千葉ロッテマリーンズ 球団の歴史

千葉ロッテマリーンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 21:58 UTC 版)

球団の歴史

1リーグ時代

毎日時代

1949年

9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。

リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス南海ホークス東急フライヤーズ大映スターズ西鉄クリッパース近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。

この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志別当薫土井垣武本堂保次呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。

2リーグ時代

1950年

パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成し、2リーグ制初代日本一球団となった。打者では別当薫が本塁打王打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。なお、プレーオフクライマックスシリーズなどの特殊ルールを除き、「年間勝率1位の上で日本一」になったのはこの年が最初で最後であり、現存12球団の中で「最も日本一から遠のいている」球団となった[注 1]

1951年

首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。

1952年

7月16日、福岡平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[2]

1953年

首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[3]

1954年

3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。

1955年

山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率を挙げ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。

1956年

首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。

1957年

シーズン成績は3位。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し、毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団[注 2]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任するという「逆さ合併」だった。

大毎時代

1958年

葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[4]。オフにはこの年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎A級10年選手の権利で阪神より移籍する。

1959年

優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。

1960年

西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。

この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[5]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[6][注 3]

1961年 - 1963年

3年続けてBクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。

東京オリオンズ時代

1964年 - 1968年

1964年、球団名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1965年1月に引き上げ、なおかつ後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。

優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマンアルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し[注 4]、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている[7]

ロッテ時代

1969年

1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名をロッテオリオンズに改称[8][9]。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。首位阪急と5.5ゲーム差の3位。

1970年

10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。なお、ロッテはこの年を最後に「年間勝率1位によるリーグ優勝」には一度もなっておらず、現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠のいている」球団となった[注 5]

1971年

1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる[注 6]。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。7月13日西宮での対阪急戦で江藤愼一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され二軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど[注 7] チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった[10]

1972年

前年と一転、Bクラスの5位に転落。本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。金田が監督に就任したのは同じ在日韓国人のオーナー重光武雄に「ワシをロッテオリオンズの監督にして下さい。必ず客を呼んで見せます。一流の球団にしてみせます。カネやんのいうこと信用して下さい。」と頭を下げ、当時の重光は野球にさほど興味なかったが、国民的英雄の在日同胞が頼んできたので男の約束を交わし、監督に起用したばかりか破格の権限を与えた[11]

仙台時代

1973年

この年から宮城県仙台市宮城球場(現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い[注 8]、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。パ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。

1974年

金田監督の下で有藤通世山崎裕之弘田澄男、投手では金田留広木樽正明村田兆治成田文男らが活躍して後期優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破りリーグ優勝。中日との日本シリーズでは4勝2敗で日本一になった。このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、この年を最後に、パシフィック・リーグ年間勝率1位に一度もなっておらず、2021年現在存在する12球団で最も長く勝率1位から遠ざかっており[注 9]、47年間勝率1位になっていないのは横浜DeNAベイスターズの37年間[注 10]を抜いてプロ野球史上最長である。また、プレーオフなしのリーグ優勝まで遡れば上記の1970年が最後で、51年になる。そのため、チーム名が現在の「千葉ロッテマリーンズ」になってからは、一度も年間勝率1位になっていない。

1975年

前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。

1976年

前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。

1977年

前期は5位に終わるも後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが、3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。

川崎時代

神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後、川崎市から誘致を受け、翌シーズンから川崎球場への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。

第1次金田監督時代

1978年

この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。移転1年目は総合4位に終わる。シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した[12]。前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していた野村克也選手兼任監督として後任を打診するも、金田の後任は荷が重いと固辞し、そのまま退団。

山内監督時代

1979年

山内一弘が監督に就任。就任1年目は総合4位に終わる。ルーキーの落合博満を山内が積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。

1980年

山内の下、レロン・リーレオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成水谷則博倉持明が活躍し、前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。

1981年

村田が11連勝し、19勝を最多勝利のタイトルを獲得、落合はレギュラーに定着し、首位打者のタイトルも獲得[13]。エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、前評判は圧倒的有利だったが[14]、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、重光武雄オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ鶴岡一人に相談し次期監督に山本一義を推薦し、山本が監督に就任した[15]。なお、金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。

山本一義監督時代

1982年

落合博満が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者三冠王となる。順位は5位に終わる。

1983年

投手陣強化を図るためレオンを放出してまでスティーブ・シャーリーを獲得するものの、村田が故障で1年間公式戦に登板できず、また打線も弱体した結果、球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任[16]

稲尾監督時代

1984年

張本勲に監督要請するも断られ、重光オーナーに監督候補を出してほしいと言われた張本は土橋正幸稲尾和久を推薦、土橋はヤクルト投手コーチ就任が決まっており稲尾が監督に就任した[17]。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。石川賢最高勝率

1985年

落合、西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割を記録してチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が開幕11連勝を記録し17勝5敗の成績を挙げ、仁科、新外国人の荘勝雄も2桁勝利を挙げるものの、前年最高勝率の石川が故障により不振に陥るなど全体的には軒並み不振だった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでもランディ・バース阪神)が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。

1986年

落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で盗塁王。リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目の愛甲猛とバラエティに富んだ打線は前年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣は仁科時成は3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向した荘勝雄は18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり[18]、チーム防御率5位に終わった。球団の福岡移転を熱望していたが実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。

有藤監督時代

1987年

有藤道世が監督就任。落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。来年はどこと契約しているのかわからない。」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた[19]。落合は牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍した[20]。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している[21]。有藤と不仲だったレロン・リーも冷遇され、不調に陥り、同年解雇。また、同年には女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという[22]。なおこの年は、落合が抜け、リーが不振で、4番は若手の古川慎一高沢秀昭らが務めたが力不足は顕著で、打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が最優秀救援投手に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。

1988年

この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。 打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇ったビル・マドロックは、.263 19本塁打と期待を裏切りこの年限りで解雇。 高沢秀昭が首位打者・小川博奪三振王、牛島は2年連続セーブ王に輝く。小川、村田兆治荘勝雄園川一美の4人が二桁勝利を挙げた。

1989年

二軍の本拠地が東京都青梅市青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)のロッテ浦和球場に移転[注 11]

村田兆治が5月13日の山形県野球場での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。防御率1位に輝く。西村は外野手転向、新加入のマイク・ディアズは.301、39本塁打、105打点の成績を残し、愛甲も3割をマーク。

最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。主力の高沢、水上善雄と広島・高橋慶彦白武佳久ら3選手とのトレードが成立。

第2次金田監督時代

1990年

ディアズを一時捕手で起用するなど復帰した金田監督のパフォーマンスや退場劇が注目されたがチーム成績は5位。2年目の初芝清が三塁に定着、西村が首位打者になる。村田、袴田が現役引退。高橋慶は成績が振るわずに阪神へ移籍。8球団競合でドラフト1位指名の小池秀郎が入団拒否。

1991年

首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった[23]。シーズン中に広島から高沢が復帰、平井光親が首位打者を獲得し堀幸一は二塁に定着して20本塁打を放つ。オフに金田が監督を解任された[24]。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が再び八木沢に追い出された形となった。八木沢によると、西武コーチだった1991年の夏にオーナー代行の重光昭夫同席の下、「監督をやってくれ」と言われたという[25]

千葉時代

1991年9月4日、翌年から保護地域を川崎から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、11月21日、新しい球団名は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。監督に就任する八木沢荘六は「ドルフィンズ」を推していた[25]

八木沢監督時代
1992年1993年

本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗ペットマーク・マスコットを一新。本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、ディアズは不振で途中退団し、千葉移転初年度は前年に続き最下位となった。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。新人の河本育之は19セーブで抑えに定着。しかし、翌年もメル・ホールや地元出身の宇野勝を獲得し、補強を行ったが、チームの地力は上がらず、5位に終わると、移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。オフに当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。

1994年

首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した[25]、その後は、中西太が代理監督を務め、やや持ち直すも5位に終わる。八木沢は監督時代を「投手は伊良部の他に牛島和彦小宮山悟園川一美前田幸長吉田篤史河本育之らがいて他チームに引けを取らなかったが、打線が点を取れなかった。」[25]と述べている。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団[26]伊良部秀輝は自己最多の15勝挙げて最多勝最多奪三振を獲得。

第1次バレンタイン監督時代
1995年

日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していたピンク色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインに開幕からリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇[注 12]。代わりにフリオ・フランコピート・インカビリアを獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながら1番打者に起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀、打点王を獲得した初芝清[注 13]、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。

江尻監督時代
1996年

バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの、大学で広岡の後輩だったとのことで、「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。また、チームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをし二年目の黒木知宏が奮闘したが、開幕投手を努めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪くそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ず、初芝もマークが厳しくなって勝負強さを発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され[27]、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍。

近藤監督時代
1997年

横浜ベイスターズ元監督だった近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった[28]横浜ベイスターズ時代のスクイズの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、佐々木主浩らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかし、ストッパーの成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足で、初芝と堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦で先発マスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打にわたり駒不足で最下位に終わる。

1998年

近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた[29]。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱し、セットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。

山本功児監督時代
1999年 2000年 2001年 2002年 2003年

1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形で横浜ベイスターズに移籍した)[30]。また90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願で読売ジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け、退団した。2001年には福浦和也が首位打者、ミンチーが最優秀防御率を獲得した。2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している[31]。2003年は特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。山本功児は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わるも、年々勝率を上げ、2002年・2003年は4位と健闘し、2003年にはシーズン最終成績を68勝69敗3分と、借金1にまでチームを戻したところで監督を辞任した。その際、シーズン最終戦で当時ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きた[32]。しかし、山本功児監督時代に福浦和也サブロー里崎智也小林宏之小林雅英などを起用し、またこの時期にドラフトで獲得した清水直行渡辺俊介今江敏晃西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。オフに韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。

第2次バレンタイン監督時代
2004年

バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、勝利するも3位だった日本ハムも勝利したため0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃したが、シーズン全体では勝率5割を記録した。

2005年

今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえてマリンガン打線と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした[注 14]。10月22日からの日本シリーズでは、第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏一死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している[注 15]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[注 16]。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。

2006年

小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフに福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。

2007年

3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[注 17]。翌日も延長12回で引き分け[注 18]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HP最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也今江敏晃フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。

2008年

先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也橋本将田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位に終わった。チーム防御率はリーグワースト。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、当時の契約最終年であった4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。

2009年

ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。バレンタインとの契約を同年限りとする前年12月の球団声明を受けて、長らく球団の応援活動を牽引したファングループのMVPおよび外野応援団のメンバーを中心に、バレンタインの残留を求め、球団フロント関係者を糾弾する活動がシーズン開幕前後から繰り広げられた。しかし、シーズン終了を控えた9月26日、抗議活動に参加したファンの一部がフロント関係者を名指しして「全員死刑」・「死ね」などと中傷するゲーフラやプラカードを掲げたため、西岡剛がヒーローインタビューの際に「夢を持って試合を見に来てくれている子供たちの夢を傷付けないで欲しい」、「本当にロッテのことを愛しているならば、明日からは横断幕は下げて、これからも応援して欲しい」と行き過ぎた言動を自粛するよう要請した。しかし、MVP・外野応援団は、この西岡の発言に反発し、その翌日9月27日の試合では西岡の応援をボイコット、更には自発的に西岡を応援するファンの声援を妨害したため、外野応援団・MVPに反発したファンや観客からブーイングや怒号が飛び交うトラブルが発生した(詳しくはマリーンズファンを参照)。このトラブルが原因でMVP・外野応援団は解散に追い込まれ、これまで使用されていたスキンヘッドランニングなどのチャンステーマや(一部を除く)応援歌も廃止されることとなった[注 19]。こうした騒動の影響もあって、チームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任には一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチの西村徳文が監督に昇格した。オフに韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。

西村監督時代
2010年

序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった[注 20]。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず[注 21] に日本シリーズを制した球団となった[注 22]。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフに小林宏之が阪神、西岡が大リーグミネソタ・ツインズにFA移籍。また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーはなく、現役を引退した。

2011年

3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[33]。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[注 23]、4対6で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[34] 以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[35]。交流戦は8勝14敗2分の10位[36]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[37]。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成[38] するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録[39]、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定[40]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて[41]。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差[42]。得点は球団史上最低記録となる432[注 24]、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった[注 25][43]。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している[44]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[注 26] がFA移籍で半年でロッテに復帰[45]

2012年

開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[46]、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上[47]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[48]。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に3対5に敗れ、2か月半ぶりに首位陥落し[49]、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[50]、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に1対2で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し[51]、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[52]。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている[53]益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任[54]、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[55]。10月18日、監督に伊東勤[56] が就任。

伊東監督時代
2013年

5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち[57]、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に[58]、前半戦を2位で折り返した[59]。7月27日には当時13連勝中だった田中将大相手に9回表終了時点でリードを奪うもその裏に守護神益田直也が失点、サヨナラ負けを喫し田中の連勝は続いた。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが[60][61]、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した[62]。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった[63]。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが[64]、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した[65]。オフに西武の涌井秀章をFAで獲得した。

2014年

1月1日付けで球団社長に前みずほ銀行執行役員の山室晋也が就任した[66]

開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり、6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、下位に低迷した。シーズン途中にキューバ出身でメキシカンリーグの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得[67]。9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定し、ロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった[68]。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退し[69]、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。

2015年

開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが、4月中盤から徐々に低迷した。交流戦では一時は首位に立つ[70]も、最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した[71]。その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。そして10月4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した[72]クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。オフに今江がFAで楽天、クルーズが巨人に移籍した。一方で、ソフトバンクからジェイソン・スタンリッジを獲得した。

2016年

2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。

開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われると、以降はソフトバンクの後塵を拝する状況が続いた。しかし、その後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した[73]。クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。角中が首位打者と最多安打を獲得、石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞した。サブローが現役を引退、デスパイネも金銭面の関係で退団となり、ソフトバンクへの移籍が決まった。

2017年

オープン戦を首位で終えたが、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のジミー・パラデスマット・ダフィーの不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も前年に最優秀防御率のタイトルを獲得したエースの石川の大乱調などで、4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥りチームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると[74]、5月16日の西武戦にも敗れて6連敗を喫し、通算37試合目にしてロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した[75]。5月から6月にかけてWBCキューバ代表ロエル・サントス[76]、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャ[77]を相次いで獲得。秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗でシーズン初の月間勝ち越しを達成するが[78]、 シーズン終了まで一度も最下位を脱出することができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことで、ロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督は辞任し、井口が現役を引退した。オフに大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。また、コーチ陣も刷新し、10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して翌年のコーチ契約を行わないことを通告した[79]。さらに、10月12日に現役を引退した井口がロッテの監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された[80]。また、井口のダイエー時代のチームメイトであった鳥越裕介が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、的場直樹が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。

井口監督時代
2018年

2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日、韓国で贈賄の罪で収監された[81]ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ、同日付でロッテホールディングス取締役の河合克美が代表取締役オーナー代行に就任した[82]

この年は4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉、ルーキーの藤岡裕大や新外国人のマイク・ボルシンガーが活躍した。5月10日に一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの小坂誠が一軍内野守備・走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。また、一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦和也がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れ、2年連続のBクラス、10月5日の楽天戦に勝利し、5位が確定し、2004年に消滅した近鉄を含む13球団の中で「平成時代に一度も勝率1位を経験しなかった唯一の球団」となった[注 27]。また、球団史上初めてパ・リーグ全5球団への負け越しが確定した[83]

チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録した。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。

この年は平成最後のペナントレースだったため、ロッテは現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む13球団の中で「平成時代に年間勝率1位によるリーグ優勝ができなかった唯一の球団」となった。

岡田幸文根元俊一大隣憲司金澤岳が現役を引退した。オフに平沢大河酒居知史種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。

11月6日、ケニス・バルガスの獲得を発表した。その他にも元楽天の細川亨や元日本ハムのブランドン・レアード、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューした元横浜のブランドン・マン、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビンを獲得。広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツとの争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。さらに長年の課題であった長打力不足を解消するために、本拠地のZOZOマリンスタジアムにホームランラグーンを新設した。このホームランラグーンは、いわゆるラッキーゾーンにより外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。

2019年

開幕戦では楽天を相手に中村、加藤、レアードの3本の本塁打、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利する。なお、この試合では酒居が1球勝利投手を記録している。4月11日には一時最下位へ転落したが、そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛高野圭佑とのトレードで獲得[84]。7月14日、レオネス・マーティンの獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた上、楽天に僅差で躱され4位が確定。2位のソフトバンクには17勝8敗と大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分と負け越した。荻野貴司ベストナインゴールデングラブ賞を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は前年の78本から158本へと大幅に増加した。

プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海山本大貴安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希原嵩松田進の三選手を派遣。

ドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末、獲得に成功した。

オフに福浦が引退し、11月1日に来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。同じく、引退した阿部和成が二軍サブマネージャーに、伊志嶺翔大が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。

補強にも積極的に動き、荻野貴司益田直也FA権を行使せずに残留し、鈴木大地は楽天にFA移籍したが、楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。楽天からFAの人的補償として小野郁を獲得した一方、涌井秀章が金銭トレードで、酒居もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。その他、自由契約となった西巻賢二フランク・ハーマン、元広島のジェイ・ジャクソン、育成選手として元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元ルートインBCリーグ富山GRNサンダーバーズホセ・フローレスを獲得。

シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し[注 28]、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された[86]

2020年

1月1日、球団設立70周年を機にユニフォーム左袖のプライマリーマークを更新。二重丸を赤から黒に変更し、ベージュの影色が入っていたカモメの大半を白一色とした[87]

1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄韓国ソウル特別市に於いて老衰のため大往生した(享年98)[88]

3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、三木亮平沢大河がコンディション不良であったことから、前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得[89]。背番号は00

3月24日、球団の株主総会と取締役会において1月に死去した重光の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。昭夫は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった[90][91]

6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが、同一カード6連勝はプロ野球史上初となった[92]。が、8回を任されていたジャクソンが7月9日に突如退団し、翌10日に大麻所持の容疑で逮捕された。また、開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発し、レアード種市篤暉松永昂大ハーマンなどが相次いで離脱。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一[93] がシーズン終盤にブルペンを支えた。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位のソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。ところが、10月4日に岩下大輝とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表[94]、それを受けて一軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、ベテランの鳥谷のほかにも荻野貴司角中勝也清田育宏菅野剛士藤岡裕大三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表した[95]。岩下の濃厚接触者も含め、これら全員が一軍登録を抹消される緊急事態となり、さらに21日の西武戦で主砲のマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱した。それでも、10月8日には首位のソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったが、ソフトバンクが10月10日から22日まで破竹の12連勝と波に乗った一方で失速し、一気に離されてしまった。22日に自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)にも敗れ、ソフトバンクの優勝が決まると前年に引き続き目の前の優勝を決められた。ソフトバンクに対しては10月9日までは11勝5敗1分だったが、10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、対ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。11月に入ると、西武との2位争いとなり、一時的に3位に転落するが、11月8日に西武との直接対決を制し、2007年以来13年ぶりに2位となり、CS進出が確定した。4年振りの出場となったCSではエラーをきっかけに流れを掴まれソフトバンクの前に2連敗を喫し、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたため、敗退した。

12月、庄司こなつの退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも(現・坂井美萌々)、3人が揃って退団した。一方、24日にアデイニー・エチェバリアを獲得。

2021年

1月15日、清田が前年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明したため、清田を無期限謹慎(無期限活動停止)とし、球団本部長の松本尚樹に厳重注意したことを発表した[96]。清田は5月1日に無期限謹慎処分が解除となったが、解除後に再び球団ルールに反する行動を行っていたことが判明したため、「度重なる不適切な行動及びチームに対する背信行為」を理由として、5月23日付けで清田との契約を解除した[97](詳細については、清田育宏の項目を参照されたい)。

開幕5連敗でスタートダッシュには失敗したものの、それ以降は持ち直した。しかし、交流戦では苦戦して負け越し、6月14日から16日にかけてDeNAから有吉優樹とのトレードで国吉佑樹、中日から加藤翔平とのトレードで加藤匠馬、元中日のエンニー・ロメロを相次いで獲得。8月31日に千葉移転後の主催試合で通算1000勝を達成。9月5日の日本ハム戦に勝利し、オリックスが敗れたため、シーズン初の首位に立ち[98]、8日の対オリックス18回戦(ほっともっとフィールド神戸)で7回裏にマーティンがオリックスの吉田凌から3ランホームランを放ち、通算8000本塁打を達成した。10月14日に首位・オリックスとの直接対決に勝利して残り試合数の関係上、2位でありながら優勝した1970年以来51年振りとなるマジックナンバーが点灯したが、27日のビジターでの対楽天戦(仙台)に1-2で敗れたため、オリックスが1996年以来25年振りのリーグ優勝を果たしたことにより、ロッテはパ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む7球団の中で「21世紀に年間勝率1位によるリーグ優勝をしていない最後の球団」となった。また、同時に2005年のプレーオフの有無に問わず、同6球団の中で「最もリーグ優勝から遠のいている球団」となった。

クライマックスシリーズファーストステージでは、本拠地のZOZOマリンスタジアムで3位の楽天と対戦、第1戦では8回裏2死からエチェバリアが松井裕樹から同点のソロ本塁打を放ち、9回裏には1死2塁から佐藤都志也がクローザーの宋家豪からサヨナラ適時打を放って試合を決めると、2015年のファイナルステージ第1戦から続いたポストシーズンでの連敗を7で止めた。続く第2戦は2回表に炭谷銀仁朗山崎剛に2点適時打を打たれ先制されたが、その裏に無死1,3塁から岡の併殺打の間に1点を返すと、4回裏に1死1塁から山口の時打で同点とする。更に6回裏には山口のソロ本塁打で勝ち越した。直後の7回表、炭谷にソロ本塁打、島内宏明に適時打を打たれ逆転されるがその裏、主砲のマーティンが酒居知史からソロ本塁打を放って同点とし、その後は両者無得点で同点のまま9回表が終了した。この時点で前日に勝利したため、ファイナルステージ進出を決めた。なお、大会ルールにより、9回裏の攻撃を行わず試合は引き分けとなった。

迎えたオリックスとのファイナルステージでは第1戦で山本由伸、第2戦で田嶋大樹に完封負けし、後のない第3戦では3回表に中村奨の犠飛で先制した。先発の岩下は6回裏、宗佑磨に逆転の2点本塁打を打たれたものの、7回表、二死二塁で佐藤都の適時打で同点とすると、さらに8回表には一死から中村奨がソロ本塁打を放って逆転に成功した。しかし9回裏、クローザーの益田が無死1,2塁のピンチを迎えると、続く小田裕也に同点のタイムリーを打たれ、この時点ですでに3勝しているオリックスの25年ぶりの日本シリーズ進出が決定したため、2年連続でファイナルステージ敗退となった。タイロン・ゲレーロを獲得した。

2022年

4月10日、対オリックス・バファローズの試合で投手の佐々木朗希21世紀初・令和初の完全試合を達成した。13連続奪三振で日本記録をマークし、19回奪三振で日本記録タイに並んだ。通算14試合目の登板(史上最速)、20歳5ヶ月(NPB史上最年少記録)、プロ初完投・初完封だった試合が完全試合(史上初)など、様々な記録が残った。


  1. ^ 日付はシーズン途中で就任した場合のみ記載。
  2. ^ 日付はシーズン途中で退任した場合のみ記載(休養は含まない)。その他は原則として年度末退任。
  3. ^ 登録上は総監督。1952年は平和台事件の責任を取り辞任。
  4. ^ 登録上は1950年 - 1952年も監督だが、実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。1952年は平和台事件の責任を取り、湯浅と共に7月27日までで辞任。
  5. ^ 1965年は6月17日から7月1日まで病気休養。その間は濃人渉が代行。
  6. ^ 1967年は6月20日から7月31日まで休養。その間は濃人渉が代行。その後、8月14日に解任。
  7. ^ 1971年は7月13日の放棄試合の責任を問われ、7月23日に二軍監督に降格。
  8. ^ 1975年は4月23日から5月5日まで病気療養。その間高木公男が代行。
  9. ^ 1990年は6月24日から30日間の出場停止処分を受けたため、その間は徳武定之が代行。
  10. ^ 1994年は8月2日から休養、残り試合は中西太が代行。
  11. ^ 1996年は8月23日から25日まで病気療養、その間は江藤省三が代行。
  12. ^ レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位。
  13. ^ 優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。

注釈

  1. ^ ただし、2010年はクライマックスシリーズを優勝して年間勝率3位から日本一になっており、日本一から最も長く遠ざかっているのは広島東洋カープで、最後の日本一は1984年まで遡る。
  2. ^ 一部の資料[要出典]では「株式会社大映毎日球団」とする記述もある。
  3. ^ 毎日新聞社がオリオンズの経営から手を引いたのち、元毎日新聞社社長の小池唯夫がパ・リーグ会長を務めた時期がある。
  4. ^ 本塁打95本、被本塁打76本。
  5. ^ ただし、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年に優勝はしており、優勝から最も長く遠ざかっているのは横浜DeNAベイスターズで、最後の優勝は横浜ベイスターズ時代の1998年まで遡る。
  6. ^ 球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては2001年の横浜ベイスターズが挙げられる(球団をマルハからTBSに譲渡した時、連盟登記の球団名やユニフォームなどは全て従来のままとした)。
  7. ^ 他に有藤通世27本、江藤愼一25本、アルト・ロペス24本、山崎裕之21本。
  8. ^ 野球協約が制定される以前は、阪神電気鉄道東京ジャイアンツの株式、読売新聞社大阪タイガースの株式を、互いに持ち合った事例がある。
  9. ^ ただし、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年に優勝はしており、優勝から最も長く遠ざかっているのは横浜DeNAベイスターズで、最後の優勝は横浜ベイスターズ時代の1998年まで遡る。
  10. ^ 大洋時代の1961年から横浜時代の1997年まで。
  11. ^ その後、1998年に現在の球団寮が竣工した。
  12. ^ その後、ホールは中日ドラゴンズに移籍するも、両膝を故障した影響で途中退団。
  13. ^ イチローオリックス・ブルーウェーブ)、田中幸雄日本ハムファイターズ)と3人並んで80打点のタイ記録。
  14. ^ プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた。
  15. ^ この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れたことになる。
  16. ^ 同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の南海ホークス以来である。
  17. ^ パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。
  18. ^ 開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。
  19. ^ ただし、2010年も引き続き使用されていた応援歌やテーマも2011年以降は長らく採用されず、2016年には復活させる試みもあったものの、外野応援団・MVPのメンバーから抗議を受け、取り止めになっている。
  20. ^ 当時は前後期の首位同士のプレーオフの結果で優勝チームを決定しており、1973年のプレーオフに勝利した南海はシーズン3位扱いではなく、リーグ優勝扱いであった点が異なる。シーズン3位として日本シリーズに進出したのは2010年ロッテが初。
  21. ^ シーズンの通期勝率が2位以下で日本一となった例は1975年の阪急、1982年の西武、2005年のロッテがあるが、各当時のルールでは全てリーグ優勝の扱いとなっていた。
  22. ^ セ・リーグでは2007年の中日が2位から日本一となっている。
  23. ^ 本来は3月25日のKスタ宮城での楽天戦だった。
  24. ^ これまでの記録は1958年の435。
  25. ^ 同年は近鉄が27本、中西太(西鉄)31本、山内和弘(毎日)28本。
  26. ^ 巨人時代の登録名は本名の大村三郎。
  27. ^ ただし、平成17年(2005年)では第2位の状態でプレーオフを制してリーグ優勝し、そのまま日本一となっている。
  28. ^ 後にサッカーJリーグ清水エスパルスの社長職に就くことが発表された[85]
  29. ^ 年間最高勝率はプレーオフを制した2005年を除く4回。
  30. ^ アジアシリーズの振り替え大会。
  31. ^ 2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1978年・1980年・1984年の15分が最多。
  32. ^ 1年を通してレギュラーシーズン1位の状態で日本一。
  33. ^ 2010年のこと。
  34. ^ 2018年と2019年に日本一になったソフトバンクはこの両年はいずれもリーグ2位から日本シリーズに進出し、日本一を達成している。
  35. ^ 因みに、消滅した9球団で全球団に負け越したシーズンの経験がある球団は、松竹ロビンス大和軍大阪近鉄バファローズ高橋ユニオンズ大映ユニオンズの5球団である。
  36. ^ 18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが阪急西宮球場本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグではヤクルトが1989年まで神宮での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、横浜ベイスターズも2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった。
  37. ^ 平日のナイターで開始を15分ずれこませているのは、当初の18時開始では仕事終了後だと「試合開始に間に合わない」、18時30分開始では「帰宅時間が遅れる」という苦情が出たことや、駅からやや時間がかかるためでもある。
  38. ^ 2013年からはペナントレース期間中に球団のラッピング電車を独自に運行している[122][123][124][125]
  39. ^ 日本のプロ野球チーム関係者に対する禁煙対策は、ロッテ以外では横浜DeNAベイスターズが2012年以降の新人選手に入団から2年間の禁煙を義務づけた例がある。
  40. ^ このときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。
  41. ^ この年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。
  42. ^ また小宮山は、最終的な選考結果は選手にもまったく知らされず、知ったのはお披露目記者発表の時が初めてだったと語っている。
  43. ^ このデザインのホーム用ユニフォームは2021年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2021年で使用27シーズン目となり、1973年から1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている(ただし提供メーカー・素材・背番号および胸番号のフォントなどの細かいマイナーチェンジは行われている)。
  44. ^ 両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。
  45. ^ 2015年1月に千葉ロッテの本拠地と同じ幕張新都心に本社があるイオンの傘下となった。
  46. ^ ロッテはこの他、東京ドームで開催された2010年4月20日の同4回戦でも2-8で敗れている。
  47. ^ なお同様例は巨人と西武(ドームを本拠としているため、天然光だけではボールが見えにくいなどにより開催が困難なため、主管開催の会場変更・開催日程の変更などが生じた)を除く他の在関東球団のホームスタジアムにおける主管試合でも行われた。
  48. ^ 震災前にも、消化試合の日程の関係で、ダブルヘッダーを含めたデーゲームとなった試合が数例ある。
  49. ^ 但し楽天の場合、仙台では春先でも夜間は冷えるため開幕当初の平日ナイターは極力避けたいという事情の方が大きい。なお、2015年はこれとは別に、コボスタ花火大会を行うため1試合だけ16時開始の試合を組んでいたが、試合が長引いたため花火大会は後日延期となった。また2016年度は開幕戦・3月25日のソフトバンク戦を16時、4月1日の西武戦を13時開始に設定した。
  50. ^ 日本ハムは現在は週末・休日は札幌ドームでの開催を優先していることもあり、地方開催のうち道内にある釧路帯広函館での主催試合は球場に照明設備がないこともあり平日デーゲームで開催している。また、西武もファンサービスで4月に平日デーゲームを実施するようになった。
  51. ^ そのため、球団は親会社から毎年「広告宣伝費」名目で赤字を補填してもらっていた。プロ野球球団は社会の公器でもあることから、親会社としては保有する球団が自社の宣伝媒体と認められれば、球団の赤字を補填する金額分は非課税扱いとされるなど税制上の優遇措置が受けられる[160]
  52. ^ a b CBCラジオに加えて、東海ラジオ「東海ラジオ ガッツナイター」も金 - 日曜日に自社乗り込みを行う場合は、土・日曜でも金曜日に合わせてCBCラジオが文化放送への、ニッポン放送が東海ラジオへの技術協力を行うことが多い。
  53. ^ 編成上の都合により録画放送となり、生放送についてはスカチャンで迂回放送することがある。
  54. ^ 1970年から1972年まで日本テレビで解説者を務めた金田正一がロッテの監督に就任した1973年以降は、週末デーゲームを中心に中継を増加させ、時折全国中継も実施したが、千葉移転以後徐々に減少し、2010年代以降はビジター側地元系列局への技術協力による放送のみとなっていた。
  55. ^ 不定期。テレビ神奈川が担当する大洋(DeNA)、ヤクルトの試合放送がない時に行っていたが、巨人主催試合との重複開催である場合、18時台と21時前からは日本テレビとのリレーナイターをしていたため、ネット局があればその時間は裏送りだった。
  56. ^ テレビ埼玉は基本的に西武に絡む試合(西武主管はTBSビジョンとの提携で「TVSライオンズアワー」として放送)、または後楽園・東京ドームで行われた日本ハムの主管試合(東京ケーブルネットワークと提携)をメインとして編成したため、ロッテがビジター扱いとなる西武・日本ハム主催試合の中継で多数登場しているが、西武・日本ハムの試合中継がないか、どちらかがロッテとのビジターゲームとなり、かつテレビ神奈川が大洋・ヤクルトの試合中継と重複して放送に空きがなかった時に、テレビ埼玉が川崎球場や平和台球場などの地方球場に乗り込んで試合を放送した事例が何度かあった。
  57. ^ なお、文化放送ライオンズナイターでの対千葉ロッテマリーンズ戦中継時のベンチサイドリポーターにマリーンズ熱血応援レポーターかわのをとや起用は継続している。

出典

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  5. ^ 井上章一 2001, p. 163および永井良和 & 橋爪紳也 2003, p. 155。
  6. ^ 井上章一 2001, p. 166および永井良和 & 橋爪紳也 2003, p. 155。
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