吉良氏 土佐吉良氏

吉良氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 15:03 UTC 版)

土佐吉良氏

土佐吉良氏
本姓 清和源氏河内源氏為義流[36]
平氏?
家祖 吉良希望
種別 武家
出身地 土佐国吾川郡吉良[36]
主な根拠地 土佐国吾川郡南部、弘岡城[36]
著名な人物 吉良親貞
吉良親実
凡例 / Category:日本の氏族

土佐吉良氏(とさきらし)は、日本武家の一つ。本姓源氏(一説に平氏)。通字に初め「希」を、のちに「宣」を用いた。平安時代末から戦国時代土佐国吾川郡南部を支配した国人領主で、土佐七雄の一つに数えられた[36]源頼朝の弟希義の子孫といわれる氏族であったが、これは戦国時代に絶えた。その後は一時期本山氏が吉良氏を称したが、本山氏の衰亡後は長宗我部氏の支流が吉良氏を称し、これも戦国時代末に断絶した。

源希義流

源義朝の五男・土佐冠者希義の流れで、その次男源希望(吉良希望)を祖とする。希義は平治の乱で土佐国に流罪となった。長じて兄頼朝の挙兵の報を受け、自らも挙兵を計画したが、養和元年(1181年[注釈 7]、奇襲を受け敗死する。

『吉良物語』によると、希義が通っていた平田経遠の娘が希義の死後程なく男子を生んだとされる。この男子は建久5年(1194年)、亡父の旧友であった夜須行宗に伴われて鎌倉幕府を開いた伯父の頼朝に拝謁した。頼朝はすぐには信じなかったものの最終的には認め、土佐国吾川郡のうち数千貫と三河国吉良荘(現 愛知県西尾市)のうち馬の飼場三百余貫を下賜した。男子はこれ以後「吉良八郎希望」を名乗って土佐吉良氏の始祖となったとされる。一説には希義の長男隆盛の系統ともいわれる。また、以上の事歴は『吉良物語』でのみ確認され、同時代の公式記録には記述がないため、希望の実在自体を疑う見方も存在する。このほか、神社棟札に「吉良平三尉」と記載があることから平氏であるとする説もある[37]

希望の後裔は、鎌倉時代末期から現在の高知市春野町弘岡を中心とした在地領主となった。鎌倉時代は北条氏の被官的存在だったが、希望より6代後の希世・希秀兄弟が後醍醐天皇に仕え、元弘の乱において六波羅探題攻略に功があった。以後しばらく、四国における南朝方の雄として伊予河野氏らと行動をともにする。

しかし、希雄(希秀の孫)が土佐守護細川氏の傘下に走って以降は北朝方となり、南朝方の篭る大高坂城(のちの高知城)の攻撃に参加するなどしている。希雄の後は、嫡男の希定、その弟宣実が継いでいったとされるが、この時から通字が「」から「」に変更されており、兄弟に共通の文字もないことから、宣実については血統の変化も指摘されている[注釈 8]。また、この頃から土佐守護職を世襲するようになった細川氏に従っていたとみられ、実際応仁文明期には、宣通が細川勝元の将として上洛、応仁の乱においてそれなりの軍功を立てたといわれる。

室町時代の土佐国は細川氏による守護領国制の下にあった。吉良氏の拠点であった吾川郡南部は守護代格の有力国人大平氏の支配下にあり、同じ地域の森山氏・木塚氏らと対抗したとされる[39]。その後1507年、中央で大きな権力を持った本家の細川政元が暗殺(永正の錯乱)されたことをきっかけに、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京都に上り、大平氏の影響も小さくなった。これらにより土佐もまた、守護による領国支配が終わって戦国時代を迎えることとなる。この時期の土佐国は、盟主的存在である土佐一条氏の下に、土佐七雄(土佐七守護とも)と呼ばれる吉良氏を含めた有力7国人が割拠した。

宣忠の時、本山、大平、山田などの諸族とともに長宗我部兼序を攻め滅ぼし、勢力を拡大する[37][注釈 9]。細川氏が力を失った後の土佐においては土佐一条氏を奉じ、宣経の時に一条氏から伊予守に任ぜられ最盛期を迎えた。宣経は天文年間に周防から宋学の第一人者・南村梅軒を招きいれ、土佐南学の基礎を築いた。しかし、梅軒の講説を理解しえたのは、宣経と従弟の宣義の二人だけで、宣経の嫡男・宣直は居眠りしていたという。

宣経が亡くなると、宣直が家督を継承するが、前述の通り梅軒の講説に居眠りするような人物で、当主となった後も治政を怠っていた。その翌年には梅軒も吉良氏の元を去っていき、宣義はこれを諌めたが禁固刑に処され、永禄初期に断食自殺してしまった。この頃は、上記土佐七雄の群雄割拠が激しくなり、永正14年(1517年)の恵良沼の戦いで高岡郡の有力者津野元実を討ち破って土佐西部に進出してきた一条氏と、土佐中央部に進出し朝倉城を築いた本山氏の両氏にいつ挟撃されてもおかしくない状況であった。この状況を打開するため駿河守宣直は一条氏と結ぶことを決意するが、これによって本山氏は吉良氏攻撃を決行した。本山氏側は軍を二手に分け、天文9年(1540年)、宣直が仁淀川に狩猟に出かけた隙を狙って攻撃、本山茂辰により城主が不在であった吉良峰城が落城。宣直も仁淀川に来た軍勢と応戦するも討ち取られてしまい、ここに源希義流の土佐吉良氏は滅亡する。

このほか、吉良氏滅亡には諸説がある。『吉良物語』においては永禄6年(1563年)に長宗我部氏に攻められ滅亡したとされ、他に永禄5年(1562年)に本山氏に攻められ滅亡したとする説もあるが、資料や本山茂辰の吉良姓僭称から信憑性は薄い。

本山氏流

吉良氏を滅ぼした本山氏は、以後平姓吉良氏を称したとされる。そして土佐一条氏が伊予攻略に失敗する間を狙い、吾川郡南部を支配下に収めた。しかしながらその支配も十数年ほどで、以後伸長してきた長宗我部氏に駆逐された。

長宗我部氏流

永禄6年(1563年)、本山氏を降した長宗我部元親は自らの実弟である親貞に宣直の女婿を娶らせ、吉良氏の名跡を継がせた。親貞は一門の実力者としてよく元親を補佐し天正3年(1575年)の土佐一条氏との戦い(四万十川の戦い)では活躍を見せる。しかし、その子・親実が天正16年(1588年)に謀叛の嫌疑を受けて殺され、長宗我部氏支族としての土佐吉良氏も2代で滅亡した[注釈 10]

系譜

分国法(吉良条目)

「法式」13条、「禁制の目」10条から成る。吉良宣経により制定されたとするが、後世の潤色がなされている。

吉良城

弘岡城・吉良ヶ峰城とも。高知市春野町弘岡上大谷。弘岡平野が一望できる丘陵上に立つ。南嶺と北嶺の2峰からなっていた。長宗我部氏の地検帳では記載がない一方で当城の西南に「西ノ城」の記載があり、盛時にはこの2城の体制であったと考えられている[39]。現在は土塁や建物礎石が残り、「吉良城跡」として昭和35年に春野町(現 高知市)により史跡指定されている。


注釈

  1. ^ 「吉良殿・渋川殿・石橋殿、此御三人大概三職同事、乍去吉良殿御賞翫」(足利義政代幕府重職注文)、「惣じて吉良殿の御事は、三職よりも猶公儀も御賞翫」(『家中竹馬記』)など[5]
  2. ^ 松平清康は東条吉良持清の偏諱を、清康の子広忠は持清の子持広の偏諱を受けたとする説がある[16][17]
  3. ^ なお、小林はこの時期の吉良氏の記録が混乱しているのは、江戸時代に入ってすぐに吉良氏と今川氏が同族関係を回復させて婚姻を重ねるなど関係が強まった結果、両家の先祖である吉良義安と今川義元の対立の事実が忌避されたと推測する[21]
  4. ^ 小林輝久彦はこの時の吉良氏を義安であるとしている[23]
  5. ^ 吉良義定荒川定安荒川定昭-柘植兄正室-東条義武
  6. ^ 東条義武甥(吉良義定来孫)
  7. ^ 『吉良物語』の記述より。源希義の敗死年月には諸説がある(源希義参照)。
  8. ^ 『春野町史』では南北朝期に希義系が衰微し、土佐守護職を世襲するようになった細川氏とともに入部した足利三河吉良氏の一族とされる宣実がとって代わったのではないかとの推理がなされている[38]
  9. ^ 長宗我部兼序の敗死には、吸江庵の寺領問題で大津城を拠点とした天竺氏に滅ぼされたという説もある。
  10. ^ 親実のものとされる天正17年(1589年)の年紀の入った棟札を残されており、殺害は同年以降とする説もある[40]。また、元親は親貞の子に吉良氏を継がせる考えはなく(元親の甥でもある本山茂辰の次男が吉良氏の当主に立てられた微証があるとされる)、親実は蓮池氏を称したとする説もある[41]

出典

  1. ^ a b c d 太田 1934, p. 1991.
  2. ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ)『吉良氏』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e 松田敬之 2015, p. 255.
  4. ^ 世界大百科事典 第2版『吉良氏』 - コトバンク
  5. ^ 谷口 2019, p. 117.
  6. ^ a b 斎藤茂 1975, pp. 55.
  7. ^ 小林 2019, p. 245.
  8. ^ 谷口 2019, p. 60.
  9. ^ 谷口 2019, p. 39-41.
  10. ^ 谷口 2019, p. 42-43.
  11. ^ 松島周一「永正前後の吉良氏について」『尾張・三河武士における歴史再構築過程の研究』(科学研究費補助金成果報告書:代表研究者 青山幹哉、2007年)
  12. ^ 小林 2019, p. 247.
  13. ^ 谷口 2019, p. 42-48.
  14. ^ a b 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8 P37-39.
  15. ^ 谷口 2019, p. 49.
  16. ^ 北村和宏「三河吉良氏の断絶と再興」『吉良上野介義央・義周』(義周没後三〇〇年記念事業実行委員会、2006年)
  17. ^ 小林 2019, p. 275.
  18. ^ 小林 2019, p. 251.
  19. ^ 小林 2019, p. 271.
  20. ^ 小林 2019, p. 260-276.
  21. ^ 小林 2019, p. 270-271.
  22. ^ 小林 2019, p. 252-253.
  23. ^ 小林 2019, p. 272-273.
  24. ^ 太田 1934, p. 1992.
  25. ^ 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵』兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)
  26. ^ 斎藤茂 1975, pp. 53/55.
  27. ^ 広報にしお 平成30年12月1日号 (PDF) 、2023年7月30日閲覧。
  28. ^ 「吉良上野介を慰霊 島津家当主ら菩提弔う」(「毎日新聞」2017/12/16 地方版)
  29. ^ 「本所松坂町公園」現地説明
  30. ^ 上杉家「須田右近書状」ほか
  31. ^ 中央義士会「忠臣蔵史蹟事典 東京都版」(五月書房、2008年)
  32. ^ 現在の氷川神社は一本松坂を南下したアルゼンチン共和国領事館向かいに位置する。
  33. ^ 『御府内場末往還其外沿革圖書』元禄七年(皇紀二千六百年記念「麻布区史」)
  34. ^ 境内「花岳寺由緒案内板」・一般財団法人「西尾観光協会」西尾観光公式webなど。
  35. ^ 太田 1934, p. 1995.
  36. ^ a b c d 太田 1934, p. 1996.
  37. ^ a b 『土佐国編年紀事略』[要文献特定詳細情報]
  38. ^ 春野町史編纂委員会 1976, 南北朝期の春野.
  39. ^ a b 春野町史編纂委員会 1976, 室町期の春野.
  40. ^ 吉村 2014, p. [要ページ番号].
  41. ^ 朝倉 2014, p. [要ページ番号].






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