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勝海舟

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勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年1月19日)は、日本武士幕臣)、政治家[1]位階正二位勲等勲一等爵位伯爵。初代海軍卿江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁


注釈

  1. ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
  2. ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
  3. ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
  4. ^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ[6]
  5. ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近。
  6. ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
  7. ^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない[10]
  8. ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
  9. ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい[17]
  10. ^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
  11. ^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
  12. ^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない[20]
  13. ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
  14. ^ この塾頭が坂本龍馬だった。また、塾生には後の外務大臣陸奥宗光や海軍元帥伊東祐亨、元老院議官湯地定基らがいた。
  15. ^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた[22]
  16. ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
  17. ^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組近藤勇土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている[28]
  18. ^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
  19. ^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと論じている。
  20. ^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している[36]
  21. ^ 勝海舟は、慶応4年6月3日(1868年7月22日)の日記(『海舟日記』)に以下のように記し、人材不足と時勢への乗り遅れを指摘し、会津藩を非難した。 「榎本和泉白戸石介仙臺米澤の議論を助けて衆評せむと云 見る所別にあり 此大意を挙て答ふ 當大事を成すはの大にあらすの多きにあらす唯人才に在り 今哉東國人才あるを聞かす 唯大國と人衆を頼みて策略なり 且小是を守て別に大是あるを知らす 又を詳察せすらす如何そ全勝を算せん哉 誠に鎖国陋習泰平名分を頼みて天下の形勢を洞察せす 會藩あるにて其なり 徳川氏今日の事、の爲に誤らるる者十にして八九 是を知らすして干戈を起さむとす 亦からすや 我如何そまむ云々」 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』153頁 「海舟日記」 慶応4年6月3日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月10日閲覧。)
  22. ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
  23. ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。
  24. ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している。
  25. ^ 新政府への遠慮、旧時代との決別などではなく、7月8日(8月15日)に新政府が「百官受領」を廃止すると布告したため、勝安房(守)が使用できなくなったからである。この布告により名を改めた同様の例として、大目付箱館奉行などを歴任した織田泉之(旧名は信重。官途名は和泉守)がいる。
  26. ^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった[67]
  27. ^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている[77]
  28. ^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。なお精の代に3回家宝の売立てを行っている[82]

出典

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