南アフリカ共和国の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 18:06 UTC 版)
ヨーロッパ人到着以前
この地にはじめて人類が出現したのはおよそ300万年ほど前であり、南アフリカの人類化石遺跡群においてアウストラロピテクスの化石が発見されている。
その後、狩猟採集民であるコイコイ人やサン人がこの地に居住していたが、やがてカメルーン近辺からバントゥー系民族が南下し、コイコイ人やサン人を追い払い、あるいは同化しながら紀元300年ごろには現南アフリカ共和国の北部・トランスヴァールまで進出し、1000年ごろにはグレート・フィッシュ川[1]以北の線までやってきた。しかし、バントゥーは熱帯起源の作物を主に栽培していたため、グレート・フィッシュ川以南においては気候があわず、農作物を育てることができなかったため、それ以南においてはコイコイ人が以前と変わらない狩猟生活を営んでいた。グレート・フィッシュ川以北のコーサ人、ナタールのングニ人(ズールー人を含む)、ハイフェルト(オレンジ自由州やトランスヴァール共和国)地域ではソト人やツワナ人などが鉄器を使用し、農耕と牧畜を営み、小首長国に分立していた。1050年から1270年ごろにかけては、国土北端のマプングブエにおいて高度な都市文明が栄えていた[2]。
ケープ植民地
この地域に始めてヨーロッパ人が到達するのは1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達したときである。やがてヴァスコ・ダ・ガマがダーバン沖に来航し、到達した日付にちなんでこの地をナタール(ポルトガル語でクリスマス)と名づけた。
その後100年以上もの間、都市や特産物のないこの地域にヨーロッパ人は興味を示さなかったが、やがて貿易がさかんになるにつれ、海上交通の要所である喜望峰周辺に補給基地をつくる案が、当時の海上交易の覇権を握るオランダ東インド会社の中ででてきた。
1652年4月6日、ヤン・ファン・リーベック率いるオランダ東インド会社の4隻の船がテーブル湾に上陸し、補給を目的とした入植地を建設した。ここはケープタウンと名づけられ、以後の開拓の拠点となった。1657年には最初の自由移民がケープに入植し、1683年には内陸部初の拠点としてステレンボッシュが建設された。1688年から1689年にかけて、ナントの勅令の廃止によって弾圧を受けたフランスのユグノー200家族がケープに移住し、以後少しずつ入植は進んでいった。入植の過程で、移民たちはオランダ人とは異なる民族集団を形成していき、ボーア人と呼ばれるようになっていった。
ケープ社会はケープタウンの都市社会と、地方に広がる大農園、そしてその奥の牧畜民(トレック・ボーア)に大きく分かれていた。トレックボーアたちは、コイコイ人を追い散らしながら奥地へ奥地へと進出していった。しかし、北は砂漠、東は強力な対抗者であるコーサ人の出現によって、彼らの前進はグレート・フィッシュ川で止まり、コーサ人とは1779年より断続的に戦闘状態がつづいた(コーサ戦争[3])。
ムフェカネとグレート・トレック
ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発するとともに、オランダのケープ支配は終わりを告げた。イギリスは1795年にケープを占領し、1803年に前年結ばれたアミアンの和約に基づいて一度バタヴィア共和国にケープを返還したものの、1806年に再度占領し、1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が発足した。
ケープ植民地が英領となった頃、東のナタールにおいては大変動が起こっていた。ングニ人の一部族であるズールー人のシャカ・ズールーがズールー王国を建国し、四方に侵略を始めたのである。ズールーは短槍を中心とした強力な軍隊を擁し、近隣部族を次々と制圧していった。ズールーは強力な国家となったが、内には恐怖政治をひき、外には略奪暴行の限りを尽くしたため、恐慌をおこした近隣他民族は一斉にズールー領域からの大移動を始めた。ンデベレ人、コロロ人、ンゴニ人、シャンガーン人などのように遠方へ逃れる民族が出る一方、スワジ人やソト人のように居住地域で防御を固める中で国家としての統一を成し遂げる民族も出た[4]。この混乱のことを、ムフェカネと呼ぶ。この混乱により、1820年代から1830年代にかけて、ハイフェルト一帯は人もまばらな荒野と化した。
ケープ植民地においては、イギリス人とボーア人の対立が先鋭化しつつあった。ケープの公用語は英語となり、1820年には最初の英国系移民がケープに到着。1828年には総督令50号が制定され、1809年に施行されたホッテントット条例が廃止されたため、ボーア人の間で深刻な労働力不足が起き、さらに1833年には大英帝国全土において奴隷制が廃止され、特に奴隷に依存した大農園を経済の中心とする東ケープにおいて不満は頂点に達した[5]。
1834年、ピーター・レティーフら東ケープのボーア人有力者がグラハムズタウンに集結し、イギリスの力の及ばないナタールへの移動を決定し、1835年に移動を開始した。これを、グレート・トレックと呼ぶ。当時の内陸部はムフェカネで疲弊しており、ボーア人たちは速やかに勢力を広げることができた[6]。ボーア人は内陸のンデベレ人を撃破し、本隊は1838年1月28日にナタールへと到着した。ここでズールー人の奇襲にあい、ピーター・レティーフらは命を落としたが、1838年12月18日にアンドリース・プレトリウスの指揮下のボーア軍がブラッド・リヴァーの戦いにおいてズールー人を撃破し、1839年10月12日にナタール共和国を建国した。
しかしナタール共和国は混迷を極め、イギリスの介入を招いて1843年5月12日にナタール共和国は崩壊。ボーア人のほとんどは内陸部へと転進し、オレンジ川以北とヴァール川以北に二つの政府を樹立した。イギリスは1848年にオレンジ川主権国家を建国してこの地域をイギリスの影響下に置こうとしたものの、ボーア人やソト人らの抵抗にあい、結局1852年1月17日、サンドリバー協定によってトランスヴァール共和国(正式名称南アフリカ共和国)が、次いで1854年2月23日にブルームフォンテーン協定によってオレンジ自由国が独立を認められた。
- ^ ナミビアとの国境線になっているオレンジ川の支流もフィッシュ川と呼ぶため間違え易いが、こちらはグレートをつけて呼び分けている。
- ^ 宮本・松田、1997、p.102
- ^ カフィール戦争とも。黒人に対してカフィールという呼称が人種差別的かつ侮蔑的であるため、歴史的なコンテキスト以外では、通常はコーサ戦争が用いられる。
- ^ 宮本・松田、1997、p.370
- ^ 宮本・松田、1997、p.365
- ^ カスール、2002、p.102
- ^ トンプソン、1995、pp.137-139
- ^ トンプソン、1995、p.139
- ^ トンプソン、1995、p.195
- ^ トンプソン、1995、p.196
- ^ 岡倉、2003、46
- ^ トンプソン、1995、p.249
- ^ 岡倉、2003、p.138
- ^ トンプソン、1995、p.260
- ^ トンプソン、1995、p.266
- ^ トンプソン、1995、p.271
- ^ a b 勝俣、1991、p.169
- ^ 青木(1989:225-243)
- ^ 青木(2001:101-106)
- ^ トンプソン/宮本、吉國、峯、鶴見訳(2009:416)
- ^ 青木(2001:103-110)
- ^ 田辺・島田・柴田、1998、p.549
- ^ 田辺・島田・柴田、1998、p.550
- ^ ロバート・ゲスト、2008、p.144
- ^ 宮本・松田、1997、p.390
- ^ 平野、2009、p.32
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