周 歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/26 22:31 UTC 版)

歴史

周の始まり

周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝に仕えて、農政に功績があったという。

古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲季歴と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉[6]と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。周王朝の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「」と同じで、 このことから周は元々羊の遊牧文化を持つ非定住農耕民であったという説がある。[7]

中国戦国時代儒学者である孟子は『孟子』において、「は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として[8][9]は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている[10][11]

銘文から見る当時の周

遺跡からの出土品に記された銘文の中での周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった、しかし一方で、周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残されており、周は殷に服属していたことを表している。また、殷王の妃に「婦周」という人物が見るため、周は武丁期以降に殷への服属と通婚を経て、殷王室の親族の一つとして上層貴族の地位を獲得し、言語文化信仰を殷と同じくするようになっていったと考えられる[12]。また、周王(文王あるいは武王)は、帝乙の宗廟で殷王朝初代の湯王を祀っている[12]

克殷

季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国から「西伯」[13]の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。

姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦太公望召公奭ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。

成康の治

武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。

成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。

衰退

その後は徐々に衰退する。4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった[14]

6代共王(在位:前922年 - 前900年)、7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た[15]。しかし、夷王は紀侯中国語版靖公の讒言を信じて斉の哀公釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった[16]

10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制#語源・用法)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。

やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服中国語版(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。

春秋戦国時代

春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い中国語版前707年)で一諸侯に過ぎないに敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。

さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し[17]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった中国語版の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[18]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った[19]

しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している[20]。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず[21]、祭祀を主催する立場すら失っていた。

戦国時代初期の情勢

戦国時代に入ると、かつての覇者・太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。惠王は「王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった[22]。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国のや北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。秦の昭襄王田斉湣王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した[23]

滅亡

周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。ただでさえ衰えていた周王室であるが、末期には貞定王の末子掲(桓公中国語版)を始祖とする西周公武公中国語版)とそこから分裂した東周君昭文君)の勢力によって分裂していた。周王朝最後の王である赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、元の成周は東周君が支配した。周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった[24]

赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった[25]

その後も昭文君の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる[26]

秦の始皇帝の死後、すなわち楚漢戦争期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった[27]

前漢武帝以降、儒学が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、姫嘉中国語版という人物が周子南君中国語版に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢光武帝の時代には衛公に封じられている[28]


  1. ^ 長安北西の灃水両岸にあった双子都市。
  2. ^ a b 王が不在
  3. ^ ウィキソースには、『史記』周本紀の原文があります。
  4. ^ 中国周文化考古学研究 - 株式会社 同成社 考古学・歴史・特別支援教育図書の出版社. http://www.douseisha.co.jp/book/b244819.html 
  5. ^ 譚永超『殷周時代における長江中流域の青銅器文化の形成と展開』 九州大学〈博士(文学) 甲第15836号〉、2022年。hdl:2324/4784370NAID 500001497171https://hdl.handle.net/2324/47843702023年6月28日閲覧 
  6. ^ 紀元前586年寿夢が国号を句呉からに改めた。
  7. ^ シナ・チベット語族の起源(追記有)”. 雑記帳. 2023年3月11日閲覧。
  8. ^
    孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
  9. ^ 王徳威「基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―」『愛知大学国際問題研究所紀要』第155巻、愛知大学国際問題研究所、2020年3月16日、10-11頁、ISSN 0515-7781NAID 120006849679CRID 1050566774754673792 
  10. ^ 韓東育 (2018年9月). “清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで”. 北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4) (島根県立大学北東アジア地域研究センター): p. 17. http://id.nii.ac.jp/1377/00001920/ 
  11. ^ 杉山清彦. “第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史”. 「正統」の歴史と「王統」の歴史 (東京大学教養学部): p. 6. https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1087/ 
  12. ^ a b c d e f 佐藤信弥 「周―理想化された古代王朝」(中央公論新社、2016年)
  13. ^ 国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯。王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることを許される。
  14. ^ 佐藤信弥 2016, p. 72-79.
  15. ^ 佐藤信弥 2016, p. 82-107.
  16. ^ 佐藤信弥 2016, p. 108.
  17. ^ 佐藤信弥 2016, p. 166-169.
  18. ^ 佐藤信弥 2016, p. 146.
  19. ^ 佐藤信弥 2016, p. 172-175.
  20. ^ 佐藤信弥 2016, p. 178-179.
  21. ^ 佐藤信弥 2016, p. 182-202.
  22. ^ 佐藤信弥 2016, p. 205-206.
  23. ^ 佐藤信弥 2016, p. 206-208.
  24. ^ 佐藤信弥 2016, p. 208-209.
  25. ^ 佐藤信弥 2016, p. 209-210.
  26. ^ 佐藤信弥 2016, p. 210-211.
  27. ^ 佐藤信弥 2016, p. 212.
  28. ^ 佐藤信弥 2016, p. 212-213.
  29. ^ 洛邑遷都(東遷)
  30. ^ Zhao, Y. B., Zhang, Y., Li, H. J., Cui, Y. Q., Zhu, H. & Zhou, H. Ancient DNA evidence reveals that the Y chromosome haplogroup Q1a1 admixed into the Han Chinese 3 000 years ago. Am. J. Hum. Biol. 26, 813–821 (2014).
  31. ^ 汉族各方言区与南北少数民族的父系血统(Y染色体单倍体)” (中国語). 知乎专栏. 2023年3月11日閲覧。
  32. ^ 目前全部发表的中国古代Y染色体” (中国語). 知乎专栏. 2023年3月11日閲覧。
  33. ^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 講談社文庫 11刷1997年(1刷1990年) ISBN 4-06-184784-8 p.344.






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