初期フランドル派 用語と領域

初期フランドル派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 03:42 UTC 版)

用語と領域

1432年にヤン・ファン・エイクが完成させた『ヘントの祭壇画』。この作品と装飾写本の『トリノ=ミラノ時祷書』が、初期フランドル派最初の重要な作品だと見なされている。

「初期フランドル派」は、ブルゴーニュ公国の統治下にあった15世紀から16世紀のネーデルラントで発展した絵画作品と、その作者たる画家を意味する用語として使用されることが多い[3]。初期フランドル派の芸術家たちは、この時代の北ヨーロッパでそれまでの中世ゴシック様式から徐々に脱却し、北方ルネサンスと称される新たな美術様式を創りあげていった。当時の政治的観点ならびに美術史的観点から見れば、ブルゴーニュ公国の文化の影響は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに渡る地域にまで波及していた[4]

「初期フランドル派」はさまざまな呼ばれ方をすることがある。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である[5]。1900年代初頭の英語圏諸国では「ヘント=ブルッヘ派 (en:Ghent-Bruges school)」や「旧ネーデルラント派 (Old Netherlandish school)」と呼ばれることが多かった。「初期フランドル派 (Flemish Primitives)」は、もともとフランス語での伝統的な美術史用語で[6]1902年以降に有名になった呼称であり[7][† 2]、とくにオランダとドイツでは現在でもこの名称が主に使用されている[5]。初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキーは、もともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技法)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている[8]。ヴァロワ=ブルゴーニュ公家がネーデルラントの統治を確立すると、ネーデルラントはより国際都市的な変貌を遂げ始めた[9]。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) は、1406年から1420年にかけて芸術の分野でも同様の事象が発生したとし、「絵画に大変革が起きた」、芸術に写実主義という「新たな美」が顕現したと指摘している[10]

1477年当時のブルゴーニュ公国の地図。ブルゴーニュ公国は15世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家が政治的に統治していた地域で、フランドル北部とネーデルラント王国南部も含まれる。芸術の中心地だったのは15世紀に栄えたブルッヘとヘント、16世紀に栄えたアントワープである[11]

19世紀時点では初期フランドル派に関する研究が十分に進んでいなかった。当時の研究者たちは、ヤン・ファン・エイクはドイツ人、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはフランス人で[12]、初期フランドル派発祥の地もフランスかドイツだと考えていた[13]。これらの学説は第一次世界大戦後になってから否定され、ドイツ人のマックス・ヤーコブ・フリートレンダー、パノフスキー、オーストリア人のペヒトらが初期フランドル派の研究発展に大きな業績を残した。この三名のようなドイツ語圏の研究者をはじめ、世界各国の美術史家たちは初期フランドル派の呼称に「フランドル」という地方名を使った用語を使用しているが、英語圏では「初期ネーデルラント派」という用語が使用されることが多い[12]

14世紀はゴシック様式国際ゴシック様式へと推移していった時代で、その他にも北ヨーロッパでは様々な芸術学派、様式が発展していた。初期フランドル派の起源は、フランス王宮で伝統的に発展してきた装飾写本に求めることができる。現代の美術史家たちは、フランス王宮でこのような装飾写本が制作されるようになったのは14世紀からだとしている。その後、装飾写本の技法をメルキオール・ブルーデルラムロベルト・カンピンといった、初期フランドル派の板絵画家たちが取り入れ始めた。カンピンは初期フランドル派最初期の重要な画家であるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの師だったとも言われる画家でもある[9]。装飾写本は、ブルゴーニュ公フィリップ2世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世といった当時の権力者たちから庇護を受け、1410年代にその最盛期を迎えた。その後もブルゴーニュ公家は装飾写本の庇護を続け、フィリップ3世シャルルは多くの装飾写本を制作させている[14]。装飾写本は15世紀の終わりごろには衰退しているが、これは板絵に比べて装飾写本の制作工程が遥かに複雑で、高額な費用がかかったためだと考えられている。それでも装飾写本は最高の贅沢品としての市場価値を保ち続けており、他にも木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画も、マルティン・ショーンガウアーアルブレヒト・デューラーといった優れた芸術家の登場によって新たな人気を獲得していった[15]

快楽の園』(1490年 - 1510年頃)、ヒエロニムス・ボス
プラド美術館マドリード
中央パネルに描かれているモチーフが道徳的警鐘なのか失楽園なのか、美術史家の間でも見解が分かれている作品。

14世紀の装飾写本には欠落していた精緻な光と影の表現技法を確立し、絵画作品にもたらしたのがヤン・ファン・エイクである[16]。この技法によって聖書の場面をモチーフとした宗教画は自然主義で描かれるようになり、世俗的な肖像画もより感情に訴えかける生き生きとした描写で描かれるようになった[17]。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガはその著書『中世の秋』で、日々の暮らしが「美しさに満ちた」宗教的な儀式や礼典と密接に結び付いた時代だったと記している[18]。このような北ヨーロッパの美術作品はヨーロッパ全土で高く評価されていたが、様々な理由により1500年ごろから徐々に翳りを見せ始める。イタリアで勃興したルネサンス美術が商業的な成功を収め、数十年後には完全に市場価値が逆転してしまった。当時の初期フランドル派美術作品とイタリアルネサンス美術作品の逆転を象徴する出来事が二つある。1506年にルネサンスの巨匠ミケランジェロの大理石彫刻作品『聖母子 (en:Madonna of Bruges)』がブルッヘに[15]、1517年には同じくルネサンスの巨匠ラファエロが描いたタペストリの下絵である『ラファエロのカルトン』がブリュッセルに持ち込まれて好評を博している[19]。ルネサンス美術は北ヨーロッパにもたちまちのうちに広まったが、初期フランドル派の画家たちがルネサンス芸術家たちに与えた影響も少なくない。ミケランジェロの聖母マリアは、ハンス・メムリンクが発展させた様式をもとにして制作されているのである[15]

その死をもって初期フランドル派の終焉とする学説もあるヘラルト・ダフィトの没年は1523年のことである。クエンティン・マセイスヒエロニムス・ボスといった芸術家たちは、16世紀半ばから後半にかけても初期フランドル派の様式を維持し続けていたが、この二人を初期フランドル派の芸術家だとはみなさない美術史家も少なくない。ファン・デル・ウェイデンやヤン・ファン・エイクといった最初期の芸術家の作風とはあまりにかけ離れ過ぎだとする[6]。16世紀初頭の北ヨーロッパの芸術家たちは自身の作品に三次元的錯視表現を持ち込み始めた[20]。それでもなお16世紀初頭の絵画作品には前世紀に使用された技法や寓意表現の影響が顕著であり、前世紀からの伝統的絵画様式に忠実に則った、過去作品のコピーといえるような絵画を制作し続けた画家たちもいた。ルネサンス人文主義の影響から抜け出せずに、キリスト教を主題とした宗教画をギリシア・ローマ神話と混交した作品として描き続けた画家たちも存在している[21]。北ヨーロッパの絵画作品が15世紀半ばの様式から完全に脱却したのは、1590年ごろから興った北方マニエリスム (en:Northern Mannerism) 以降のことだった。これは16世紀初頭から中盤にかけてイタリアで隆盛した、ルネサンス後期様式といえるマニエリスムの時期と合致する。世俗人を描いた自然主義の肖像画、庶民あるいは貴族の生活を描いた風俗画、背景として描かれることが多かった風景画や都市画の発展など共通点も多い[22]




注釈

  1. ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
  2. ^ 単に「フランドル絵画」、「ネーデルラント絵画」ないし「オランダ絵画」といった場合には、17世紀初頭の作品群(オランダ黄金時代の絵画)を指すことのほうが多い[3]
  3. ^ ヤン・ファン・エイクは自身の署名にギリシア語のアルファベットを使用しており、そのほかのヘントで活動していた画家は工房で弟子たちに読み書きを教えていた。
  4. ^ 現在の研究では、当時キャンバスに描かれていたのは作品全体のおよそ三分の一程度とも考えられているが、それらの作品のうち現在まで残っているものは極めて少なく、現存している初期フランドル派の絵画はほとんどが板絵となっている。 Ridderbos (2005), 297
  5. ^ 『ラファエロのカルトン』から制作されたタペストリーはヴァチカンが所蔵しており、現在でも特別な儀典のときのみシスティーナ礼拝堂に飾られる[124]
  6. ^ フィリップ3世はイアソンの物語に由来する金羊毛騎士団を1430年に設立している。
  7. ^ 当時「三連祭壇画」という言葉は存在しておらず、この形式の作品は「扉付の絵画」と呼ばれていた。Jacobs (2011), 8
  8. ^ 16点のうち完全な状態で現存しているのが8点、裁断された状態で残っているのが5点で、3点は失われてしまっている。Jacobs (2000), 1010
  9. ^ ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた祭壇画で、裁断された状態で現存している『読書するマグダラのマリア』の項を参照。
  10. ^ デューラーの父は金細工師で、息子のデューラーの話では、ネーデルラントで働いていたときに「偉大な芸術家」に出会ったとしている。デューラー自身も1520年から1521年にネーデルラントに滞在しており、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市を訪れている。Borchert (2011), 83
  11. ^ ドイツ人画家コンラート・ヴィッツが1444年に描いた『奇跡の漁り ( en:The Miraculous Draft of Fishes (Witz))』は、西洋美術史上で初めて地理学的に正確な風景が描かれた作品だといわれている。Borchert (2011), 58
  12. ^ パノフスキーは「三箇所のアーチから見ることが出来る屋内風景」と表現している。 Panofsky (1969), 142
  13. ^ このボワスレーのコレクションは1827年にドイツ人画家ヨハン・ゲオルグ・フォン・ディリスの勧めで1827年に売却され、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークの中核コレクションの一つとなっている。Ridderbos (2005), 86

出典

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