北の湖敏満
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エピソード
中学卒業まで
- 小学6年生で既に三保ヶ関が目を付け、「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイスした。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたために学業が完全に疎かになったことで両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという[9][79]。文献によっては、各相撲部屋のスカウトたちが北の湖の家に大勢押しかけ、玄関先で喧嘩を始めるほどの争奪合戦を演じたため入門を早めたとある。
- 入門時にちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったほどの並外れた大食漢であった。その大食漢ぶりによって入門から新弟子検査に至るまでの3週間で20kgの増量を果たした。本人はこの時の様子について「普通は相撲部屋に来たら、生活環境が変わったせいで痩せるものだけど、私の場合、まだ13歳ですから。周りの様子もよくわからなくて、たぶん神経を使わなかったんだろうと思いますね」と振り返っている[4]。また高見山の著書によると両国中学時代の北の湖は1限目に部屋から渡された弁当を間食し、2限目以降は同級生から強引な形で次々と弁当を貰い受けて食べていたという。[80]ただ、横綱になる頃には食事量は少なくなり、米をどんぶり3杯程度にとどめていた。
- 壮瞥中学時代は元教諭の証言によると成績は普通であり、社会科が得意であったという[9]。両国中学時代は三保ヶ関部屋から学校に通っていたが、部屋での稽古の疲れから授業中は居眠りばかりしていたため、体育以外の成績は全て1であった。学校の教師も北の湖の生活事情を承知しており、彼の居眠りを咎めることはなかったという。もとより相撲一筋の北の湖は高校を受験する予定もなかったため、教師の一人は「きみは数学や英語はやらなくていいから、その分、文学作品でも読んでいなさい」とも言っていたという[9]。北の湖自身も「勉強がいやでいやでたまらず、エンピツなどはいつも隣のやつのをゴッツァーン。楽しかったのは弁当を食うときだけで、試験なんかは全然できなかった」[81]と現役時代に語っている。しかし、こと相撲に関しては非常に頭脳明晰だったと言われ、後述の通り現役中の自身の取組に関するデータは生涯にわたって完全に記憶していた。
- 入門当時、北の湖の他にも中学校在学中に入門し、学校に通いながら土俵に上がる力士は多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため特に話題になったとも言われる。当の北の湖本人は三保ヶ関から「中学は義務教育だからしっかり通いなさい」と言われて通学を怠らずに大相撲生活を送っていたが[7]1971年11月場所中に日本相撲協会へ正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、入門条件に「中学卒業 (義務教育終了) 後でなければ入門できない」という条項を加えた。場所後には中学生力士の採用禁止を正式決定している。ちなみに北の湖以降も、後の琴風が中学在学中から土俵に上がっている[82]。
現役時代
- 現役時代には持ち前の豪快さが時に荒唐無稽な逸話になって現れることがあった。週刊誌に「18歳でホステスを口説いた」と書き立てられたのはその好例である。しかし本人は『相撲』1974年9月号(新横綱特集号)でその手のエピソードについて「バッカみたい!」と完全否定している。
- 前述の通り非常に頭脳明晰で、現役時代の自身の取組の内容は全て完全に記憶しており、親方になってからもメモや対戦表などを一切見ることなく、現役時代の取組について「昭和〇〇年〇場所の〇日目は〇〇と対戦して、〇〇の決まり手で勝った (負けた) 」などと詳細に説明してみせ、周囲を驚かせていた。携帯電話の電話帳登録も0件であり、着信画面に出た下4ケタを見ただけで、相手が誰か分かったという[注釈 7]。その驚異的な頭脳と桁外れのパワーゆえに、現役時代には田中角栄と同じく「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたこともあった。[要出典]
- 大の酒好きであり、アイスペールにウイスキーやブランデーを注いで仲間たちと回し飲みすることが好きであった。当時の角界の風潮があったにせよ未成年飲酒をしていたとも伝わっており、成人の日に感想を聞かれて「俺、今日から酒を止める」と話したという逸話は有名である。横綱昇進時の横審で「うわさ」程度ながら「大酒を飲まず体に気を付けるということ」との意見が出た[21]ことについて北の湖は昇進直後の会見で「最近はあまり飲まない」[22]と答えている。親方時代にも「付け人の大露羅と共に2人で5升の焼酎を飲み干した」というエピソードを残している[83]。ただし、晩年は持病もあって体調に気を遣っていたため、若い頃より酒量は大幅に減少していた[84]。
- 石立鉄男は人気力士を容赦なく吹っ飛ばす北の湖が嫌いだった。そんなある時、石立は酒場に入ると北の湖がたまたまいるのに気づき、そこで北の湖に散々悪口を言って挑発した。北の湖は黙って聞いていたが、拳を握りしめて肩を震わせながら涙を流していた。石立は己の浅薄さ恥じ、北の湖に謝罪し、以後ずっと尊敬し私淑し続けたという。[要出典]
横綱時代
- 好物は魚、嫌いな食べ物はマヨネーズとジャガイモと話していた[85]。
- 横綱昇進直後のインタビューでは、「犬のスピッツとトカゲの尻尾、歌を歌うこと、注射が嫌い」と答えていた。歌に関しては、「歌うぐらいなら稽古していた方が良い」と話していた。犬に関しては、子供の頃スピッツと喧嘩してドブに落ちた経験があると明かしている[10]。
- 角界では珍しくゴルフが嫌いであり、輪島のゴルフ好きとは好対照をなしていた。本人いわく「やらないです。太鼓腹を突き出して、耳かきみたいな棒を振ってもしょうがないもんね(笑)」[10]。
- 体が丈夫であり、医者嫌いでもあった。横綱時代のある時、金城との三番稽古で左アキレス腱を痛め、付け人が心配すると「医者? こんなの怪我のうちに入らん。お前、ちょっともんでおけ」と言った[73]。
- 現役終盤に引き際を疑問視されていた中、逆鉾は記者に「どうして記者さんたちは往生際が悪いとか書くの。あれだけの横綱なんだよ。引き際ぐらい好きなようにさせてあげなよ」と抗議し、北の湖を擁護した[86]。
人格者として
- 公私の区別を大切にして一生懸命精進する力士を思いやる性格から、夫人には結婚の際に「力士はウチの使用人じゃないんだから、彼らを私用で使うことは絶対にダメ」と厳しく言い渡したという[87]。
- 北の湖は「絶対するな!」「殴って覚えさせるなんて、人間は犬猫じゃないんだよ」と暴力を嫌っており、北斗龍自身、師匠に殴られたことは一度もないという[88]。
- 相撲案内所・高砂家のおかみによれば、その人柄から北の湖への恨み言を言う弟子はいなかった。相撲は力士の世界であるという教えをうけ、夫人はほとんど公の場にでることはなかったが、協会葬の見送りが終わった際に「親方ったら、私が一番苦手なことを、一番最後にやらせるなんてね」と早すぎる死を残念がっていたという[87]。
素朴なおとぼけキャラ
- 横綱昇進当時、「双葉山」から連想するものは?と聞かれて「知らないから別に……」と答えた[85]。
- 『相撲』1975年10月号では、同年9月場所中に行われたファンとの座談会で「昔、ミラーマンを観てた」「少女フレンドやマーガレットをよく読む」「横綱会に出ると何か歌えと言われるが、歌は苦手なので代わりに手品披露しようと思って練習したが失敗した」などと話した様子が収録されている。
小市民な面
- 現役時代のある時、兄弟子に指示されて夜中に部屋の近くで騒いでいる酔っ払いを叱るように言われたが、相手の酔っ払いに凄まれて慌てて部屋に逃げ、そのままガタガタ震えてしまっていた。部屋の力士達は北の湖の意外な気の小ささに大笑いであった[89]。
- 自身が乗っていた車がスピード違反で警察に捕まった際、ペコペコ頭を下げながら「私達は相撲以外に何も分からないデブなので、ひとつよろしく」とへりくだり、担当警察官に許しを貰った。
親方時代から没後
- 親方時代は面倒見が良く人望に厚い人物として有名であり、目線を下げることができず支援する親方も少なかった13代九重とは対照的であった[90]。
- 1990年の新弟子検査の身長測定の際、頭皮を切ってシリコンを埋め込んだ処置痕の激痛で泣いていた舞の海に気付き、そっと「もう少しの辛抱だからな」とつぶやいた。痛みを慮るようにカーソルを浮かせて測定をしたという[91]。
- 物欲が無い人物でもあり、ある時仕事で使う300万円を100万円ずつ輪ゴムで留めてコンビニのレジ袋に入れて持ち歩いた。
- 2017年3月場所に引退した北斗龍は、師匠の北の湖に湯豆腐や冷やし中華をよく作っていたと話している[92]。
- ライバルだった輪島がトラブルを起こした後は疎遠になっていたが、その後再会した後は相撲から心が離れてほしくないという意味を込めて毎場所ごとに輪島に番付表と取組表を送り続け、また受け取った輪島もそれを全て大事に保管しておいたという[93]。
- 自らが育った三保ヶ関部屋が大坂相撲の系統を引く部屋であったこともあり、北の湖部屋の師匠になった後には初代から3代目までの年寄・三保ヶ関の墓所がある成恩寺(大阪市生野区)を毎年三月の大阪場所の際には長年宿舎として使用していた[注釈 8]ほか、成恩寺の相撲力士墓への供養及び墓参を続けていた[94][95]。没後、成恩寺には『北の湖敏満慰霊碑』が建立され、2016年3月に除幕式が執り行われた[96]。
- 同部屋の同期生であった増位山太志郎(元大関、10代三保ヶ関)は北の湖の訃報をコンサートに出演のため訪れていた長野県内で知り、終演後にインタビューに応じている。「想像もしていなかっただけに、大変ショックというか驚いています…」と絶句し、病気で手術を受けていることは知っていたが「でも、理事長は絶対に弱みを見せない人だったから、公にはしなかったんです」と明かしている[97]。
- 北の湖の遺体は、夫人の意向で東京へ陸送する際に本場所中の福岡国際センターに立ち寄り、本場所への影響を最小限にするため密葬となった[98]。大きな身体であったため収骨には骨壺2個が必要であったという。北の湖の遺骨は、部屋を継承した20代山響により稽古場の上がり座敷のいつも座っていた定位置の奥に祭壇が設けられて安置された。定位置には座布団と新聞が置かれ、20代山響は「尻を向けるのは失礼」と別の位置から若手の稽古を見守った[99][100]。
注釈
- ^ 歴代横綱で、幕下以下の各段で全敗を経験した力士は、2022年現在まで北の湖ただ一人である。
- ^ 十両以下の優勝経験がない横綱は、玉錦・双葉山・栃錦に次いで4人目、のちに曙が達成。
- ^ 1981年11月場所を休場した後に受けた朝日新聞のインタビューでは1年ほど前から膝、首、腰の具合が良くなかったことが明かされた。
- ^ ただし臥牙丸は2010年5月に閉鎖された木瀬部屋からの預かり弟子で、2012年4月に同部屋が再興されると同時に北の湖部屋を離れている。
- ^ この1998年改選では、初めての理事選挙が行われた後の理事長互選で、時津風とともに候補として擁立され5対5の同票であり、2度3度の投票でも決着がつかなかったが、最後は北の湖がこっそりと時津風に投票する形で辞退して決着した。
- ^ 休場は重圧から逃げることだという北の湖自身の考えから公傷制度は廃止された。
- ^ 【元番記者が語る北の湖理事長】(9)抜群の記憶力「現役時代の相撲は、全部覚えている」 2015年12月1日11時0分 スポーツ報知
- ^ 現在は北の湖部屋の後を引き継いだ山響部屋が宿舎としている。
- ^ 白鵬はその後、2010年3月 - 2011年1月場所の6場所にかけて88勝まで更新した。
- ^ a b 輪島と優勝決定戦
- ^ 魁傑と優勝決定戦
- ^ a b 貴ノ花と優勝決定戦
- ^ a b 若三杉(のち2代・若乃花)と優勝決定戦
- ^ 千代の富士と優勝決定戦
- ^ 右膝変形性関節症により9日目から途中休場
- ^ 左足首関節捻挫により13日目から途中休場
- ^ 左膝外側側副靱帯損傷により12日目から途中休場
- ^ 腰部及び左膝関節捻挫により9日目から途中休場
- ^ 慢性腰痛・左膝外側側副靱帯損傷により全休
- ^ 腰部捻挫により全休
- ^ 椎間板ヘルニア・左膝関節負傷により全休
- ^ 右下腿筋損傷により5日目から途中休場
- ^ 頸椎捻挫により3日目から途中休場
- ^ 腰椎分離症により7日目から途中休場
出典
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