に役立てる」とし、具体的には「柔道の本義や修行の方法をさずけるだけでなく、役に立つ人間乃ち有数健全なる国民の育成を目指す」「雑誌・図書の刊行、講演会・講習会の開催、柔道の奨励・指導を行う」としている。

1922年の「講道館文化会」の目的としては、

  1. 個人に対しては身体強健、知徳の練磨、社会において有力なることとする。
  2. 国家に就いては、国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図ろうとするため常に必要な改善を怠らない。
  3. 社会にあっては個人団体ともお互いに助け合い譲り合い、融和を実現する。
  4. 社会においては人種的偏見をせず、文化の向上、人類の共栄を図る。

とした。

そして、雑誌の発刊として、私塾教育においては嘉納塾の機関紙『嘉納塾同窓会雑誌』を発刊し、造士会においては『國士』、柔道会においては『柔道』・『有効之活動』、講道館文化会においては『大勢』・『柔道界』・『柔道』・『作興』とその時期その時期で対象読者を上げてテーマを広げ、目的ごとに使い分け、改題しながらも活動を続けていく。

雑誌刊行の目的として嘉納は「講道館柔道の修行者として、さらに多方面にも修養の資料となるべき雑誌を発行したならば、これによりて継続的に、秩序的に、柔道に関する自分の考えを示すことができる。さらにこの仕事に加えて、適当なる機会を利用して、講道館において話をしたならば、やや教育が行き渡るであろう」と述べている。

雑誌の講述において嘉納の扱うテーマは多岐にわたり、その内容は、

  1. 技や技術、また試合をも含める修行の仕方について理想を説くもの。
  2. 日常生活を通じての修養や訓育に関するもの。
  3. 国家や社会の問題を指摘し、見解と訓育を述べるもの。

に大別することが出来る。


注釈

  1. ^ 嘉納は自ら皇武館を訪れ、盛平の技を見て思わず「私の求めていた物はこれだ!!」と叫んだという。
  2. ^ 嘉納の銅像の原型は1936年11月、彫刻家の朝倉文夫(後の文化勲章受章者で、早稲田大学校賓)が制作した。講道館に置かれたものも含めて、2012年までに5体が同じ原型から造られた。原型が老朽化したため、新規鋳造された銅像が2019年2月、台東区役所1階に設置された[14]
  3. ^ 嘉納が高等師範学校及び附属中学校の校長を務めたのは、1893年明治26年)9月から1897年(明治30年)9月迄の4年間、同年11月から1898年(明治31年)6月迄の7か月、1901年(明治34年)5月から1920年大正9年)1月迄(02年より東京高等師範学校に改称)の19年間弱と通算23年余に及んだ。同校の歴代校長の在任期間としては最長。
  4. ^ 「一部武道家として不満な点もあるが全てを清算してやはり他の追従を許さぬ所だと思うのである。合気道の創始者植芝盛平も本人は達人であっただろうが合気の完成システムを残せなかったことで嘉納治五郎に一歩譲らざるを得ないのである。[17]

出典

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  13. ^ 溝口紀子「女子柔道の誕生 -講道館神話の分析-」(第二部・第5章 明治から戦前における女性柔術・柔道の歴史 学校体育における柔術・柔道の採用‐女子の場合‐)2015年
  14. ^ 柔道の創始者・嘉納治五郎像 台東に堂々「発祥の地」シンボルに読売新聞』朝刊2019年2月13日(都民面)2019年2月15日閲覧。
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  46. ^ 水野雅士 2003, p. 322.
  47. ^ 植村昌夫 2011, pp. 200–217.
  48. ^ 『官報』第578号、明治18年6月6日。
  49. ^ 『官報』第1029号「叙任及辞令」1886年12月3日
  50. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  51. ^ 『官報』第3507号「叙任及辞令」1895年3月12日。
  52. ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
  53. ^ 『官報』第6687号「叙任及辞令」1905年10月11日。
  54. ^ 『官報』第8210号「叙任及辞令」1910年11月1日。
  55. ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日
  56. ^ 『官報』第2255号「叙任及辞令」1920年2月12日。
  57. ^ a b 『官報』第3406号「叙任及辞令」1938年5月14日。
  58. ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
  59. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  60. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  61. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日
  62. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  63. ^ 『官報』第8507号「叙任及辞令」1911年10月27日。
  64. ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
  65. ^ 『官報』第2234号「叙任及辞令」1920年1月17日。
  66. ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。






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