前田利家 人物・逸話

前田利家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 13:55 UTC 版)

人物・逸話

武勇

  • 利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられた。
    • 元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。
    • 元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話が残る。この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したという。
    • 稲生の合戦の後、浮野の戦いでも槍先による功を挙げ、この戦いの際に槍の又左の異名がついたとも言われる。
    • 姉川の浅井攻めでは浅井助七郎なる者を討ち取るなどの活躍をみせ信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛され、大坂本願寺攻めでは、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒し、無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている。
  • 長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た。
  • 加藤清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子・利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。」と説いていた。またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。
  • 坂本城天守に夜な夜な幽霊が出るという噂が立ったとき、自ら肝試しを志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられたと言われている。また、この時に天下五剣の一つ大典太を下賜されたと言われている。

身体的特徴

  • 細身で端正な顔立ちの美貌で知られた。小姓時代にはその容姿のために信長から寵愛を受けていた。
  • 男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で(遺された利家の着物から推定6尺とされている)、前述のように顔も端整であったことから、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。
  • 利家の烏帽子兜は大きいが、合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、石川県立歴史博物館には、行軍用兜の横に合戦用兜が展示してある。

頭脳

  • 「槍の又左」と呼ばれ勇名を馳せる一方、計算高く世渡り上手な一面もあった。賤ヶ岳の戦いの際、柴田勝家を裏切りながら落ちてきた勝家を厚遇し、裏切ったという印象を薄めたり(先述したように勝家と秀吉との人間関係に苦しんだうえでの対応もあったが)、秀頼の後見人として豊臣家を支えつつも、死の間際、利家の病床を見舞いに来た家康に息子の利長のことを頼んだとの話が残ったりもしている。一方で、利家が布団の下に抜き身の刀を忍ばせていたというエピソードが残っていたり、上記の話が江戸時代に幕府に提出するために作られた二次史料で、外様の大大名であった前田家が徳川家に媚びるため創作された記述とも言われ真偽は不明である。
  • 前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている。利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。
    • 時には芳春院(まつ)に「吝嗇」と揶揄されたこともある利家ではあるが、北条家滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と利長に命じている事実が存在する。また死の際には、「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没した。
  • 後年には漢籍などの学問も学び、茶の湯などの文化的活動も積極的に行った。茶道は千利休織田有楽に学び、茶入は秀吉から譲られた名品で天下三茄子の一つに数えられる「富士茄子」であった。利家はこの中でも特に能を好み、気晴らしや社交術として三日に一度は稽古をする程の熱の入れようであったという。
  • 利家は秀吉の禁教令により、改易されたキリシタン大名高山右近を庇護し、築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりなどをしている。小田原征伐文禄・慶長の役の後には嫡子・利長が金沢城の整備などを命じるなど、右近を参謀として重用し、親しい関係が続いた。

人柄・対人関係

  • 傾奇者であり、若年のころは派手な拵えの槍を持って歩いたので、「又左衛門の槍」といって人々から避けられていた(『亜相公御夜話』)。利家は晩年になっても多少とも傾奇の傾向のある若者を愛したという[3]
  • 小姓時代には信長から寵愛を受け、衆道男色)の相手も務めていたことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』に「鶴の汁の話(信長に若いころは愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。同じく信長の小姓として有名な森成利(蘭丸)や堀秀政にも衆道を務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道の有無を記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記されたエピソードはとても珍しいものとされている。一方、乃至政彦はこの文章を単純に「不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ」と見る仮説を立てている[26]
  • 織田政権時代は同輩、豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代に隣同士、安土時代に向かい同士の住居であったこともあってか、秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、天正2年(1574年)には子供のなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密で続けたという。足軽あがりの秀吉と、傍流ながら豪族出身の利家は当初懸隔した身分であったが、一時利家が浪人したこともあって、同様な関係から追い越されていった織田家臣だちに比べてわだかまりが少なく、対等に近い友人関係からスムーズに主従関係へと転じていった。利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる、数少ない人物でもあった。また秀吉は遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」であると呼びかけており[27]、そのため秀頼の後見人を任せたと思われる。但し、利家の遺言状に豊臣家の名はなく、織田家の名前と織田家に対する忠義のみを記しているだけである。
  • 豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉側近の大野治長は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一御武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。なかでも傍輩衆の、蒲生氏郷宇喜多秀家浅野長政毛利秀頼らから慕われたようである。
  • 上記の者たちに留まらず、加藤清正福島正則らに代表される武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われ、事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名が集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題を起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。また利家が没すると、その直後に清正を含む武断派七将が、石田三成を襲撃する騒ぎが起こっている。
  • 家康の法度破りで諸大名が家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換し、一応の和解となり、両者の衝突を回避しようとする細川忠興、浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問することとなった。この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった。(利家公御夜話)
  • 危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。のちに徳山則秀からこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという(富田景周の『越富賀三州志』)。
  • 加賀にはこのような歌が遺されている。

    「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」

    「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。
  • 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢で長袴のためつまずいて転んでしまった。それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。老人とはこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した。家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに感謝するも切腹まではという気持ちもあり、利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したと伝わる(『明良洪範』)。
  • 種村某という勇士が柴田氏にいた。利家は彼の武勇を認めて家臣にしたいと考えたが種村は応じなかった。利家は種村が琵琶好きだと聞いて、白雲という琵琶を贈って家臣になるよう誘った。種村も遂に折れて前田の家臣となり、佐々成政の朝日山合戦で大活躍した(『常山紀談』)。
  • 佐々成政が末森城を攻めたとき、近習の戸田与五郎なる者が2人の豪族への出兵命令を伝える使者になった。しかし戸田は豪族の説得に手間取って遅参した。利家は激怒し、戸田は討死覚悟で手柄を立てた。利家は激怒することで戸田が面目躍如のために手柄を立てると計算していたのである(熊沢猪太郎の『武将感状記』)。
  • 義理の甥である前田利益(慶次郎)とはソリが合わなかったと後年の逸話集などには記述されるが、同時代における史料や文書、利家の回顧録などにはその様なものはなく、利益に付き従った野崎知通による回顧録には利家の嫡子利長と利益が不仲であったとされる記述は存在する。また、利益出奔の際にイタズラで水風呂に入れられたとの逸話があるが、この逸話の初出は江戸後期の随筆集『翁草』であり、後年の創作である可能性が高い。
  • 桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい、妻のまつからもらったものともいわれる)を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。この事件は世に「笄斬り」とよばれる。後年、この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ」と言っている。

墓所

石川県金沢市野田町の野田山墓地、金沢市宝町の宝円寺

肖像画

肖像画は開禅寺所蔵のもののほか数点。利家着用であったと伝えられる武具も現存する。


注釈

  1. ^ 15,6点から20点ほど確認されている前田利家画像の中でも、古くからよく知られた肖像画。中世より加賀の海に関わる豪商で、江戸時代に宮腰町々町年寄を務めた中山家に伝来。同家は、天正11年(1583年)における利家の金沢入国時に先導をしたとされ、本図もこの時賜ったと伝えられる(村上尚子「前田利家画像に関する基礎的調査」『石川県立美術館紀要』第19号、2009年4月30日、pp.12-13。なお同論文は、利家画像を網羅的に掲載・解説している)。
  2. ^ 『加賀藩史料』によると、信長の伯父津田孫三郎信家を烏帽子親としてその偏諱を受けたとある。なおこの信家は岩倉城主・織田信安の子織田信家と思われるが、伯父ではなく信長の従兄弟(叔母の子)であり、信長の伯父・津田孫三郎(織田信光)と混同した誤りであると推定される。

出典

  1. ^ 岩澤 1988.
  2. ^ 桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店、1975年。
  3. ^ a b 岩澤 1988, p. 292.
  4. ^ 花ヶ前 2001, p. 11, 「前田利家とその時代」.
  5. ^ a b 花ヶ前 2001, p. 12, 「前田利家とその時代」.
  6. ^ 花ヶ前 2001, p. 93, 木越祐馨「前田利家と一向一揆」.
  7. ^ 花ヶ前 2001, p. 75, 見瀬和雄「前田利家の領国経営」.
  8. ^ 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月。ISBN 4059010251
  9. ^ 瀬戸薫「金沢城と前田利家」『加能史料研究』597号、2008年。(所収:大西 2016
  10. ^ 大西 2016, p. 14-16, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」.
  11. ^ 国書刊行会『史籍雑纂. 第二』「当代記」
  12. ^ 花ヶ前 2001, p. 43, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」.
  13. ^ 宮本義己「豊臣政権下における家康の危機」『大日光』67号、1996年。
  14. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
  15. ^ 岩澤 1988, p. 184.
  16. ^ 岩澤 1988, p. 185.
  17. ^ 千葉一大 「豊臣政権と北奥大名南部家」、山本博文・堀新・曽根勇二編 『偽りの秀吉像を打ち壊す』 柏書房、2013年、92頁。 
  18. ^ 瀬戸薫「前田利家と南部信直」『市史かなざわ』5号、1999年。
  19. ^ 矢部健太郎「太閤秀吉の政権構想と大名の序列」『歴史評論』640号、2003年。のちに矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』吉川弘文館、2011年。に所収
  20. ^ 上杉家への代替地は東蒲原。のちに藤田信吉が津川城に入る。(『管窺武鑑』上杉博物館『国宝 上杉家文書』など)
  21. ^ 宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して―」『大日光』74号、2004年。
  22. ^ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年、68-69頁。
  23. ^ 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年、97頁。
  24. ^ a b 岩澤 1988, p. 283.
  25. ^ 岩澤 1988, p. 287-288.
  26. ^ 乃至政彦戦国男色の俗説-知られざる「武家衆道」の盛衰史-』洋泉社、2013年。
  27. ^ 花ヶ前 2001, p. 45-47, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」.


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