冬の日 (小説) 作品評価・研究

冬の日 (小説)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 01:47 UTC 版)

作品評価・研究

※梶井基次郎の作品や随筆・書簡内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

『冬の日』は、梶井基次郎の特質的なものが全面的に押し出されている作品で、自身の避けがたい死の宿命を正面から見据え、その絶望感と深い闇から自覚的に自己の崩壊を描くことにより、文学者としての方法をも掴み取ろうとしている作品で、『冬の日』以後では作品の傾向が変化していることが看取され、一つの転換点的な作品として位置づけられている[1][6][7][8][9]

そして、それまで描かれてきた感覚的な世界に、より客観的な自己認識に立った心象が加味され、比喩象徴を多用した詩的世界が醸し出されており[5][20]、他の作品(『泥濘』『Kの昇天』)にも出現したドッペルゲンガー的な表現も見られ、幻視的な要素が深まっている[7]

三好達治は、『冬の日』の季節描写の言葉の一つ一つが「極度に吟味されて注意深く排列されてゐる」と指摘し、その「一見して即ち眼を射る」描写のぎりぎりまでに切りつめられた修辞は、「一種象徴的な域にまで迫らうとするかの如き意気込みにさへ見える」と解説している[20]。そして『冬の日』を基次郎の作品の中で「最も愛するものの一つに数へて憚らない」とする三好は、種々の詩的表現の数々を仔細に見つつ、以下のように評している[20]

ぎこちなさをも時に敢てしようとする位、やや露骨な位に直接で、その直接な切羽つまつた詩的衝動は、肉体の危機をこらへて絶望と闘ひ戯れる堯の、しきりに場面と挿話とを交替するこの単調にして変化に富んだ一篇に、一貫した主題となつてゐる。(中略)梶井の詩的衝動は、堯の悲痛を訴へ叙するに熱心である傍ら、また屡々、優雅な余暇を楽しむやうに、しきりに微物への観察を試みるそのいくらか道草めいた点に於ても、副産物的な彼の余情を展開してゐる。 — 三好達治「梶井基次郎」[20]

なお、三好は『冬の日』前篇の時点で感動し、この作品の掲載された『青空』24号に手紙を添えて、見ず知らずの室生犀星に送ったが、室生もこの作品を褒め、基次郎に讃辞の手紙を出している[2][8][36]阿部知二もこの作品に、『方丈記』や松尾芭蕉散文を連想し、「こんな作品は、昔からの日本文学の最高の伝統の列のうちに加わるであらう」と評して、基次郎に讃嘆の手紙を送った[2][41]。阿部が藤沢桓夫にも基次郎の話をすると、藤沢は、「羽賀井一心斎のようだね」と基次郎を評したという[2][41] [注釈 2]

武田泰淳は、基次郎のその後の作品『冬の蠅』で、死にかけている冬の蠅の微妙な変化を室内で凝視し、〈死んだやう〉という言葉が何度も繰り返されている「ピアノ弾奏者の微妙な指さき」のような絶妙な描写と、『冬の日』における銀座の街中での、〈何をしに自分は来たのだ〉というリフレインが3回重ねられる場面が醸し出す効果の違いに触れながら、以下のように高評している[42]

「何をしに自分は来たのだ」が、三回くりかえされている。この問いは、言うまでもなく、死んだようではあるが、まだ死んでいない生物、自分に対する問いかけである。「やがて自分は来なくなるだらう」と言う予感が、くりかえし浜べへ押し寄せた問いを、ふたたび遠い海の胎内へおくりかえす。(中略)
ジッととまって動かない蠅の方は、むしろ外界から遮断されて、うちへうちへともぐって行く彼の視力が、室内でとらえた対象であるから、くりかえしの手法も、おのずから異なっているのである。くりかえさずにはいられない、彼の必死の想い。どうしても表現したい彼のモティーフが、二つ全く同じなのに、やはりかすかな視角のずれにも敏感に、ちがった反応をする。こうした彼の手法は、まことにすぐれているではないか。 — 武田泰淳「微妙なくりかえし」[42]

柏倉康夫は、フランス人が『冬の日』を読んだ際に、主人公の自我(soi)と外界の風景の関係性があいまいと感じ、風景描写がいつのまにか心理描写や心象的な幻視になっていたりするところが、フランスの小説の表現方法と異なり、ボードレール散文詩と似た印象を持つことに触れつつ、『冬の日』の象徴的な文体の特性について解説している[7]

ある心の風景」のなかの一節、「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」という梶井自身による定義は、「冬の日」の叙景文においても真実であって、ここには不可視のものを見たいという内心の強い欲求が表現されている。視線はいわば肉体のをのりこえて、風景のなかにのびて行く。そしてその視線がとらえるものは、もはや実景とも幻視ともつかぬものである。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」[7]

また柏倉は、主人公・堯が自身の吐いた血痰を客観的に眺めようとする態度には、基次郎が三好達治に、自分の喀血を葡萄酒だとして見せた態度を相通じるものとし[7]、その深い絶望そのものと言える血の〈一塊の彩り〉が、ある美しさを伴って表現されているのは、〈生きる熱意〉を失くした主人公が、距離感を持って現実を見直すことで意識が変化し、現実との関係にわずかな「ズレ」が生じることにより、凝視する風景から「幻の光景」が生み出されると解説している[7]

そして柏倉は、絶望から堯が見る様々な幻視やドッペルゲンガー(自己の二重化)は、堯が密かに待望し、それにより生きる力を得られるとし[8]、「幻視の火によって燃えあがった生命」はその火が消えた時、前よりも一層「死」を身近に引き寄せてしまうが、そうした「死の危険」を賭してまで「光と闇の両極の間に、さまざまな幻の光景を見ようとする」堯にとって、それが「唯一の生きている証」となり、「文学の成立する条件」になると考察している[8]

季節の推移に呼応するように、主人公の心身は次第に衰えて行く。はじめは「崩壊に屈しようとする自分を堪へてゐた」主人公堯も、第六章ではついに、「冬の日に、もう堪へることが出来なくなつた」と告白せざるをえなくなる。「冬の日」は、こうした自己の崩壊を冷静に見つめ、それを報告した書でもある。梶井にとって、死がどうやら避けることのできない宿命であり、幻視はこの宿命を逃れる唯一の手段であるとともに、それを引き寄せる麻薬であるのは明らかであった。「冬の日」を書きつつ、それを悟ったのだった。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」[8]

遠藤誠治は、基次郎が『冬の日』の前篇を発表した『青空』24号に同時掲載された同人北川冬彦シュールな短詩「馬」(軍港を内蔵してゐるという一行詩[注釈 3])をしきりに激賞していたことに着目し[43][44][45]、その「内蔵」という語が下宿窓のドッペルゲンガーの場面に生かされていると考察している[3]

そして北川の「馬」の構図を基次郎が、〈物質の不可侵性を無視することによつて成り立つてゐる〉と評していたことに触れつつ、その概念が『冬の日』の作中の〈風景は俄に統制を失つた。そのなかで彼は激しい滅形を感じた〉や、〈薄暮に包まれてゐるその姿は、今エーテルのやうに風景に拡がつてゆく虚無に対しては、何の力でもないやうに眺められた〉という一節に関連していると遠藤誠治は考察し、〈滅形〉という言葉と〈虚無〉の「侵透力」について注意を促している[3][注釈 4]

また遠藤誠治は、基次郎が『筧の話』の草稿の中でも、〈影〉について〈物質の不可侵性を無視して風景のなかに侵透〔ママ〕してゆく〉と書き、同じ草稿や友人・近藤直人への書簡(大正15年6月12日付)で、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の「時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」の句を引いていたことなどに触れ、『冬の日』に散見される芭蕉の影響を論考している[3]。また、堯が歳末の街でつぶやく〈何をしに自分は来たのだ〉の緊迫感と、芭蕉の句「何に此師走の市にゆくからず」の「何に此」に込められた「五文字の意気込」(『三冊子』での芭蕉の言葉)が通底していることから、「梶井は銀座の旅人であった」としている[3]

〈物質の不可侵性を無視する〉のが〈透視〉とすれば〈霧時雨〉のかなたを想像するのは〈幻視〉と呼んでもよい。梶井は芭蕉の句にも〈透視〉的な要素のものと、〈幻視〉的な要素のものとがあることに気づいていたようである。(中略)芭蕉がその『冬の日』に於て開拓した新風が〈蕉風〉とすれば、梶井がその「冬の日」に於て開拓した新風は、〈リヤリスチック シンボリズム〉であった。〈芭蕉精神の近代的表現〉なのであった。 — 遠藤誠治「梶井基次郎における芭蕉受容:―「冬の日」を中心に―」[3]

遠藤祐は、芥川龍之介が評論『文芸的な、余りに文芸的な』において論じた「芸術家」(芸術)と「生活者」(人生)の相剋に触れ、梶井基次郎という作家もまた生涯を通じて、その二つが「離れ難い問題」であったとし[9]、三好達治が基次郎の生涯について、「以前は必ず眼を蔽ひたいやうな悲痛な感じを伴つてしか思ひ浮べることができなかつた」と語っていたことを鑑みつつ、その「悲痛な感じ」が「(基次郎の)内心の奥深いところにあった〈芸術家〉と〈生活者〉とのもつれあい」から起因するものと考察して、その「痛ましさ」が絶頂に達している作品が『冬の日』だとしている[9]

また遠藤祐は、習作『瀬山の話』、『檸檬』からの作品の変遷を見ながら、基次郎が事物や風景を凝視し、「自身がそのものになり切ってしまう」ような「純粋感覚」の境地に立ち、次第にその二重の感覚性(ドッペルゲンガー的なもの)を自覚的に感受しようとしてきた流れを解説しながら、その「生の破綻をのり越えるための必然な営み」が、『冬の日』では、自身の死が逃れられない現実として迫って「虚無」として確実に認識される状況となり、「死と生とをめぐって、その何れにも牽引と反撥とを感じている」として、「死へ傾倒していく生の事実」を認めざるをえない複雑な構造性が『冬の日』にはあると考察している[9]

そして作中で堯が、〈冷静といふものは無感動じやなくて、俺にとつては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見てゐることだ〉と語る一節を引きながら、そこには、この作品を書き綴っていた最中の基次郎の「切実な感慨が託されている」と遠藤祐は述べている[9]

逃れ出るべき外界が信じられないとすれば、残されているのはたゞ現実の自己に即してその状況を見守ることの他にない。(中略)それは甚しく苦しい作業だったに違いない。しばしば語られたこの作の書き難さもそこに原因があったのであろう。
彼にあってはほとんどの作品が何かに魅せられることを契機として書き出されていると見えるのだが、もし『冬の日』において彼を魅したものを求めるとすれば、それは他ならぬ彼自身の存在であったということになるであろう。 — 遠藤祐「『檸檬』より『冬の日』まで : 梶井基次郎における内心の展開の一面」[9]

注釈

  1. ^ Christine Kodama(クリスチーヌ・小玉)は、『視線の循環――梶井基次郎の世界』(邦題)という梶井基次郎論と共にいくつかの梶井作品を仏訳し1987年パリで出版した[7][13]
  2. ^ 羽賀井一心斎は江戸時代前期の剣術家で、風貌は眼光が澄み、総髪の長髪だったとされる[41]
  3. ^ 北川冬彦の詩「馬」は、「軍港を内臓してゐる」という一行詩だが[43]、『青空』24号の初出では、「内蔵してゐる」となっていた[3]
  4. ^ エーテルは、光の波動説において、光の伝播を媒介する物質(媒質)だと仮定されていたが、相対性理論の確立後はこの仮定は無意味となった[46]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 「第三部 第一章 『冬の日』」(柏倉 2010, pp. 237–244)
  2. ^ a b c d e f 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196–215)
  3. ^ a b c d e f g h i j 遠藤誠 1978
  4. ^ a b c d 黒田 1975
  5. ^ a b c d 「湯ヶ島の日々」(アルバム梶井 1985, pp. 65–83)
  6. ^ a b 淀野隆三「解説」(新潮文庫 2003, pp. 325–349)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第三部 第二章 『冬の日』の評価」(柏倉 2010, pp. 245–254)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「第三部 第三章 闇と光」(柏倉 2010, pp. 255–264)
  9. ^ a b c d e f g 遠藤祐 1956
  10. ^ a b c d e 浅見淵中谷孝雄外村繁北川冬彦三好達治・淀野隆三「座談会 梶井基次郎の思い出」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(1)(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。別巻 2000, pp. 350–367に所収
  11. ^ a b 鈴木貞美「梶井基次郎年譜」(別巻 2000, pp. 454–503)
  12. ^ 藤本寿彦「書誌」(別巻 2000, pp. 516–552)
  13. ^ a b ウィリアム・J・タイラー編「外国語翻訳及び研究」(別巻 2000, pp. 640–642)
  14. ^ Dodd 2014
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162–195)
  16. ^ 「日記 草稿――第六帖」(大正14年)。旧2巻 1966, pp. 269–307に所収
  17. ^ a b c d e f 「近藤直人宛て」(昭和2年1月2日付)。新3巻 2000, pp. 161–163に所収
  18. ^ a b 「第二部 第六章 『新潮』への誘い」(柏倉 2010, pp. 190–199)
  19. ^ a b c d e f g h i 「第二部 第八章 大正末」(柏倉 2010, pp. 215–236)
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m 三好達治「梶井基次郎」(文藝 1950年2月号-3月号)。別巻 2000, pp. 182–197に所収
  21. ^ a b c 三好達治「梶井基次郎君の憶出」(文藝春秋 1934年3月号)。別巻 2000, pp. 83–85に所収
  22. ^ 「畠田敏夫宛て」(昭和2年2月5日付)。新3巻 2000, pp. 194–196に所収
  23. ^ 「北神正宛て」(昭和2年2月3日付)。新3巻 2000, pp. 188–190に所収
  24. ^ 北川冬彦宛て」(昭和2年1月2日付)。新3巻 2000, p. 160に所収
  25. ^ 淀野隆三宛て」(昭和2年1月6日付)。新3巻 2000, pp. 167–169に所収
  26. ^ 「北川冬彦宛て」(大正15年11月20日付)。新3巻 2000, pp. 153–154に所収
  27. ^ a b 中谷孝雄『梶井基次郎』(筑摩書房、1961年6月)。『中谷孝雄全集 第4巻』(講談社、1975年)。遠藤誠 1978, p. 24
  28. ^ 「近藤直人宛て」(大正14年10月26日付)。新3巻 2000, pp. 128–131に所収
  29. ^ 「第二部 第二章 行き悩む創作」(柏倉 2010, pp. 123–139)
  30. ^ a b c d 「近藤直人宛て」(昭和2年2月4日付)。新3巻 2000, pp. 190–194に所収
  31. ^ 「近藤直人宛て」(大正14年6月1日付)。新3巻 2000, p. 113に所収
  32. ^ a b c 「日記 草稿――第九帖」(昭和2年)。旧2巻 1966, pp. 366–386に所収
  33. ^ a b c d e f g 「日記 草稿――第十帖」(昭和2年)。旧2巻 1966, pp. 387–409に所収
  34. ^ 外村繁「梶井基次郎のこと」(創元 1941年9月号)。別巻 2000, pp. 75–77に所収
  35. ^ 飯島正「梶井君の思ひ出」(評論 1935年9月号)。別巻 2000, pp. 52–55に所収
  36. ^ a b c 「近藤直人宛て」(昭和2年3月17日付)。新3巻 2000, pp. 202–203に所収
  37. ^ a b 「淀野隆三宛て」(昭和2年3月17日付)。新3巻 2000, pp. 201–202に所収
  38. ^ 「淀野隆三宛て」(昭和2年4月10日付)。新3巻 2000, pp. 207–211に所収
  39. ^ a b 「北川冬彦宛て」(昭和2年12月14日付)。新3巻 2000, pp. 253–256に所収
  40. ^ a b 丸山薫「ユーモラスな面影」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 305–307に所収
  41. ^ a b c 阿部知二「梶井氏の想出など」(作品 1932年5月・追悼特集号)。別巻 2000, pp. 295–297に所収
  42. ^ a b 武田泰淳「微妙なくりかえし」(『決定版 梶井基次郎全集3巻 書簡・年譜・書誌』月報[檸檬通信(3)]筑摩書房、1959年7月)。別巻 2000, pp. 377–379に所収
  43. ^ a b 「北川冬彦宛て」(昭和2年2月2日付)。新3巻 2000, pp. 183–185に所収
  44. ^ 「北川冬彦宛て」(昭和2年3月21日付)。新3巻 2000, pp. 205–207に所収
  45. ^ 梶井基次郎「詩集『戦争』」(文學 1929年12月号)。旧2巻 1966, pp. 72–77に所収
  46. ^ 三好行雄「注解――城のある町にて」(新潮文庫 2003, pp. 319–320)





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