参謀本部 (日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 04:40 UTC 版)
政府省庁である陸軍省とは独立した形で大元帥である天皇に直隷して陸軍を統帥せしめ、作戦計画並びに指揮及び遂行する等を職務とした[2]。ただし、1893年(明治26年)の参謀総長の職掌改定により、戦時における軍令は大本営の所掌となった[3]。
なお、1886年(明治19年)から1888年(明治21年)までの間、旧日本海軍の軍令機関が旧日本陸軍と統合されていた時期を除いた、旧日本海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む)については軍令部を参照。
当初は、陸軍省等とともに彦根藩井伊家上屋敷跡三宅坂一帯(現在は、憲政記念館等が立地する国会前庭(東京都千代田区永田町))に置かれたが、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の1941年(昭和16年)12月8日から15日にかけて、陸軍省、教育総監部、陸軍航空総監部ともども、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地(現在、防衛省が所在)に移転した。
沿革
- 1871年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設置される。
- 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。
- 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。
- 1874年(明治7年)2月22日 - 第六局を廃し再び参謀局が置かれる。
- 1875年(明治7年)6月18日 - 陸軍省の外局として参謀局が置かれる。
- 1878年(明治11年)12月 - 参謀局を参謀本部と改称し、陸軍省から独立し、軍政と軍令が分離する。長は参謀本部長。
- 1886年(明治19年)3月 - 参謀本部内に陸軍部と海軍部とを設置。長は参謀本部長(陸軍大将の男性皇族)で、次長が2名置かれる。
- 1888年(明治21年)5月 - 帝国全軍の参謀長として参軍(男性皇族)を設置し、陸軍参謀本部(長は参謀本部長)と海軍参謀本部(長は参謀本部長)とを設置。
- 1889年(明治22年)3月に至り、参謀本部の制度が完成する。陸軍の軍令を管掌するために参謀本部が設置される。長は参謀総長。なお、海軍では海軍大臣に属する海軍参謀部が設置されたが、軍令は参謀本部が統括した。
- 1893年(明治26年)5月 - 海軍軍令部が軍令機関として、陸軍の参謀本部と平時に限り対等となった。
- 1898年(明治31年)10月1日 - 構内の新築庁舎に移転[4]。
- 1903年(明治36年)12月 - 海軍の軍令部が軍令機関として、陸軍の参謀本部と戦時においても対等関係となった。
- 1930年(昭和5年)7月 - 参謀本部の急進的な将校を中心に、国家改造を目論む桜会が結成された[5][6]。
- 1941年(昭和16年)12月 - 市ヶ谷台に移転。
- 1945年(昭和20年)11月30日 - 廃止。
日付 | 旧日本陸軍 | 旧日本海軍 | 根拠法令 |
---|---|---|---|
1871年(明治4年)7月 | 兵部省職員令 | ||
1874年(明治7年)6月18日 | 参謀局 | 「参謀局条例」 | |
1878年(明治11年)12月5日 | 参謀本部 | 旧「参謀本部条例」 | |
1884年(明治17年)2月 | 軍事部 | ||
1886年(明治19年)3月18日 | 明治19年勅令 | ||
1888年(明治21年)5月12日 | 陸軍参謀本部 | 海軍参謀本部 | 明治21年勅令第25号 |
1889年(明治22年)3月7日 | 参謀本部 | 海軍参謀部 | 明治22年勅令第25号・同第30号 |
1893年(明治26年)5月19日 | 海軍軍令部 | 明治26年勅令第37号 | |
1933年(昭和8年)10月1日 | 軍令部 | 昭和8年軍令海第5号 | |
1945年(昭和20年) | (11月30日廃止) | (10月15日廃止) | 昭和20年軍令海第8号など |
陸軍(省)参謀局 (明治4年-明治7年)
明治4年(1871年)7月に「機務密謀ニ参画シ地図政誌ヲ編輯シ並ニ間諜通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に兵部省に陸軍参謀局(国土地理院の前身の一つ)が設けられた。局長には兵部大輔が充てられた。翌年の明治5年には兵部省が陸軍省と海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局として存置された。
明治6年(1873年)3月23日に陸軍省条例[7]が発せられ、参謀局が「陸軍文庫・測量地図・絵図彫刻・兵史並兵家政誌蒐輯」を掌る第六局に改称された(4月1日施行)が、明治7年2月22日に第六局を廃し再び参謀局が置かれた[8]。
歴代参謀局都督
- 山縣有朋 兵部大輔(1871年9月12日 - 1872年4月4日)兼
- 山縣有朋 陸軍大輔(1872年4月5日 - 1873年4月1日)兼
歴代第6局長
- 欠(1873年4月1日 -)
- 鳥尾小弥太 少将(1873年6月19日 -)
- 山縣有朋 中将(1874年2月12日 - 1874年2月20日)兼
- ^ 百科事典マイペディア
- ^ a b 旺文社日本史事典 三訂版
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
- ^ 『官報』第4581号、明治31年10月5日。
- ^ 小林 龍夫、島田 俊彦編『現代史資料7』p26
- ^ 中野雅夫『橋本大佐の手記』p24~p28
- ^ 法令全書. 明治6年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 法令全書. 明治7年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 法令全書. 明治7年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 法令全書. 明治11年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』p6、講談社、2004/3/21
- ^ 法令全書. 明治21年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 陸軍法令全集. 第1号 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 監修上法快男、編集外山操『陸海軍将官人事総覧』p9p
- ^ 自治大学校史料編集室編 『山崎内務大臣時代を語る座談会』p67
- ^ 保阪正康『検証・昭和史の焦点』p182
- ^ 監修上法快男、編集外山操『陸海軍将官人事総覧』p9
- ^ 監修上法快男、編集外山操『陸海軍将官人事総覧』p9~p12
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