参勤交代 参勤交代の流れ

参勤交代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 08:08 UTC 版)

参勤交代の流れ

準備

参勤交代に関する資料は多数存在するが、特に加賀藩家老である横山政寛が書き残した『御道中日記』には、その詳しい日付だけでなく、掛かった日数や費用、苦労話などが事細かに記載されている。

それによると参勤交代は毎年四月に行なわれるが、その準備は半年以上も前から行なわれ、予算の調達に始まり、他大名との間に宿場の重複がないか偵察の者を出すことから始まる。徳川御三家や幕府の役人や勅使、他の大名行列などに気を遣い、なるべくすれ違わないように旅行程の調整だけでなく宿代の交渉等々、その準備作業は多岐にわたる。「金沢板橋間駅々里程表」という資料[13]では、石川県金沢市東京都板橋間に宿泊の可能性がある全ての宿場までの距離がダイヤグラムのように記されており、そのような状況下でいかに限りある予算と労力で江戸にたどり着けるかと知恵を絞りぬいた苦労が見て取れる。

そもそも予め幕府へ届出を出した期日までに江戸に到着しなければならなかっただけでなく、遅延が一日発生するだけで現代の貨幣価値にして数千万円から数億円相当の損失に繋がるため、いかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸に到着しなければならない事情があった。橋や道路の整備がままならない場所もあり、そのような場合はあらかじめ橋や道路を建設した。それでも通行が難しい場合は近隣住民を大量に雇い、人が盾となって川や海の流れを鎮めたという。加賀藩が親不知を超える際、波を鎮める為に近隣から住民を700人雇ったと記録されており、紀州藩の場合は藩士が数箇月も前から下準備のために来宿したともあり、準備には入念に入念を重ねて行われたものと推測できる。

期日と期間

参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられたが、これは在国中あるいは江戸において談合などが出来ないようにしたものだと考えられる。各大名は4月、6月、8月、12月など国元を出発する月、および2月、8月など江戸を出発する月が定められていた[14]

出発

軍役である以上、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が暇を覚えたり、江戸での暮らしに不自由しないようにかかりつけの医師茶の湯の家元や鷹匠までもが同行した上、大名専用の風呂釜などを含む多数の手回り品までも持ち運んだ[15]とされ、「大名行列」という大掛かりな行進が行なわれた。その人数は禄高によって大きく変わり、加賀百万石と称される加賀藩の場合で2500人から3000人、多いときで4000人に達したという[16]天保12年(1841年)に行なわれた紀州徳川家の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したという記録も残されており、御三家紀州侯の大名行列などは多くの農民が見物に訪れるほど格式と威光が感じられる大行列であったといわれている。

移動時間ならびに移動速度は各大名によりまちまちであるが、自国城下町などを除き、費用節約のために急ぎ足での移動が行われることも多々見られた。一日平均で6〜9時間を掛けて約30〜40キロメートル (km) 移動したが[16]、旅行程に遅れが生じた場合は移動距離が50 km近くに伸びることもあった。

多くの大名が同時期に参勤交代をしたため、街道および宿場はしばしば混雑した。当初西国には出来るだけ長い海路で大坂まで旅をする大名が多かったが、天候による日程の遅延を避けるために、次第に陸路を増やす傾向があった[17]

園部藩参勤交代行列図(1) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図(2) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図(3) (南丹市文化博物館蔵)

自国領内

自国の民衆に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられた。これは城下町を離れるまで続けられ、町はずれに出ると雇われた人々の任務は完了となり、人数は約半数程度に減る。それ以外の従者たちは旅行に適した服装に着替え[18]、宿泊予定のある宿場町を目指すこととなる。

移動手段は陸路がほとんどであるが、島津藩のように船と陸路を併用して行う場合もあった。陸路の場合、庶民は行列が進んでくると、道を譲らなければならず、馬に乗っていた場合は必ず下馬しなければならなかった。また、自国の大名行列であれば土下座を行った。飛脚や出産の取上げに向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である公事方御定書(71条追加条)によってその場で「切捨御免」も認められていた。このため、大声で行列の到来を知らせるために徳川御三家の場合は「下に、下に」と叫び、それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、または「よけろー、よけろー」という掛け声を用いて道を譲らせた。制度をよく理解していない外国人がトラブルに巻き込まれるケースもあり、1862年には島津久光の行列を妨害したとしてイギリス人が殺傷される生麦事件が発生し、薩英戦争の引き金となっている。

自国領外

参勤交代の行列は他家の領地を通過することになるが、通られる側の大名は使者を遣わして贈り物などを供し、場合によっては道の清掃・整備や渡し舟の貸出なども行なっていた[19]。また通る方も遣わされた使者に対して返礼の品を送るなどしており[20]、両者とも互いに気を遣い合っていた。

また、他家の行列や幕府の役人、勅使などと鉢合わせにならないように各藩それぞれ入念な準備をしていたが、それでも鉢合わせる事態が発生した場合は各々の大名が籠から降り、相互に頭を下げて非礼を詫び合うこともあったという[21]

民衆は自国以外の大名に対しても下馬の義務や道を譲る義務を課されていたが、自国と徳川御三家の行列以外には土下座する必要はなかった。

西国の大名の多くは整備の進んだ東海道を通ったが、橋がなくしばしば川止めとなる大きな河川が複数あり、日程の変更および経費の増大に見舞われた。そのため、幕府の許可を得て、整備は進んでいないが川止めの可能性がない中山道に変更する大名もみられた。

宿泊

本陣の例(東海道 草津宿)

本陣と呼ばれる大名と関係者専用の宿泊施設に宿泊する。大名は宿泊中に命を狙われる可能性が最も高いので、護衛の者が常に付いており就寝時も武器は手放さなかった。本陣は敵に攻められても対応しやすいような構造をしており、就寝中も小姓が一晩中枕元で本を朗読し、襲撃者に寝込みを襲われないよう用心した。

宿主にとっては大名一行の宿泊は大口の収入源であったが、大名側が旅の途中にトラブルに巻き込まれ、宿泊を急遽キャンセルしなければならないこともあり、宿泊準備費用を巡ってトラブルが絶えなかったという[22]

関所

下屋敷の例(佐土原藩

幕府に対する謀反の意思がないと証明するため、関所を通過する際には大名の籠の窓を開けた上で関所の役人に顔を見せて通過した。その際、役人達は行列の人数や槍・弓などの装備をチェックし、その内容を幕府に報告をした。

江戸の庶民にも同じように自国の威厳を見せつけるため、下屋敷に到着すると立派な服装に着替え、予め雇っておいた人足と合流し、華美な行列を再び仕立て直した。江戸城に到着すると大名は将軍に拝謁し、次の下国までの在府生活が始まる事となる。

在府生活

基本的にはおよそ一年あまりを江戸で過ごすよう定められた大名が多かったが、関東の多くの大名は半年ごとに国元、江戸を往復するよう定められていた。また長崎警護の任を与えられた福岡藩および佐賀藩は2年のうち約100日を、交代で江戸で過ごすよう定められていた。遠国の対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月のみ江戸で過ごすことになっていた。


注釈

  1. ^ 近世の高野山寺領は2万1,300石で、1649年に高野山の学侶方と行人方の双方に江戸在番が命じられた[2]
  2. ^ 当時の文書は当然手書きであり、「参」の字は康煕字典体の「參 (ムムム人彡)」ではなく、異体字「(ムニニ人水)」となっている。
  3. ^ 熊沢蕃山は著書の「大学或問」で、鎌倉時代の如く、諸大名は三年に一度の参勤、在府五十日か六十日に定めたならば、三十万石の大名でも米五千石で余りがあろう。当代は、江戸に諸大名の母儀・奥方・子たちが居るので、將軍家が気遣う人はいない。公儀から在府を短かくすれば、御恩恵となって辱く思われて心服の本となろう。諸侯が財政難となって参府が出来ず、下から願って許されるのでは悪いであろう。世間に多い善政中でも江戸詰を許されるのが仁政の大本である、と述べている[6]
  4. ^ 室鳩巣は八代將軍吉宗の諮問に答えたものとして「献可録」を残しているが、その中で、古代中国の諸国の例を挙げて、周の時代には五年に一度の朝観とあり、いずれの国でも諸侯が都に逗留するのは僅かであるとしている。鎌倉時代に、和田・畠山・三浦・佐々木などの旧功譜代の家は鎌倉に居て、折ふし領地に行ったが、遠国外様の大名はいずれも在国していた。室町幕府の時も細川・畠山などは在京し、その他の大名は京都へ参勤したが、これも隔年に交代したことはない。江戸中には四方から大勢の人馬が入りこみ、諸物が払底している。大名の参勤が今の通りでは、諸大名も大分の費用がかかり、却て江戸が困窮する。そこで先年の上米の制度の時の如く、在府半年、在国一年半とすれば、在府の大名も半分となり、江戸中も人が少なく物静かになるであろうと述べている[6]
  5. ^ 中井竹山の「草茅危言」は、老中松平定信が大坂に赴いた折に、竹山を召して経義を講じさせ、また、当世の事務を諮問した時に奉呈したものという。それには、今の参勤の制は領地の遠近に拘らず一様である。最も遠い薩摩からは海陸四百里に及び、四、五十里の諸侯と同じでは余りに労逸の差がある。帰国はいつも夏のことであるから、大勢の供廻りの者の中には病人が出て、途中で死ぬ者も年々何人となくある。九州の諸大名は同じ苦痛をしている。そこで、江戸より五十里以内の大名は毎年参勤して在府五十日、百里以内は二年に一度参勤して在府百日、二百里以内は四年に一度で在府三百日、三百里以上は五年に一度、在府一年とし、妻子はすべて帰国させる。こうすれば諸侯の窮乏を救い、天下の民をゆるめ、上下洋々として太平の化に浴するであろう、と述べている[6]

出典

  1. ^ a b c d e f 武部健一 2015, p. 119.
  2. ^ a b 木食応其と高野山”. 和歌山県教育センター学びの丘. 2021年9月21日閲覧。
  3. ^ 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』著・八幡和郎、臼井喜法
  4. ^ a b 早川明夫「参勤交代のねらいは? : 「参勤交代」の授業における留意点」『教育研究所紀要』第16巻、文教大学、2007年12月、111-119頁、CRID 1050845762956170368ISSN 0918-9122 
  5. ^ 江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布し、キリスト教の厳禁及び不孝者の処罰を追加、商船の500石制限を撤廃する(新暦6月29日)”. ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事) (2022年5月23日). 2023年11月29日閲覧。 “大名、小名在江戸交替之儀、毎年守所相定時節、可致参勤、從者之員数彌不可及繁多、以其相応、可減少之、但公役者任教令、可隨分限事”
  6. ^ a b c d e f g h 児玉幸多「参勤交代制度の意義」『日本学士院紀要』52巻3号、1998年
  7. ^ 山本博文『参勤交代』第一章 参勤交代の歴史 1 参勤交代の源流 丸山雍成説より p28〜29。
  8. ^ 吉村豊雄 1989, p. 35.
  9. ^ 吉村豊雄 1989, p. 28.
  10. ^ 『喜連川公方実記』
  11. ^ 工藤 2009, p. 314.
  12. ^ 山本博文 1998, p. 210-212.
  13. ^ 金沢板橋間駅々里程表 所蔵文書データベース”. 金沢市立玉川図書館近世史料館. 2021年8月8日閲覧。
  14. ^ 永原慶二、青木和夫、佐々木潤之介『百姓・町人と大名』読売新聞社〈日本の歴史 ジュニア版 第3巻〉、1987年、134頁。 
  15. ^ 『加賀藩大名行列図屏風』加賀藩の大名行列を記した屏風より。
  16. ^ a b 武部健一 2015, p. 120.
  17. ^ コンスタンチン・ヴァポリス『日本人と参勤交代』柏書房、2010年。ISBN 978-4760138210 
  18. ^ 石川県の金沢市にある大樋松門跡の立札には『通行旅行ノ武士ハ(中略)松門ヲ出レバ行装ヲ崩ス慣例ナリキ』(引用)とある。
  19. ^ 山本博文 1998, p. 93-104.
  20. ^ 山本博文 1998, p. 98-99.
  21. ^ 山本博文 1998, p. 141-142.
  22. ^ 御道中日記
  23. ^ 宇和島伊達家の参勤交代 (PDF) (第19回 宇和島市民歴史文化講座「そこ・どこや」 2011年1月16日)。
  24. ^ a b ヴァポリス, コンスタンティン・ノミコス「参勤交代と日本の文化」、国際日本文化研究センター、2004年10月、CRID 1390290699747876608doi:10.15055/00005664 
  25. ^ 渡邊容子「参勤交代について」『華頂博物館学研究』第5巻、華頂短期大学、1998年12月、27-44頁、CRID 1571698601797123968ISSN 09197702NAID 110001192274 


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