初期フランドル派 美術作品

初期フランドル派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 03:42 UTC 版)

美術作品

『ブルゴーニュ公シャルルの肖像画』(1460年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
絵画館(ベルリン)

もっとも有名な初期フランドル派の作品は精緻な板絵だが、初期フランドル派の芸術家たちは他にも装飾写本、彫刻、タペストリー、祭壇後陣の彫刻飾り (en:retable)、ステンドグラス、青銅細工、霊廟彫刻など様々な形式の美術品を制作している[103]。美術史家スージー・ナッシュは、北ヨーロッパでは16世紀初頭になるころにはあらゆる大きさの美術工芸品が制作されており「高い専門的知識と技能を誇り、他国に真似のできない優れた作品を生み出していた」としている[103]。ブルゴーニュ宮廷ではタペストリーと金細工が好まれており、それらが詳細に記録された資料も多く現存しているが、板絵に関する記録はほとんど残されていない[77]。これは、諸国に設置された離宮や他国の宮廷を廻ることが多かったブルゴーニュ宮廷にとって、板絵が不向きだったという可能性もある。壁にかけられたタペストリーや豪奢な細工が施された装飾写本は富や権力を示威する政治的プロパガンダとしての役割も担っていたが、歴代の君主を描いた肖像画にはそのような機能はあまり期待されていなかった。美術史家のメリアン・エインズワースはこのような肖像画、例えばファン・デル・ウェイデンの『ブルゴーニュ公シャルルの肖像画』や、ヤン・ファン・エイクのブルゴーニュ公妃『イサベラの肖像画 (en:Portrait of Isabella of Portugal (van Eyck))』(模写のみ現存)などは、一族の歴代継承者を明らかにする目的で制作を依頼されたのではないかと考えている[104]

宰相ロランの聖母』(1435年頃)、ヤン・ファン・エイク。
ルーヴル美術館パリ)所蔵。風景画発展の先駆とされる作品。

キリスト教を主題とした宗教画は、王侯貴族、教会、病院、修道院、富裕な聖職者や市井の有力者などからの依頼によって制作された。また、富裕な自治体も自らの公的建築物を飾る目的で絵画制作を依頼している[77]。初期フランドル派の芸術家は複数の分野で活動した人物が多い。ヤン・ファン・エイクとペトルス・クリストゥスは、装飾写本の制作にも携わっていたと言われている。ファン・デル・ウェイデンもタペストリーのデザインを手掛けていたが、現存している作品は極めて少ない[105][106]。初期フランドル派の画家たちは制作技法だけではなく、様々な革新を絵画表現にもたらした。ディプティクの様式の発展、ドナー・ポートレイトの決まりごと、聖母マリア像の新たな伝統的表現などである。さらに1430年代に描かれたヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』とファン・デル・ウェイデンの『聖母を描く聖ルカ』などは、風景画が独立した絵画分野として発展する切っ掛けとなった作品だと言われている[107]

装飾写本

ブルゴーニュ公フィリップ3世とポルトガル王女イザベルの婚礼のミニアチュールが描かれた装飾写本。作者未詳で1450年頃の作品だと言われている。オーストリア国立図書館所蔵。

1400年代以前には、板絵よりも装飾写本が優れた美術品だとされており、その華麗で豪奢な作品は所有者の財産、地位、そして芸術的審美眼を誇示するものだった[108]。装飾写本は、外交儀礼の贈答品、王侯貴族の結婚記念などの主要な国家的行事にも使用された[109]。装飾写本は、修道院を中心として伝統的に制作されていたが、12世紀ごろにからは修道院の施設から発展した専門の工房で制作されるようになる。そして装飾写本の内容も、時祷書や祈祷書のような宗教関連だけではなく、歴史書、小説、詩集や、現在では自己修養書に含まれるような道徳本など多岐に渡るようになっていった。15世紀初頭の北ヨーロッパの市場では、パリで生産されたゴシック様式の流れをくむ装飾写本が主流だった。パリで生産された装飾写本は、挿絵のミニアチュールが一葉だけ付属した比較的廉価な時祷書で、好きなページにこのミニアチュールを挟んで楽しむことができた。一方で「購入可能な限り多くのミニアチュールが描かれた」装飾写本に対する富裕層からの需要もとだえることなく存在していた。ミニアチュールはページに挟んで使用されるよりも、壁に飾って私的な瞑想や祈祷の用途で使われることが多く[110]、クリストゥスが1450年から1460年ごろに描き、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している『若い男性の肖像』の背景には、キリストの頭部のミニアチュールが描かれた聖ヴェロニカに関する一葉が配されている[111]。15世紀半ば以降、ヘント、ブルッヘ、ユトレヒトの芸術家たちがフランスのミニアチュール作家を凌駕していく。かつては高品質な装飾写本の生産地だったイングランドも大きく衰退し、北ヨーロッパにはイタリアで制作されたごくわずかな装飾写本が輸入されただけだった。フランスの画家たちも当初は自らの地位を守ろうと必死だったが、1463年に所属するギルドにネーデルラントの画家たちに何らかの制裁措置をとるように求めるまでになっていった[110]

リンブルク三兄弟が制作した華麗な『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は、ネーデルラントの装飾写本の始まりにして、一つの頂点を極めた作品と言われる。後に聖ルチアの画家 (en:Master of the Legend of Saint Lucy) と呼ばれる未詳の画家が、この装飾写本をもとにした錯視と写実が混交した様式の作品を描いている[25]。リンブルク三兄弟とそのパトロンだったベリー公ジャンは、ヤン・ファン・エイクが画家として活動し始めたばかりの1416年に、おそらくペストで相次いで死去している。このとき三兄弟は誰も30歳にもなっていなかった[25]。美術史上重要な装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には複数の画家によるミニチュールが描かれている。どの画家も未詳となっているが、「画家 G」と呼称されている画家はヤン・ファン・エイクではないかと言われている[112]。また、この時期以降に描かれたミニアチュールの中にヘラルト・ダフィトの作品と強い類似性があるものが多く存在しているが、これらのミニアチュールがダフィト本人の作品なのか、あるいはダフィトの模倣者の作品なのかははっきりしていない[113]

リンブルク三兄弟が装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の153葉目に描いた「キリストの死」。

ネーデルラントの装飾写本が評判となったのには様々な要因がある。最大の要因として、この地方には12世紀以来有力な大聖堂、修道院、教会が数多く建てられていたことが挙げられる。装飾写本の生産は修道院が中心で、ネーデルラントでも多くの優れた典礼書が制作され続けていた。そして、14世紀のネーデルラントの芸術家たちはこの伝統と技法を受け継ぎ、さらに発展させることに成功したのである[110]。さらに当時大きな影響力を持った有力なパトロン、例えばベリー公ジャンや、その生涯で1,000点以上の装飾写本を収集したブルゴーニュ公フィリップ3世の存在という政治的な要因もあった[114]。トマス・クラインはフィリップ3世の書庫を「キリスト教君主であることを如実に示し、自身の政治力、権力、知識、信仰心を具現化したものである」と評している[115]。フィリップ3世の庇護により、ネーデルラントの装飾写本はその後数世代にわたってヨーロッパで支配的な地位を占めた。ブルゴーニュ公家の装飾写本への庇護はフィリップ3世の死後も受け継がれた。フィリップ3世の三男でブルゴーニュ公を継いだシャルルとその公妃マルグリット、曾孫のブルゴーニュ女公マリーと夫の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世である。さらにはマルグリットの兄でシャルルの義弟にあたるイングランド王エドワード4世も、ネーデルラントの装飾写本の熱心な収集家だった。ベルギー王立図書館はフィリップ3世、大英図書館の王室装飾写本コレクション (en:Royal manuscripts, British Library) はエドワード4世が残した蔵書を中心として設立されたものである[116]

装飾写本『Livre du cœur d'Amour épris』にバーテルミー・デックが1450年 - 1460年頃に描いたミニアチュール。

ネーデルラントの装飾写本作家にとって輸出市場も重要な位置を占めていた。多くの作品がイングランドを中心とした諸国に輸出されている。装飾写本の庇護者だったブルゴーニュ公シャルルが1477年のナンシーの戦いで戦死したことにより、ネーデルラントでの装飾写本の需要も減衰していったために輸出市場の重要性は増していった。装飾写本作家たちは注文主である諸国の貴顕の好みに応じて、さらに豪華で贅沢な作品を制作した。このような装飾写本を好んだ王侯貴族に、イングランド王エドワード4世、スコットランド王ジェームズ4世、ポルトガル王妃レオノール・デ・ヴィゼウらがいる[117]

板絵とミニアチュール双方の分野で活動した画家もいた。ヤン・ファン・エイク、ファン・デル・ウェイデン、クリストゥスらは装飾写本のデザインを手掛けている。また、板絵の構成やモチーフをもとにしてミニアチュールが描かれることもあり、カンピンの作品は『ラウール・ダイイの時祷書』など複数のミニアチュールに使用されている[118]。装飾写本の制作に複数の芸術家がその弟子たちとともに参画することもよくあった。ページの縁飾りなどは専門技能を身につけた芸術家が担当し、女流芸術家が仕上げをすることも珍しいことではなかった[110]。装飾写本には作家の署名がなされていないために、誰が制作したのかを特定することは困難である。当時のもっとも重要なミニアチュール作家だと見なされている芸術家の名前も現代に伝わっていない[115][119]

ネーデルラントの芸術家たちの装飾写本は、他諸国で制作される作品よりもさらに深化し、独創性あふれるものとなっていった。縁飾りの精緻なデザインやスケール感と空間描写は他に類を見ないものであり、縁飾り、ミニアチュール、テキストという装飾写本の三要素が織りなす相互作用を追求していった[120]。ブルゴーニュ女公マリーが1467年から1480年ごろに「ブルゴーニュ女公マリーのウィーンの画家」と呼ばれる未詳の芸術家に制作させた『ナッソウの時祷書 (en:Hours of Mary of Burgundy)』の縁飾りには、幻想的な植物と昆虫が装飾されている。大胆な筆致で描き出されたこれらの装飾は、箔押しされたミニアチュールの画肌に散らばっていくかのような効果を醸し出している。この技法はネーデルラントの他の画家たちにも継承され、例えばヘラルト・ホーレンバウトではないかともいわれる、優れた作品構成で知られる「スコットランド王ジェームズ4世の画家」と呼称されている画家[121]が自身の作品に取り入れている。「スコットランド王ジェームズ4世の画家」は、様々な幻想的モチーフを描きこむことによってミニアチュールと縁飾りの境界を曖昧にする技法を多用しており、場面の物語性をより高める効果を生んでいる[25]。15世紀から16世紀にかけてネーデルラントで制作された装飾写本の完本から裁断され、散逸したミニアチュールや断片の収集が、大英博物館の版画・素描部門の責任者も務めたウィリアム・ヤング・オトリーといった高い鑑識眼を持つ人々の間で19世紀に流行した。そしてこの流行が装飾写本の更なる裁断、散逸という結果につながってしまった。19世紀の終わりには装飾写本の完本が探し求められたことにより、初期フランドル派の芸術作品が再評価されるようになっていった[122]

タペストリー

『ユニコーンの狩り (en:The Hunt of the Unicorn)』(1495年 - 1505年)。
クロイスターズ(ニューヨーク)所蔵。
『ユニコーンの狩り』は7枚構成のタペストリーで、この画像は「貴婦人と一角獣」と呼ばれる部分。

15世紀半ばのヨーロッパでは、タペストリーが最も高価で価値がある美術品の一つだと見なされていた。1400年代初頭からタペストリーの主要な生産地はネーデルラントとフランス北部で、とくにアラス、ブルッヘ、トゥルネーが有名だった。ネーデルラントのタペストリー職人がいかに優れた技術を有していたかの証明といえるのが、ローマ教皇ユリウス2世ラファエロに描かせた下絵を1517年にブリュッセルに送ってタペストリーを制作させたことである[123][† 5]

このような豪華で大規模なタペストリーは外交儀礼上の贈答品として政治的な価値も持っていた。ブルゴーニュ公フィリップ3世は、1435年にフランスとの間で行われたアラス会議の会場を天井から床まで「リエージュ制圧」が描かれたタペストリーで全壁面が覆い[125]、さらに会談の参加者たちに数点のタペストリーを贈っている[103]。フィリップ3世の三男で後にブルゴーニュ公を継ぐシャルルとイングランド王エドワード4世の妹マルグリットの結婚式会場は「天井が青と白の厚い布で覆われ、壁面はギリシア神話のイアソンと金羊毛皮のエピソードが織られた豪華なタペストリーが掛けられていた」[† 6]。また、ブルゴーニュ公宮の各部屋は天井から床まで様々なタペストリーで装飾されていた。飾られているタペストリーによって名付けられている部屋もあり、フィリップ3世の応接室は掛けられているタペストリーの題材から「薔薇物語の部屋」と呼ばれていた[125]。ヴァロワ・ブルゴーニュ公家統治期を中心に、これらの地方ではおよそ二世紀にわたって「惜しみなく金糸銀糸を使用した、世界中のどこにも存在しないようなタペストリーが無数に」制作されていた[126]

布であるタペストリーは運搬が容易で実用的な美術品で、その主たる用途は宗教儀式や諸都市の祭典時に手軽に室内を装飾することだった[127]。タペストリーがいかに珍重されていたかは、当時の財産目録の最上部にタペストリーが記録されているところからも見て取れる。さらにタペストリーは使用素材と色合いによっても上下があり、白と金の配色が最高級品だと見なされていた。フランス王シャルル5世が所有していた57点のタペストリーのうち、16点が白のタペストリーだった。ベリー公ジャンは19点のタペストリーを所有しており、ブルゴーニュ女公マリー、イングランドリチャード2世王妃イザベラ、フランス王シャルル6世王妃イザボー、そしてフィリップ3世はこれを上回る相当数のタペストリーを所有していた[128]

タペストリー制作はデザインから始まる[129]。紙か羊皮紙にデザインないし下絵が描かれることが多く、この工程は熟練した複数の画家が担当した。完成したデザインや下絵は織物職人へと回されるが、このとき極めて遠距離の織物職人に送られることも珍しくなかった。下絵は何度も流用されることがあり、10年前の下絵をもとにしてタペストリーが制作されたこともある。紙や羊皮紙は非常にもろい素材であるため、現存している当時のタペストリーの下絵は極めて少ない[130]。依頼主にデザインが承認されると、多数の織物職人の手によってタペストリーが完成する。当時のネーデルラントのあらゆる都市、ほとんどの街、多くの村では常に織機が稼働していた[129]

『キリストの受難』(1470年 - 1490年頃)、作者未詳。
アムステルダム国立美術館所蔵。

ネーデルラントでは織機はギルドの管轄下にはなかった。織物職人は季節労働者が多く、タペストリー制作を依頼された画家などが請負主となって必要な職人を雇用していた。請負主は作業場所の確保、制作受注、下絵の用意、そして羊毛、絹糸、貴金属などの素材提供を担当した。これらタペストリーの制作素材は諸外国からの輸入品であることが多かった[131]。請負主は下絵時点と仕上げ時点で作品のデザインや出来栄えの可否を依頼主に直接確認することが多かった。しかしながらこの確認作業は困難であり、請負主にとっては相当に気を使う作業でもあった。フランス王妃イザボーは1400年に、完成したタペストリーを請負主の画家カラート・ド・ランに突き返したことがある[129]。ただし、イザボーはド・ランが先に提示したデザインを承認しており、この受取拒否はタペストリー完成時にイザボーの経済状態が逼迫していたためだと言われている[130]

当時のタペストリーのデザインはほとんど全て画家が担当しており、その表現様式は板絵の様式と密接に関係したものだった。初期フランドル派後期にあたる16世紀に天国や地獄の風景を描いたネーデルラントの画家たちにとってもこの傾向は同様だった。ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』は複雑かつ難解な作品ではあるが「その明確な寓意表現は中世のタペストリー」と共通点があるといわれている[132]

祭壇画

ブラック家の祭壇画』(1452年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
ルーヴル美術館(パリ)所蔵。
この作品の大きな特徴は、肖像の口元から流れ出す銘文と翼をまたがって連なる背景の風景である[133]

祭壇画とその一形態である三翼で構成された三連祭壇画[† 7]は、14世紀のヨーロッパで好まれた美術品で、その人気は1500年代初頭まで続いた。1400年代の北ヨーロッパで描かれた板絵のなかでもっとも多く制作された形式でもある。祭壇画はキリスト教をモチーフとしており、その大きさは個人的な宗教儀式に使用する携帯可能な小さなものと、宗教施設での典礼に使用する大きなものとに大別できる[134]。北ヨーロッパで制作された最初期の祭壇画は彫刻と絵画が組み合わされたもので、中央に蝶番がついて折り畳みが可能な二翼の作品が多かった[31]

祭壇画はとくに高い技能を持った画家が描き、多種多様のバリエーションを持ち、内面、外面ともにあらゆる組合せの祭壇画が大量に制作された。複数の翼(パネル)で構成され蝶番で留められた作品は開閉可能になっている。平日には翼が閉じられて外面に描かれた単調な絵画が姿を見せ、宗教的祝祭日には翼が開いて鮮やかな内面の絵画が現れる[135]。1432年に完成した『ヘントの祭壇画』は絵画が描かれた12枚の外面パネルと14枚の内面パネルで構成された大規模な作品である。翼の開閉の組合せ次第で様々な宗教的意味合いを持たせることが可能となっており、平日、休日、祝祭日でそれぞれ異なった形で展示されていた[135]

初期フランドル派第一世代の画家たちは、13世紀から14世紀にイタリアで制作された祭壇画から伝統的表現技法を多く取り入れている[136]。1400年以前にイタリアで制作された三連祭壇画の構成は極めて硬直したものだった。中央パネルの中心には聖家族が描かれ、さらに初期の作品、とくにシエーナフィレンツェでは、金箔を背にした玉座にすわる威厳に満ちた聖母マリアが描かれていた。両翼にはざまざまな天使たち、依頼主の肖像、聖人などが描かれていたが、中央パネルに描かれた聖家族に視線を向ける人物像はなく、それぞれのパネルの関係性は極めて希薄なものだった[137]。初期フランドル派の画家たちもごく初めのうちこそこれらの様式を採用したが、ほとんどすぐに独自の手法を編み出した。とくにファン・デル・ウェイデンが祭壇画に独創性を発揮した画家で、『ミラフロレスの祭壇画』(1442年 - 1445年)と『ブラック家の祭壇画』にその革新性が明確に表れている。これらの作品では聖家族が中央パネルではなく翼に描かれており、さらに『ブラック家の祭壇画』では背景に描かれた風景がパネルをまたがって連なり、各パネル間に関係性を持たせている[138]。ヒエロニムス・ボスは1490年代までに少なくとも16点の三連祭壇画を制作しており[† 8]、これらの作品では完全に独自の様式となっている。ボスの祭壇画は世俗主義を追求し続けたものであり、背景の風景を強く目立たせている。ボスも各パネルに関係性を持たせた祭壇画を制作した画家だった[134]

『三隠者 (en:The Hermit Saints)』(1493年頃)、ヒエロニムス・ボス。
ドゥカーレ宮殿(ヴェニス)所蔵。

1380年代以降、ドイツからネーデルラントに祭壇画制作の注文が入り始め、1400年ごろには祭壇画の大規模な輸出が行われるようになっていた[31]。ネーデルラントで最初期に制作された祭壇画で現存しているものは極めて少ないが[139]、高く評価されていたことがヨーロッパ各地の教会に15世紀のネーデルラントの祭壇画が多く残っていることからも分かる。美術史家ティル=ヘルガー・ボルシェルトは「15世紀前半にもっとも高く評価された美術品であり、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの工房だけが制作可能な逸品だった」としている[140]。1390年代までに、ネーデルラントの祭壇画はブリュッセルとブルッヘが中心生産地となっていた。ブリュッセルの祭壇画は1530年ごろまで人気があったが、徐々にアントウェルペンで制作された祭壇画が好まれるようになっていく。これは、アントウェルペンの祭壇画制作では各工程を専門の工房が分担することによって、完成品の価格が抑えられたことにも一因があった。ボルシェルトはこの作業形態が分業の最初期の例だと指摘している[140]

1500年代半ばごろから新しい芸術運動であるマニエリスムが主流となり、ネーデルラントの多翼祭壇画は時代遅れであると見なされて人気を失っていった。さらに後世になって、宗教改革に端を発する呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)が祭壇画を攻撃し始めて[141]、ネーデルラントに収蔵されていた祭壇画の多くが破壊されてしまった。当時の破壊の痕跡を現在でもドイツの教会や修道院で見ることができる[31]。非宗教的な美術品に対する需要が高まると、三連祭壇画はパネルごとに解体され、それぞれ別個の作品として売り払われた。とくに一見しただけでは宗教画とは分からない人物像は、世俗の肖像画として売買されていた。人物像の部分だけが裁断され、背景が塗りつぶされることもあった。それでもこれらの作品は「17世紀オランダ絵画の優れたコレクションに交じって展示されていても、風俗画として十分に通用するだろう」と言われている[141][† 9]

ディプティク

『玉座の聖母子』(1430年 - 1432年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリード)所蔵。

ディプティクは15世紀半ばから16世紀初頭にかけて北ヨーロッパで広く人気があった美術品である。同じ大きさの二枚のパネルが蝶番で留められて開閉可能なものがほとんどで、ごくわずかだが固定式のものもある[142]。二枚のパネルには相互に関連性のあるモチーフが描かれていることが多い。書物のように開閉可能なパネルは、閉じたときに内面に描かれている絵画を保護する役割も果たしていた[143]。ディプティクの様式は時祷書をその源流としており、個人用の祭壇画に比べると安価で、より携帯性の高いものだった[144]。描かれている絵画の大きさは、ほとんどが装飾写本のミニアチュール程度で、中世で珍重されていた金細工や象牙細工の小美術品を模したものもあった。ファン・デル・ウェイデンの『玉座の聖母子 (en:Virgin and Child Enthroned (van der Weyden))』に描かれている建物のはざま飾りは、当時の象牙彫刻を真似たものである[145]。初期フランドル派のディプティクの様式は、ブルゴーニュ公家からの依頼を受けて制作したヤン・ファン・エイクとファン・デル・ウェイデンが確立し[143]フーホ・ファン・デル・フースとハンス・メムリンク、さらにヤン・ファン・スコーレルが発展させていった[146]

ネーデルラントで制作されたディプティクは、描かれているモチーフが極めて限定されている。聖母子を片翼に描いた作品が大多数で[147]、これは当時の聖母マリア信仰を反映したものである[148]。聖人あるいは聖母子の描かれた翼[143]とは逆の翼には依頼主の肖像画が描かれていることが多く、その依頼主が夫婦で描かれていることも珍しくない[146]。依頼主はひざまずいて両手を合わせた全身像で描かれることがほとんどである[143]。聖母子像は必ず右側に描かれているが、これはキリスト教では右側が神の傍らの上座であるという意識を反映している[149]

『悲しみの聖母/エッケ・ホモ』(1450年以降)、ディルク・ボウツ
制作当時のフレームと蝶番が残っている希少な作品。

ディプティクの生産量と商業的価値は宗教感の変化と密接に関連している。14世紀は瞑想と個人的な勤行が流行しだした時代だった。小さなディプティクは個人的な内省や祈祷のときに利用するのに適していた。ディプティクはまず新興中産階級の間で人気を集め、その後徐々にネーデルラントやドイツの裕福な修道院へも広まっていった[148]。エインズワースは、大きな祭壇画であろうと小さな祭壇画であろうと、ネーデルラントの絵画作品が「大きさに関係なく、精緻な詳細表現がなされた」作品であると指摘している。宗教的主題が描かれた小さなディプティクは、それを見るものに対して宗教的な個人的瞑想を喚起する効果がある。そして「神秘体験を得た」と感じる人々もいたのかも知れない[150]

20世紀後半の研究で、それぞれのパネルに描かれている絵画が、技術的にも作風的にも全く異なるディプティクが存在することが明らかになった。技法の不一致は、ディプティクが工房で制作されたことにより、単純な個所を未熟な弟子が仕上げたために生じた可能性もある。パネル間の作風の不一致について美術史家ジョン・ハンドは、聖人が描かれたパネルは公開市場で売買されていた普遍的デザインの既存品であり、画家は依頼主が描かれたパネルのみを制作し、既存パネルと組合わせて一つのディプティクとして完成させたのではないかと指摘している[151]

完成当時のまま現存しているディプティクは少ない。祭壇画と同じく、ディプティクも後世になってからパネルごとに解体されて「風俗画」として売買されたことが主たる原因である[141]。また、工房によっては依頼主が描かれたパネルを、ディプティクの新たに所有者の肖像画と交換することも可能だった。偶像崇拝が忌避された宗教改革期にも、宗教色が強いパネルは除去されていた[152]

肖像画

『男性の肖像』(1480年頃)、フーホ・ファン・デル・フース。
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵。

1430年以前のヨーロッパで世俗の肖像画が描かれることはほとんどなかった。独立した絵画ジャンルとして見なされておらず、最上流階級層の結婚記念か王族からの依頼でごくまれに描かれただけだった[153]。画家にとって肖像画制作は実入りの大きいものだったが、絵画分野としての地位は低く見られていたこともあって、現存する16世紀以前の肖像画は作者未詳の作品が多い[104]キリスト教の聖人や聖書に登場する人物を描いた絵画作品は数多く制作されていたが、世俗の人物の肖像画が描かれ始めたのは1430年代初めからであり、ヤン・ファン・エイクの作品がその嚆矢となった[154]。ヤン・ファン・エイクが1432年に描いた『ティモテオスの肖像』は、世俗の人物の肖像画として現存している最古の絵画の一つである。初期フランドル派の特徴である写実主義を象徴する作品であり、鋭い観察眼によってモデルとなっている男性の表情が詳細に写し取られている[155]。『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)は極めて多くの寓意や象徴が込められた作品で[156]、『宰相ロランの聖母』(1435年頃)には作品依頼主であるロランの権力、影響力、信仰心が寓意として描かれている[157]

ファン・デル・ウェイデンは北方絵画の伝統を革新した画家で、後続の画家たちに非常に大きな影響を与えた。ヤン・ファン・エイクが創始した細心の注意を払って描く詳細表現よりも、ファン・デル・ウェイデンは概念的でより肉体的な作風を選んだ。ファン・デル・ウェイデンは肖像画家として極めて高く評価されていた画家だったが、その作品には高い類似点が見られる。これは、ファン・デル・ウェイデンが社会的地位や信仰心の程度に応じた、平均的な下絵を何度も再利用していたためだと言われている。ファン・デル・ウェイデンはこれら既存の下絵に、モデルの外貌的特徴を描き足して肖像画を制作したと考えられている[158]

若い女の肖像』(1460年以降)、ペトルス・クリストゥス。
絵画館(ベルリン)所蔵。
三次元的な表現で描かれた背景を持つ最初期の肖像画の一つ。描かれている少女の謎めいた複雑な感情描写と、不機嫌にも見える堅い目つきについて、様々な説がある[159]

それまでの肖像画の背景は単色で塗りつぶされた平坦なものだったが、ペトルス・クリストゥスは写実的な背景を持つ肖像画を描いた。これはファン・デル・ウェイデンが人物像のみに重点を置き、画面のほとんどがモデルで埋め尽くされているような作品を描いたことに対する反発心でもあった[160]。ディルク・ボウツの男性の肖像(1462年)の背景には、窓越しに外の風景が見える部屋が描かれている[161]。1500年代の北ヨーロッパでは、モデルの全身が描かれた肖像画が人気となった。この構成は初期の北ヨーロッパ絵画作品ではほとんど見られなかったが、イタリアでは数世紀前からフラスコ画や装飾写本に全身の人物像が描かれていた[162]。等身大の肖像画は最上流階級の人物しか制作されておらず、これは支配権力の誇示と大きな関係性を持っている[163]。初期フランドル派第二世代の画家であるハンス・メムリンクは肖像画の第一人者となり、遠くイタリアからの肖像画制作依頼を受けるほどだった。メムリンクの作品は後世の画家たちに多大な影響を与えており、盛期ルネサンスの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の自然風景を背景にした構成もメムリンクからの影響を受けていると考えられている[164]。ヤン・ファン・エイクとファン・デル・ウェイデンからの影響を受けた諸外国の画家には、フランスのジャン・フーケ、ドイツのハンス・プライデンヴルフ (en:Hans Pleydenwurff) や[165]マルティン・ショーンガウアーなどが挙げられる[166]

初期フランドル派の画家たちが肖像画に描かれる人物の顔の向きを、古代ローマ時代の貨幣やメダル以来主流だった横顔から、斜め前 (three-quarter) へと変更した。斜め前の構図は輪郭や頭部の特徴の表現に優れ、作品に表現できるモデルの身体の範囲は広がり、その作品を観るものへの訴求力も高まる[167]。肖像画に描かれている人物の目線が、鑑賞者を見返すように表現されている作品の数は少ない。ヤン・ファン・エイクが1433年に描いた、自画像とも言われる『赤いターバンの男の肖像』は、斜め前の角度で描かれた初期フランドル派の肖像画の嚆矢といえる作品の一枚で、画家ヤン・ファン・エイク自らが観る者を見つめているという点においても重要な作品といえる[167]。また、描かれている人物が鑑賞者を見つめ返している肖像画であっても、その視線は超然としたよそよそしい表現となっている。これはおそらく肖像画に描かれている人物の社会的地位の高さを意味していると考えられている。例外と言えるのが結婚や婚約を記念した女性の肖像画で、これらの作品では描かれている人物が可能な限り魅力的に見えるように表現されている。女性は笑みを浮かべ、未来の夫に対してその美しさを振りまくような構成で描かれている[168]。 1508年ごろにドイツ人画家アルブレヒト・デューラーが、肖像画の役割について「死後にもその面影を残しておくためだ」という言葉を残している[169][† 10]。15世紀の肖像画は描かれた人物の社会的地位や権力を誇示するもので、その人物の立身や功績をその死後にも記録として伝えることを期待されていた。当時のヨーロッパで描かれていた肖像画の依頼主は、王族、上流貴族、一握りの高位聖職者がほとんどである。しかしながら最先進国の一つだったネーデルラントでは富が集中し、上流中産階級層も自身の肖像画制作を依頼するだけの経済的余裕を手に入れた[170]。様々な階級の人々の肖像画が現存することにより、風貌や装束に関しては当時のネーデルラントに暮らす人々の様子が、古代ローマ以降のあらゆる時代の中でもっともよく現代に伝わっているという結果をもたらしている。肖像画制作時にそのモデルが、画家の前で長時間ポーズをとる必要はあまりなかった。事前に準備していた一連の下絵を使用することが多く、その下絵にモデルの外貌的特徴を肉付けしていくという手法がとられていたためである。このような下絵で現存しているものはごくわずかで、例外的に残っている下絵の一つにヤン・ファン・エイクが描いた肖像画『枢機卿ニッコロ・アルベルガティの肖像 (en:Portrait of Cardinal Niccolò Albergati)』の下絵がある[163]

風景画

キリスト磔刑と最後の審判』部分(1430年頃)、ヤン・ファン・エイク。
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵。
本作は二枚のパネルで構成されたディプティクで、磔刑に処せられたキリストと罪人がエルサレムの街並みと青空を背景にして描かれている。

1460年代半ばまで初期フランドル派の画家たちは風景画を重視していなかった。風景が作品に描かれることはほとんどなく、開かれた窓やアーケードからわずかに屋外の光景が垣間見える程度だった[† 11]。ほとんどが空想上の風景であり、あくまでも主題を際立たせる添え物として描かれていた。絵画依頼主が描かれたドナー・ポートレイトの場合には屋外の風景は単調に表現されるだけで、理想化されて描かれた屋内描写と調和するものではなかった。この点において、初期フランドル派の画家たちは同時期のイタリア人画家たちに後れを取っていた。当時のイタリア人画家たちは、人物像の背景に地理学的に正確で詳細に表現された屋外風景をすでに描いていたのである[171]。とはいえ、初期フランドル派の画家たちの作品のいくつかにも、精緻に表現された屋外風景が描かれている作品は存在する。ヤン・ファン・エイクが1439年頃に描いた『キリスト磔刑と最後の審判』やファン・デル・ウェイデンが描き、その後何点もの模写が作成された『聖母を描く聖ルカ』などである[107]

ヤン・ファン・エイクは『『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』のリンブルク三兄弟が描いた風景画に影響を受けたと言われている。『トリノ=ミラノ時祷書』のミニアチュールを担当した複数の画家のうち、ヤン・ファン・エイクだとされる「画家 G」が描いた色鮮やかな風景画にはリンブルク三兄弟の作風が見られる[172]。美術史家ペヒトは、これらの装飾写本に描かれたミニアチュールが、初期フランドル派の絵画作品における風景画の源流だとしている[173]。装飾写本での伝統的な風景描写は、その後数世紀にわたって受け継がれた。初期フランドル派最後期の画家シモン・ベニングは、装飾写本『グリマーニ家の聖務日課書』に描いたミニアチュールで「風景画の分野に新たな地平を拓いた」と言われている[174]

『エジプト逃避』(15世紀後半)、ヨアヒム・パティニール。
アントウェルペン王立美術館所蔵。パティニールは「万象の風景画」を創始した画家である。

15世紀後半から、多くの画家が風景画を重要視し始めた。これは宗教画よりも世俗を主題とした作品が好まれるようになっていったことと大きく関係している[22]。初期フランドル派第二世代にあたる画家たちは、14世紀半ばから続いていた古めかしい屋外描写の革新を開始した。これは金銭的余裕ができた当時のネーデルラントの中産階級が諸国に旅をし、変化の少ない自国とは異なる南ヨーロッパの起伏にとんだ田舎風景を目にする機会が増えたことによる。15世紀の終わりごろには、風景画を専門とする画家や、精緻な風景描写を作品に取り入れる画家が多く存在していた。とくに14世紀半ばに活動したコンラート・ヴィッツと15世紀の終わりごろに活動したヨアヒム・パティニールが重要な画家である[175]。初期フランドル派の風景画に革新をもたらしたのは、ハールレムライデンスヘルトーヘンボスの画家たちが中心だった。これらの諸都市の画家たちはそれまでの風景表現を排し、自身らの作品の印象を強め、その意味を深めるために新たな手法で精緻な風景画を描いた[171]

『エジプト逃避』(1563年)、ピーテル・ブリューゲル。
コートールド・ギャラリーロンドン)所蔵。

山岳、低地、渓谷、建築物など様々な要素の風景を同時に表現し、聖書の登場人物や歴史上の著名人を描きいれた、雄大で幻想的な作品を「万象の風景画 (Weltlandschaft)」 と呼ぶが、パティニールがこの分野を開拓した画家といわれている。万象の風景画は、小さく描かれた人物像を広大な自然が取り巻いている場面を俯瞰した構図が特徴となっている[176]。この構図はヘラルト・ダフィト、ピーテル・ブリューゲルら多くの初期フランドル派の画家が自身の作品に取り入れたほか、ドイツではドナウ派 (en:Danube school) と呼ばれる画家たちがとくにこの構図を好んで用いた。パティニールの絵画はどちらかと言えば小規模で、水平的な構図の作品となっている。この構成は西洋風景画の基本となり現在では平凡とさえいえるが、当時は独創的な構成とされており、1520年以前に多くの絵画で採用されてきた垂直的な構図を一新するものだった[177]。万象の絵画には前世紀半ばに革新された要素も多くみられるが、現代の映画技法にも通じるロングショットの構図で描かれている。ヒエロニムス・ボスも万象の風景画の構成を取り入れた画家で、その影響を作品に見ることができる[178]

万象の風景画の主題としてもっとも有名なものが『マタイによる福音書』のエピソードであるエジプト逃避、荒野で苦行生活を送った聖アントニオス、砂漠で隠遁生活を送った聖ヒエロニムスである。大航海時代の始まりとアントウェルペンの隆盛が、国際貿易と地図学の発展をもたらし、田舎に対する都市部にすむ富裕な住民の視点も変化していった時代だった。このような状況下で宗教的主題の絵画作品が好まれたのは、巡礼の象徴だったためだと指摘する美術史家も多い[179]




注釈

  1. ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
  2. ^ 単に「フランドル絵画」、「ネーデルラント絵画」ないし「オランダ絵画」といった場合には、17世紀初頭の作品群(オランダ黄金時代の絵画)を指すことのほうが多い[3]
  3. ^ ヤン・ファン・エイクは自身の署名にギリシア語のアルファベットを使用しており、そのほかのヘントで活動していた画家は工房で弟子たちに読み書きを教えていた。
  4. ^ 現在の研究では、当時キャンバスに描かれていたのは作品全体のおよそ三分の一程度とも考えられているが、それらの作品のうち現在まで残っているものは極めて少なく、現存している初期フランドル派の絵画はほとんどが板絵となっている。 Ridderbos (2005), 297
  5. ^ 『ラファエロのカルトン』から制作されたタペストリーはヴァチカンが所蔵しており、現在でも特別な儀典のときのみシスティーナ礼拝堂に飾られる[124]
  6. ^ フィリップ3世はイアソンの物語に由来する金羊毛騎士団を1430年に設立している。
  7. ^ 当時「三連祭壇画」という言葉は存在しておらず、この形式の作品は「扉付の絵画」と呼ばれていた。Jacobs (2011), 8
  8. ^ 16点のうち完全な状態で現存しているのが8点、裁断された状態で残っているのが5点で、3点は失われてしまっている。Jacobs (2000), 1010
  9. ^ ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた祭壇画で、裁断された状態で現存している『読書するマグダラのマリア』の項を参照。
  10. ^ デューラーの父は金細工師で、息子のデューラーの話では、ネーデルラントで働いていたときに「偉大な芸術家」に出会ったとしている。デューラー自身も1520年から1521年にネーデルラントに滞在しており、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市を訪れている。Borchert (2011), 83
  11. ^ ドイツ人画家コンラート・ヴィッツが1444年に描いた『奇跡の漁り ( en:The Miraculous Draft of Fishes (Witz))』は、西洋美術史上で初めて地理学的に正確な風景が描かれた作品だといわれている。Borchert (2011), 58
  12. ^ パノフスキーは「三箇所のアーチから見ることが出来る屋内風景」と表現している。 Panofsky (1969), 142
  13. ^ このボワスレーのコレクションは1827年にドイツ人画家ヨハン・ゲオルグ・フォン・ディリスの勧めで1827年に売却され、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークの中核コレクションの一つとなっている。Ridderbos (2005), 86

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