吉良氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 15:03 UTC 版)
吉良氏 | |
---|---|
本姓 | 清和源氏足利氏庶流 |
家祖 |
吉良長氏[1](三河吉良氏) 吉良義継(奥州吉良氏) |
種別 |
武家 士族 |
出身地 | 三河国幡豆郡吉良荘[1] |
主な根拠地 |
三河国 武蔵国 |
著名な人物 |
吉良貞義 吉良頼康 吉良義央 |
支流、分家 |
今川氏(武家・士族) 奥州吉良氏(武家・士族) 荒川氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
鎌倉時代の清和源氏足利氏の当主足利義氏の庶長子長氏が地頭職を務める三河国吉良荘を名字としたのに始まる[2]。長氏の弟義継からは奥州吉良氏(のちに武蔵吉良氏)が出る。また三河吉良氏は南北朝時代に西条吉良氏と東条吉良氏に分裂した。
長氏の孫にあたる吉良貞義は足利尊氏による鎌倉幕府六波羅探題の討伐を助け、貞義の子満義以来室町幕府で引付頭人を世襲した[4]。三河吉良氏は全国に数多く存在した足利氏一門諸氏の中でも家格が高く、室町幕府においては足利将軍家に次ぐ待遇を受ける足利御三家(足利氏御一家ともいう、他に渋川氏・石橋氏)の筆頭に位置付けられた。「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ、同じく足利一門である三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)より家格・格式は上位であった[注釈 1]。もっとも、それ故に幕政への関与や守護大名として世襲分国を形成する面は抑制された。
戦国時代には三河・武蔵両系統とも本領に拠ってわずかな勢力を保持し続けた。西条の三河吉良は戦国時代後期に三河一向一揆に参加して滅亡したが、東条三河吉良と奥州吉良(蒔田氏)は徳川氏に仕えて江戸時代に家名を繋いだ。三河吉良氏は4200石、蒔田氏は1420石を領して江戸幕府の高家となったが、前者は当主吉良義央(吉良上野介)が関わった赤穂事件(忠臣蔵)のために改易となった。この後に蒔田氏が吉良姓に復姓し、さらに後には三河吉良氏分家の旗本だった東条家(500石)も吉良姓に復姓し、この両家が明治維新まで続き、維新後は両家とも士族。後者は大正元年に吉良義道が死去した後はどうなったかは不明である[6]。
以上の足利一門の吉良氏とは別に、清和源氏為義流などの土佐吉良氏もある(後述)。
三河吉良氏
鎌倉時代
鎌倉時代、足利義氏が三河国幡豆郡吉良荘(現愛知県西尾市吉良町)の地頭職を得、これを庶長子長氏に譲ったことに始まる[1]。当時の吉良荘は古矢作川の東西に広がっており、川の東西をそれぞれ「東条」、「西条」と区分して呼んだ[1]。長氏は西条の西尾城を本拠とし、弟の義継は東条(城は現西尾市吉良町駮馬〈まだらめ〉城山)を本拠とした。義継の系統は後の東条吉良氏と区別して前期東条吉良氏と呼ばれるが、後に陸奥国に移り奥州吉良氏となる。なお、長氏は幡豆郡今川荘を隠居地としたが、その次男国氏がこれを継承して今川氏の祖となった。
承久の乱以降、足利氏は守護となった三河国に多くの所領を得て数多の分家が生まれ、長氏はその総指揮・監督権を宗家から委ねられる立場にあった。長氏の子満氏は霜月騒動で安達泰盛に与したため北条氏から討伐を受けて戦死し、その子貞義は、元弘3年(1333年)に宗家の足利尊氏が後醍醐天皇方討伐のために西上する途中三河国に逗留した際、「鎌倉幕府打倒のために立ち上がるべきである」と進言したとされ、これによって高氏は六波羅探題攻撃に踏み切ったという逸話があるが、史実とはされていない。
南北朝・室町時代
南北朝時代、貞義の子満義は嫡男満貞とともに観応の擾乱で足利直義派に属して各地を転戦し、一時的に南朝にも帰順した後、最終的に室町幕府に降った。しかし、その間に前期東条吉良氏が陸奥国に移った後の吉良荘東条の被官層が北朝・尊氏派として満義の幼少の四男尊義(義貴)を擁立し別家(東条吉良氏)を立てたため、以後西条に勢力を限定された嫡流(西条吉良氏)とは、互いに正統性を主張して争ったが、後に和睦したという。西条吉良氏は資料上「吉良殿」と記されるのに対し、東条吉良氏は「東条殿」と呼ばれる[7]。
初代長氏の隠居所として築かれた館は「丸山御所」と称されたが、室町時代の西条吉良氏当主は京都にあって足利氏一門の中でも渋川氏・石橋氏の両家とともに足利御三家として別格の格式を有した。評定衆に代々任じられた家の中でも吉良氏は式評定衆として他氏出身の出世評定衆よりも重んじられたが、いっぽうで世襲の守護領国を形成する方向への発展はなかった。
東西両吉良氏は南北朝時代以来およそ1世紀の間抗争を繰り広げ、応仁の乱でも西条吉良義真が東軍、東条吉良義藤が西軍にそれぞれ属して戦ったという。ただ東西両家が長らく対立し続けたというのは、天文22年(1553年)に成立した『今川記』に基づく話に過ぎず、裏付けとなる資料は存在しないと指摘されている[8]。吉良氏は遠江国にも浜松荘を領し、また酒匂荘・懸川荘を請所としていたため、同国守護の斯波氏と協調関係を保つことで所職を維持してきたが、応仁の乱が拡大・長期化する中で東軍の駿河守護今川義忠が西軍の斯波義廉の征討を幕府に命じられ、酒匂・懸川荘を与えられたことを機に遠江への侵攻を開始する。酒匂・懸川荘代官である巨海氏は斯波氏家臣の狩野氏に味方して今川氏と戦ったが、浜松荘代官の飯尾長連は今川氏に通じて今川義忠が討ち死にした時には運命を共にしており[9]、遠江の吉良氏家臣は親斯波と親今川に分裂した。今川氏の遠江侵攻は義忠の戦死によって中断し、同じ東軍の斯波義寛が守護に任命されたが、ともかく斯波氏の支配が回復したことで、吉良氏も浜松荘代官を親今川の飯尾氏から親斯波の大河内氏に交替させた[10]。
戦国時代
永正5年(1508年)、今川義忠の子氏親が再び遠江に侵攻して同国の守護職を獲得すると、吉良氏は浜松荘を守るために再び代官を親今川の飯尾氏に交替させた。親斯波の大河内氏は今川氏への抵抗を続け、飯尾氏の本拠引間城を奪い遠江復帰を図る斯波義達を迎え入れたことから、今川氏親は永正14年(1517年)に引間城を奪還して大河内・巨海氏らを滅ぼした。この間吉良氏は大河内氏を抑えることはせず、といって飯尾氏を積極的に支援する姿勢も示さず、今川・斯波両氏の抗争の間で遠江の所領支配を確保するため柔軟に対応していたと見られる。しかし、斯波義達は捕らえられて本国尾張国に送還され、浜松荘代官の飯尾賢連は今川氏に属することとなった。
西条吉良義信は明応の政変後の足利将軍家の家督争いで足利義尹(義稙)派に属し、永正5年の義稙の将軍復帰に功績があったとして三河守護に任じられたとする説がある[11][12]が、吉良氏の在京奉公は義稙政権の弱体化が進むにつれて次第に確認されなくなっていく。同じ時期に吉良氏は今川・斯波氏の抗争の板挟みとなり、ついには遠江が今川氏の分国となった結果、西条吉良義尭は残された所領のある三河に下国して現地支配に専念する方針に転換した[13]。なお、今川氏の系譜から今川氏親の長女が義尭の正室であったことが判明している[14][15]。吉良氏を圧倒する勢力に成長したとはいえ、下剋上との批判を避け領国支配の安定を図るためにも、今川氏としては本家である吉良氏との良好な関係を維持する必要があったとみられる[14]。
残る本領の三河においては、東条吉良氏から偏諱を受ける立場だったとされる[注釈 2]安祥松平家の松平清康(徳川家康の祖父)が台頭してきたが、天文4年(1535年)12月に清康が斃れると、今度は尾張国の織田信秀の勢力が西三河に及びはじめ、小林輝久彦によれば、西条吉良義郷は天文9年(1540年)に信秀の侵攻を受けて戦死した可能性があるという[18]。
享禄・天文初年のころ、東条吉良氏では持広が西条吉良義尭の子義安(義郷の弟)を養嗣子に迎え、東西両吉良氏の近親関係が再生していた。しかし、東条当主となった義安は今川氏への対抗を図り、三河支配を目論む織田氏に加担する。義安は義尭の側室の子と見られ正室(今川氏)の血を引いていなかったようだが、養家の東条吉良だけでなく実家西条吉良の家督をも望んで西条重臣と争った形跡があることから、親今川の西条重臣に対抗するために織田氏と結んだ可能性も指摘されている[19]。西条吉良氏は義昭(義安の弟)が跡を継いだが、両吉良氏は近親関係となってもなおこのように分裂含みの状況にあった。義安は天文18年(1549年)に今川義元に敗れて捕らえられ駿河に抑留されることとなり、西条吉良義昭が東条家も併せて継ぐよう今川氏に命じられた。こうして今川氏の影響下で統一された吉良氏は、今川氏へ隷属する立場に甘んじた。ただし、小林輝久彦は、天文23年(1554年)に義安がいったん今川氏に許されて両吉良氏を継いだものの、弘治元年(1555年)に再度叛旗を翻した結果、義昭が継承する地位に立ったと見る[20][注釈 3]。
当時の今川氏にとって吉良氏の存在は、家格秩序の上から悩みの種だったようである。今川義元の重臣太原雪斎の天文18年(1549年)9月5日付書状は吉良氏当主を「御屋形様」と呼んでいる上、宛先も当主本人ではなく「西条諸老」すなわち西条吉良氏家老宛としている。現実の世界では今川氏は駿河・遠江・三河3か国を支配しており、弱小勢力の吉良氏はその下に従属しているにもかかわらず、書札礼の世界では雪斎は義安の陪臣(家来の家来)として振る舞わなければならなかった[22]。
吉良義昭は今川義元の周旋により、尾張守護斯波義銀及びこれを擁する織田信長と誼を結ぼうとしたものの、義銀と会見の席次を巡る争いを起こしている[注釈 4]。その後、桶狭間の戦いで義元が信長に討ち取られ、三河国から今川氏の勢力が後退すると、その支配を目指す松平家康(のちの徳川家康)と義昭は対立することになる。義昭は善明堤の戦いや藤波畷の戦いを経て家康に降伏する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が勃発するとこれに加担して再び家康に敗れ、家康は今川氏の人質時代に面識があったという義安に吉良氏の家督を相続させた[24]。
江戸時代
江戸時代に義安の子義定が松平清康(家康の祖父)の妹を母としていた関係で江戸幕府に取り立てられ、その子義弥の代に旧吉良荘内で3,000石を領し、室町以来の門地の高さもあって高家の家格を付与された。これ以降の吉良氏は、幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続する。
義弥の次は義冬が相続した。その長男義央は赤穂事件(忠臣蔵)で著名である。元禄14年(1701年)、義央は儀典の指導に関して勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩から殿中刃傷を受け、長矩の切腹後、元禄15年(1702年)に大石良雄以下浅野の遺臣らによる本所吉良邸への討ち入りを受けて、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた[25]。その後、当主吉良義周(義央の孫)が改易されて諏訪へ配流となり、子供なく配所で病没した[26]。義周が葬られた長野県諏訪市法華寺には、2018年(平成30年)6月、「吉良義周公慰霊会」により制作された「吉良義周公木造坐像」[27]が本堂奥の間に安置され、毎歳忌が営まれている。
義冬の次男義叔(義央の弟)は東条に改姓して分家し、500石の一般旗本として幕府に仕えていたが、享保17年(1732年)、義叔の孫に当たる義孚が三河吉良本家が絶えていることを理由に吉良への復姓を幕府に願い出て許された。この旧東条家の吉良家は東条姓時代と同じく一般旗本のままであり、高家の格式は与えられなかった。以後、明治維新まで500石の旗本として存続する。歴代当主は西の丸書院番などを務めた。
明治以降
旧東条家の旗本吉良家は、明治2年(1869年)に士族に編入された。明治4年に吉良太郎義道なる人物が同家を継いでいる。彼は明治31年に45歳で出家して僧になり、大正元年8月25日に59歳で死去している。これ以降三河吉良家がどうなったかは不明である[6]。
2017年12月15日に鹿児島市吉野町の仙巌園の観音岩で吉良義央の菩提を弔う慰霊祭があった。吉良義央の娘が島津綱貴に嫁いでいた縁戚から建立されたもので島津家当主らが菩提を弔った[28]。
屋敷
- 鍛冶橋吉良邸(以下、江戸上屋敷) - 元禄11年(1698年)9月6日まで。現在はパシフィックセンチュリープレイス丸の内。千代田区丸の内1-11-1。
- 呉服橋吉良邸 - 元禄14年(1701年)8月19日まで[29]。敷地は約2700坪あり、上杉綱憲(義周の実父)が建築費2万5000両余を提供している[30]。現在は大丸グラントウキョウノースタワーが建つ。千代田区丸の内1-9-1。
- 本所吉良邸 - 元禄赤穂事件当夜に、義央が在邸し斬死、義周が重傷。墨田区両国3-13-9。
- 麻布谷町吉良家中屋敷 - 現在の六本木1丁目[31]。
- 麻布一本松吉良邸(江戸下屋敷) - 現在の元麻布大黒坂・一本松坂。向かい側に増上寺隠居所(萬治二年までは麻布氷川神社[32])があった[33]。現在の屋敷跡にはオーストリア大使館・大法寺など。港区元麻布1-1-10~20。
- 砂町銀座小名木川吉良家抱屋敷(蔵屋敷) - 「上野(こうづけ)堀通り」の地名が残る。現在の北砂三丁目(西大島駅から10分)。
菩提寺
- 萬昌院功運寺 - 江戸における吉良家の菩提寺。浅野長矩の叔父・内藤忠勝に斬殺された永井尚長や赤穂藩主・永井直敬ら歴代永井家の墓もある。
- 華蔵寺 - 吉良家の菩提寺。吉良家代々の墓や、吉良義央寄進の経蔵や自身の木像などがある。
- 花岳寺 - 東条城主・吉良氏の菩提寺として創建された。本堂は1684年(貞享元年)に、吉良義央から姉・光珠院の菩提を弔うために寄付された祠堂金を元に再建されたもので国の登録有形文化財に登録されている。また、義央遺品の「後柏原天皇宸翰御消息」は重要文化財に指定されている[34]。
歴代
(西条吉良)(東条吉良)
- 吉良満貞 吉良尊義
- 吉良俊氏 吉良朝氏
- 吉良義尚 吉良持長
- 吉良義真 吉良持助
- 吉良義信 吉良義藤
- 吉良義元 吉良持清
- 吉良義尭 吉良持広
- 吉良義郷 荒川義広
- 吉良義安
- 吉良義昭
- 吉良義定
- 吉良義弥
- 吉良義冬
- 吉良義央 東条義叔
- 吉良義周 東条義武
- 吉良義孚
- 吉良義勝
- 吉良義渡
奥州(武蔵)吉良氏
南北朝・室町時代
東条吉良氏の第3代吉良経家の子吉良貞家は、成良親王の廂番から興国6年(1345年)、奥州管領(奥州探題の前身)にまで出世し、陸奥多賀城に拠って足利政権の奥州統治の要となる。その後、観応の擾乱が勃発すると直義方に属し、同じく奥州管領で尊氏方に属した畠山国氏を攻め滅ぼすが、その隙に勢力を伸張してきた南朝の北畠顕信に多賀城を攻め落とされる。以後、再び勢力を回復して正平7年3月(1352年4月)に多賀城を奪回、正平8年5月(1353年6月)には南朝方の拠点宇津峰城を陥落させて奥州の南朝勢力を崩壊させた。しかしこの直後死去したとみられる。
続く吉良満家が奥州管領に任命され、畠山国氏の子国詮や奥州総大将石塔義房の子義憲と争うこととなる。その間、中央で直義の殺害に成功した尊氏は、斯波家兼を新たな奥州管領として派遣したため、奥州は一時四管領並立となる。畠山氏、石塔氏を下した満家の死後、子の吉良持家が跡を継ぐが幼少のため、満家の叔父吉良貞経と満家の弟吉良治家が争った。貞治6年(1367年)、足利義詮は斯波直持と吉良貞経を奥州管領として治家を追討するように命じ、さらに奥州総大将として石橋棟義を派遣した。この結果治家は敗れて逐電し、奥州吉良氏も往時の勢力を回復するに至らず、衰退の一途をたどる。
滅亡の危機に瀕した奥州吉良氏であるが、初代鎌倉公方の足利基氏から招かれた治家が上野国飽間郷に移住すると、徐々に勢力を回復し始める。
鎌倉公方家に仕えた奥州吉良氏は、公方と同じ足利氏の流れをくむ家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受け、「足利御一家衆」「無御盃衆」と称された。吉良成高の代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に世田谷城を構え、同地に土着する。以後、拠点を変えるたびに「蒔田御所」、「世田谷御所」、「世田谷殿」と呼ばれた。
戦国時代から安土桃山時代
関東の覇者となった後北条氏に取り込まれて傀儡化した古河公方とともに、こちらも政略結婚を通じて北条氏の傘下に入った。成高の子頼康は北条氏綱の娘と結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)の蒔田城をも領して「蒔田殿」と呼ばれ、後北条氏分国内にありながら独自の印判状を用いることを許された。
頼康は堀越六郎(今川氏一門)と崎姫(氏綱の娘)の子氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、この氏朝の代に豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡に遭い、庇護者を失って旧領世田谷の実相院に篭居する。
江戸時代
徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この頃から、蒔田氏として正式に改称している。吉良氏系図によれば、高家で吉良を名乗るのは一人のみという家康の意向があったからであるという[35](今川における品川、上杉における畠山、織田における津田と同じ)。
赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に、1710年に「吉良」への復姓が許された。なお同年に浅野長矩の弟浅野長広が旗本として浅野家を再興している。つまりこの年に「浅野」「吉良」両家が同時に再興する形となった。
なお、豪徳寺は一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、近隣にある吉良家の菩提寺である勝光院墓地内に、吉良一族の墓が残る。
幕末時の知行は1425石だった[3]。
明治以降
幕末の当主吉良義常は朝廷に早期帰順したため、本領安堵され、幕臣から朝臣に転じるとともに中大夫席を与えられた[3]。
1869年(明治2年)12月に中大夫・下大夫・上士の称が廃されるとともに士族編入[3]。華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前案である『叙爵規則』では旧高家が男爵に含まれていたため、奥州吉良家も男爵家の候補にあがっているものの、最終的な『叙爵内規』では旧高家は授爵対象外となったので結局士族のままだった[3]。
明治以降はかつての知行地であった千葉県長生郡寺崎に移住した。
歴代
- 吉良義継
- 吉良経氏
- 吉良経家
- 吉良貞家
- 吉良治氏
- 吉良治家(実父吉良貞家)
- 吉良頼治
- 吉良頼氏
- 吉良頼高
- 吉良政忠
- 吉良成高
- 吉良頼康
- 吉良氏朝(実父堀越六郎)
- 吉良氏広(蒔田頼久)
- 蒔田義祇
- 蒔田義成
- 吉良義俊
- 吉良義所
- 吉良義豊
- 吉良義房
- 吉良義発
- 吉良義方
注釈
- ^ 「吉良殿・渋川殿・石橋殿、此御三人大概三職同事、乍去吉良殿御賞翫」(足利義政代幕府重職注文)、「惣じて吉良殿の御事は、三職よりも猶公儀も御賞翫」(『家中竹馬記』)など[5]。
- ^ 松平清康は東条吉良持清の偏諱を、清康の子広忠は持清の子持広の偏諱を受けたとする説がある[16][17]。
- ^ なお、小林はこの時期の吉良氏の記録が混乱しているのは、江戸時代に入ってすぐに吉良氏と今川氏が同族関係を回復させて婚姻を重ねるなど関係が強まった結果、両家の先祖である吉良義安と今川義元の対立の事実が忌避されたと推測する[21]。
- ^ 小林輝久彦はこの時の吉良氏を義安であるとしている[23]。
- ^ 吉良義定-荒川定安-荒川定昭-柘植兄正室-東条義武
- ^ 東条義武甥(吉良義定来孫)
- ^ 『吉良物語』の記述より。源希義の敗死年月には諸説がある(源希義参照)。
- ^ 『春野町史』では南北朝期に希義系が衰微し、土佐守護職を世襲するようになった細川氏とともに入部した足利系三河吉良氏の一族とされる宣実がとって代わったのではないかとの推理がなされている[38]。
- ^ 長宗我部兼序の敗死には、吸江庵の寺領問題で大津城を拠点とした天竺氏に滅ぼされたという説もある。
- ^ 親実のものとされる天正17年(1589年)の年紀の入った棟札を残されており、殺害は同年以降とする説もある[40]。また、元親は親貞の子に吉良氏を継がせる考えはなく(元親の甥でもある本山茂辰の次男が吉良氏の当主に立てられた微証があるとされる)、親実は蓮池氏を称したとする説もある[41]。
出典
- ^ a b c d 太田 1934, p. 1991.
- ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ)『吉良氏』 - コトバンク
- ^ a b c d e 松田敬之 2015, p. 255.
- ^ 世界大百科事典 第2版『吉良氏』 - コトバンク
- ^ 谷口 2019, p. 117.
- ^ a b 斎藤茂 1975, pp. 55.
- ^ 小林 2019, p. 245.
- ^ 谷口 2019, p. 60.
- ^ 谷口 2019, p. 39-41.
- ^ 谷口 2019, p. 42-43.
- ^ 松島周一「永正前後の吉良氏について」『尾張・三河武士における歴史再構築過程の研究』(科学研究費補助金成果報告書:代表研究者 青山幹哉、2007年)
- ^ 小林 2019, p. 247.
- ^ 谷口 2019, p. 42-48.
- ^ a b 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8 P37-39.
- ^ 谷口 2019, p. 49.
- ^ 北村和宏「三河吉良氏の断絶と再興」『吉良上野介義央・義周』(義周没後三〇〇年記念事業実行委員会、2006年)
- ^ 小林 2019, p. 275.
- ^ 小林 2019, p. 251.
- ^ 小林 2019, p. 271.
- ^ 小林 2019, p. 260-276.
- ^ 小林 2019, p. 270-271.
- ^ 小林 2019, p. 252-253.
- ^ 小林 2019, p. 272-273.
- ^ 太田 1934, p. 1992.
- ^ 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵』兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)
- ^ 斎藤茂 1975, pp. 53/55.
- ^ 広報にしお 平成30年12月1日号 (PDF) 、2023年7月30日閲覧。
- ^ 「吉良上野介を慰霊 島津家当主ら菩提弔う」(「毎日新聞」2017/12/16 地方版)
- ^ 「本所松坂町公園」現地説明
- ^ 上杉家「須田右近書状」ほか
- ^ 中央義士会「忠臣蔵史蹟事典 東京都版」(五月書房、2008年)
- ^ 現在の氷川神社は一本松坂を南下したアルゼンチン共和国領事館向かいに位置する。
- ^ 『御府内場末往還其外沿革圖書』元禄七年(皇紀二千六百年記念「麻布区史」)
- ^ 境内「花岳寺由緒案内板」・一般財団法人「西尾観光協会」西尾観光公式webなど。
- ^ 太田 1934, p. 1995.
- ^ a b c d 太田 1934, p. 1996.
- ^ a b 『土佐国編年紀事略』[要文献特定詳細情報]。
- ^ 春野町史編纂委員会 1976, 南北朝期の春野.
- ^ a b 春野町史編纂委員会 1976, 室町期の春野.
- ^ 吉村 2014, p. [要ページ番号].
- ^ 朝倉 2014, p. [要ページ番号].
固有名詞の分類
- 吉良氏のページへのリンク