内田裕也
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内田 裕也 | |
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新興音楽出版社『ミュージック・ライフ』第13巻第5号(1963)より | |
基本情報 | |
生誕 | 1939年11月17日 |
出身地 | 日本・兵庫県西宮市 |
死没 | 2019年3月17日(79歳没) |
ジャンル |
ロックンロール ロカビリー |
職業 |
歌手 音楽プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1959年 - 2019年 |
公式サイト | 内田裕也オフィシャルサイト |
うちだ ゆうや 内田 裕也 | |||||
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本名 | 内田 雄也 | ||||
生年月日 | 1939年11月17日 | ||||
没年月日 | 2019年3月17日(79歳没) | ||||
出生地 | 日本 兵庫県西宮市 | ||||
死没地 | 日本 東京都 | ||||
身長 | 174 cm | ||||
血液型 | B型 | ||||
職業 | 俳優、歌手、タレント、プロモーター、タレント・スカウト、エンターテイナー | ||||
ジャンル |
映画 テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1966年 - 2019年 | ||||
配偶者 | 樹木希林(1973年 - 2018年死別) | ||||
著名な家族 |
内田也哉子(娘) 本木雅弘(娘婿) 内田伽羅(孫) | ||||
公式サイト | 内田裕也オフィシャルサイト | ||||
主な作品 | |||||
『コミック雑誌なんかいらない!』 『魚からダイオキシン!!』 | |||||
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兵庫県西宮市に生まれ[1]、1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。内田裕也とザ・フラワーズ、フラワー・トラベリン・バンドでのロッカーとしての活動のほか、1970年代後半からは俳優としても活動した。映画の代表作に『コミック雑誌なんかいらない!』『エロティックな関係』『水のないプール』『十階のモスキート』『魚からダイオキシン!!』などがある。若松孝二監督や神代辰巳監督の作品にも出演した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
妻は俳優の樹木希林。娘は内田也哉子。内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たる。
経歴・人物
父・鐵蔵(1969年12月28日 81歳没)、母・壽子(1985年1月29日 88歳没)の間に兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育つ[2]。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校入学(1952年)[2]。中学二年の時、清教学園中学校に転入(一期生)[2]、翌1953年、大阪市立旭陽中学校へ転入[2]。1955年、大阪府立旭高等学校へ入学[2]。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める[2]。中学ではラグビー部、高校では野球部に所属[2]。しかし、エルヴィス・プレスリーに憧れたことで学校に行かなくなり、旭高等学校を退学して1956年、大阪府立三国丘高等学校に転校する[2]。1957年、高校卒業後、日本大学法学部の夜学を中退。
バンドボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成する[2]。
1958年、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二などがいた[2]。
1959年、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。
1960年、かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年、寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。
1963年、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年公開の『エレキの若大将』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技が見られる。
1960年代中頃から、ベンチャーズやビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウトする。東京へ活動の場を移しジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし諸事情で
1967年、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、イギリス、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとして内田裕也とザ・フラワーズを結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。
1969年、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。
1970年、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会(通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。
1971年、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。
1973年、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月には悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月には年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催する。
1974年8月にワンステップフェスティバル、1975年8月に第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティストの
1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本・主演を兼ね、一定の評価を得た。
1979年1月、妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサーの久世光彦と番組出演者の不倫を暴露し騒動となる。騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカーが出動する騒ぎを起こした[7]。
1981年、離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、訴訟となり、離婚無効との判決が下る。
1991年にはアントニオ猪木が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され東京都知事選挙に立候補し、対立候補である浜田マキ子と共闘。政見放送の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラで「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語及びフランス語で主張を演説した[8][注釈 2]。また選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた[8]。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込むことを求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。以上、数々のエピソードを作り(この模様は映画『魚からダイオキシン!!』にて一部見ることができる)、メディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判され、結果的には落選したが、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。
シンガーでありながら1985年に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以来シングル盤を発表していなかったが、2014年6月11日に29年ぶりとなるシングル盤をエイベックスから「シェキナベイベー」[注釈 3]を指原莉乃(HKT48)とのコラボレーション・デュエットという形で発売した[9]。
2017年11月には脱水症状を起こして緊急入院する[1]など、晩年は怪我や病気が続いたことで体力が低下し、自身が主催する恒例の年越しライブ「New Years World Rock Festival」では2017・18年と車椅子での出演となった[1]。
2018年9月15日に妻の樹木と死別。その約半年後となる2019年3月17日5時33分、肺炎のため東京都内の病院で死去[1][10]。79歳だった。
同年4月3日、青山葬儀場でお別れの会が開かれ、AI、堺正章、指原莉乃、竹中直人、ダイアモンド☆ユカイ、浅田美代子、鮎川誠、崔洋一、尾藤イサオ、DJ KOO、PANTA、田代まさし、郷ひろみ、氏神一番、巻上公一、秋元康、南部虎弾、ギュウゾウ、ビートたけし、美勇士ら950人が参列した[11][12][13][14][15]。戒名は「和響天裕居士」[11][12]。
各種ロックフェスティバル
- ワン・ステップ・フェスティバル(1974年)
1974年8月1日から8月10日まで郡山市で開催され、オノ・ヨーコ、沢田研二、遠藤賢司、四人囃子をはじめ、日本人のミュージシャンが多数出演した[16]。裕也と素人の洋服屋さんが共催したが、実質的な主催者は裕也だった。
- ワールド・ロック・フェスティバル(1975年)
1975年8月7日ニューヨーク・ドールズ、ジェフ・ベック、カルメンマキ&OZ、四人囃子、クリエイションらが出演した[17]。
- ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル(1974年)
内田裕也が始めた「打倒!NHK紅白歌合戦」をテーマとして、1973年12月に年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を渋谷西武劇場(現:PARCO劇場)にて開催され、ニュー・イヤー・ロック・フェスティバルとして、裕也が亡くなった後も開催されている[18]。開催会場は度々変わっている。
名称については「浅草ROCK'N'ROLL VOLUNTEER」、「スモーキン・クリーンコンサート」、「New Year Rock Festival」を経て、2007年からは「New Years World Rock Festival」の名称で実施。開催会場は一時は浅草の国際劇場やロックンロック、ロック座で行われた時期もあるが、2008年(36回)から東京会場は銀座の博品館劇場をメイン会場に据えるようになっている。2013年からは日本国内において2都市同時公演を東京と石巻(2015年は福島)で行っており、東北開催ではその地ゆかりのアーティストが参加している。
- ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル参加者
内田のひじょうに幅広い交友関係を生かして、多くのアーティストが出演してきた。 【常連(古参)】白竜、シーナ&ザ・ロケッツ、THE NEWS、石橋勲BAND、頭脳警察(PANTA)、近田春夫/活躍中、氏神一番/カブキロックス、陣内孝則/ザ・ロッカーズ。他に故人となったジョー山中、桑名正博、安岡力也が生前は、ほぼ毎年参加していた。
【常連(若手)】カイキゲッショク、新月灯花、高木完、高樹町ミサイルズ(Vo.中村獅童)、原田喧太(原田芳雄の長男)/KATAMALI、美勇士(桑名正博の長男)/トライポリズムなど。
【常連以外】原田芳雄、宇崎竜童、かまやつひろし、ビートたけし、などが数回出演。ほかに沢田研二、萩原健一、キャロル、本木雅弘、RCサクセション、アナーキー、あぶらだこ、THE MODS、ルースターズ、HOUND DOG、P-MODEL、BOØWY、ラッツ&スター、ザ・スターリン、松田優作、JAGATARA、つんく♂、ヒカシュー、AI(カイキゲッショク・HIROの妻)、Zeebraなど。
注釈
出典
- ^ a b c d e 「内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール" - スポニチ Sponichi Annex 芸能」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2019年3月18日。2019年3月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『ぼくのしょうらいのゆめ』プチグラパブリッシング、2006年7月7日、33頁。ISBN 978-4-903267-33-3。
- ^ “内田裕也、阪神は「ロックな勢いバリバリ」”. 日刊スポーツ. (2014年12月18日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ 週刊ポスト2019年4月19日号、p122
- ^ 昭和39年の俺たち 2024年3月29日発売号 p.53
- ^ 実話BUNKA超タブー2022年11月号 p.128
- ^ “芸能界スキャンダル史”. 日刊ゲンダイ (日刊現代): 13面. (2013年3月7日)
- ^ a b 『ミュージック・マガジン』1991年5月号、ミュージック・マガジン、171-172頁。
- ^ “内田裕也&さしこ 53歳差デュエット「シェキナベイベー」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2014年4月23日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 内田裕也さん死去 79歳、肺炎で…Rock'n Roll人生を全う、樹木希林さん死去から半年 - スポーツ報知 2019年3月18日
- ^ a b 内田裕也さん「僕は今あの世にいます」ロックンロール葬で肉声公開…動く遺影など異例のお別れ会に『スポーツ報知』2019年4月3日
- ^ a b 「安らかに眠るな」内田裕也さん ロックンロール葬『産経新聞』2019年4月3日
- ^ 内田裕也さん「ロックンロール葬」 指原莉乃さんら参列『朝日新聞』2019年4月3日
- ^ 内田裕也さんしのぶ「Rock’n’Roll葬」NHKニュース、2018年4月3日
- ^ 「僕は今、あの世にいます」ロック人生貫いた内田裕也のRock'n Roll葬『音楽ナタリー』2019年4月3日
- ^ 「僕らのヤングミュージックショー p.328
- ^ 「僕らのヤングミュージックショー p.352
- ^ 内田裕也主催の年越しフェスを地上波でオンエア - 音楽ナタリー 2024年4月5日
- ^ “祖母・樹木希林が高評価 15歳の内田伽羅に宿る“怪優”の素質”. Yahoo!ニュース. 日刊ゲンダイ (Yahoo Japan). (2015年4月8日). オリジナルの2015年4月20日時点におけるアーカイブ。 2015年4月20日閲覧。
- ^ “「ヒット曲もなく」内田裕也は本当に「ロック界のドン」なのか”. ライブドアニュース. 日刊サイゾー (LINE). (2011年5月21日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 『フォーク黄金時代 FOLK OF AGES 1969-1978』シンコーミュージック、1992年11月、67頁。ISBN 4-401-61406-2。
- ^ “島田陽子さん「妹が葬儀拒否」の寂しき最期…“ハワイで足蹴り“樹木希林さんと同じ粒子線治療の数奇な因縁”. SmartFLASH. (2022年8月2日11:00)
- ^ ““国際女優”島田陽子をドン底に突き落とした内田裕也に山路氏批判の資格ナシ!”. 日刊サイゾー (サイゾー). (2011年1月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “DV癖も…トラブル“常習犯”内田裕也、本当の素顔!”. ZAKZAK (産経デジタル). (2011年5月16日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ a b c “「消えた主役」名作ドラマ・映画の知られざる“交代劇”(2)観月ありさが「高校教師」女子高生役を断った理由”. アサ芸プラス (2016年9月11日). 2020年4月7日閲覧。
- ^ a b c 伊藤徳裕 (2016年12月10日). “内田裕也が暴露&激怒 共演をドタキャンした“あの女優”に「今思い出しても腹が立つ」”. 産経ニュース: pp. 1・2ページ 2020年4月7日閲覧。
- ^ 内田裕也『俺は最低な奴さ』白夜書房、2009年、[要ページ番号]頁。ISBN 978-4-86191-525-3。
- ^ “内田裕也 ピザ車で参上!石巻市で炊き出し”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年4月7日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “HKT48 たどり着いた「伝説の一日」 単独アリーナツアー「可愛い子にはもっと旅をさせよ」福岡市で千秋楽”. 西日本スポーツ (西日本新聞社). (2014年7月18日) 2014年7月19日閲覧。
- ^ “内田裕也、22年ぶりNHKで「ロックンロール!」 紅白出演に意欲も”. ORICON NEWS (オリコン). (2013年9月13日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ “『あさイチ』登場の内田裕也をグサリ、有働由美子アナの一言”. サイゾーウーマン (サイゾー). (2013年9月23日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ 敏いとう「俺が見てきた芸能界薬物汚染40年」の闇真相(1)研ナオコが声を詰まらせた
- ^ 「実刑もありうる」内田裕也容疑者の前歴…大麻に銃刀法違反も
- ^ 内田裕也、ASKA容疑者に喝 関連商品発売中止には苦言
- ^ a b 藤原邦洋「ミュージック・スポット」『週刊文春』1977年(昭和52年)12月22日/29日号、文藝春秋、1977年、119頁。
- ^ “ロックミュージシャン内田裕也容疑者を逮捕 交際女性に復縁迫る”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年5月13日). オリジナルの2011年5月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「よろしくロックンロール」内田裕也容疑者 起訴猶予で釈放”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月1日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “内田裕也「釈明ショー」に取材陣は失笑”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2011年6月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ “内田裕也 赤裸々告白「娘が口をきいてくれない」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月4日) 2016年10月10日閲覧。
- ^ 内田裕也 - オリコンCM出演情報
- ^ “神戸アイドルKOBerrieS、ニューシングルでガガガ山本や内田裕也とコラボ”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2015年8月26日). 2015年8月27日閲覧。
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