原節子
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出演映画
- 『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲 監督、1935年) - 節子
- 『深夜の太陽』(倉田文人 監督、1935年) - 君江
- 『魂を投げろ』(田口哲 監督、1935年) - 女学生[注釈 6][78]
- 『緑の地平線』前篇・後篇(阿部豊 監督、1935年) - ゆかり[注釈 7]
- 『白衣の佳人』(阿部豊 監督、1936年) - 由紀子
- 『河内山宗俊』(山中貞雄 監督、1936年) - お浪
- 『嫁入り前の娘達』(吉村廉 監督、1936年) - 杉浦美枝子
- 『生命の冠』(内田吐夢 監督、1936年) - 有村絢子
- 『丹下左膳 日光の巻』(渡辺邦男 監督、1936年) - おまつ
- 『検事とその妹』(渡辺邦男 監督、1937年) - 明子
- 『新しき土』(アーノルド・ファンク 監督、1937年) - 大和光子
- 『東海美女伝』(石田民三 監督、1937年) - お由利
- 『母の曲』前編・後編(山本薩夫 監督、1937年) - 桂子
- 『巨人伝』(伊丹万作 監督、1938年) - 千代
- 『田園交響楽』(山本薩夫 監督、1938年) - 雪子
- 『将軍の孫』(渡辺邦男 監督、1938年) - 笹野南枝
- 『冬の宿』(豊田四郎 監督、1938年) - 三宅和子
- 『美はしき出発』(山本薩夫 監督、1939年) - 都美子
- 『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔、山本嘉次郎 監督、1939年) - おてる
- 『上海陸戦隊』(熊谷久虎 監督、1939年) - 明珠[注釈 8]
- 『街』(山本薩夫 監督、1939年) - 苑生
- 『女の教室』(阿部豊 監督、1939年) - 陳鳳英
- 『女の教室』前編(学校の巻・七つの俤)
- 『女の教室』 中後編(人生の巻・美しき星、戦争の巻・心の花)
- 『東京の女性』(伏水修 監督、1939年) - 君塚節子
- 『光と影』前後編(島津保次郎 監督、1940年) - 桂佐保子
- 『東遊記』(大谷俊夫 監督、1940年) - 女優
- 『嫁ぐ日まで』(島津保次郎 監督、1940年) - 生方好子
- 『蛇姫様』第一編(衣笠貞之助 監督、1940年) - 琴姫
- 『女の街』(今井正 監督、1940年) - いね子
- 『二人の世界』(島津保次郎 監督、1940年) - さち子
- 『姉妹の約束』(山本薩夫 監督、1940年) - 幸子
- 『兄の花嫁』(島津保次郎 監督、1941年) - 原田昌子
- 『大いなる感情』(藤田潤一 監督、1941年) - 高田篤子
- 『結婚の生態』(今井正 監督、1941年) - 中村春子
- 『指導物語』(熊谷久虎 監督、1941年) - 瀬木邦子
- 『希望の青空』(山本嘉次郎 監督、1942年) - 千鶴子
- 『青春の気流』(伏水修 監督、1942年) - 槙子
- 『若い先生』(佐藤武 監督、1942年) - 平山富美子
- 『緑の大地』(島津保次郎 監督、1942年) - 上野初枝
- 『母の地図』(島津保次郎 監督、1942年) - 岸桐江
- 『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎 監督、1942年) - きく子[79]
- 『阿片戦争』(マキノ正博 監督、1943年) - 愛蘭
- 『望楼の決死隊』(今井正 監督、1943年) - 高津由子
- 『若き日の歓び』(佐藤武 監督、1943年) - 穂積泰子
- 『決戦の大空へ』(渡辺邦男 監督、1943年) - 村松杉枝
- 『熱風』(山本薩夫 監督、1943年) - 平沼久美子
- 『怒りの海』(今井正 監督、1944年) - 平賀光子
- 『勝利の日まで』(成瀬巳喜男 監督、1945年)[注釈 9]
- 『北の三人』(佐伯清監督、1945年)
- 『緑の故郷』(渡辺邦男 監督、1946年) - 栗山マキ
- 『麗人』(渡辺邦男 監督、1946年) - 菊小路圭子
- 『わが青春に悔なし』(黒澤明 監督、1946年) - 八木原幸枝
- 『かけ出し時代』(佐伯清 監督、1947年) - 智田美也子
- 『安城家の舞踏会』(吉村公三郎 監督、1947年)[注釈 10]
- 『女だけの夜』(倉田文人 監督、1947年) - 由利しげ子
- 『三本指の男』(松田定次 監督、1947年) - 白木静子
- 『誘惑』(吉村公三郎 監督、1948年) - 孝子
- 『時の貞操』前編・後編(吉村廉 監督、1948年) - 森しづ江
- 『颱風圏の女』(大庭秀雄 監督、1948年) - 佐藤久里子
- 『幸福の限界』(木村恵吾 監督、1948年) - 高松由岐子
- 『殿様ホテル』(倉田文人 監督、1949年) - 長岡アキ
- 『お嬢さん乾杯』(木下惠介 監督、1949年) - 池田恭子[注釈 11]
- 『青い山脈』(今井正 監督、1949年) - 島崎雪子
- 『続青い山脈』(今井正 監督、1949年) - 島崎雪子
- 『晩春』(小津安二郎 監督、1949年) - 紀子[注釈 12]
- 『白雪先生と子供たち』(吉原廉 監督、1950年) - 雨宮加代子
- 『女医の診察室』(吉村廉 監督、1950年) - 田島文子
- 『野生』(沢村勉 監督、1950年) - ユキ
- 『七色の花』(春原政久 監督、1950年) - 柏木照子
- 『白痴』(黒澤明 監督、1951年) - 那須妙子
- 『麦秋』(小津安二郎 監督、1951年) - 間宮紀子
- 『めし』(成瀬巳喜男 監督、1951年) - 妻・三千代
- 『風ふたたび』(豊田四郎 監督、1952年) - 久松香菜江
- 『東京の恋人』(千葉泰樹 監督、1952年) - ユキ
- 『恋の風雲児』(山本嘉次郎 監督、1953年) - 雪子
- 『白魚』(熊谷久虎 監督、1953年) - 上村幸子
- 『東京物語』(小津安二郎 監督、1953年) - 紀子
- 『山の音』(成瀬巳喜男 監督、1954年) - 尾形菊子
- 『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人 監督、1955年) - お母さん
- 『美しき母』(熊谷虎久 監督、1955年) - 光代
- 『驟雨』(成瀬巳喜男 監督、1956年) - 並木文子
- 『愛情の決算』(佐分利信 監督、1956年) - 勝子
- 『婚約三羽烏』(杉江敏男 監督、1956年) - 松川女史[注釈 13]
- 『女因と共に』(久松静児 監督、1956年) - 杉山保安課長
- 『兄とその妹』(松林宗恵 監督、1956年) - 妻・あき子
- 『大番』(千葉泰樹 監督) - 森可奈子
- 『大番』(1957年)
- 『続大番 風雲編』(1957年)
- 『続々大番 怒涛編』(1957年)
- 『大番 完結編』(1958年)
- 『東京暮色』(小津安二郎 監督、1957年) - 沼田孝子
- 『智恵子抄』(熊谷久虎 監督、1957年) - 智恵子
- 『最後の脱走』(谷口千吉 監督、1957年) - 看護婦・とみ子[注釈 14]
- 『女であること』(川島雄三 監督、1958年) - 佐山市子
- 『東京の休日』(山本嘉次郎 監督、1958年) - ファッション協会理事長
- 『女ごころ』(丸山誠治 監督、1959年) - 伊曽子
- 『日本誕生』(稲垣浩 監督、1959年) - 天照大神[79]
- 『路傍の石』(久松静児 監督、1960年) - 吾一少年の母
- 『娘・妻・母』(成瀬巳喜男 監督、1960年) - 曽我早苗
- 『ふんどし医者』(稲垣浩 監督、1960年) - 蘭方医の妻・いく
- 『秋日和』(小津安二郎 監督、1960年) - 三輪秋子
- 『慕情の人』(丸山誠治 監督、1961年) - 三浦聡子
- 『小早川家の秋』(小津安二郎 監督、1961年) - 小早川秋子
- 『娘と私』(堀川弘通 監督、1962年) - 千鶴子
- 『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩 監督、1962年) - 大石内蔵助の妻・りく[注釈 15]
注釈
- ^ 熊谷「日活の東京移轉で、三年ぶりに此方へ參りましてね。久しぶりに逢つた時に、何といふか非常に感受性が鋭い子だなアと直観的に感じたんですね。(中略)これは育て方に依つたら、ものになると思つたんですよ。その日江の島の方へ行つたんですが、その時妹も一緒に行かうと引張り出して、鎌倉で晝食をとつた時『どうだ昌江さん女優になつてみないか』と言つたんですよ。(中略)大體本人の希望は、その時は小學校の先生になりたかつたらしいですよ。然し何になるにしても、僕の力で人間にしてみたいと云ふ一種の衝動にかられましてね。兎に角當分僕等と一緒に暮らすことにしたんです。」熊谷光代「それから二、三日たつて、私が里に行つて、兩親や兄に女優にしてはと相談したんです。」[9]
- ^ 熊谷は、「あれでもない、これでもない、とみんなで考へた末原眞白はどうだと云ふことになつたんです。原眞白は腹眞ツ白に通ずるといふわけです。それで會社に行つて原眞白はどうだろうといふと、所長が一寸待つてくれ、原眞白ぢや餘りどうも語呂がおかしい、俺に考へさせてくれといひましてね。二、三日してからでしたか。所長が急に僕を呼び出して、今朝顔を洗つている中に、節子といふのが、靈感の様に頭に閃いたといふのです。僕は不滿だつたんですが、所長が大變な力の入れ方だから、それでもいゝでせうといふので、結局かういふ名前になつたんです。」と証言している[9]。
- ^ 戦争中に国粋主義思想にのめりこみ映画界を離れて、国粋団体スメラ学塾にも参加した。
- ^ 他方、親しい友人には「40歳で引退したい」「引退するときは誰にも気づかれぬように消えていきたい」と話していたという[33]
- ^ 東宝副社長松田功「5、6年前まで東宝の契約者として安いものですが毎月契約料を払っていました(サンケイスポーツ1974年12月25日付)」[35]
- ^ 現存する最古の原節子作品とされる。
- ^ 原初のトーキー作品。
- ^ 義兄熊谷久虎の作品への初出演。
- ^ 冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品[要出典]。
- ^ 原のフリー第1作にして初の松竹作品。
- ^ 原唯一の木下惠介監督作品。
- ^ 初の小津安二郎監督作品。
- ^ 原にとって初のカラー作品。
- ^ 原にとって初のワイドスクリーン作品。
- ^ 原が出演した最後の作品。
出典
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- ^ “キネマ写真館:原節子1第2部-PAGE3”. 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月26日閲覧。
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- ^ 「ヴェールを脱いだ「原節子」隠遁52年間の後半生」『週刊新潮』(2015年12月10日号)掲載
- ^ 木下亮「素顔の原節子 昌江叔母へ」『キネマ旬報』2016年2月上旬号、p.24
- ^ 木下亮「独占手記 わが叔母『原節子』」『新潮45』2016年2月号、p.56
- ^ 本地 2006, p. 53.
- ^ 『横浜貿易新報』、1935年6月28日付記事にも「日活の銀幕へ 横浜高女から會田昌江嬢」とある。
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- ^ 旗には「きみがよのぎせいとなれよわがしんみん正久君」と書かれていた(原節子の真実、p.265)
- ^ 『報知新聞』1973年2月14日。「原節子さん帰ってきた日の丸語る」
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- ^ 『週刊文春』1978年6月15日号「ついにとらえた原節子の近影」、p.79
- ^ 原節子のすべて(2012)、pp.78-81
- ^ 『FOCUS』1983年1月7日号「縁側の節子さん-永遠の処女師走の御近影」、pp.62-85
- ^ 原節子のすべて(2012)、pp.80-81
- ^ 『Emma』1985年11月10日号「生涯に一度だけ撮ったまぼろしの水着写真」の記事と共に65歳の近影が掲載
- ^ 新潮45 特別編集 2012, pp. 56–57.
- ^ 石井 2016, pp. 56–57.
- ^ 『FRIDAY』2000年6月30日号「80歳を迎える原節子さんの『神々しい老後』
- ^ 新潮45 特別編集 2012, p. 57.
- ^ 石井 2016, p. 57.
- ^ 『女性自身』2002年7月30日号「元祖大女優原節子清閑なる生活」
- ^ 新潮45 特別編集 2012, p. 58.
- ^ 石井 2016, p. 58.
- ^ 田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成』(フィルムアート社、1989年)、p.104
- ^ 『アサヒ芸能新聞』1951年9月9日付
- ^ 笠智衆『大船日記・小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年、147頁。
- ^ 「はじめての原節子」『朝日新聞』2012年4月16日付朝刊、文化面。
- ^ 銀座百点「銀幕からの恩返し」(2014,11)、p.93
- ^ “オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
- ^ 原節子さん「実はさばさばしていて男っぽい方」共演女優語る AERA 2015年12月2日閲覧。
- ^ 伝説の女優・原節子、実はたばこやビールが好き 素顔と隠遁生活の晩年 AERA 2020年6月23日閲覧。
- ^ 宝田明×川又昂×佐藤忠男「『東京物語』原節子を語ろう」『週刊現代』2014年12月27日号、p.153。キャメラマンの川又の証言。
- ^ a b 石井ふく子「身の丈のしあわせ 第10回 原節子さんのチョコレート」『週刊現代』2020年7月4日・11日合併号、pp.80-81
- ^ 石井妙子『原節子の真実』新潮社、2016年、p.262
- ^ 北野武『武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集』ロッキング・オン、2003年、pp.120-121
- ^ 「ビートたけしの21世紀毒談 第1279回 バイク事故の時、原節子さんからもらった『数珠』の話をするぜっての」『週刊ポスト』2015年12月18日号、p.174
- ^ a b 石井妙子「追悼 原節子 大女優の果たせなかった夢」『新潮45』2016年1月号、p.107
- ^ 本地 2006, p. 174.
- ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–536, 「主要特撮作品配役リスト」
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