北の湖敏満 エピソード

北の湖敏満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 06:24 UTC 版)

エピソード

中学卒業まで

  • 小学6年生で既に三保ヶ関が目を付け、「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイスした。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたために学業が完全に疎かになったことで両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという[9][79]。文献によっては、各相撲部屋のスカウトたちが北の湖の家に大勢押しかけ、玄関先で喧嘩を始めるほどの争奪合戦を演じたため入門を早めたとある。
  • 入門時にちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったほどの並外れた大食漢であった。その大食漢ぶりによって入門から新弟子検査に至るまでの3週間で20kgの増量を果たした。本人はこの時の様子について「普通は相撲部屋に来たら、生活環境が変わったせいで痩せるものだけど、私の場合、まだ13歳ですから。周りの様子もよくわからなくて、たぶん神経を使わなかったんだろうと思いますね」と振り返っている[4]。また高見山の著書によると両国中学時代の北の湖は1限目に部屋から渡された弁当を間食し、2限目以降は同級生から強引な形で次々と弁当を貰い受けて食べていたという。[80]ただ、横綱になる頃には食事量は少なくなり、米をどんぶり3杯程度にとどめていた。
  • 壮瞥中学時代は元教諭の証言によると成績は普通であり、社会科が得意であったという[9]。両国中学時代は三保ヶ関部屋から学校に通っていたが、部屋での稽古の疲れから授業中は居眠りばかりしていたため、体育以外の成績は全て1であった。学校の教師も北の湖の生活事情を承知しており、彼の居眠りを咎めることはなかったという。もとより相撲一筋の北の湖は高校を受験する予定もなかったため、教師の一人は「きみは数学や英語はやらなくていいから、その分、文学作品でも読んでいなさい」とも言っていたという[9]。北の湖自身も「勉強がいやでいやでたまらず、エンピツなどはいつも隣のやつのをゴッツァーン。楽しかったのは弁当を食うときだけで、試験なんかは全然できなかった」[81]と現役時代に語っている。しかし、こと相撲に関しては非常に頭脳明晰だったと言われ、後述の通り現役中の自身の取組に関するデータは生涯にわたって完全に記憶していた。
  • 入門当時、北の湖の他にも中学校在学中に入門し、学校に通いながら土俵に上がる力士は多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため特に話題になったとも言われる。当の北の湖本人は三保ヶ関から「中学は義務教育だからしっかり通いなさい」と言われて通学を怠らずに大相撲生活を送っていたが[7]1971年11月場所中に日本相撲協会へ正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、入門条件に「中学卒業 (義務教育終了) 後でなければ入門できない」という条項を加えた。場所後には中学生力士の採用禁止を正式決定している。ちなみに北の湖以降も、後の琴風が中学在学中から土俵に上がっている[82]

現役時代

  • 現役時代には持ち前の豪快さが時に荒唐無稽な逸話になって現れることがあった。週刊誌に「18歳でホステスを口説いた」と書き立てられたのはその好例である。しかし本人は『相撲』1974年9月号(新横綱特集号)でその手のエピソードについて「バッカみたい!」と完全否定している。
  • 前述の通り非常に頭脳明晰で、現役時代の自身の取組の内容は全て完全に記憶しており、親方になってからもメモや対戦表などを一切見ることなく、現役時代の取組について「昭和〇〇年〇場所の〇日目は〇〇と対戦して、〇〇の決まり手で勝った (負けた) 」などと詳細に説明してみせ、周囲を驚かせていた。携帯電話の電話帳登録も0件であり、着信画面に出た下4ケタを見ただけで、相手が誰か分かったという[注釈 7]その驚異的な頭脳と桁外れのパワーゆえに、現役時代には田中角栄と同じく「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたこともあった。[要出典]
  • 大の酒好きであり、アイスペールウイスキーブランデーを注いで仲間たちと回し飲みすることが好きであった。当時の角界の風潮があったにせよ未成年飲酒をしていたとも伝わっており、成人の日に感想を聞かれて「俺、今日から酒を止める」と話したという逸話は有名である。横綱昇進時の横審で「うわさ」程度ながら「大酒を飲まず体に気を付けるということ」との意見が出た[21]ことについて北の湖は昇進直後の会見で「最近はあまり飲まない」[22]と答えている。親方時代にも「付け人の大露羅と共に2人で5升の焼酎を飲み干した」というエピソードを残している[83]。ただし、晩年は持病もあって体調に気を遣っていたため、若い頃より酒量は大幅に減少していた[84]
  • 石立鉄男は人気力士を容赦なく吹っ飛ばす北の湖が嫌いだった。そんなある時、石立は酒場に入ると北の湖がたまたまいるのに気づき、そこで北の湖に散々悪口を言って挑発した。北の湖は黙って聞いていたが、拳を握りしめて肩を震わせながら涙を流していた。石立は己の浅薄さ恥じ、北の湖に謝罪し、以後ずっと尊敬し私淑し続けたという。[要出典]

横綱時代

  • 好物は魚、嫌いな食べ物はマヨネーズジャガイモと話していた[85]
  • 横綱昇進直後のインタビューでは、「犬のスピッツトカゲの尻尾、歌を歌うこと、注射が嫌い」と答えていた。歌に関しては、「歌うぐらいなら稽古していた方が良い」と話していた。犬に関しては、子供の頃スピッツと喧嘩してドブに落ちた経験があると明かしている[10]
  • 角界では珍しくゴルフが嫌いであり、輪島のゴルフ好きとは好対照をなしていた。本人いわく「やらないです。太鼓腹を突き出して、耳かきみたいな棒を振ってもしょうがないもんね(笑)」[10]
  • 体が丈夫であり、医者嫌いでもあった。横綱時代のある時、金城との三番稽古で左アキレス腱を痛め、付け人が心配すると「医者? こんなの怪我のうちに入らん。お前、ちょっともんでおけ」と言った[73]
  • 現役終盤に引き際を疑問視されていた中、逆鉾は記者に「どうして記者さんたちは往生際が悪いとか書くの。あれだけの横綱なんだよ。引き際ぐらい好きなようにさせてあげなよ」と抗議し、北の湖を擁護した[86]

人格者として

  • 公私の区別を大切にして一生懸命精進する力士を思いやる性格から、夫人には結婚の際に「力士はウチの使用人じゃないんだから、彼らを私用で使うことは絶対にダメ」と厳しく言い渡したという[87]
  • 北の湖は「絶対するな!」「殴って覚えさせるなんて、人間は犬猫じゃないんだよ」と暴力を嫌っており、北斗龍自身、師匠に殴られたことは一度もないという[88]
  • 相撲案内所・高砂家のおかみによれば、その人柄から北の湖への恨み言を言う弟子はいなかった。相撲は力士の世界であるという教えをうけ、夫人はほとんど公の場にでることはなかったが、協会葬の見送りが終わった際に「親方ったら、私が一番苦手なことを、一番最後にやらせるなんてね」と早すぎる死を残念がっていたという[87]

素朴なおとぼけキャラ

  • 横綱昇進当時、「双葉山」から連想するものは?と聞かれて「知らないから別に……」と答えた[85]
  • 『相撲』1975年10月号では、同年9月場所中に行われたファンとの座談会で「昔、ミラーマンを観てた」「少女フレンドマーガレットをよく読む」「横綱会に出ると何か歌えと言われるが、歌は苦手なので代わりに手品披露しようと思って練習したが失敗した」などと話した様子が収録されている。

小市民な面

  • 現役時代のある時、兄弟子に指示されて夜中に部屋の近くで騒いでいる酔っ払いを叱るように言われたが、相手の酔っ払いに凄まれて慌てて部屋に逃げ、そのままガタガタ震えてしまっていた。部屋の力士達は北の湖の意外な気の小ささに大笑いであった[89]
  • 自身が乗っていた車がスピード違反で警察に捕まった際、ペコペコ頭を下げながら「私達は相撲以外に何も分からないデブなので、ひとつよろしく」とへりくだり、担当警察官に許しを貰った。

親方時代から没後

  • 親方時代は面倒見が良く人望に厚い人物として有名であり、目線を下げることができず支援する親方も少なかった13代九重とは対照的であった[90]
  • 1990年の新弟子検査の身長測定の際、頭皮を切ってシリコンを埋め込んだ処置痕の激痛で泣いていた舞の海に気付き、そっと「もう少しの辛抱だからな」とつぶやいた。痛みを慮るようにカーソルを浮かせて測定をしたという[91]
  • 物欲が無い人物でもあり、ある時仕事で使う300万円を100万円ずつ輪ゴムで留めてコンビニのレジ袋に入れて持ち歩いた。
  • 2017年3月場所に引退した北斗龍は、師匠の北の湖に湯豆腐冷やし中華をよく作っていたと話している[92]
  • ライバルだった輪島がトラブルを起こした後は疎遠になっていたが、その後再会した後は相撲から心が離れてほしくないという意味を込めて毎場所ごとに輪島に番付表と取組表を送り続け、また受け取った輪島もそれを全て大事に保管しておいたという[93]
  • 自らが育った三保ヶ関部屋が大坂相撲の系統を引く部屋であったこともあり、北の湖部屋の師匠になった後には初代から3代目までの年寄・三保ヶ関の墓所がある成恩寺大阪市生野区)を毎年三月の大阪場所の際には長年宿舎として使用していた[注釈 8]ほか、成恩寺の相撲力士墓への供養及び墓参を続けていた[94][95]。没後、成恩寺には『北の湖敏満慰霊碑』が建立され、2016年3月に除幕式が執り行われた[96]
  • 同部屋の同期生であった増位山太志郎(元大関、10代三保ヶ関)は北の湖の訃報をコンサートに出演のため訪れていた長野県内で知り、終演後にインタビューに応じている。「想像もしていなかっただけに、大変ショックというか驚いています…」と絶句し、病気で手術を受けていることは知っていたが「でも、理事長は絶対に弱みを見せない人だったから、公にはしなかったんです」と明かしている[97]
  • 北の湖の遺体は、夫人の意向で東京へ陸送する際に本場所中の福岡国際センターに立ち寄り、本場所への影響を最小限にするため密葬となった[98]。大きな身体であったため収骨には骨壺2個が必要であったという。北の湖の遺骨は、部屋を継承した20代山響により稽古場の上がり座敷のいつも座っていた定位置の奥に祭壇が設けられて安置された。定位置には座布団と新聞が置かれ、20代山響は「尻を向けるのは失礼」と別の位置から若手の稽古を見守った[99][100]

注釈

  1. ^ 歴代横綱で、幕下以下の各段で全敗を経験した力士は、2022年現在まで北の湖ただ一人である。
  2. ^ 十両以下の優勝経験がない横綱は、玉錦双葉山栃錦に次いで4人目、のちにが達成。
  3. ^ 1981年11月場所を休場した後に受けた朝日新聞のインタビューでは1年ほど前から膝、首、腰の具合が良くなかったことが明かされた。
  4. ^ ただし臥牙丸は2010年5月に閉鎖された木瀬部屋からの預かり弟子で、2012年4月に同部屋が再興されると同時に北の湖部屋を離れている。
  5. ^ この1998年改選では、初めての理事選挙が行われた後の理事長互選で、時津風とともに候補として擁立され5対5の同票であり、2度3度の投票でも決着がつかなかったが、最後は北の湖がこっそりと時津風に投票する形で辞退して決着した。
  6. ^ 休場は重圧から逃げることだという北の湖自身の考えから公傷制度は廃止された。
  7. ^ 【元番記者が語る北の湖理事長】(9)抜群の記憶力「現役時代の相撲は、全部覚えている」 2015年12月1日11時0分 スポーツ報知
  8. ^ 現在は北の湖部屋の後を引き継いだ山響部屋が宿舎としている。
  9. ^ 白鵬はその後、2010年3月 - 2011年1月場所の6場所にかけて88勝まで更新した。
  10. ^ a b 輪島と優勝決定戦
  11. ^ 魁傑と優勝決定戦
  12. ^ a b 貴ノ花と優勝決定戦
  13. ^ a b 若三杉(のち2代・若乃花)と優勝決定戦
  14. ^ 千代の富士と優勝決定戦
  15. ^ 右膝変形性関節症により9日目から途中休場
  16. ^ 左足首関節捻挫により13日目から途中休場
  17. ^ 左膝外側側副靱帯損傷により12日目から途中休場
  18. ^ 腰部及び左膝関節捻挫により9日目から途中休場
  19. ^ 慢性腰痛・左膝外側側副靱帯損傷により全休
  20. ^ 腰部捻挫により全休
  21. ^ 椎間板ヘルニア・左膝関節負傷により全休
  22. ^ 右下腿筋損傷により5日目から途中休場
  23. ^ 頸椎捻挫により3日目から途中休場
  24. ^ 腰椎分離症により7日目から途中休場

出典

  1. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  2. ^ a b “北の湖理事長が死去、62歳 元横綱・優勝24度”. 朝日新聞デジタル. (2015年11月20日). http://www.asahi.com/articles/ASHCN5441HCNUTQP018.html 2015年11月20日閲覧。 [リンク切れ]
  3. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年12月号68頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 光文社
  5. ^ 「朝日新聞」2008年9月7日付「天声人語」. 朝日新聞社. 2008年09月08日
  6. ^ a b c d 1995年7月24日付日刊スポーツ
  7. ^ a b c d e f g ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』4ページから7頁
  8. ^ 【元番記者が語る北の湖理事長】(4)数々の偉業の原点は13歳でもらった母からの言葉 2015年11月26日11時0分 スポーツ報知
  9. ^ a b c d 『相撲』(別冊師走号)37ページ
  10. ^ a b c 『相撲』(別冊師走号)38ページ
  11. ^ 『北の湖敏満追悼号』「北の湖敏満物語」 (相撲2015年1月号増刊) 4頁 ベースボールマガジン社 2015年12月
  12. ^ 1967年9月場所の番付で北乃湖と誤記されたことはあった。
  13. ^ 『相撲』(別冊師走号)p84
  14. ^ 「『湖』を『うみ』と読ましてもええんか」師匠の思いと弟子の力で読ませるしこ名(1/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2023/09/08 06:00 (2023年10月15日閲覧)
  15. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)36ページ
  16. ^ 芸能界の “最強スー女” が語る「令和の相撲界」談義に友綱親方が参戦!(1/4ページ) 週刊女性PRIME (週刊女性2019年5月21・28日号より)2019/5/11(主婦と生活社、2019年5月12日閲覧)
  17. ^ 『相撲』(別冊師走号)52ページ
  18. ^ 『相撲』(別冊師走号)53ページ
  19. ^ 朝日新聞1974年1月23日付夕刊社会面
  20. ^ 朝日新聞1974年7月22日付朝刊スポーツ面
  21. ^ a b 朝日新聞1974年7月23日付朝刊総合面
  22. ^ a b 朝日新聞1974年7月24日付夕刊社会面
  23. ^ 大関昇進時の口上は「謹んでお受けします。名誉ある地位を汚さぬよう努力いたします」(朝日新聞1974年1月23日付夕刊社会面)であり、ほぼ同一の口上であった。
  24. ^ 「おめでとう北の湖君」朝日新聞1974年7月23日付朝刊スポーツ面
  25. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p47
  26. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号13ページ
    報知新聞 1974年7月21日1面などを孫引き
  27. ^ 朝日新聞1974年7月26日付夕刊社会面
  28. ^ 『相撲』(別冊師走号)34ページ
  29. ^ 『相撲』(別冊師走号)35ページ
  30. ^ 塩澤実信 p119
  31. ^ 『相撲』2018年3月号 p.114-115
  32. ^ “北の湖理事長 負けた相手に手を差し伸べなかった理由とは…”. スポニチ Sponichi Annex. (2015年11月21日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/11/21/kiji/K20151121011548030.html 
  33. ^ 「江川ピーマン北の湖」強すぎで揶揄 - 日刊スポーツ2015年11月21日
  34. ^ 『相撲』(別冊師走号)47ページ
  35. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)48ページ
  36. ^ 北の湖の大関昇進直後は「輪北時代」の表記も見られた(朝日新聞1974年1月24日付朝刊スポーツ面)
  37. ^ 『相撲』(別冊師走号)55ページ
  38. ^ a b 評伝:北の湖・日本相撲協会理事長死去 「師匠は親以上」筋通し 毎日新聞 2015年11月21日付
  39. ^ 若林哲治の土俵百景 時事通信
  40. ^ 新入幕明瀬山「相撲で恩返ししたい」 デイリースポーツ 2016年2月29日
  41. ^ 德勝龍の相撲人生を変えた大横綱・北の湖親方からの助言(1/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2020/01/23 06:00(2020年1月23日閲覧)
  42. ^ 德勝龍の相撲人生を変えた大横綱・北の湖親方からの助言(2/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2020/01/23 06:00(2020年1月23日閲覧)
  43. ^ 北の湖理事長が還暦土俵入り 28年ぶり雲竜型で決意新た スポニチアネックス 2013年6月9日閲覧
  44. ^ 北の湖が還暦土俵入り 理事長在任中では25年ぶり 日本経済新聞 2013年6月10日閲覧
  45. ^ 『週刊朝日』2012年9月7日号
  46. ^ 還暦土俵入り|バース・デイ|TVでた蔵
  47. ^ 【発馬SHよ】北の湖理事長、腸閉塞で休場 8日目復帰予定
  48. ^ 北の湖理事長が職務復帰 msn産経ニュース 2014.1.21 21:04
  49. ^ 北の湖理事長、復帰できないワケ 大腸ポリープ手術 ZAKZAK 2014.01.18
  50. ^ 【初場所】九重部長、賜杯授与で代役務める 2014年1月26日21時22分 スポーツ報知
  51. ^ 北の湖理事長再任を決定 相撲協会 日本経済新聞 2014/3/25付
  52. ^ 北の湖理事長が新法人初代理事長へ nikkansports.com 2014年1月31日20時40分
  53. ^ a b c 『大相撲ジャーナル』2014年4月号20頁から21頁
  54. ^ 休場中の北の湖理事長、病名は「両側水腎症」 日刊スポーツ 2015年7月21日
  55. ^ 両側水腎症手術 北の湖理事長が協会業務に復帰 スポニチ 2015年8月9日
  56. ^ 大相撲もう一つ心配のタネ 続く北の湖理事長の体調不良…ZAKZAK 2015年9月15日
  57. ^ 北の湖理事長土俵際 ファンの前に出られず4カ月「腰が痛くて歩くのも大変」ZAKZAK 2015年11月10日
  58. ^ 白鵬「猫だまし」連発に北の湖理事長「ありえない」 日刊スポーツ 2015年11月18日9時15分 紙面から
  59. ^ 北の湖理事長が休場 持病の貧血で入院 日本経済新聞 2015年11月20日
  60. ^ 北の湖・日本相撲協会理事長が死去…直腸がん (読売オンライン 2015年11月20日 20時56分)
  61. ^ 北の湖理事長が死去、62歳 直腸がん多臓器不全 優勝24回で一時代 スポニチアネックス 2015年11月20日20時28分
  62. ^ 2015年11月21日、朝日・読売・毎日・日経・産経朝刊
  63. ^ 2015年11月21日スポーツ報知朝刊
  64. ^ 相撲協会、理事長代行は八角親方 日刊スポーツ 2015年11月20日閲覧
  65. ^ 日本相撲協会新理事長に八角親方 任期は来年3月まで 朝日新聞 2015年12月18日閲覧
  66. ^ 北の湖理事長に従四位、旭日重光章授与 政府が閣議決定 スポーツニッポン 2015年12月19日閲覧
  67. ^ 北の湖さん協会葬、鈴木大地長官ら2500人が参列 日刊スポーツ 2015年11月21日閲覧
  68. ^ “北の湖前理事長一周忌、10月2日に川崎大師で 三回忌には銅像建立も”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2016年9月8日). https://web.archive.org/web/20160910140759/http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20160908-OHT1T50026.html 2016年11月4日閲覧。 
  69. ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.107.
  70. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p104
  71. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P187
  72. ^ 【元番記者が語る北の湖理事長】(18)解析不能だった朝潮には大きく負け越し 2015年12月10日11時0分 スポーツ報知
  73. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)51ページ
  74. ^ 株式会社日本文芸社発行『大相撲歴史新聞』114頁
  75. ^ 株式会社日本文芸社発行『大相撲歴史新聞』156頁
  76. ^ 『相撲』2013年12月号56頁
  77. ^ 【復刻版】北の湖VS長島茂雄BIG対談…北の湖さん一周忌追悼2016年11月18日12時0分 スポーツ報知より孫引き
  78. ^ 株式会社日本文芸社発行『大相撲歴史新聞』109頁
  79. ^ 朝日新聞1974年1月21日付朝刊スポーツ面
  80. ^ 高見山大五郎著、虫明亜呂無翻訳『わしの相撲人生』朝日イブニングニュース社
  81. ^ 朝日新聞1974年7月21日付朝刊スポーツ面
  82. ^ 「大相撲 記録の玉手箱」内「今日は何の日?-12月4日」
  83. ^ 1年で100キロも減量 歴代最重量、元力士の極意とは 朝日新聞DIGITAL (文・波戸健一、鈴木健輔)2020年5月31日 1時14分
  84. ^ 大相撲酒豪番付2014年東銀座場所 時事ドットコム
  85. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)39ページ
  86. ^ いたずらっぽく動いた逆鉾の目=新時代を彩った技と個性-故・井筒親方 JIJI.COM 2019年09月17日13時33分(2019年9月20日閲覧)
  87. ^ a b 【私の“奇跡の一枚” 連載50】 値千金!『相撲人』の笑顔 男の本当の強さと優しさとは ベースボールマガジン社 2020-01-07(『相撲』平成28年2月号より、2020年1月7日閲覧)
  88. ^ 角界一の料理の腕を持つといわれた元・北斗龍「料理の土俵で横綱を目指す」”. 週刊女性PRIME(2017年6月18日). 2021年8月1日閲覧。
  89. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p54
  90. ^ 九重親方の一面、弟子と交換日記に絵文字入りメール 九重親方の一面、弟子と交換日記に絵文字入りメール 2016年12月22日12時56分 (2021年4月17日閲覧)
  91. ^ 涙を流す舞の海に励まし 北の湖理事長の“神対応” 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット) (2015年12月3日). 2021年7月17日閲覧。
  92. ^ 現役最古参46歳力士引退、料理の「腕は相撲界一」序ノ口・北斗龍が勝ち越しで土俵に別れ : スポーツ報知”. web.archive.org (2017年3月24日). 2021年7月17日閲覧。
  93. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2015年11月21日). “通算21勝23敗…北の湖理事長、輪島と築いた『輪湖時代』”. サンスポ. 2021年7月17日閲覧。
  94. ^ 〈北の湖部屋〉 日本相撲協会公式Twitter 2015年3月4日付
  95. ^ “定宿の成恩寺住職「生真面目な紳士だった」北の湖偲ぶ”. 朝日新聞. (2015年11月21日). http://www.asahi.com/articles/ASHCP3332HCPPTIL00B.html 2016年3月20日閲覧。 
  96. ^ “北の湖前理事長の慰霊碑除幕式 雲竜型の綱と土俵入り写真を装備”. スポーツ報知. (2016年3月20日). https://web.archive.org/web/20160321094723/http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20160320-OHT1T50147.html 2016年3月20日閲覧。 
  97. ^ 北の湖さん同期増位山「腫瘍知っていた」が公にせず - おくやみ : 日刊スポーツ”. nikkansports.com(2015年11月21日). 2021年7月17日閲覧。
  98. ^ “北の湖さんの遺言は土俵最優先、通常通りVパレード”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2015年11月22日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1569485.html 2015年12月20日閲覧。 
  99. ^ “山響部屋が初稽古 北の湖理事長の遺影を前に”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2015年12月7日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1576297.html 2015年12月20日閲覧。 
  100. ^ “北の湖親方の遺影の前で山響部屋が始動”. 日刊スポーツ (nikkansports.com). (2015年12月8日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1576560.html 2015年12月20日閲覧。 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北の湖敏満」の関連用語

北の湖敏満のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北の湖敏満のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北の湖敏満 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS