吉川英治 吉川英治の概要

吉川英治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/22 10:02 UTC 版)

吉川 英治
(よしかわ えいじ)
誕生 吉川 英次
1892年8月11日
日本神奈川県久良岐郡中村根岸
(現・横浜市中区
死没 (1962-09-07) 1962年9月7日(70歳没)
日本東京都中央区築地
国立がんセンター
墓地 多磨霊園
職業 小説家
国籍 日本
最終学歴 太田尋常高等小学校中退
活動期間 1923年 - 1962年
ジャンル 歴史小説
時代小説
代表作鳴門秘帖』(1933年)
『親鸞』(1938年)
宮本武蔵』(1939年)
『上杉謙信』(1942年)
新書太閤記』(1945年)
三国志』(1946年)
新・平家物語』(1957年)
私本太平記』(1962年)
主な受賞歴 菊池寛賞(1953年)
朝日文化賞(1956年)
文化勲章(1960年)
毎日芸術賞(1962年)
勲一等瑞宝章(没時叙勲)
デビュー作 『江の島物語』
配偶者 赤沢やす(1923 - 1937)
吉川文子(旧姓・池戸、1937 - 1962)
子供 2男3女
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様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。

経歴

生い立ち

1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市中区山元町2丁目18番地付近)[1]に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっている。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると刑務所に入れられ、出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。

山内尋常高等小学校に入学。当時騎手馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳の頃から雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の『少年』誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこの頃で、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳の時、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。

東京毎夕新聞社記者時代
1921年(大正10年) - 1923年(大正12年)

人気作家への道

1910年(明治43年)に上京、象嵌職人の下で働く。浅草に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこの頃から川柳を作り始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。

神州天馬侠』執筆のころ下落合の家にて
1925年(大正14年)

関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩」を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。この時本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした作品「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

『宮本武蔵』の誕生

こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、更に養女を貰い家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。この頃から服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。

英治夫妻
1937年(昭和12年)

1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1941年(昭和16年)12月24日大政翼賛会の肝いりで開催された文学者愛国大会では、大会の締めに「皇軍へ感謝するの文」を読み上げるなど時流に合わせた活動も行った[2]1942年(昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わった。山口多聞加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している[3]。またこの年には日本文学報国会理事に就任した。

吉川英治
1939年(昭和14年)夏

敗戦後の活動

敗戦後は、その衝撃から筆を執る事ができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただし、この頃、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。

1949年4月11日、東京財務局が発表した所得番付では、作家の中では最高額の250万円を記録している[4]

1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞1953年)を受賞[5]。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこの頃身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。「私本太平記」は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)文化勲章受章。しかし通俗作家と見なされ、芸術院には入れられなかった。

「私本太平記」の連載終了間際に肺癌にかかり、翌年夏に悪性腫瘍が転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺癌のため築地国立がん研究センター中央病院で死去。享年70歳。法名は、崇文院殿釋仁英大居士。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時叙勲)。疎開先だった東京都青梅市に、1977年に開設された吉川英治記念館がある(入館者減少により、公益財団法人吉川英治国民文化振興会の開設としては2019年3月20日をもって一旦閉館休止[6]、2020年9月7日に青梅市の施設「青梅市吉川英治記念館」として再開館した[7])。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。

年譜

多磨霊園にある吉川英治の墓
  • 1892年(明治25年)- 神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市中区)に生誕。
  • 1898年(明治31年)- 横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学。
  • 1900年(明治33年)- 横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校。
  • 1903年(明治36年)- 家運傾き小学校を中退。
  • 1909年(明治42年)- 年齢を偽って横浜ドック船具工となる。
  • 1910年(明治43年)- 上京。菊川町(現在の墨田区立川4丁目)のラセン釘工場の工員なる[8]
  • 1911年(明治44年)- 蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。また川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表。
  • 1914年(大正3年)- 三越百貨店が各種文芸を募集した「文芸の三越」の川柳部門で応募作が一等に当選。講談倶楽部に投稿した「江の島物語」が一等に当選。
  • 1921年(大正10年)- 旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇入選。山崎帝國堂広告文案係を経て暮れに東京毎夕新聞社入社。
  • 1923年(大正12年)- 人気芸妓だった赤沢やすと結婚。関東大震災を機に、文学で生計を立てることを決意する。
  • 1925年(大正14年)- 『キング』誌が創刊され「剣難女難」を連載、人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。
  • 1926年(大正15年)- 「鳴門秘帖」を連載。大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。
  • 1930年(昭和5年)- 現代小説「かんかん虫は唄ふ」を『週刊朝日』に連載。このころから「貝殻一平」や「松のや露八」などの維新物を発表しはじめる。
  • 1935年(昭和10年)-「宮本武蔵」の連載を開始。
  • 1937年(昭和12年)- 日中戦争勃発。『毎日新聞』の特派員として現地を視察。旅行中やすとの離婚成立。料理屋で働いていた池戸文子と結婚。文子16歳、英治45歳の歳の差夫婦だった。
  • 1938年(昭和13年)- ペンの部隊として南京漢口作戦に従軍。「三国志」の執筆開始。
  • 1944年(昭和19年)- 西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開、疎開地が後に記念館になる。
  • 1945年(昭和20年)- 終戦とともに一時執筆活動を休止。
  • 1947年(昭和22年)- 執筆再開。
  • 1948年(昭和23年)-「高山右近」を『読売新聞』に連載。
  • 1950年(昭和25年)-「新・平家物語」を『週刊朝日』に連載。
  • 1953年(昭和28年)-「新・平家物語」で第1回菊池寛賞受賞。
  • 1956年(昭和31年)-「新・平家物語」で朝日文化賞受賞。
  • 1960年(昭和35年)- 文化勲章受章。
  • 1962年(昭和37年)- 毎日芸術賞受賞。が悪化、死去。
  • 2013年(平成25年)- 前年が没50年の年であり、元日をもって当時の著作権法に従い著作権が消滅、作品がパブリックドメインとなる。青空文庫などで多数の作品が公開された。

  1. ^ 「吉川英治と明治の横浜 : 自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会編)は、山元町商店街の「梅ノ湯」という銭湯の辺りとする。現在ではマンション「ランドシティ横濱」
  2. ^ 文壇・詩壇・歌壇の三百五十人が参加『東京朝日新聞』(昭和12年1月19日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 『回想の日本海軍』(原書房)所収の、「吉川英治先生と海軍」
  4. ^ 「吉川英治氏が250万円で筆頭 芸能人の所得番付」『日本経済新聞』昭和24年4月12日2面
  5. ^ 菊池賞受賞者一覧”. 日本文学振興会. 2021年8月22日閲覧。
  6. ^ 「吉川英治記念館 入館者減で閉館 20日最終日」毎日新聞2019年3月17日
  7. ^ 吉川英治記念館、あすオープン 青梅市の施設として再出発 「新たなファン開拓したい」:東京新聞 TOKYO Web” (日本語). 東京新聞 TOKYO Web. 2021年2月26日閲覧。
  8. ^ 文化財ニュース 2003, p. 第3号.
  9. ^ a b c 吉川英治『随筆 新平家』(1958年)青空文庫リンク : 随筆 新平家
  10. ^ a b 『石坂洋次郎』(学習研究社, 1973年)176頁
  11. ^ 吉川英治氏の孫を大麻所持容疑で逮捕 神奈川県警 日本経済新聞(2011年2月10日)


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