元寇 名称

元寇

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元寇(げんこう)は、日本鎌倉時代中期の1274年1281年に、モンゴル帝国元朝)および属国高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。


  1. ^ a b 櫻井大 1999, p. 62.
  2. ^ 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「ヒンドゥ(忻都)」としているが、『高麗史』『高麗史節要』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、ヒンドゥ(忻都)ではなく「クドゥン(忽敦)」という人物であった。『元朝秘史』および『華夷訳語』「韃靼館訳語」雑文などによると、「忻都」という単語は、『元朝秘史』巻11・261段に「忻都(Hindus)」と見え、「インド」を意味するペルシア語の“Hind”ないし“Hindū”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記の一つであるという。『元史』の至元十一年三月庚寅の条に「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」とあり、ヒンドゥ(忻都)が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』の元宗十五年八月己酉の条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。」とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは「クドゥン(忽敦)」であった。『元史』洪茶丘伝に「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も「クドゥン(忽敦)」と書かれている。『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「クドゥン(忽敦)」であり、「ヒンドゥ(忻都)」とは書かれていない。上述のように、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。
  3. ^ a b c 大元朝に人質に出された高麗国王・高宗の子息・王綧の子。『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王綧・附阿剌帖木兒「十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。」
  4. ^ a b 東越允徹『蒙山和尚行道記』「偶文永之歳、元兵偵我西」鄙、有万戸将軍、降于本朝、蓋儒而将者、」(榎本渉『南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附 江戸時代における僧伝集積過程の研究』勉誠出版 2013年3月30日 431頁)
  5. ^ 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」
  6. ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳(三日)の条「冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
  7. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵二の墨書「太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎」
  8. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵三の墨書「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」
  9. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」 赤坂の戦い直後の兵力。赤坂の戦い以前の兵力は不詳。
  10. ^ a b 『元史』巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨「十年(十一年)、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
  11. ^ a b 『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」(近藤瓶城編『改定史籍集覧 第18冊(新加通記類 第1)』臨川書店 1984年2月 275頁)
  12. ^ a b 『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女眞軍、女眞後期、乃發船。」
  13. ^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年三月庚寅の条「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」
  14. ^ 『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、」
  15. ^ 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していたヒンドゥ(忻都)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。他方、歴史学者の大葉昇一は『元史』至元十一年三月庚寅の条「合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は『元史』至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。(大葉昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅(濟州島)征討から元寇へ--』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、同元宗十五年(五月)己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
  16. ^ 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300(『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、5,458(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、5,600(『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、8,000(『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。なお、歴史学者の池内宏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数が約6,000であるという見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額。」、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。」、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」、『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一)三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍五千六百人、助征日本。」
  17. ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、總計一萬人(実数九千五百人)、兵船總九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、竊念、小國戸口、自來凋弊、往歳東征之時、大船一百二十六艘梢工水手、猶爲未敷、況今三百艘、何以盡數應副、以此至於農民、徴發丁壯、凡一萬五千人、其不敷水手三千人、於何調發、有東寧府所管諸城及東京路沿海州縣、多有梢工水手、伏望、發遣三千人補乏、」
  18. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。」 各艦船の用途については山形欣哉・石井謙治『歴史群像シリーズ64―北条時宗―蒙古襲来と若き執権の果断--元寇軍船』(学研出版 2000年 36〜39頁)を参考。
  19. ^ a b c d e 『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事「又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」(『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 21頁)
  20. ^ a b c d e f g 『金綱集』第十二 雑録 異賊襲我国事「九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国大宰府ニ、彼状豊前之新左衛門尉経資請取、大田次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人ヲ以被進公家、於仙洞菅宰相長成卿被召被読条状也、同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之船対馬仁来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古人雖打取資国子息等悉打死畢、同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高(景隆)等構城廓雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国博多・箱崎・今津・佐原賊来、同廿日辰尅少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉影(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)次郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之間、両方死輩不知其数、及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕暗空ニアリ、仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑ノ聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌神風仁蒙古賀船和散波多(亭カ)々底之花久津登成曾宇礼志幾 自他国国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度此中蒙古人十度来也、建治元年九月六日酉尅前後生取九人被切之也、文応元年庚申聖人(日蓮)造立正安国論進覧西明寺(北条時頼)殿、」(坂井法曄 2003, p. 27)
  21. ^ 『八幡愚童訓』「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183。
  22. ^ 『八幡愚童訓』「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。(中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。(中略)異敵ハ大勢也。可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183-184。
  23. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
  24. ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条「以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、」
  25. ^ a b 『朝鮮王朝実録』太祖実録 総序「十八年辛巳、世祖征日本、天下兵船、會于合浦。翼祖蒙上司文字、將本所人戸、簽撥軍人、與雙城摠管府三撒千戸蒙古大塔失等赴征、」
  26. ^ 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、値颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」
  27. ^ a b c d e f 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「明年、宋滅。論功行賞、受池州總把。歸附之初、新令未洽、豪民潛擾郷邑。公撫治以嚴、民頼以安。久之、朝廷以日本梗化不庭、出帥征之。公又行。由慶元汎舟入海凡七晝夜、抵達可島。去其國七十里。潮汐盈涸不常、舟弗能進。乃縛艦爲寨、碇鐡靈山下。命公守之。八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。明日、大帥命公先歸。公由躭羅逾高麗、渡遼水以趍京師。遂歸于池。」
  28. ^ a b 『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思「十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、」
  29. ^ 外山幹夫 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。
  30. ^ 『歴代鎮西要略』「弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。夏六月。元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。忻都洪茶丘爲次将。遣數千之舟師。以伐我國。其兵不知幾百萬。」 なお、同書は文永の役においても日本軍「10万余騎」に対して元軍を「数百万」と記載している。「文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來(中略)(日本側)都合十万余騎。至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。十月二十日。合戦於筑前赤坂數回。於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。破堅碎強。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二30頁、巻之四35頁)
  31. ^ a b 『深堀系図証文記録』「弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)
  32. ^ a b 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中」
  33. ^ a b c d e 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「十七年、授龍虎衞上將軍、征東行省右丞、十八年、與右丞欣都、將舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海、期至日本一岐、平戸等島合兵登岸、兵未交、秋八月、風壞舟而還。」
  34. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(八月)乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、兩軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
  35. ^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。『元史』世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して、高麗国王・忠烈王がクビライに元軍3万の軍勢を要請したとある。また、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したという記載があり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王賰来朝、且言將益兵三万征日本。」および『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 (八月)乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏。」(大葉昇一 2003, p. 25)
  36. ^ a b c d e 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年(十一月)壬午(二十日)の条「壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。」
  37. ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月壬申(八日)の条「范文虎亦以戰艦三千五百艘、蠻軍十餘萬來、會値大風、蠻軍皆溺死。」
  38. ^ 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。江南軍が10万であったことは『高麗史』や『元史』から確認できるが、『元史』洪茶丘伝では「時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海」とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くはなかった。なお東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、江南軍10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。大葉昇一 2003, p. 37また、日本側の史料『鎌倉年代記裏書』においても、元軍の構成として「大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」とあり、兵士15万人とは別に水夫がいたとしている。
  39. ^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安四年)七月、大元賊徒、自宋朝、高麗數千艘船寄來、數日漂對馬海上而後群集肥前國鷹島之處、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々、大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
  40. ^ a b 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年(六月)辛丑(二十五日)の条「東征元帥府承省旨、令造戦艦九百艘。」
  41. ^ a b c 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年八月壬辰の条「忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。」
  42. ^ a b c 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 李庭「十七年、拜驃騎衞上將軍、中書左丞、東征日本、十八年、軍次竹島、遇風、船尽壞、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師、士卒存者十一二。」
  43. ^ a b c 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海「二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。」
  44. ^ a b c d e 『元史』巻一百二十八 列傳第十五 相威「十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。」
  45. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年閏(八)月の条「是月、忻都茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。」
  46. ^ a b 『高麗史』の「東征軍九千九百六十名」とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人(実数九千五百人)、兵船楤九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、」
  47. ^ a b c d e f g h 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)官軍六月入海、七月至平壷島(平戸島)、移五龍山(鷹島か)、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。」
  48. ^ a b 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁
  49. ^ 戸川芳郎監修、佐藤進、濱口富士雄編集『全訳 漢辞海 第三版』三省堂 2011年2月 396頁
  50. ^ 川添昭二 1977.
  51. ^ 佐伯弘次 (2003) 他。
  52. ^ 舩田善之 2009.
  53. ^ a b 『日本歴史大系2 中世』山川出版社、1985年、269頁。
  54. ^ 『元史』巻五 本紀第五 世祖二 至元元年十一月辛巳の条「辛巳、征骨嵬、先是、吉里迷内附、言其國東有骨嵬、亦里于兩部、歳來侵疆、故往征之。」
  55. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月辛酉の条「辛酉、征東招討司以兵征骨嵬。」
  56. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月乙巳の条「詔征東招討使塔塔兒帶、楊兀魯帶以萬人征骨嵬。」
  57. ^ a b 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条「己酉、遣塔塔兒帶、楊兀魯帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。」
  58. ^ a b c d e 中村和之 2001, p. 178.
  59. ^ a b c d 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。」
  60. ^ a b c d 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「癸丑、蒙古遣黒的殷弘等來、詔曰、今爾國人趙彝來告、日本與爾國爲近隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故今遣黒的等往日本、欲與通和、卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿宜任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
  61. ^ 黒田俊雄 (1973), 56頁。
  62. ^ 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録『驚異の書』fr.2810写本』岩波書店 2002年 147頁
  63. ^ 本書の底本は14世紀末頃に成立したと思われる中世フランス語による『驚異の書』(Livre des Merveilles) と呼び習わされている系統の写本群(グレゴワール版 FG系統)に属す、パリ国立図書館蔵の15世紀初頭の写本 (Ms.fr.2810) である。ポール・ペリオらによるとアバタン Abatan やジョンサインチン Jousainchin とは、Abachan(F系統)、Vonsamchin(F系統)やVonsainchin(FG系統)などとして現れ、前者は弘安の役時の日本行省左丞相・阿剌罕 (Alaqan, A-la-han)、後者は右丞・范文虎のことと思われる。後者の表記はマルコ・ポーロ存命中の14世紀初頭に成立したパリ国立図書館蔵の写本(Ms.fr.1116 地理学協会版 F系統)等では Vonsamchin などとして現れ、おそらく范丞相 Fan-Tsai-siang の訛音と考えられる。サルコンは Çaiton(F系統)、Çayton(FG系統)と書かれ、同じ時期にイブン・バトゥータ他アラビア語地理書・旅行記でザイトゥーン زيتون Zaytūn と呼ばれた泉州のことで、キンセーも他の写本ではキンサイ Quinsai (F系統)Quinsay(FG系統)と書かれており、南宋成立時に開封から遷都し「行在」(Hsing-tsai)と呼ばれた杭州のことである。しかし、後述するように弘安の役では江南軍は主に慶元路(明州)はじめ東シナ海沿岸部から発しておりキンサイ(杭州)から出帆したという記述は誤りである。続く記事で暴風雨で難破した侵攻軍は漂着した後でジパングの首都を陥落させたなど、ジャワ侵攻やチャンパー侵攻などと混同していると思われる部分が少なくない。「礼儀正しい」とある部分は唐宋以来の「礼節の国」という日本観を反映したものと考えられ、『元史』日本伝にある趙良弼がもたらした国書にある「日本は素より礼を知る国と号す」という文言とも一致する。また、慶元路は当時、杭州(キンサイ)を首府とする江浙行省の管轄であったために錯誤したものと思われ、「上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」という部分もあるいは文永の役のことを指すとも考えられる。(マルコ・ポーロ『完訳 東方見聞録〈2〉』(平凡社ライブラリー 327)愛宕松男訳注、2000年2月、120頁、170頁、183-190頁。高田英樹「ジパング 日本国 : マルコ・ポーロの東方(4)」『国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要』 24(3)、2011年3月、107-130頁。
  64. ^ 鄭思肖『心史』中興集二巻 元賊謀取日本二絶 元韃攻日本敗北歌「元賊聞其豊庶、怒倭主不来臣、竭此土民力、弁舟艦、往攻焉、欲空其國所有而歸。」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 95頁)
  65. ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「至元初年、髙麗趙開建言通日本以窺宋、數輩奉使。竟無成約、」
  66. ^ a b 『高麗史』巻一百二 列伝十五 李蔵用 元宗九年五月二十九日の条「又勑藏用曰、爾還爾國、速奏軍額、不爾將討之、爾等不知出軍將討何國、朕欲討宋與日本耳、今朕視爾國猶一家、爾國若有難、朕安敢不救乎、朕征不庭之國、爾國出師助戰亦其分也、爾歸語王、造戰艦一千艘、可載米三四千石者、藏用對曰、敢不承命、但督之、則雖有船材、恐不及也、」
  67. ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十月)庚寅(十三日)の条「庚寅、蒙古遣明威將軍都統領脱朶兒武徳將軍統領王國昌武略將軍副統領劉傑等十四人來、詔曰、卿遣崔東秀來奏、備兵一萬造船一千隻事、今特遣脱朶兒等、就彼整閲軍敷、點視舟艦、其所造船隻、聽去官指晝、如耽羅已與造船之役、不必煩重、如其不與、即令別造百艘、其軍兵船隻、整點足備、或南宋或日本、逆命征討、臨時制宣、仍差去官先行、相視黑山日本道路、卿亦差官、護送道達。」
  68. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)丙辰(二十八日)の条「丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。」
  69. ^ 新井2007「蒙古襲来」, pp. 21-22
  70. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年 正月の条「元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。」
  71. ^ a b 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丙辰朔(一日)の条「八月丙辰朔、黑的殷弘及宋君斐等復來、帝喩曰、向者遣使招懷日本、委卿嚮導、不意、卿以辭爲解、遂令徒還、意者日本既通好、則必盡知爾國虛實、故托以他辭、然爾國人在京師者不少、卿之計亦疎矣、且天命難諶、人道貴誠、卿先後食言多矣、宣自省焉、今日本之事、一委於卿、卿其體朕此意、通諭日本、以必得要領爲期、卿嘗有言、聖恩天大、誓欲報効、此非報效而何。」
  72. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年(十一月)癸丑(二十五日)の条「卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。」
  73. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「四年六月、帝謂王禃以辭爲解、令去使徒還、復遣黑的等至高麗諭禃、委以日本事、以必得其要領爲期、禃以爲、海道險阻、不可辱天使、九月、遣其起居舍人潘阜等持書往日本、留六月、亦不得其要領而歸。」
  74. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑(二十三日)の条「遣起居舍人潘阜、齎蒙古書及國書如日本、」
  75. ^ a b c 『五代帝王物語』亀山院「(文永五年)閏正月十五日又舞御覽あり。一院御幸なる。麗しき御賀の儀いかばかりの事にてかあらんずらむとおぼえしに。蒙古國とかやより牒状を奉る。高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ關東へつげて。關東より二月六日牒状をまいらせたり。是によりて御賀止めらる。公私本意なき御事也。蒙古國もとは契丹の所屬韃靼國也。年比契丹國以下の近邊の諸國を打とる。太宋國も、三百餘州のうち大略みなうちとられて。わづかに六十餘州殘れり。高麗も同せめおとされて。臣として蒙古の朝につかふるよし牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云者渡れり。高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。至元三年と載たり。高麗國。同彼年號をうけて至元となせり。去年八月の牒也。數多の方物を相副て。正月一日大宰府に着たり。是によりて官外記以下の勘文をめされて仗儀を行る。又仙洞の評定あり。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 448頁)
  76. ^ 東大寺宗性筆の『調伏異朝怨敵抄』に「蒙古国牒状」に続いて記載されている。「高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」『鎌倉遺文』9770号、竹内理三 編『鎌倉遺文』(古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年 (1265) - 至文永5年 (1268)、東京堂出版、1985年、285頁。平岡定海『東大寺宗性上人之研究並史料』(中)・(下)、臨川書店、1959-1260年、(中)図2-4、(下)1-2頁。東大寺宗性によって『調伏異朝怨敵抄』に蒙古国牒状、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。
  77. ^ 『将軍執権次第』文永五年条「時宗。相模守。三月五日始爲執權云々。正月廿九日辭左馬權頭。」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 258頁)
  78. ^ a b 近衛基平『深心院関白記』文永五年二月条「(二月)七日、戊子(中略)晴、東使今日向相國禪門北山亭云々、異國間事也、八日、己丑(中略)天晴、早旦以敕書有召、仍參院、今日異國事可有評定云々、牒状、高麗取進蒙古國牒也、仍其牒二通也、稱講和親之儀、委見牒状、此事國家珍事大事也、萬人驚歟之外無他、前博陸兩人參向其座、無骨、仍餘參内、入夜又歸參院也、(中略)十日、辛卯(中略)晴(中略)依昨召參院、異國事返牒有否有沙汰、前博陸兩人參、然而餘對座居也、如此重事不參之條、不可然之故也、子細不盡翰墨也、」(『岡屋関白記・深心院関白記・後知足院関白記』陽明叢書 記録文書篇 第二輯 思文閣出版 1984年 144〜145頁)
  79. ^ 『○新式目』関東御教書「一 蒙古国事 蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐國御家人等状、依仰執達如件、文永五年二月廿七日 駿河守殿(北条有時?) 相模守(北条時宗)左京権大夫(北条政村)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九八八三号)
  80. ^ 新井2007, p25
  81. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年秋七月丁卯(十八日)の条「秋七月丁卯、起居舍人潘阜、還自日本、遣閣門使孫世貞郎將呉惟碩等、如蒙古賀節日、又遣潘阜偕行、上書曰、向詔臣、以宣諭日本、臣即差陪臣潘阜、奉皇帝璽書、幷齎臣書及國贐、以前年九月二十三日、發船而往、至今年七月十八日、回來云、自到彼境、便不納王都、留置西偏大宰府者凡五月、館待甚薄、授以詔旨、而無報章、又贈國贐、多方告諭、竟不聽、逼而送之、以故不得要領而還、未副聖慮、惶懼實深、輒玆差充陪臣潘阜等、以奏。」
  82. ^ 奥書に国書が京都に送達された直後の1268年(文永5年)2月に宗性が亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に蒙古国書を書き写した旨が書かれている。なお同一の蒙古国書の内容が『元史』日本伝にも記載がある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九五六四号)
  83. ^ 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 66頁
  84. ^ 山口修「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社、1974年、195頁
  85. ^ 山口修、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。田中健夫、岩波講座世界歴史9、1970年。杉山正明もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。他、村井章介奥富敬之など。
  86. ^ 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年(十二月)庚辰(四日)の条「庚辰、知門下省事申思佺侍郎陳子厚起居舍人潘阜、偕黑的殷弘如日本。」
  87. ^ a b c 『蒙古来使記録』<○賜芦文庫古文書所収称名寺文書>「文永六-二-十六-蒙古高麗使等渡海事<蒙古人官人三人<同從人五人、>高麗人六十七人船四艘着對馬嶋豐岐浦云々> 同二-廿二日馳申了、同三-十三-評定了、同二-廿四日、逃歸本審事(畢カ)云云、文永六年-十-十七-、蒙古牒一通、高麗牒一通持之、牒使二人、令着對馬嶋之由申之云々、彼至元六-六-日、而如院宣者、通好之義、准唐漢之例、不可及子細、但彼國與我國、自昔無宿意、用兵之條、甚以不義之旨、可被遣返牒也、且草者可長成卿之由、諸卿評 定之由云々、而關東評定了、先度牒使來朝之時、不可返牒之由、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇三八〇号)
  88. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還。」
  89. ^ 『五代帝王物語』亀山院「(文永)同六年蒙古使高麗の舟にのりて又對馬國に着く。去年の返牒なきによりて。左右きかんため也。不慮の喧嘩いできて。歸國の間。對馬の二人とられて高麗へ渡る。高麗より蒙古へつかはしたれば。王宮へ召入て見て。種々の祿をとらせて。本朝へ返送。是に付て又牒状有。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)
  90. ^ a b c d 『高麗史』巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗十年(七月)甲子(二十一日)の条「甲子、蒙古使于婁大于琔等六人、偕倭人來、淐出迎于郊、初申思佺與倭人謁帝、帝大喜曰、爾國王祗稟朕命、使爾等往日本、爾等不以險阻爲辭、入不測之地、生還復命、忠節可嘉、厚賜匹帛、以至從卒、又謂倭人曰、爾國朝覲中國、其來尚矣、今朕欲爾國之來朝、非以逼汝也、但欲垂名於後耳、賚予甚稠、勑令觀覽宮殿、既而倭人奏云、臣等聞有天堂佛刹、正謂是也、帝悦、又使徧觀燕京萬壽山玉殿與諸城闕。」
  91. ^ 『関東評定衆伝』文永六年条「九月、蒙古高麗重牒状到來。牒使金有成。高柔二人也。還對馬嶋人答二郎。彌二郎。高柔依靈夢獻所持毛冠於安樂寺。即敍其由呈詩。」(『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十九 続群書類従完成会 1960年 318頁)
  92. ^ a b c d 『太政官返牒』<○本朝文集六十七>「贈蒙古國中書省牒 菅原長成 日本國太政官牒 蒙古國中書省 附高麗國使人牒送、牒、得大宰府去年九月二十四日解状、去十七日申時、異國船一隻、來着對馬嶋伊奈浦、依例令存問來由之處、高麗國使人參來也、仍相副彼國幷蒙古國牒、言上如件者、就解状案事情、蒙古之號、于今未聞、尺素無脛初來、寸丹非面僅察、原漢唐以降之蹤、觀使介往還之道、緬依内外典籍之通義、雖成風俗融化之好禮、外交中絶、驪遷翰轉、粤傳郷信、忽請隣睦、當斯節次、不得根究、然而呈上之命、縁底不容、音問縱雲霧萬里之西巡、心夐忘胡越一體之前言、抑貴國曽無人物之通、本朝何有好惡之便、不顧由緒、欲用凶器、和風再報、疑冰猶厚、聖人之書、釋氏之教、以濟生爲素懷、以奪命爲黒業、何稱帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎、凡自天照皇大神耀天統、至日本今皇帝(亀山天皇)受日嗣、聖明所覃、莫不屬左廟右稷之靈、得一無貳之盟、百王之鎭護孔昭、四夷之脩靖無紊、故以皇土永號神國、非可以智競、非可以力爭、難以一二、乞也思量、左大臣(藤原家経)宣、奉敕、彼到着之使、定留于對馬嶋、此丹青之信、宣傳自高麗國者、今以状、牒到准状、故牒、文永七年正月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五七一号)
  93. ^ 張東翼 2005.
  94. ^ 『大宰府守護所牒』<○本朝文集六十七>「贈高麗國牒 (菅原長成) 日本國大宰府守護所牒 高麗國慶尚晉安東道按察使來牒事 牒、尋彼按察使牒偁、當使□□□□□□□謹牒、着當府守護所、就來牒、凌萬里路、先訪柳營之軍令、達九重城、被降芝泥之聖旨、以此去月太政官之牒、宣傳蒙古中書省之衙、所偕返之男子等、艤護送之舟、令至父母之郷、共有胡馬嘶北、越鳥翥南之心、知盟約之不空、感仁義之云露、前頃牒使到著之時、警固之虎卒不來、海濱之漁者先集、以凡外之心、成慮外之煩歟、就有漏聞、恥背前好、早加霜刑、宣爲後戒、殊察行李淹留之艱難、聊致旅粮些少之資養、今以状牒、牒到准状、故牒、文永七年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五八八号)
  95. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「六年六月、命高麗金有成送還執者、俾中書省牒其國、亦不報。有成留其太宰府守護所者久之。」
  96. ^ 『高麗史節要』巻十八 元宗十一年五月丙寅の条「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」
  97. ^ a b 吉田経長『吉続記』九月二日・四日条「二日癸亥 晴、參内、關東使隨身高麗牒状、向西園寺大納言許(高麗牒状到來事、)亞相參院申入云々、(中略)四日 晴、不出仕、件牒状趣、蒙古兵可來責日本、又乞糶、此外乞救兵歟、就状了見區分、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年 293頁)
  98. ^ a b 『高麗牒状不審条々』「一、以前状文永五年揚蒙古之徳、今度状文永八年韋毳無遠慮云々、如何、一、文永五年状書年號、今度不書年號事、一、以前状、歸蒙古之徳、成君臣之禮云々、今状、遷宅江華近四十年、被髮左衽聖賢所惡、仍又遷都珍島事、一、今度状、端ニハ不從成戰之思成、奧ニハ爲蒙被使云々、前後相違如何、一、漂風人護送事、一、屯金海府之兵、先廿餘人送日本國事、一、我本朝統合三韓事、一、安寧社稷待天時事、一、請胡騎數萬兵事、一、達兇旒許垂寛宥事、一、奉贄事、一、貴朝遣使問訊事、」(歴史学研究会、村井章介編集『日本史史料〈2〉中世』岩波書店 1998年3月) この三別抄からの書状については『吉続記』文永8年9月2日条とその対応を伝える同9月4日条の記述しか窺い知るしかなかったが、その「牒状」についての不審点を箇条書きしたメモ「高麗牒状不審条々」が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。三別抄からの書状の本文ではないが、「条々」で上げられている内容の検討から、この書状は高麗国王・元宗からのものについてではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出した書状についてであった。石井正敏「文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介」『東京大学史料編纂所報』12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。
  99. ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条「乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然后内附。而忻都未從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」
  100. ^ a b 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条「庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、」
  101. ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条「己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。」
  102. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅「十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、」
  103. ^ 『五代帝王物語』亀山院「同(文永)八年九月十九日筑前國今津に異國人趙良弼を始として百餘人來朝の間。軍船と心得て宰府さはぎけれども。其儀はなくて是も蝶状也。但辛櫃に納て金鎖を指て王宮へ持參して帝王に獻れ。それ叶はずば時の將軍に傳えて參らすべし。其儀もなくば持て歸べき由王敕を承たれば。手をはなつべからずとて。案を書て出したり。是も返蝶に及ず。此國後は大元國と號す。威徳のまさるに從て名を改とかや。されば始終いかなるべきにかと恐しく覺侍。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁)
  104. ^ a b c d e 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「九年二月、樞密院臣言、奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸來言、去歲九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所、守者云、曩為高麗所紿、屢言上國來伐、豈期皇帝好生惡殺、先遣行人下示璽書、然王京去此尚遠、願先遣人從奉使回報、良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見、帝疑其國主使之來、云守護所者詐也、詔翰林承旨和禮霍孫以問姚樞、許衡等、皆對曰、誠如聖算、彼懼我加兵、故發此輩伺吾強弱耳、宜示之寬仁、且不宜聽其入見。從之、」
  105. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十二年正月己卯の条「復遣趙良弼、充國信使、期于必達、仍以忽林赤王國昌洪茶丘、將兵送抵海上、此國信使還、姑令金州等處屯住、」
  106. ^ 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「既至、宋人与高麗・聃羅共沮撓其事。留公太宰府、専人守護。第遣人応返議事、数以兵威相恐。或中夜排垣破戸、兵刃交拳。或火其隣舎、喧呶叫号。夜至十余発。公投牀大鼾、恬若不聞。如是者三日、彼詐窮変索公、呼守護所、大加詬責。彼来請受国書。公言、国書当俟見国主日致達。数欲脅取、公以辞拒之。嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。」
  107. ^ a b 吉田経長『吉続記』十月廿四条「今度蝶状、朝使直可持參帝都、不然者不可放手之由申之、蠻夷者參帝闕事無先例、蝶状之趣可承之由、少卿問答、就之、彼朝使書寫蝶状、與少卿、彼状自關東進之、其趣、度々雖有蝶状、無返蝶、此上以來十一月可爲期、猶爲無音者、可艤兵船云々、可有返蝶云々、先度長成卿草少々引直可被遣云々、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年 304頁)
  108. ^ 吉田経長『吉続記』文永八年十一月廿二条「廿二日、參院、異國事有評定、仍不能奏事、次參内、熾盛光法爲異國御祈、座主證覺僧正於惣持院、自今日可被始行云々、」(笹川臨風、矢野太郎校訂『史料大成 第23巻 吉記二・吉続記』内外書籍 1935年)
  109. ^ a b 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年正月丁丑の条「丁丑、趙良弼還自日本、遣書狀官張鐸、率日本使十二人如元、王遣譯語郞將白琚、表賀曰、盛化旁流、遐及日生之域、殊方率服、悉欣天覆之私、惟彼倭人、處于鰈海、宣撫使趙良弼、以年前九月、到金州境、裝舟放洋而往、是年正月十三日、偕日本使佐一十二人、還到合浦縣界、則此誠由聖德之懷綏、彼則嚮皇風而慕順、一朝涉海、始修爾職、而來萬里瞻天、曷極臣心之喜、玆馳賤介、仰賀宸庭。」
  110. ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月乙亥の条「可建國號曰大元、蓋取易經乾元之義。」
  111. ^ 『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条「諭旨中書省、日本使人速議遣還。安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。」
  112. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之邵、護日本使還其國。」
  113. ^ a b 『賛皇復県記』「(趙良弼)承命東使日本。鯨海浩瀚、莫測其際。叛賊耽羅蔽其衝。公仗忠信、直抵其國、論以天子威徳。方制數十萬里、靡不從命。東夷悦服、既遣使詣闕。時僞宋以海道去兩浙不遠大畏之、遣僧滕原瓊林等、爲諜止行。日本人與公語、公面折之、縷數宋人浮僞無信。「今西淮襄漢四川、悉爲我有、但東南彈丸地、尋亦不保。」前後數百言、僧語塞不能對。日本亦栗然畏懾。履至危之地、馮仗威靈、無所辱命、全節而歸。」(太田彌一郎「石刻史料「賛皇復県記」にみえる南宋密使瓊林について--元使趙良弼との邂逅--」『東北大学東洋史論集』6 東洋史研究室 1995年)
  114. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(十二月)庚戌(二十六日)の条「元復遣趙良弼、如日本招諭。」
  115. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之卲、護日本使還其國。」
  116. ^ 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑「日本遂遣使介十二人入覲。上慰論遣還。其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。公還、以疾請帰老樊川。」
  117. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年(三月)癸酉(二十日)の条「趙良弼如日本、至大宰府、不得入國都而還。」
  118. ^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十年六月戊申の条「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。」
  119. ^ a b c d 『元史』巻一百五十九 列伝第四十六 趙良弼「十年五月、良弼至自日本、入見、帝詢知其故、曰卿可謂不辱君命矣。后帝將討日本、三問、良弼言、臣居日本歲餘、睹其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。帝從之。」
  120. ^ a b c 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年正月の条「春正月、元遣總管察忽、監造戰艦三百艘、其工匠役徒一切物件、全委本國應副、於是以門下徒侍中金方慶爲東南道都督使、元又以昭勇大將軍洪茶丘爲監督造船官軍民總管、茶丘約正月十五日興役、催督甚嚴、王以樞密院副使許珙爲全州道都指揮使、右僕射洪祿遒爲羅州道都指揮使、又遣大將軍羅裕於全羅道、全伯鈞於慶尚道、朴保於東界、國子司業潘阜於西海道、將軍任愷於交州道、各爲部夫使、徴集工匠役徒三萬五百餘名、起赴造船所、是時驛騎絡繹、庶務煩劇、期限急迫、疾如雷電、民甚苦之。」
  121. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年五月己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
  122. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)五月、皇女忽都魯掲里迷失下嫁于世子愖。」
  123. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一年)七月、其樞密院副使奇蘊奉表告王禃薨、命世子愖襲爵、詔諭高麗國王宗族及大小官員百姓人等、其略曰國王禃存日、屡言世子愖可爲繼嗣。今令愖襲爵爲王。凡在所屬、并听節制。八月、世子愖還至其國襲位。」
  124. ^ 『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年(六月)辛酉(十六日)の条「辛酉、遣大將軍羅裕如元、上中書省書曰、今年正月三日、伏蒙朝旨、打造大船三百艘、既行措置、遣樞密院副使許珙於全州道邊山、左僕射洪祿遒於羅州道天冠山備材、又以侍中金方慶爲都督使、管下員將、亦皆精揀、所須(功に「夫」)匠物件、並於中外差委、催督應副、越正月十五日聚齊、十六日起役、至五月晦告畢、船大小幷九百隻造訖、合用物件、亦皆圓備、令三品官能幹者、分管廻泊、已向金州、伏望諸相國、善爲敷奏。」
  125. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」
  126. ^ 『肥後小代文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人(名越時章)、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 小代右衛門尉(重俊)子息等」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七三号)
  127. ^ 『薩摩二階堂文書』関東御教書「(上包)「北条相模守時宗 北条左京大夫政村」蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所下遣御家人等於鎮西也、早速差下器用代官於薩摩国阿多北方、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守(北条時宗)(花押)左京権大夫(北条政村)(花押) 阿多北方地頭(二階堂行景妻忍照)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七四号)
  128. ^ a b 川添昭二『元寇防塁編年史料―注解異国警固番役史料の研究』福岡市教育委員会 1971年 57頁
  129. ^ 『尊敬閣所蔵野上文書』大友頼泰書下「「(付箋)大友出羽守頼泰」「(端書)守護所廻文<筑前・肥前両国要害警固事 到来文永九二十六>」筑前・肥前両国要害守護事、東国人々下向程、至来三月晦日、相催奉行国々御家人、可警固之由、関東御教書到来、仍且請取役所、且為差御家人御代官等、已打越候畢、不日相尋亍彼所、無懈怠、可令勤仕候也、恐々謹言、文永九年二月朔日 (大友)頼泰(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇九六四号)
  130. ^ 『薩摩延時文書』平忠俊・同忠恒連署譲状「(端裏書)「□かおかにし太郎とのゝくますにゆつ□(花押)」たゝしかのなりをかのミやうてん(名田)のうち(内)、のたそのら、しよ□くらにゆつ(譲)りあた(与)ふるふん(分)にをいてハ、かくへつの□をたいするあいた、これをのそ(除)くところなり、(花押) ゆつ(譲)りあた(与)ふるあさ(字)なくますまろ(熊寿丸)かところに、平たゝとし(忠俊)か□(せんカ)そ(先祖)そうてん(相伝)のそりやう(所領)、なりおかの名のてんはく(田畠)薗、ならひにさんや(山野)かりくら(狩倉)の事、た(田)のつほ/\(坪々)・はくち(畠地)の四至・その(薗)ゝさかい、しんふ(親父)平忠恒ゆりしやう(譲状)、たゝとし(忠俊)か所帯のしやう(状)にめいはく(明白)也、右、くたん(件)のてんはく(田畠)・その(薗)・さんや(山野)のかりくら(狩倉)にをいてハ、忠俊をちやくし(嫡子)として、ゆつ(譲)りあた(与)へられおはぬ(畢)、こゝに、異国の人襲来せしむへきあいた(間)、関東の御けうしよ(教書)のむね(旨)にまか(任)せて、親父たゝつね(忠恒)のたいくわん(代官)として、上府(太宰府)して、やく(役)所をうけとりて、きんし(勤仕)せしむへきによりて、参府するところなり、これによ(仍)て、かつハ海路のなら(習)いなり、かつハ軍庭におもむくあいた(間)、若たゝとし(忠俊)しせん(自然)の事もあらハ、件ミやう(名)のてんはく(田畠)・さんや(山野)・かりくら(狩倉)にをいてハ、たゝつね(忠恒)のゆつ(譲)りをあいそ(相副)へて、くますまろ(熊寿丸)をちやくし(嫡子)として、しゝそん/\(子々孫々)にいたるまで、た(他)のさまた(妨)けなく、ちきやう(知行)せしむへきなり、後日のゐらん(違乱)をとゝ(停)めむかために、しよはんを給ハるところ也、よ(仍)てゆつりしやう(譲状)、くたんのことし、文永九年<歳次/壬申>卯月三日 平忠俊「盛岡次郎」(花押)平忠恒(花押) (裏)「為証人 平忠重(花押) 湛西(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇〇三号)
  131. ^ 『諸家文書纂野上文書』小田原景泰書遵守状「肥前、筑前両国要害警固事、并、豊後国中悪党沙汰事、今年二月廿五日、守護所御書下如此子細被載状候、早且守状、且無左右不可棄件要害役所給候、仍、為其沙汰、景泰、令下向候也、恐々謹言、文永九年卯月廿三日 藤原(小田原)景泰(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇一五号)
  132. ^ 『薩藩旧記五延時文書』少弐資能博多津番役請取状「被下 関東御教書候異国警固事、自去四月十七日被上府候、迄今月十六日、博多津番役、被勤仕了、恐々謹言、文永九年五月十七日 覚恵(少弐資能)(花押) 盛岡二郎殿「平忠俊」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇三四号)
  133. ^ 『比志島文書』「(折紙)被下 関東御教書候異国警固事、自去六月廿四日迄今月廿四日、博多津番役、被勤仕候了、恐々謹言、(文永九年カ)七月廿五日 覚恵(少弐資能)(花押) 薩摩国千島太郎(佐範)殿代河田右衛門尉(盛資)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一〇六八号)
  134. ^ 『将軍執権次第』文永九年条「時輔。式部大夫。二月十五日於六波羅南方被誅畢。廿五。」(塙保己一編『群書類従』第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 259頁)
  135. ^ a b c 『高麗史』巻一二六 列伝三十九 姦臣 洪福源「明年(元宗十三年)、倭船泊金州、慶州道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還去、茶丘聞之、嚴鞫子一、鍛錬以奏曰、高麗與倭相通、王遣張暐、請繹子一囚、一日茶丘遽還元、人莫知其故、王慰鍮之、」『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年七月甲子(八日)の条「秋七月甲子、倭船至金州、慶尚道道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還國、洪茶丘聞之、嚴鞫子一、馳聞于帝。/己亥、洪茶丘殺曹子一。」
  136. ^ 『肥前松浦家文書』少弐資能施行状「今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、(文永十年)十一月十六日 沙彌(少弐資能)(花押)山代孫三郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号)
  137. ^ 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月十四日条「晴、依筥崎宮火事、自今日三个日廢朝云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 88頁)
  138. ^ 蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、1269年10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とする高麗領の北半分が東寧府として元朝の直轄領となって接収された。これに伴い東寧府内の鳳州など各地に屯田軍が設置されている。文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本侵攻に派遣された。「蒙漢軍二万五千」とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はモンゴル人、契丹人、女真人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。
  139. ^ a b c d 『八幡ノ蒙古記』「同十一年十月五日卯時に、對馬國府八幡宮假御殿の内より、火焔おひたゝしく、もえいつ、國府在家の人々、焼亡出来しよと見るに、もゆへき物もなきを、怪しみけるほとに、同日申時に、對馬の西おもて、佐須浦に、異國船見ゆ、」(1ウ)其数四五百艘はかりに、凡三四萬人もやあらんと、見るはかり寄来る、同日酉時、國府の地頭につく、即地頭宗馬允資國、八十餘騎、同日丑時、彼浦にゆきつく、翌日卯時、通人真継男を使者として、蒙古人に、事のしさいを尋る処に、散々に舟よりいる、大船七八艘より、あさち原へ、おりたつ勢、一千人もあらんと見ゆ、其時、宗馬允、陣をとりて戦ふ、いはなつ矢に異國人、数しらす、いとらる、此中に大将軍と、おほし」(2オ)き者四人、あし毛なる馬にのりて、一はんに、かけむかふ者、宗馬弥二郎に右の乳の上を、いられて、馬よりおつ、此時、馬允に射倒さるゝ者、四人、宗馬允かく戦ふといへとも、終にうたれぬ、同子息宗馬次郎、養子弥二郎、同八郎親頼、刑部丞郎等に三郎、庄太郎、入道源八、在廰左近馬允手人、肥後國御家人、口井藤三、源三郎、已上十二人、同時に討死す、蒙古、佐須浦に火をつけて、焼拂ふよし、宗馬允か郎等、小太郎、兵衛次郎」(2ウ)博多にわたりて告しらす、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 193-194頁)
  140. ^ 江戸時代に対馬藩で編纂された『十九公実録』『宗氏家譜』などの資料では「宗国」としているが、日蓮書簡や『八幡愚童訓』などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、「宗国」と書かれる。
  141. ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」
  142. ^ 『金方慶墓誌銘』「又奉東征之命。甲戌、入討日本、俘馘甚多越。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)
  143. ^ 「去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一八九六号)
  144. ^ 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月
  145. ^ 『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」
  146. ^ a b 『八幡ノ蒙古記』「同十四日申時に壱岐嶋の西おもてに蒙古の兵船つく、其中に二艘より四百人はかりおりて、赤旗をさして東の方を三度、敵の方を三度拜す、其時、守護代平内左衛門尉景隆并御家人百餘騎、庄三郎か城の前にて矢合す、蒙古人か矢は、二時はかりいる間に守護代か方にも二人手負、異敵は大勢なり、終に叶ふへくもなかりけれは、城のうちへ引退て合戦す、同十五日に、攻めおとされ」(3オ)て城の内にて自害す、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)
  147. ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
  148. ^ 『日蓮書状』<○日蓮上人遺文>「(前略)壹岐・對馬・九ヶ國のつはもの竝に男女、多く或はころされ、或はとらはれ、或は海に入、或はかけよりをちしもの、いくせんまんと云事なし、又今度よせなは、先にはにるへくもあるへからす、京と鎌倉とは、但壹岐・對馬の如くなるへし(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九八〇号)
  149. ^ a b 『八幡ノ蒙古記』「同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す。」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁) なお、『八幡愚童訓』諸本のうち、橘守部が『八幡愚童訓』の文永・弘安の役部分の原本と看做している『八幡ノ蒙古記』には平戸、能古、鷹島の襲来についての記述があるが、『八幡愚童訓』の現存諸本のうち平戸、能古、鷹島の襲来について、菊大路本(鎌倉時代末期)、東大寺上生院本(文明12年)、文明本(愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)など主要な諸本では記述がない。
  150. ^ 『石志文書』源兼譲状案「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志(肥前松浦郡)土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、(裏書)又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号)
  151. ^ 『有浦文書』関東裁許状「(前略)蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、(後略)」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百三十号)
  152. ^ 円明院日澄撰『日蓮註画讃』巻第五 蒙古來「二島百姓等男或殺或捕、女集一所、徹手結附船、不被虜者、一人不害。肥前國松浦黨數百人、或伐或虜、此國百姓男女等、如壹岐對馬。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二11頁) 『日蓮註画讃』は日蓮の書簡や『八幡愚童訓』に依拠しつつ室町時代に執筆されている。
  153. ^ a b c 『築後高良神社文書』将軍家政所下文案「将軍家政所於博多津、去文永十一年蒙古襲來之刻、肥後・薩摩・日州・隅州之諸軍馳參之砌、筑後河神代浮橋、九州第一之難處之處、神代良忠以調略、諸軍轍打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥慮、扶桑永代爲安利之由、所仰如件、建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣(北条時宗)判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二〇七八号)ただし、『鎌倉遺文』の編者である竹内理三氏はこの書状を稍疑うべしとしている。
  154. ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁)
  155. ^ なお『大友文書』関東御教書案によれば、この時の武士らは自らの所領を守るとして大宰府に赴かなったり、戦場に臨んでも進んで戦おうとしない者が多数いたことが記されているが、近年の研究により、この文書は偽文書であったことが判明している。この文書は文永の役の際における武士らの怠慢を幕府が批判し、今後もし同様のことがあるならば罪科に問うことを大友家に対して全国の御家人等に普く伝えるよう命ずる文書である。歴史学者・村井章介によれば、通常の関東御教書は名宛人が守護職を持つ国名が書かれているのが通例であり、その記載が無く「普」文言を使う場合は、名宛人の権限が全国に及ぶ場合のみであり、この文書では大友頼泰の指揮権が全国の御家人に及んでいることや弘安年間に出家した大友頼泰が兵庫入道と称され出家しているなど当時の実情とは合わない記述があることから、偽造された文書であることを明らかにしている。村井章介は偽書が作成された背景として、1350年(観応元年)に肥前守護職を失い豊後国一国のみの領域に限定されるなど衰退していた後世の大友家が、鎌倉時代の自家の指揮権が全国の御家人らに亘っていたことを主張する意図があったとしている。村井章介『遥かなる中世18号--具書案と文書偽作 「立花家蔵大友文書」所収「鎌倉代々御教書」についての一考察--』中世史研究会 2000年3月 『大友文書』関東御教書案「異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、建治元年七月十七日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)同 大友兵庫入道(頼泰)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号)
  156. ^ a b c d e 『福田文書』福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 334頁)
  157. ^ 1931年に著された歴史学者の池内宏による『元寇の新研究』以降、通説では元軍の上陸地点は今津、百道原、博多の三か所であり、百道原から上陸したのが高麗軍、今津と博多から上陸したのが蒙古・漢軍であったとされているが(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 149〜150頁)、元軍が今津、博多、百道原の三か所から分かれて上陸したとする史料は存在しない。史料としては、蒙古・漢軍が博多から上陸したとする史料はなく、今津から上陸したことがうかがえるのが宗教書である『八幡愚童訓』の1点史料のみである。対して百道原があった早良郡から上陸したとする史料は、参戦していた肥前国御家人・福田兼重の書状である『福田文書』福田兼重申状に「去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」とあり、他に捕虜の元兵の証言が収録されている日朝『朝師御書所見聞 安国論私抄』にも「モモミチハラニオルルナリ」と記載され、鎌倉時代末に編纂された『一代要記』においても「攻來筑前國早良郡」とある。また、元側の史料『高麗史』にも「三郎浦」なる地点から上陸したことが記されており、「三郎」という単語と「早良」が音が通じるため、「三郎浦」とは「早良郡」であった可能性もある。以上のように百道原があった早良郡から上陸したとする史料が他を圧倒しており、元軍は百道原を中心に上陸したとみられる。また、通説である百道原から上陸したのが高麗軍のみとする説は、蒙古・漢軍に属していた捕虜の元兵が百道原から上陸したことを証言したことが『朝師御書所見聞 安国論私抄』に載っており、上陸したのが高麗軍のみとする説は誤りである。
  158. ^ a b 日朝『朝師書所見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事「或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古ノ物三人生殘リ了、又四日ニ當ニ船一艘燒亡出來テ燒ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ數ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、」(『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 17頁)
  159. ^ a b c 『蒙古襲来絵詞』詞四「たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をか(駆)けお(落)とされて、ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)にむ(向)きてひ(退)く。こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、」
  160. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 58.
  161. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞七「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ(少弐三郎左衛門景資)、はかた(博多)のおき(息)のハま(浜)をあひかた(固)めて、一とう(一同)にかせん(合戦)候へしと、しきりにあひふれられ候しによて、すゑなか(季長)ゝ一もん(門)そのほか(他)、たいりやく(大略)ちん(陣)をかた(固)め候なかをいて候て、」
  162. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞一「あかさか(赤坂)はむま(馬)のあしたち(足立ち)わろく候。これにひか(控)へ候ハゝ、さためてよ(寄)せきたり候ハんすらん。一とう(一同)にかけて、をものい(追物射)にい(射)るへきよし申さるゝにつきて、けんしち(言質)のやくそく(約束)をたか(違)へしとて、をのゝゝ(各々)ひか(控)へしあいた、」
  163. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「はかた(博多)のちん(陣)をう(討)ちいて、ひこ(肥後)のくに(国)[ ]一はん(番)とそん(存)し、すみよし(住吉)のとりゐ(鳥居)の[ ]す(過)き、こまつはら(小松原)をうちとを(通)りて、あかさか(赤坂)には[ ]かふところに、あしけ(芦毛)なるむま(馬)に、むらさきさかおもたか(紫逆沢潟)のよろひ(鎧)に、くれなゐ(紅)のほろ(母衣)をか(懸)けたるむしや(武者)、そのせい(勢)百よき(余騎)はか(計)りとみへて、けうと(凶徒)のちん(陣)を[ ]り、そくと(賊徒)を(追)ひお(落)として、くひ(首)二たち(太刀)となきなた(長刀)のさき(先)につら(貫)ぬきて、さう(左右)にも(持)たせてま[ ]とゆゝしくみ(見)へしに、たれ(誰)にてわたらせ給候そ、すゝ(涼)しくこそみ(見)え候へと申に、ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)の二郎たけふさ(武房)と申すもの(者)に候、かくおほせられ候ハたれ(誰)そとと(問)ふ、をな(同)しきうち(内)たけさき(竹崎)の五郎ひやうへすゑなか(兵衛季長)、か(駆)け候、御らん(覧)候へと申ては(馳)せむ(向)かふ。」
  164. ^ a b c d e f 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「兵仗有弓刀甲、而無戈矛、騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。」川越泰博 1975, p. 28掲載
  165. ^ 佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁
  166. ^ a b c 文永の役の激戦地ともなった鳥飼、百道原、姪浜はいずれも早良郡に属している。角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第40巻 福岡県』1988年 949、1343、1356頁
  167. ^ a b c d 『蒙古襲来絵詞』詞四「つかハら(塚原)よりとりかひ(鳥飼)のしほ[ひ]かた(汐干潟)を、おほせい(大勢)になりあハむとひ(退)くをお(追)かくるに、むま(馬)ひかた(干潟)にはたハ(倒)して、そのかたき(敵)をのハ(逃)す。けうと(凶徒)ハすそはら(麁原)にちん(陣)をとりて、いろゝゝ(色々)のはた(旗)をた(立)てなら(列)へて、らんしやう(乱鐘)ひま(暇)なくして、ひしめきあ(合)ふ。すゑなか(季長)は(馳)せむ(向)かふを、とうけんたすけみつ(藤源太資光)申す。御かた(味方)ハつゝき候らん、御ま(待)ち候てせう人をた(立)てゝ御かせん(合戦)候へ、と申を、きうせん(弓箭)のみち(道)さき(先)をも(以)てしやう(賞)とす、たゝか(駆)けよとて、をめいてか(駆)く。」
  168. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞四「けうと(凶徒)すそハら(麁原)より、とりかいかた(鳥飼潟)のしほや(塩屋)のまつ(松)のもと(下)にむ(向)けあハせてかせん(合戦)す。一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られては(跳)ねを(落)とさる。すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られては(跳)ねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け人(御家人)しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(大勢)にてか(駆)けしに、もうこ(蒙古)のいくさ(戦)ひ(引)きしり(退)そきて、すそはら(麁原)にあ(上)かる。むま(馬)もい(射)られすして、ゐてき(異敵)のなか(中)にか(駆)けい(入)り、みちやす(通泰)つゝ(続)かさりせハ、し(死)ぬへかりしみなり、」
  169. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞七「はかた(博多)のちん(陣)をう(打)つい(出)て、とりかひ(鳥飼)のしおひかた(汐干潟)には(馳)せむ(向)かひ候て、さき(先)をし候てかせん(合戦)をいたし、はたさ(旗指)しのむま(馬)、おな(同)しきの(乗)りむま(馬)をいころ(射殺)され、すゑなか(季長)、三井の三郎、わかたう(若党)一人、三き(騎)いたて(痛手)をかうふ(被)り、ひせん(肥前)のくに(国)の御け(家)人しろいし(白石)の六郎せう(証)人にた(立)て候て、かけすけ(景資)のひきつ(引付)けに一はん(番)につき候し事、」
  170. ^ a b 『都甲文書』大友頼泰勘状写 「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、文永十一年十二月七日 (大友)頼泰 都甲左衛五郎(惟親)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七七一号)
  171. ^ 『財津氏系譜』日田永基伝「文永十一年十月二十日、拒異賊於筑前國姪濱百路原両所一日二度大破之。」(芥川 竜男・福川 一徳編校訂『西国武士団関係史料集 〈1〉財津氏系譜』文献出版 1991年 29頁)
  172. ^ 『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡ニ軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処ニ於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」(財津 永倫、芥川 竜男、財津 永延『日田記』文献出版 1977年 61〜62頁)
  173. ^ 『武藤系圖』少弐景資伝「弘安(文永カ)蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル」(『続群書類従』巻百四十九 系図部)
  174. ^ 『新元史』巻一百四十三 列傳第四十 劉復亨「戰于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本將三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還、」ただし、洪鈞の『元史訳文証補』や同時期の民国時代に編纂された屠寄の『蒙兀児史記』に比べ典拠を明らかにしない事で有名な『新元史』の通例に漏れず、『新元史』の編者・柯劭忞はここでも記述のもととなった典拠資料を記載していない。
  175. ^ a b c d e f g h i j 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
  176. ^ 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付(参陣・戦功を記録すること)を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。佐藤鉄太郎 2003, p. 61
  177. ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 61.
  178. ^ 『福田兼重申状』及び『大友頼泰勘状写 都甲文書』(『鎌倉遺文』一一七七一号) (佐藤鉄太郎 2003, p. 61)
  179. ^ a b c d e 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬やにのり、旗をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫」(4オ)わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷をたゝき、とらを打て鬨をつくる事おひたゝし、日本の馬も、これにおとろき、をとり、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、蒙古か矢、みじかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ」(4ウ)ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあらす、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者あれは、中に包て引退て、左右より端をまはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其中に、よくふるまひ死したるをは、腹をさき肝をとりてそ、のみにける、もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる□馬をも、とりて」(5オ)食とせり、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194〜195頁)
  180. ^ a b c d e f g h i 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり、大将は高き所にあかりゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、その引ときに、てつほうとて、鉄丸に火を包て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ」(5ウ)し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つきて、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそなかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ」(6オ)て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、かの手に、したかふものとも、つゝいて、かけ入たりけるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすくなく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しられたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主大矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」(6ウ)とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、されとも、とくにけ延し事、一町あまりなりしかは、蒙古ちからなく、せめての事にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、をとりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」(7オ)き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたるへき事あらんと、貴はさる人なく、うれし(7ウ)さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まて乱入して、松原の中に陣を取てそ居たりける、かほとの事あるへしとは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属をかくしもおかすして、数千人そ捕られにたる、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 195〜196頁)
  181. ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「はしめより軍立、思ひしにたかひて、おもてを、むくへきやうもなく、御方追々に引退て、一人も、かゝる者こそ、なくなりに」(8オ)けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞あるならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(8ウ)との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ(ママ)より注進して、京都より賜はりし甲冑を當社へそ納めける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 196〜197頁)/東大寺上生院本『八幡愚童記』「蒙古ハ、次第ニ、勝ニ乗(ノリ)テ責入テ、赤坂マテ乱入ル、松原ノ中ニ陣ヲトル、(中略)爰ニ菊地ノ次郎ハ、思切テ、百騎計ヲ二手ニ分テ押寄セ、散々ニ、カケ散シ、取重ナリテ勝負ヲス、蒙古ニ、郎等多ク打セテ、イカゝシタリケン、菊池計ハ死人ノ中ヨリ、ヲキ挙リ、頸共アマタ取テ、城内ヘ入シコソ、名ヲ後代ニ留ケレ」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 442頁)
  182. ^ a b c 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「小貳入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」(9オ)たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あなつりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、なけくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬人を奪取けん、みな人々(カ)、はしめは、ふんとりせんとするに、御方多くして、一人に一人は當つかすあるへきにやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、はしまりしか、日もくれかたに、なりしかは、あなたこなたに、さゝやき事こそ、多くなり」(9ウ)にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」(10オ)あか(カ)鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」(10ウ)たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の方へ引かへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、皆人かんしける、さて、水木城と」(11オ)申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつゝきて、水木おほく、ゆたかなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高くきひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立たり、今は礎石はかりになりたり、南山近くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、これ、いにしへの、みよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝしき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入けれは、末は、いかになり行ものかと、あやしの賤山かつまて、泣まと(カ)ひ、かなしまさるそ、なかりける、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 197〜198頁)
  183. ^ 『高麗史』金方慶伝に「(劉復)亨、中流矢、先登舟」とある。『八幡愚童訓』甲種本に「少弐入道ガ子三郎右衛門景資、(中略)究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。(中略)葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ」(「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.185)とあり、この『八幡愚童訓』のいう「流将公」は「劉復亨(流将公?)」の訛伝であろうと考えられている
  184. ^ 明治時代以前に指摘されている「流将公=劉復亨」説の一例としては、大橋訥庵『元寇紀略』では『東国通鑑』の「劉復亨中流矢」という記述を引用して、『八幡愚童訓』で少弐景資が射倒したという「賊将」は劉復亨のことであり、『八幡愚童訓』が「流将公」としているのは「国音」が近いための誤りである、としている。
  185. ^ a b 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「廿一日なり、あしたに松原を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもてを見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへまて、いねもらやれす、(中略)よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝりて、逃のこれるも見えにけり、さりけれと、あまり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにもゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名かほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見きゝて、蒙古退散しにけり(以下略)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』p.200.)
  186. ^ a b c 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、かゝる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危きかきりなりき、今はかうと見えし、夕過(カ)る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た]」(16ウ)る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あやまり有へからす、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 200〜201頁)
  187. ^ 橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ 建○○○ 此下、紙四五枚うせににけり」(17ウ)」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 201頁)
  188. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其國敗之、而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸、」
  189. ^ 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島、」。なお、洪茶丘伝にある「宜蠻」については、江戸時代の『蒙古寇紀』の著者・長村靖斎は平戸島と音が通じているために「宜蠻」とは平戸島であるとしている(長村靖斎『蒙古寇紀』2巻)。一方で歴史学者の池内宏は「イマツの對音であらう」としており、「宜蠻」とは島ではなく、博多湾の今津であるという説を挙げている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 150頁)。
  190. ^ a b c d 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、」
  191. ^ a b 『高麗史節要』巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条「諸軍終日戰、及暮乃解、方慶、謂忽敦茶丘曰、『我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰』。忽敦曰、『小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也』而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、」
  192. ^ 該当部分の出典不明。『旧唐書』などに近似した文言が見られる。『旧唐書』本紀太宗上「太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此」
  193. ^ 孫子』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也」
  194. ^ 叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
  195. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
  196. ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「率兵征伐、亦不収功、駆有用兵、民取無用地土、猶珠弾雀、已為失策」
  197. ^ a b c 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「況日本海洋萬里、疆土濶遠、非二國可比、今次出帥、動衆履險、縱不遇風、可到彼岸、倭國地広、徒衆猥多、彼兵四集、我帥無援、万一不利、欲發救兵、其能飛渡耶、隋伐高麗、三次大擧、數見敗北、喪師百万、唐太宗以英武自負、親征高麗、雖取數城而還、徒增追悔、且高麗平壤諸城、皆居陸地、去中原不遠、以二國之衆加之、尚不能克、况日本僻在海隅、與中国相懸萬里哉、帝嘉納其言、」
  198. ^ a b 『高麗史』 巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
  199. ^ 『元史』失里伯伝では、シリバイ(失里伯)は文永の役に参加した記述は無く、バヤン(伯顔)に従い、南宋侵攻に従軍している。『元史』巻一百三十三 列傳第二十 失里伯「十年、遷昭勇大將軍、爲耽羅國招討使。奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。從丞相伯顔等渡江、破獨松關、下長興、取湖州、行安撫司事。」
  200. ^ 鄭思肖『心史』大義略叙「先忽必烈遣失里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人與船倶陥、又大敗而回。」(陳福康校点『鄭思肖集』上海古籍出版社 1991年5月 174頁)
  201. ^ 『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、」
  202. ^ 『皇年代略記』後宇多院「文永十一年十(月)五(日)蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百餘艘漂倒。」(塙保己一編『群書類従』第三輯 帝王部 巻第三十二 続群書類従完成会 1960年 266頁)
  203. ^ a b c 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十一月六日条「晴、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫(大友頼泰)郎從等凶賊五十餘人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、(裏書)六日下、召具之。可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月 85頁)
  204. ^ a b 『薩藩旧記 前編巻五 国分寺文書』大宰府庁下文「就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二一二号)
  205. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 64頁
  206. ^ 広橋兼仲『勘仲記』文永十一年十月二十九日条「廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊(関東)騒動云々、或説云、北条六郎(時定)幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1』八木書店 2008年5月)
  207. ^ 『東寺百合文書ヨ』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守(北条義政)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号)
  208. ^ 『長府毛利家文書』関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号)
  209. ^ 『諸家文書纂十一』関東御教書案「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守長時判 相模守時宗判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号)
  210. ^ 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 111頁
  211. ^ a b c 『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二50頁)
  212. ^ a b c 『五檀法日記』「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」(塙保己一編『続群書類従』26上 釈家部 巻第七百三十六 続群書類従完成会 1957年)
  213. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞八「御ふんの御くた(下)しふみ(文)は、ちき(直)にしん(進)すへきおほ(仰)せに候、いま百二十のくゑんしやう(勧賞)ハ、さいふ(宰府)におほ(仰)せくたされ候、」
  214. ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、」
  215. ^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年正月庚辰(八日)の条「庚辰、遣侍中金方慶大将軍印公秀如元、上表曰、小邦近因掃除逆族(三別抄)、惟大軍之糧餉、既連歳而戸収、加以征討倭、民修造戦艦、丁壮悉赴工役、老弱僅得耕種、早旱晩水、禾不登場、軍國之需、斂於貧民、至於斗升、罄倒以給、已有採木實草葉而食者、民之凋弊、莫甚此時、而況兵傷水溺不返者多、雖有遺噍、不可以歳月期其蘇息也、若復擧事於日本則其戦艦兵糧、實非小邦所能支也、」
  216. ^ 2010年度時点における日本文教出版帝国書院扶桑社日本書籍出版協会清水書院などの出版社の歴史教科書。包黎明 & 2010年, p. 98
  217. ^ 陸上自衛隊福岡修親会 編集『元寇―本土防衛戦史』1964年 96頁
  218. ^ 荒川秀俊 1958.
  219. ^ 『関東評定衆伝』文永十一年条「十月五日蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日寄來太宰府與官軍合戰異賊敗北。」(『群書類従』第四輯 補任部巻 第四十九 続群書類従完成会 1960年 324頁)
  220. ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 99頁
  221. ^ 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫(流布本)『一代要記』後宇多天皇 文永十一年十月条「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」
  222. ^ 『肥前武雄神社文書』武雄社大宮司藤原国門申状「<是/五>又永則十月廿日夜、鏑矢音出、自御神殿差賊船方響、廿一日賊徒退散、<是/六弘安>亦七月廿九日、午時、紫幡三流、出自上宮、懸飜青天上、飛テ行賊船方之間、緇素驚目、尊卑合掌畢、其時大風吹賊船、悉漂波、異国降伏ノ霊瑞、自御在世之音、迄御垂跡之今掲焉也、争無御帰敬哉、<是/七>武雄武内共以勝軍之名称置而不論、随而宇佐香椎武雄三所大菩薩号也、尤是武家御尊敬之準的<是/八>重訪故実、至異国合戦者、不謂京家凡下浪人非御家人、令致忠者、可被行賞之旨、被定置之間、不論貴賎、所被忠賞也、誠不被捨一土之功勲之条、令相叶先世之兵法歟、然者、上下潤恵、遠近欹徳、人倫恩賞巳無用捨、神明忠勤争被棄置哉、雑掌抱理運、多年雖疲長訴為仰 上裁、少為重述短慮悲哀之至、勒事状、言上如件、延慶二年六月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第三十一巻 東京堂出版 二三七二一号)
  223. ^ 関 幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 101頁
  224. ^ a b c 包黎明 & 2010年, p. 101.
  225. ^ a b 佐藤和夫 2003, p. 14.
  226. ^ 関幸彦『神風の武士像―蒙古合戦の真実(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館 2001年 43〜45頁
  227. ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 大隅五郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号)
  228. ^ 『薩藩舊記』島津久時書下案「爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 (島津)久時在判 吉富次郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号)
  229. ^ 『肥前武雄神社文書』少弐経資書状案「爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月廿一日 (少弐)經資在判 武雄大宮司殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号)
  230. ^ 『肥前深江文書』少弐経資石築地役催促状「異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、建治二年三月十日 少貳(少弐経資)(花押) 深江村地頭殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号)
  231. ^ a b 『東寺文書』関東御教案「明年三月比、可被征伐異國也、梶取・水手等、鎭西若令不足者、可省充山陰・山陽・南海道等之由、被仰太宰少貳經資了、仰安安藝國邊知行之地頭御家人・本所一圓地等、兼日催儲梶取・水手等、經資令相觸者、守彼配分之員數、早速可令送遣博多也者、依仰執達如件、建治元年十二月八日 武蔵守(北条義政)相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二一七〇号)
  232. ^ 『野上文書』大友頼泰書下「異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、建治二年三月五日 前出羽守(大友頼泰)(花押) 野上太郎(資直)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号)
  233. ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉請文「爲異國征伐、可注申勢幷兵具・乘馬等之由事、今月廿五日當所御施行、同廿九日至來、謹以令拝見候畢、仰任被先度仰下候旨、愚身勢幷兵具員數、去十日既雖令付于押領使河□□(尻兵カ)衛尉之候、今重任被仰下候旨、所令注進之候也、以此旨、可有御被露候哉、定愉恐惶謹言、建治二年三月卅日 窪田庄(肥後飽田郡)預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七一号)
  234. ^ 『石清水文書』肥後窪田庄僧定愉注進状「肥後國窪田庄(飽田郡)預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号)
  235. ^ 『石清水文書』井芹秀重西向請文「(前略)一 人勢弓箭兵杖乘馬事 西向年八十五、仍不能行歩、嫡子越前房永秀年六十五在弓箭兵杖、同子息彌五郎經秀年三十八弓箭兵杖、腹卷一□(領カ)、乘馬一疋、親類又二郎秀尚 年十九弓箭兵杖、所從二人、一 孫二郎高秀 年樠四十弓箭兵杖、腹卷一領、乘馬一疋、所從一人、右、任御下知状、可致忠勤也、仍粗注進状言□(上カ)如件、建治二年壬三月七日 沙彌西向(裏花押)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九七号)
  236. ^ 『石清水文書』尼眞阿請文「建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、(建治二年)閏三月三日 北山室地頭尼眞阿(裏)「花押」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号)
  237. ^ 『石清水文書』持蓮請文「異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳(経資)殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎(肥後守護代城盛宗)殿御使鎌倉(へ脱カ)まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、(建治二年)三月十一日 持蓮(花押) 進上 惣公文殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号)
  238. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 61頁
  239. ^ a b 『薩摩比志島文書』少弐経資書下「蒙古警固結番事、以使者民部次郎兵衞尉國茂、令啓候、被聞食候て、可令被露給候、恐々謹言、(文永十二年)二月四日 大宰少貳經資在判 進上 竹井又太郎殿 蒙古警固結番事 春三ヶ月<筑前國/肥後國>夏三ヶ月<筑前國/豐前國>秋三ヶ月<豐後國/筑後國>冬三ヶ月<日向國/大隅國/薩摩國> 文永十二年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一八〇五号)
  240. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元)十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往、使復致書、亦不報、」
  241. ^ a b c d e 『鎌倉年代記裏書』「今年四月十五日、大元使着長門國室津浦、八月、件牒使五人被召下關東、九月七日、於龍口刎首、一、中須大夫禮部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日歸、來時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、二、奉訓大夫兵部郎中何文着、年卅八、唐人、作頌云、四大元無主、五蘊悉皆空、兩國生靈若(苦カ)、今日斬秋風、三、承仕郎回々都魯丁、年卅二、回々用人、四、書状官薫畏國人杲(果)、年卅二、五、高麗譯語郎將徐、年卅三、作詩云、朝廷宰相五更寒、々甲將軍夜過關、十六高僧甲(由カ)未起、算來名利不如閑、今度刎首事永絶、窺覦不可攻之策也、其後警固事有沙汰、鎭西撰補守護人器用之發遣海邊國々、止京都大番役、被差置左(在カ)京人、公家武家減省公事、行儉約、休民庶、皆是爲軍旅用意也、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 53頁)
  242. ^ 蘇秦が外交交渉に失敗して家に帰ってきた際、蘇秦の妻は機織りの手を休めず、出迎えもしなかったという逸話を基にしている
  243. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(九月)戊子(二十一日)の条「元遣使、與劍工内來、古内在元言、高麗有路可徑至日本、故遣之。」
  244. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十月)壬戌(二十五日)の条「以元將復征日本、遣金光遠爲慶尚道都指揮使、修造戰艦。」
  245. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年(十一月)癸巳(二十七日)の条「癸巳、分遣部夫使于諸道。/元遣使來作軍器、以起居郎金磾、偕往慶尚全羅道、斂民箭羽鏃鐵。」
  246. ^ 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 王磐「帝將用兵日本、問以便宜、磐言、當用吾全力、庶可一擧取之。若復分力東夷、恐曠日持久、功卒難成。俟宋滅、徐圖之未晩也。」
  247. ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王二年(正月)丙子(十日)の条「丙子、帝命除造戰船及箭鏃。」
  248. ^ a b c 『元史』巻一百八十 列傳第六十七 耶律希亮「十二年、既平宋、世祖命希亮問諸降將、日本可伐否、夏貴、呂文煥、范文虎、陳奕等皆云可伐、希亮奏曰、宋與遼金攻戰且三百年、干戈甫定、人得息肩、俟數年、興師未晩、世祖然之、」
  249. ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年八月戊子の条「戊子、范文虎言、臣奉招征討日本、比遣周福、欒忠與日本僧齎詔往諭其國、期以來年四月還報、待其從否、始宜進兵、又請簡閲舊戰船以充用、皆從之、」
  250. ^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安二年)六月廿五日、大元將軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋曉房靈杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)
  251. ^ 中原師守『師守記』弘安二年六月二十六日・七月二十五日条「弘安二年六月廿六日異國牒船到着對馬嶋之由風聞、筑紫使者通關東云々、七月廿五日於院有評定、大宋國牒状(入大 函有銘)有沙汰、件返牒可通好之趣也、無其儀者、令責日本歟云々、彼牒状昨日自關東進上云々、」(藤井貞文、小林花子校訂『史料纂集 古記録編 第44回配本 師守記9』続群書類従完成会 1975年 178頁)
  252. ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安二年七月二十五日条「廿五日 晴、參殿下、次謁信輔、宋朝牒状自關東去夕到來、今日於仙洞有評定、殿下已下皆參、左辨宰相束帶、讀申牒状云々、如傳聞者、宋朝爲蒙古已被打取、日本是危、自宋朝被告知之趣歟、今日人々議不一揆云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 114頁)
  253. ^ 『元史』巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年二月甲申の条「以征日本、敕揚州、湖南、贛州、泉州四省造戰船六百艘」
  254. ^ a b c 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年二月己丑の条「福建省左丞蒲壽庚言、詔造海船二百艘、今成者五十、民實艱苦、詔止之。」
  255. ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年五月甲寅の条「造船三千艘、敕耽羅發材木給之。」
  256. ^ 『元史』巻一百五十三 列傳第四十 賈居貞「十七年、朝廷再征日本、造戰艦於江南、居貞極言民困、如此必致亂、將入朝奏罷其事、未行。」
  257. ^ 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 徐世隆「會征日本、世隆上疏諫止、語頗剴切、當路者不即以聞、已而帝意悟、其事亦寢。」
  258. ^ a b 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 昂吉兒「日本不庭、帝命阿塔海等領卒十萬征之。昂吉兒上疏、其略曰、臣聞兵以氣爲主、而上下同欲者勝。此者連事外夷、三軍屢衄、不(可)以言氣、海内騷然、一遇調發、上下愁怨、非所謂同欲也、請罷兵息民。不從。既而師果無功。」
  259. ^ a b 『元史』巻一百六十 列傳第四十七 王磐「日本之役、師行有期、磐入諫曰、日本小夷、海道險遠、勝之則不武、不勝則損威、臣以爲勿伐便。帝震怒、謂非所宣言、且曰、此在吾國法、言者不赦、汝豈有他心而然耶。磐對曰、臣赤心爲國、故敢以言、苛有他心、何爲從反亂之地、冒萬死而來歸乎。今臣年已八十、況無子嗣、他心欲何爲耶。明日、帝遣待臣以温言慰撫、使無憂懼。」
  260. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年八月の条「梢工上左引海一沖等四人、自日本逃還言、至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎將徐賛及梢水三十人、送至其國、使者及賛等見殺、王遣郎將池瑄、押上左等如元以奏。」
  261. ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条「日本國殺國使杜世忠等、征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之、」
  262. ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月辛丑の条「賜諸王阿八合、那木干所部、及征日本行省阿剌罕、范文虎等西錦衣、銀鈔、幣帛各有差。」
  263. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。二月、諸將陛辭。帝敕曰、始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。彼遂留我使不還。故使卿輩爲此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。」
  264. ^ a b c d 『禅の世界』世界文化社、ほたるの本シリーズ、2006年
  265. ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「省(征日本行省)大帥欣都、都副察灰(洪茶丘)、次李都帥牢山(李庭)、次降将范殿帥文虎惣二十三、南(江南軍)一十三。隋唐以来出師之盛未之見也。」(川越泰博 1975, p. 28)
  266. ^ a b 冲止『圓鑑国師集』東征頌「皇帝御天下、神功超放勲、徳寛包有截、沢広被無垢、車共千途轍、書同九域文、唯残島夷醜、假息鼎魚羣、但恃滄溟隔、仍図疆場分、苞茅曾不入、班瑞亦無聞、帝乃赫斯怒、時乎命我君、一千龍鵲舸、十万虎貔軍、問罪扶桑野、鼓聲轟巨侵、旌旆拂長雲、(中略)斫営應瞬息、献捷在朝曛、玉帛争修貢、干戈尽解紛、元戎錫圭卣、戦卒返耕耘、快劒匣三尺、良弓嚢百斤、四方歌浩浩、八表楽欣欣、烽燧収辺警、風塵絶塞氛、当観聖天子、万歳奏南薫、」(南基鶴『蒙古襲来と鎌倉幕府』臨川書店 1996年 230-232頁)
  267. ^ 『呉文正集』巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状(呉澄撰)「南方新附舊軍、十餘年間老病逃亡出征損、折向來精鋭於海東、新招軍數皆非習武藝慣爭戰陣、之人用此制敵必然敗事、」
  268. ^ a b c 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「忻都茶丘等、以累戦不利、且范文虎過期不至、議回軍曰、聖旨令江南軍、與東路軍、必及是月望、会一岐島、今南軍不至、我軍先至数戦、船腐糧尽、其将奈何、方慶黙然、旬余又議如初、方慶曰、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来、合攻必滅之、諸将不敢復言」
  269. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
  270. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。」
  271. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年四月癸未(十八日)の条「大閲干合浦。」
  272. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦」 武田 幸男(翻訳)『高麗史日本伝(下)』(岩波文庫、2005年)によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。
  273. ^ 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之」
  274. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥(二十八日)の条「是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、」
  275. ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月十四日条「自武家邊内々申云、今日宰府飛脚到來、異賊舟三百艘着長門浦了、云々、閣鎭西直令着岸之条、怖畏之外無他、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 229頁)
  276. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月十五日条「異國賊船襲來長門□(興)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  277. ^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月壬午の条「日本行省臣遣使來言、大軍駐巨濟島、至對馬島、獲島人言、太宰府西六十里、舊有戌軍、已調出戰、宜乘虚擣之、詔曰、軍事、卿等當自權衡之、」
  278. ^ a b c 『予章記』「通有。弘安四年。蒙古襲來ス。志賀、鷹、能古等島々海上ニ充満セリ。夷國退治之事ハ家ノ先例ナル間。大將トテ筑前國ニ進發ス。日本ノ諸勢、博多、筥崎、上下三十里ノ海涯ニ築地ヲ高ク築キ。此方面々馬ニテ馳上ル様ニ土ヲ築キ上テ。面ニ亂杭逆茂木ヲ付タリ。海上ヨリ見ハ危峰ノ江ニ臨ムカ如シ。然レ共河野ノ陣ニハ海ノ面、幕一重ニテ後ニ築地ヲツカセタリ。是敵ヲ轍ク引入一戦ノ勝負ヲ可決ト也。背ニ逃道アラハ。味方ヤ逃。トカクシテ一人モ引セシト也。從是河野ノ後築地ト云付タリ。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
  279. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 66.
  280. ^ a b c d e 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(至元)十八年、樞密院檄君、仍管新附□□(軍百?)率所統、堦千戸岳公琇、往征倭、四月□(發?)合浦登海州、以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□來襲、君與所部據艦戦、至暁、賊船廻退、八日、賊遵陸復來、君率纏弓弩、先登岸迎敵、奪占其□要、賊弗能前、日晡、賊軍復集、又返敗之、明日、倭大會兵來戦、君統所部、入陣奮戦、賊不能□(支?)殺傷過□(當?)賊敗去。」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 229頁)
  281. ^ a b c 『高麗史節要』巻二十 十四葉 忠烈王七年六月壬申(八日)「六月壬申(八日)、金方慶金周鼎朴球朴之亮荊萬戸等、與日本兵力戰、斬首三百餘級、官軍潰、茶丘乗馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
  282. ^ a b c d なお『高麗史節要』では東征都元帥・洪茶丘は馬に乗って敗走したことになっている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「六月、方慶周鼎球之亮荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級、日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
  283. ^ a b 『蒙古襲来絵詞』詞十四「陣にをしよせて合戦をいたしきすをかふり候事、ひさなか(久長)のて(手)の物信濃國御家人ありさかのいや(弥)二郎・ひさなか(久長)のをい(甥)しきふ(式部)の三郎「のて(手)の物いはや(岩谷)四郎さゑもんかねふさ(左衛門兼房)、これをせう(証)人にた(立)つ」頼承てお(手負)ひてのち(後)、ゆみ(弓)をす(捨)てなきなた(長刀)をと(取)りてを(押)しよ(寄)せよ、の(乗)りうつ(移)らむ、とはや(逸)りしかとも、これも水手ろ(櫓)をす(捨)てを(押)さゝりしほとに、ちからなくのりうつ(移)らさりし物なり。同日むま(午)の時、季長なら(並)ひにて(手)の物、きす(疵)をかふ(被)るものとも、き(生)のまつはら(松原)にて、守護のけさむ(見参)にい(入)りて、當國一番にひきつ(引付)けにつ(付)く。鹿嶋にさ(差)しつか(遣)はすて(手)の物、同日巳剋に合戦をいた(致)し、親類野中太郎なかすゑ(長季)郎従藤源太すけミつ(資光)いたて(痛手)をかふ(被)り、の(乗)りむま(馬)二疋ゐころ(射殺)されし證人に、豊後國御家人はしつめ(橋詰)の兵衛次郎をた(立)つ。土佐房道戒うちし(討死)にの證人にハ、盛宗の御て(手)の人たまむら(玉村)の三郎盛清をた(立)てけさむ(見参)に入て、同御ひきつ(引付)けにつ(付)く。」
  284. ^ 『筑前右田家文書』大友頼泰書下案「豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号)
  285. ^ a b 『福田文書』平国澄起請文写「以去年六月八日押寄于志賀嶋、抽合戦之忠、国澄被二疵候之時、兼重子息兼光類船令致合戦候之刻、下人云、被疵子細云、被射折弓子細如申状無相違候、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 335頁)
  286. ^ 『蒙古襲来絵詞』絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。佐藤 鉄太郎『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』櫂歌書房 1994年 171-177頁
  287. ^ 『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「軍中又大疫、死者三千餘」
  288. ^ a b c d 郭預『感渡海』「扶桑之海遠不極。萬里蒼蒼接天色。有夷生寄海中央。水道纔通變難測。聖明本自置度外。邊將貪功謀欲得。受命東征自往年。東南師期在六月。千艘駕浪會一岐。十丈風帆檣欲折。相望渉夏不交鋒。辛苦何須爲君説。炎氣瘴霧熏著人。滿海浮屍冤氣結。淫舒虧盈潮落生。九月(七月)已當三十日。是時八極顚風來。撃碎夢衝何太疾。蒼皇誰借千金壺。枉教壯士探蚊室。哀哉十萬江南人。攀依絶嶼赤身立。如今恨骨與山高。永夜羈魂向天泣。當時將帥若生還。念此能無增鬱悒。壯哉萬古烏江上。恥復東歸棄功業。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四63頁)
  289. ^ a b 『金周鼎墓誌銘』「辛巳、以右翼萬戸征□、軍中多疾□不能相恤、公□軍以公力□卒□保護多護全□、又因大風船艦大敗、人物湮流於□洋者□、公□見□而載出所全活亦四百餘人、士卒由是益附還。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 402頁)
  290. ^ a b 『金方慶墓誌銘』「帝、授中奉大夫、管高麗軍都元帥。辛巳夏、又入日本。南宋軍後期三月、因以淹留、腐船而疫興、上國群師毎誘以還軍、公力爭不可累戰、而還。」(『第5版 高麗墓誌銘集成』翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁)
  291. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「今年(至元十八年)三月、有日本船爲風水漂至者、令其水工畫地圖、因見近太宰府西有平戸島者、周圍皆水、可屯軍船、此島非其所防、若徑往據此島、使人乘船往一岐、呼忻都茶丘來會、進討爲利、帝曰、此閒不悉彼中事宜、阿剌罕輩必知、」
  292. ^ 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中、」
  293. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(至元十八年)六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事、」
  294. ^ 許有壬撰『至正集』巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上桂國曹南忠宣王神道碑銘并序「十八年、入覲賜王帯弓矢、進光禄大夫中書省左丞相、行中書省事、統帥四十餘万征日本、次明州而薨、」
  295. ^ 陸文圭撰『墻東類稿』故武徳将軍呉侯墓志銘「十八年、汎海征日本、授宣武將軍、壽春副萬戸、先鋒。抵島上、颶風驟起、眾散而歸。」
  296. ^ 呉澄撰『呉文正集』巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸邢侯墓碑「軍随日本行中書省官至耽羅山、抵倭國界、領軍船守平戸島、」
  297. ^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑(一日)の条「蠻軍把總沈聰等六人、自白本逃來言、本明州人、至元十八年六月十八日、従吉剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗、衆軍十三四萬、同栖一山、十月初八日、日本軍至、我軍飢不能戰、皆降日本、擇留工匠及知田者、餘皆殺之、王遣上將軍印侯郎將柳庇、押聰等送干元。/(八月)甲午(九日)、蠻軍五人、自日本逃來」
  298. ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年六月廿四日条「自宰府飛脚到來、宋朝船三百餘隻、着對馬嶋云々、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
  299. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』六月二十七日条「異國又襲來、鎮西合戦之由、早馬先□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  300. ^ a b c d e f g 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧「十七年、加鎭國上將軍、都元帥、時朝廷議征日本、禧請行、即日拜行中書省平章政事、與右丞范文虎、左丞李庭同率舟帥、泛海東征、至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃、八月、颶風大作、文虎、庭戰艦悉壞、禧所部獨完、文虎等議還、禧曰、士卒溺死者半、其脱死者、皆壯士也、曷若乘其無回顧心、因粮於敵以進戰、文虎等不從、曰、還朝問罪、我輩當之、公不與也、禧乃分船與之、時平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰、我安忍棄之、遂悉棄舟中所有馬七十匹、以濟其還、至京師、文虎等皆獲罪、禧獨免、」
  301. ^ 『歴代鎮西要略』外山幹夫 2008, p. 70
  302. ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
  303. ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
  304. ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)
  305. ^ 『龍造寺系図』龍造寺季時伝「弘安中蒙古襲来時、季時合戰壱岐島瀬戸浦、顕高名討死」(『大宰府・太宰府天満宮史料』第8巻 太宰府町(福岡県)1972年)
  306. ^ 『肥前龍造寺文書』肥前守護北条時定書状「去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、弘安五年九月九日 時定(花押) 龍造寺小三郎左衛門尉(家清)殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号)
  307. ^ 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「行中書[省]賜賞有差、賜君幣帛二、軍還至一岐島、六月晦(二十九日)、七月二日、賊舟兩至、皆戰敗之、獲器仗無□(算?)」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 290頁)
  308. ^ 『武藤少弐系図』「資時。弘安四年。與蒙古戦於壹岐島前討死。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四19頁)
  309. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月十二日条「異國賊船等退散之由、風聞、實説可尋記之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  310. ^ a b c d 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。山上素無人居、唯多巨蛇。相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。故曰白骨山。又曰枯髏山。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 212頁
  311. ^ a b 『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』「(七月)二十七日、移軍至打可島(鷹島)、賊舟復集、君整艦、與所部、日以繼夜、鏖戰至明、賊舟始退、」(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 308頁)
  312. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月二十一日条「異國賊船重襲來之由、昨日飛脚來云々、□(事)躰非無怖畏歟、返々驚□(遂)□…」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  313. ^ 『宇都宮系図』「貞綱。弘安四年正(五)月。蒙古以十萬兵爲攻日本。兵船六萬艘著肥前平戸島。于時自六波羅爲大將。引率中國之勢赴筑紫。蒙古既雖聞敗亡。猶至九州。異賊襲來爲防戰之備。而歸洛。」(塙保己一編『続群書類従』6下 系図部 巻第百五十二 続群書類従完成会 1957年)
  314. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』七月六日条「六日、依異國警固、鎭西九ヶ國幷因幡伯耆□石見、不可濟年貢、可點定、又件國々、雖□莊園同下知之由、去夜自關東令申云々、異賊未入境、洛城欲滅亡歟、上下諸人之歎、不可有比類歟、實否猶可尋記之、異國合戰之間、當時兵粮米事、□要鎭西及因幡伯耆出雲石見國中□(國)□家本所一圓領得分、幷富有之□米穀令在者、可點□(定)□□(申)□(可被)□此旨可令申入春宮大夫□状如件、弘安四年六月廿□(八)日相模守□陸奧□(守)殿、越後左近大夫將監殿、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  315. ^ 広橋兼仲の日記『勘仲記』(弘安四年閏七月一日条)によると、翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮して台風であったと比定されている。広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月一日条「一日、甲子、雨降、參祖母禪尼、入夜暴風大雨如沃如叩、終夜不休、匪直也事也、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 235頁)
  316. ^ 気象庁. “台風の平年値”. 2013年6月27日閲覧。
  317. ^ 『癸辛雑識-続集下』「至大(元)十八年、大軍征日本。船軍已至竹島、與其大宰府甚邇。方號令翌日分路以入。夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。葢天意也。」(周密撰/呉企明点校/『癸辛雑識』唐宋史料筆記叢刊 中華書局 1997年 191頁)
  318. ^ 『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎「十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、」
  319. ^ 歴史学者・池内功によると、モンゴル軍は遠征に際して、家族等を同伴するのが通例であったが、弘安の役の頃になると、妻を同伴することができるのは、将校に限られるなど変化していた。(池内功 2015, p. 40)
  320. ^ 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「及征日本、大風之夕、公方以王事爲重、奚恤其家、而縣君獨在舟中、身綰印章、未嘗舍去。及舟壞、乃抱折墻得達于岸。之豈尋常者所能及哉。」
  321. ^ 『元史』巻一百三十一 列傳第十八 嚢加歹「召爲都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還、」
  322. ^ 『元史』巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒「江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戸、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還、有旨、特賜養老一百戸、衣服、弓矢、鞍轡、有加、」
  323. ^ 『高麗史』によるとイェスデル(也速䚟児)は朝鮮半島の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯(二十九日)の条「丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。」
  324. ^ a b c d 『高麗史』巻二十九 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(八月)丁未(十九日)の条「忠烈王十八年 丁未、世子謁帝于紫檀殿、鄭可臣柳庇等随入、有丁右丞者奏、江南戦船、大則大矣、偶觸則毀、此前所以失利也、如使高麗造船、而再征之、日本可取、帝問征日本事、洪君祥進言曰、軍事至大、宣先遣使問諸高麗、然後行之、帝然之。」
  325. ^ 王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「大小戦艦多為波浪揃触而砕、唯句麗(高麗)船堅得全、遂班師西運、」(川越泰博 1975, p. 28)
  326. ^ 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版 2012年 55頁
  327. ^ a b 「たかしまのにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候をはらいのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候、と申に…」(『蒙古襲来絵詞』後巻・詞11・第9紙:大倉隆二 『「蒙古襲来絵詞」を読む』海鳥社、2007年 145頁)
  328. ^ 虞集撰『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘「夫人姓趙氏浚儀人、故宋宗室秦邸諸孫弋陽縣主簿、其之女也、諱時妙字妙眞、」
  329. ^ a b 虞集撰『道園類稿』巻四十九 趙夫人墓誌銘「征倭之助、先將軍以其軍陸還、夫人以舟別行、颶風駭浪莫知東西、有青鳥導其前、舟人隨之、七日、出澉浦三於東呉。」
  330. ^ 『蒙古襲来絵詞』詞十一「閏七月五日、御くりや(御厨)のかいしやうかつせん(海上合戦)は、とりのとき(酉の刻)にをしむかて、かつせん(合戦)をいたす」
  331. ^ 『筑後五條文書』少貳景資書状写「筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申、□弘安四年閏七月五日於肥前国御厨子(千カ)崎海上、蒙古賊船三艘内、追懸大船致合戦、乗移敵船、度景令分取、舎弟廣度異賊入海中、親類□被□被疵、郎従或令打死、或負手、令分取候子細、致見知候由、所立申證人也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一五一五〇号)
  332. ^ a b 『肥前武雄神社文書』黒尾社大宮司藤原経門申状「肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上 欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞去弘安四年遺賊合戦事、右、遺賊襲来之時、於千崎息乗移于賊船、資門乍被疵、生虜一人分取一人了、将又攻上鷹嶋棟原、致合戦忠之刻、生慮二人了、此等子細、於鎮西談議所、被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、到越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩、皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞、空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場、或自身被疵、或分取生慮之条、証人等状幷宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、永仁四年八月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十五巻 東京堂出版 一九一三〇号)
  333. ^ 服部英雄『蒙古襲来』山川出版社、2014年。ISBN 978-4-634-15061-4 
  334. ^ 服部英雄『蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実』中央公論新社〈中公新書〉、2017年11月。ISBN 978-4-12-102461-9 
  335. ^ 蒙古襲来と神風 -服部英雄 著|電子書籍|中央公論新社”. 2023年12月2日閲覧。
  336. ^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 71.
  337. ^ 『豊後都甲文書』大神惟親軍忠状「豊後国御家人都甲左衛門五郎大神惟親法師法名寂妙謹言上、欲早任傍例、預御注進、蒙抽賞、去弘安四年後七月七日、肥前国鷹嶋蒙古合戦事、右、蒙古凶徒、着岸肥前国鷹嶋之間、馳向当国星鹿、彼七日、寂妙渡当嶋、於東浜、依致合戦忠、寂妙子息四郎惟遠、令分取畢、其上、郎従三郎二郎重遠被疵旗差下人一人弥六末守被疵畢、此次第、同国志手筑後房円範、上総三郎入道所令見知也、早預御注進、為蒙抽賞、恐々言 上如件、弘安九年三月 日 「(自著)沙弥寂妙(花押)」」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十一巻 東京堂出版 一五八六七号)
  338. ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「次月七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事、爰時範依合戦之忠勤、爲預御裁許、粗言上如件、弘安五年二月 日」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
  339. ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「同閏七月七日鷹嶋合戦之時、五郎次郎自陸地馳向候之条、令見知候了、若此條僞申候者、日本國中大少神罸可罷蒙長久之身候、恐惶謹言、弘安五年四月十五日 大炊助長久」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
  340. ^ 『江上系図』「西牟田彌次郎永家。弘安四年。大元大將督六万艘十万人。寇鎭西。此時永家戰于松浦之鷹島抽功。於是爲之賞。肥前國神崎郡中數箇。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四30頁)
  341. ^ 『福田文書』丹治重茂起請文写「以去年後七月七日押寄于鷹嶋之賊船、抽合戦之忠候之時、兼重同押寄于彼所致合戦、令焼払賊船候之条、令見知候畢、」(外山幹夫『中世九州社会の研究』付録 吉川弘文館 1986年 336頁)
  342. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 第42巻 長崎県』1987年 588頁
  343. ^ 山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四40頁
  344. ^ a b 『諸家文書纂野上文書』六波羅御教書「(前略)一 異国降人等事、各令預置給分、沙汰未断之間、津泊往来船、不謂昼夜不論大小、毎度加検見、如然之輩、輙浮海上、不可出国、云海人漁船、云陸地分、同可有其用意矣、(後略)弘安四年九月十六日 左近将監(北条時国)(花押) 野上太郎殿」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四五六号)
  345. ^ a b 『大般若波羅蜜多経』巻第四百九十八「大唐国江西路瑞州軍人何三於 弘安九年四月上旬日補整」元寇捕虜が大般若経修正、「重用示す」」『読売新聞』、2017年6月21日閲覧 
  346. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』閏七月十二日条「十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々、冥助之至、不能□□(左右)事也、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  347. ^ 広橋兼仲『勘仲記』弘安四年閏七月十四日条「丁丑、自夜雨降、參殿下申条々事、參近衛殿、自宰府飛脚到來、去朔日大風(動波)、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之、所下居異賊多以殞命、或又被生虜、今度事神鑑炳焉之至也、天下之大慶何事可過之乎、匪直也事也、雖末代猶無止事也、弥可尊崇神明佛陀者歟、」(高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂『史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2』八木書店 2008年5月 257頁)
  348. ^ 『弘安四年日記抄(壬生官務家日記抄)』閏七月廿一日条「自関東差遣鎮西使者両人、今日上洛、異國賊、無残誅了之由、申上云々、実説猶可尋之、」(国民精神文化研究所編『元寇史料集』第二巻 國民精神文化研究所 1935年)
  349. ^ 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録『驚異の書』fr.2810写本』岩波書店 2002年 147〜148頁
  350. ^ 『兼仲卿記弘安五年七月・九月巻裏文書』某事書「爲異國征伐、大和國寺僧國民被召之間、可蒙免許事、副衆徒申状(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四六〇号)
  351. ^ 『東大寺文書』聖守書状「可被征伐高麗之由、自關東其沙汰候歟、少貳乎大友乎爲大将軍、三ヶ國御家人、悉被催立、幷大和・山城惡徒五十六人、今月中可向鎭西之由、其沙汰候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四二二号)
  352. ^ 『福岡県史』第一巻下冊 福岡県 1962年 63頁
  353. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年十月己亥(七日)の条「元勑、於本國金州等處、置鎭邊萬戸府、以印侯爲佋勇大將軍鎭邊萬戸、賜虎符及印、張舜龍爲宣武將軍鎭邊管軍總管。」
  354. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年正月丙寅の条「丙寅、罷征東行中書省。」
  355. ^ a b 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌の条「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。」
  356. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月壬申の条「敕平灤、高麗、耽羅及揚州、隆興、泉州、共造大小船、三千艘。」
  357. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年五月庚辰の条「庚辰、議於平灤造船、發軍民合九千人、令探馬赤伯要帶領之、伐木於山、及取於寺觀墳墓、官酬其直、仍命桒哥遣人、督之。」
  358. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年三月己未の条「御史臺臣言、平灤造船、五臺山造寺伐木、及南城建新寺、凡役四萬人、乞罷之、詔伐木建寺、即罷之、造船一事、其與省臣議。」
  359. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年七月丙辰の条「諭阿塔海、所造征日本船、宜少緩之、所拘商船、其悉給還。」
  360. ^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十年、命阿塔海爲日本省丞相、與徹里帖木兒右丞、劉二拔都兒左丞、募兵造舟、欲復征日本。淮西宣慰使昂吉兒上言民勞、乞寢兵。」
  361. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年五月甲戌の条「甲戌、發征日本重囚、往占城、緬國等處、從征。」
  362. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年四月壬辰の条「壬辰、阿塔海求軍官習舟楫者、同征日本、命元帥張林、招討張瑄、總管朱清等行。」
  363. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年正月壬申の条「命右丞闍里帖木兒及萬戸三十五人、蒙古軍習舟師者二千人、探馬赤萬人、習水戰者五百人征日本。」
  364. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年三月卯朔(一日)の条「中郎將柳庇還自元、言、帝徴江南軍、將以八月東征日本。」
  365. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月庚申の条「建宣慰司獲倭國諜者、有旨、留之。」
  366. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月戊寅の条「戊寅、給新附軍賈祐衣糧。祐言、爲日本國焦元帥婿、知江南造船、遣其來候動靜、軍馬壓境、愿先降附。」
  367. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年六月戊子の条「戊子、以征日本、民間騷動、盜賊竊發、忽都帖木兒、忙古帶、乞益兵禦寇、詔以興國江州軍、付之。」
  368. ^ 『元史』巻一百七十 列傳第五十七 申屠致遠「時寇盜竊發、加之造征日本戰船、遠近騷然、致遠設施有方、衆賴以安。」
  369. ^ 『元史』巻一百七十三 列傳第六十 崔彧「又言、江南盜賊、相挻而起、凡二百餘所、皆由拘刷水手、與造海船、民不聊生、激而成變。日本之役、宜姑止之。又江西四省軍需、宜量民力、勿強以土産所無、凡給物價及民者、必以實、召募水手、當從其所欲、伺民氣稍蘇、我力粗備、三二年后、東征未晩。世祖以爲不切、曰、爾之所言如射然、挽弓雖可觀、發矢則非是矣。」
  370. ^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年五月己卯(二十六日)の条「鄭仁卿等還自元言、帝寢東征之議、王命罷修艦調兵等事。」
  371. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年八月丁未の条「浙西道宣慰使史弼言、頃以征日本船五百艘、科諸民間、民病之、宜取阿八赤所有船、修理、以付阿塔海、庶寛民力、并給鈔於沿海募水手。從之。」
  372. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年九月辛未の条「辛未、以歳登、開諸路酒禁、廣東盜起、遣兵萬人討之。」
  373. ^ 『元史』巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年十月庚子の条「建寧路管軍總管黄華叛、衆幾十萬、號頭陀軍、僞稱宋祥興五年、犯崇安、浦城等縣、圍建寧府。招卜憐吉帶、史弼等將兵二萬二千人討平之。」
  374. ^ 『元史』巻一百六十二 列傳第四十九 劉国傑「會黄華反建寧、乃命國傑以征東兵會江淮参政伯顔等討之。」
  375. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月辛巳の条「罷高麗造征日本船。」
  376. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月丁未の条「命阿塔海、發兵万五千人、船二百艘、助征占城、」
  377. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年五月壬子の条「拘征東省印。」
  378. ^ 『薩摩八田家文書』関東御教書「鎭西誓固事、蒙古異賊明年春可襲來云々、早向役所、嚴密可致用心、且守護御家人以下軍兵等、忩從守護所命、可致防戰忠、守護人亦不論親疎、注進忠否、可申行賞罰也、於背此仰輩者、永可被重科、次本所一圓地聞事、可催促之間(旨)、先日被成御教書畢、早存此旨、可令相觸薩摩國中之状、依仰執達如件、正(弘)安六年十二月廿一日 駿河守(北条重時)在判 相模守(北条時宗)在判」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十八巻 東京堂出版 二一三〇五号)
  379. ^ 西園寺公衡『公衡公記』弘安六年七月二日条「(前略)但異國事、近日其聞候、今年秋可襲來之由、令申云々、就中、文永牒状ニ、以至元廿一年、發大軍可襲來之由、載之候歟、明年當其年限候條、防御候計外、不可有他事候、(後略)」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第二十巻 東京堂出版 一四八九五号)
  380. ^ a b 『善隣国宝記』巻上「南海觀音實陀禪寺住持如智海印接待庵記曰、癸未(至元二十年)八月、欽奉聖旨、同提擧王君治奉使和國、宿留海上八箇月、過黑水洋遭颶風云々、半月後、忽飄至寺山之外、幸不葬魚腹、大士力也、甲申(至元二十一年)四月、又奉聖旨、同(洪西行省)参(知)政(事)王積翁、再使倭國、五月十三日、開帆於鄞(慶元)、住耽羅十三日、住高麗合浦二十五日、七月十四日、舟次倭山對馬島。云々、危哉此時也、非大士孰生之、云々、至元二十八年、歳次辛卯六月日、宣差日本國奉使前住寶(補)陀五樂翁愚溪如智記」
  381. ^ 『善隣国宝記』巻上「又記宣諭日本國詔文曰、上天眷命皇帝、聖旨諭日本國王、向者彼先遣使入覲、朕亦命使相報、已有定言、想置於汝心而不忘也、頃因信使執而不返、我是以有舟師進問之役、古者兵交、使在其間、彼轍不交一語、而固拒王師、據彼已嘗抗敵、於理不宣遣使、茲有補陀禪寺長老如智等陳奏、若復興師致討多害生靈、彼中亦有佛教文學之化、豈不知大小強弱之理、如今臣等賚(齎)聖旨宣諭、則必多救生靈也、彼當自省懇心、歸附准奉、今遣長老如智、堤擧王君治、奉詔往彼、夫和好之外、無餘善焉、戰爭之外、無餘惡焉、果能審此歸順、即同去使來朝、所以諭乎彼者、朕其禍福之變、天命識之故、詔示、想宣知悉」
  382. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月月甲戌の条「甲戌、詔諭行中書省、凡征日本船及長年篙手、并官給鈔增價募之。」
  383. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年四月丙午の条「丙午、以征日本船運粮江淮及教軍水戰。」
  384. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年六月庚戌の条「六月庚戌、命女直、水達達、造船二百艘及造征日本迎風船。」
  385. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月癸丑の条「癸丑、立征東行省、以阿塔海為左丞相、劉國傑、陳巌并左丞、洪茶丘右丞、征日本。」
  386. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条「仍敕習泛海者、募水工至千人者爲千戸、百人爲百戸。」
  387. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月丙申の条「丙申、赦囚徒、黥其面、及招宋時販私鹽軍習海道者爲水工、以征日本。」
  388. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月癸巳の条「癸巳、敕漕江淮米百萬石、泛海貯於高麗之合浦、仍令東京及高麗各貯米十萬石、備征日本。諸軍期於明年三月以次而發、八月會於合浦。」
  389. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月戊寅の条「戊寅、遣使告高麗發兵萬人、船六百五十艘、助征日本、仍令於近地多造船。」
  390. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十二月己亥の条「增阿塔海征日本戰士萬人、回回砲手五十人。己亥、從樞密院請、嚴立軍籍條例、選壯士及有力家充軍。敕樞密院、向以征日本故、遣五衞軍還家治裝、今悉選壯士、以正月一日到京師。江淮行省以戰船千艘習水戰江中。」
  391. ^ 『元史』巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年正月甲戌の条「甲戌、帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本、」
  392. ^ 『元史』巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣「連年日本之役、百姓愁戚、官府擾攘、今春停罷、江浙軍民、歡聲如雷。」
  393. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十三年、帝曰、日本未嘗相侵、今交趾犯邊。宜置日本、專事交趾。」
  394. ^ 鄭思肖『心史・雑文・大義略叙』 「辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人与船倶陥、又大敗而回。倭遣使責占城不戦而附韃。占城有悟意、始背元韃。」
  395. ^ a b c 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「二十一年、又以其俗尚佛、遣王積翁与補陀僧如智往使。舟中有不願行者、共謀殺積翁、不果至。」
  396. ^ 『元史』巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条「塔海弟六十言、今百姓及諸投下民、倶令造船於女直、而女直又復發爲軍、工役繁甚。乃顔、勝納合兒兩投下鷹坊、採金等戸獨不調。有旨遣使發其民。」
  397. ^ 海老沢哲雄 1972, p. 43-44.
  398. ^ 『元史』巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國「二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。」
  399. ^ 『北条九代記』「正應五年七月、附商舶歸朝。大元燕公南獻牒状。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之五54頁)
  400. ^ 『元史』巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年六月己巳の条「己巳、日本來互市。風壞三舟。惟一舟達慶元路。」
  401. ^ 『元史』巻一百七十三 列傳第六十 燕公楠「二十七年、拜江淮行中書省參知政事。」
  402. ^ 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年十月庚寅(三日)の条「冬十月庚寅、以太僕尹金有成、爲護送日本人、供驛署令郭鱗、爲書状官、」
  403. ^ 『北条九代記』「正應五年十月、高麗使金有成等到着。翌年被召下關東訖。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之五57頁)
  404. ^ 『高麗史』巻一百六 列伝十九 金有成「後日本僧鉗公來言、有成丁未七月五日病卒。」
  405. ^ 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年(九月)壬午(二十四日)の条「壬午、元遣洪君祥來、命我護送日本人還其國、君祥以帝旨、問征日本事、王對曰、臣既隣不庭之俗、庶當躬自致討、以効微勞、君祥獻馬、遂宴干香閣。」
  406. ^ 『高麗史』巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十九年八月の条「八月、元遣萬戸洪波豆兒來、管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍糧、將復征日本也、」
  407. ^ a b 『高麗史』巻三十一 世家三十一 忠烈王四 忠烈王二十年(正月)癸酉(二十二日)の条「癸酉、世祖皇帝崩。/罷造戰艦、時王入朝、欲陳東征不便、且以甲戌辛巳兩年之役、濱水材木、斫伐殆盡、造艦實難、冀緩其期、會帝晏駕、洪君祥白丞相完澤、遂寢東征。」
  408. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「成宗大徳二年、江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。帝曰、今非其時、朕徐思之。」
  409. ^ 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「(成宗大徳)三年、遣僧寧一山者、加妙慈弘濟大師附商舶往使日本。而日本人竟不至。」
  410. ^ 『妙慈弘済大師行記』「飃簸而著于博多。本朝正安元也。舶主以書曰元帥府。府議曰、敵國命使不活矣。或曰、使命不活。然奈僧儀何。先編置豆州修禪寺。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之六3頁)
  411. ^ 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「世祖至元二十八年九月、海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。」
  412. ^ 『元史』巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求「二十九年三月二十九日、自汀路尾澳舟行、至是日巳時、海洋中正東望見有山長而低者、約去五十里。祥稱是瑠求國、鑒稱不知的否。祥乘小舟至低山下、以其人衆、不親上、令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘、載軍器、領三嶼人陳煇者登岸。岸上人衆不曉三嶼人語、爲其殺死者三人、遂還。」
  413. ^ a b c 海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社現代新書 1995年 19頁
  414. ^ a b c 王勇『中国史の中の日本像』人間選書 2000年 第六章第二節
  415. ^ a b 『元史』巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年十月戊子朔の条「日本舟至四明、求互市、舟中甲仗皆具、恐有異図、詔立都元帥府、令哈剌䚟将之、以防海道。」
  416. ^ 『元史』巻二十一 本紀第二十一 成宗四 大徳八年夏四月丙戌の条「夏四月丙戌、置千戸所、戍定海、以防歳至倭船。」
  417. ^ 『元史』巻九十四 志第四十三 食貨二「(大徳)七年、以禁商下海罷之。」
  418. ^ 太田弘毅 1988, p. 20.
  419. ^ a b 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。不戦死帰、亦為倭王主所殺。倭婦甚烈不可犯。幼歳取犀角、刔小珠種額上。善水不溺、倭刀極利。地高嶮難入、可為戦守計。」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫 1986年 213頁
  420. ^ 王勇『中国史の中の日本像』人間選書 2000年 第六章第三節
  421. ^ 呉萊『隣交徴書』二篇巻一 論倭「今之倭奴、非昔之倭奴也。昔雖到弱、猶敢拒中国之兵。況今之恃険、且十此者乎。郷自慶元、航海而来、艨艟数千、戈矛剣戟、莫不畢具。銛鋒淬鍔、天下無利鉄。出其重貨、公然貿易、即不満所欲、燔炳城郭、抄掠居民、海道之兵、猝無以応、(中略)喪士気弱国体、莫大於此。然取其地不能以益国、掠其人不可以強兵、」石原 道博(翻訳)『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝』〈2〉岩波文庫、1986年、216頁
  422. ^ 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海巻六「備按、中国征伐四夷、自古有之、然而征伐夷、海外之夷倭、不嘗有也、抑伐倭者考、自呉大帝・晋慕容廆・元忽必烈而巳、(中略)抑呉・晋・元勒兵漲海之外、得其民安焉、用之喪兵足以為恥、」(太田弘毅 2006, p. 20)
  423. ^ a b 太田弘毅 2006, p. 19.
  424. ^ 『明史』巻三百二十二 外國三 日本國「十四年、復來貢。帝再却之、命禮官移書責其王、并責其征夷將軍、示以欲征之意。良懷上言、臣聞三皇立極、五帝禪宗。惟中華之有主、豈夷狄而無君。乾坤浩蕩、非一主之獨權。宇宙寛洪、作諸邦以分守。蓋天下者、乃天下之天下、非一人之天下也。臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。陛下作中華之主、爲萬乘之君。城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絶之意。夫天發殺機、移星換宿。地發殺機、龍蛇走陸。人發殺機、天地反覆。昔堯・舜有德、四海來賓、湯・武施仁、八方奉貢。臣聞天朝有與戰之策、小邦亦有禦敵之圖。論文有孔・孟、道德之文章。論武有孫・呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。水澤之地、山海之洲、自有其備。豈肯跪途而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前、聊以博戲。臣何懼哉。倘君勝臣負、且滿上國之意。設臣勝君負、反作小邦之羞。自古講和爲上、罷戰爲強。免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。帝得表慍甚、終鑑蒙古之轍、不加兵也。」
  425. ^ 野村育世「中世における後家相続」『家族史としての女院論』校倉書房、2006年、P37-59.
  426. ^ a b 『概説日本思想史』吉原健雄
  427. ^ a b 佐藤鉄太郎 2003, p. 63.
  428. ^ 山形欣哉 2003, p. 14.
  429. ^ 日朝は「蒙古詞事」の文永の役に関する説明において、同時期の日蓮の書簡や『八幡愚童訓』等から引用しているが、「或記」とのみ書いており、具体的な典拠名を述べていない。また、現在確認出来る「日朝上人典籍目録」等の記録に見られる日朝の所持本には『八幡愚童訓』は含まれていない。しかし、日朝が引用する『八幡愚童訓』は、現在『安国論私抄』も蔵されている身延文庫所蔵の日意明応3年(1494年)に書写した『八幡愚童訓』と文体等が多く一致しており、現在は逸書となっている日意写本の原本から参照した可能性が考えられる。また、日蓮自身は文永・弘安の役についての情報を日蓮に帰依していた信者やその類縁となっていた幕府関係者等から入手していたと推測されている。この「蒙古詞事」にある「或記」も、日朝が『安国論私抄』を著した文明11年(1478年)頃には身延山で参照し得た、現存の諸資料中の情報では確認出来ない資料のひとつと考えられる。伊藤英人「身延文庫蔵『朝師御書見聞 安国論私抄』の「蒙古詞事」中の朝鮮語について」『東京外国語大学論集』63号、 2002年、1-21頁
  430. ^ 『高麗史』巻百四 列伝巻十七 金方慶伝 元宗十五年条「造船若依蛮様、則工費多将不及期。(中略)用本國船様督造」NDLJP:991070/125
  431. ^ 元寇船の底は二重構造、粗製乱造説見直しか」『読売新聞』、2012年10月10日閲覧 
  432. ^ 「元寇船」調査終了、新たに沈船探し…琉球大・池田教授」『読売新聞』、2012年10月15日閲覧 
  433. ^ 山形欣哉『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』農山漁村文化協会2004年 52-54頁
  434. ^ 杉山正明「モンゴル帝国、アジア征服の猛威(総力特集 北条時宗と蒙古襲来)」『歴史と旅』Vol.28、2001年2月号、秋田書店、30-35頁。奥富敬之『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書320、2000年、178-189頁などを参照。
  435. ^ 例えば、1214年尾金朝の旧都・中都陥落と接収以前のモンゴル帝国軍の軍事行動の場合、「もともとモンゴルは、軍事行動を行ってきた金朝領の漢地において、一度戦勝しあるいは降伏させて占領しても、一時的に人と者を収奪すれば、あとは放置して立ち去り、長期的に領有・統治するという意思を示していなかった」。(海老沢哲雄「モンゴルの対金朝外交」『駒澤史学』52号、1998年6月、p.203-204.)
  436. ^ 『元史』 巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 爪哇「至元二十九年二月、詔福建行省除史弼、亦黑迷失、高興平章政事、征爪哇。會福建、江西、湖廣三行省兵凡二萬、設左右軍都元帥府二、征行上萬戸四、發舟千艘、給粮一年、鈔四萬錠、降虎符十、金符四十、銀符百、金衣段百端、用備功賞。」
  437. ^ 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書 1307、1996年6月20日、pp.129-135。
  438. ^ 川添 2001, pp. 263–264.
  439. ^ 文化庁『発掘された日本列島2012 新発見考古速報』朝日新聞出版2012年 57頁
  440. ^ 第179回国会 質問主意書 質問第二六号
  441. ^ 参議院議員秋野公造君提出長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問に対する答弁書
  442. ^ 元寇船2隻目を確認 長崎・鷹島沖の海底」『読売新聞』、2015年7月2日閲覧 
  443. ^ a b 今谷明「封建制の文明史観」(PHP新書)
  444. ^ 今谷明はマムルーク朝軍と「蒙古軍」との戦闘として、イルハン朝の始祖フレグの時代の1260年にあった現パレスチナのアイン・ジャールートの戦い、およびアバカとマムルーク朝のカラーウーンの時代の1281年(今谷は指摘していないが弘安の役と同年)にダマスクスアレッポの中間にあるヒムスでの戦闘の例を触れ、いずれにおいてもマムルーク朝軍が「蒙古軍」を破ったことを述べ、「エジプトのマムルーク軍団の精強さは組織(システム)としての完成されたものであり、さすがのモンゴルも歯が立たなかった」と評している(今谷同書 68-69頁)。今谷同書
  445. ^ 今谷は、神聖ローマ帝国は1241年4月のワールシュタットの戦いで蒙古軍に敗北するが、6月のオルミュッツ城での攻防戦で蒙古軍を撤退させたと述べ、ギボンの『ローマ帝国興亡史』やドーソンの『蒙古史』(岩波文庫版 田中粋一郎訳)の記述を引用している(今谷同書 58-62頁)。しかし、今谷が引用するドーソンに依拠したこのシュテルンベルク公ヤロスラフ Jaroslaw de Sternberg とモンゴル軍によるオルミェツ城の攻防の逸話は、東洋文庫版のドーソン『モンゴル帝国史』(第2巻)で訳者 佐口透が訳注で「右のシュテルンベルクがオロモウツ (Olmütz = Olomouc) 城下でモンゴル軍を得たというのは伝説にすぎないと言われる。Vernadsky, The Mongols and Russia の注による」(同書172頁)と紹介しているように、現在、ヨーロッパの中世史研究では史実性が疑われている。ロシア史研究者ヴェルナツキー George Vernadsky :en は代表作『モンゴル帝国とロシア』 The Mongols and Russia (1958) においてバトゥのヨーロッパ遠征を述べる段の脚注において、この逸話の伝説性をチェコの歴史研究者 Václav Novotný :cs が『チェコ史』České dějiny (vol. 3, 1928) ですでに指摘し史実性について疑義を呈しているのに、近年でさえ高名な東洋学者であるドイツのシュプーラー Bertold Spuler や同じロシア中世史研究者のグレコフ Boris Grekov :en を名指しして「未だにこの神話がこの両人によって繰り返されている」と批判している (The Mongols and Russia, p.56)。
  446. ^ ただし、佐藤次高は著書や論文でイクター制と封建制との問題が触れられる時は、ヨーロッパにおいてイクター制がヨーロッパの封建制と比較され「イスラム封建制」として捉えられる伝統があり、その影響を受けたアラブの研究者も含めてイスラム社会を考察する上での「認識の歪み」を生じさせて来たことを述べ、安易な同一視は避けるよう繰り返し述べているが、今谷はこれら佐藤の見解については触れていない。また、佐藤もたびたび紹介しているがイスラームの政治思想において国家システムを成り立たせている2つの重要な要素、軍事等を担当する「剣の人」と文書行政等を担当する「筆の人」という2種の職能の「公職」についての伝統的分類等についても、今谷は触れていない。(佐藤次高「はしがき」『中世イスラム国家とアラブ社会』山川出版社、1986年 p. i-iv /佐藤次高「イスラームの騎士と官僚―「剣の人」と「筆の人」」『公家と武家 IV 官僚制と封建制の比較文明史的考察』(笠谷和比古 編)思文閣出版、2008年5月)
  447. ^ 清水和裕「マムルークとグラーム」『新版岩波講座 世界歴史10』1999年
  448. ^ 今谷同書 71-73頁
  449. ^ 『高麗史』元宗十三年 (二月)己癸(十日)の条「惟彼日本 未蒙聖化。故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の中書省が発送したにある世子・諶(後の忠烈王)云の箇所 NDLJP:991068/217
  450. ^ 柳成龍 著、朴鐘鳴 訳『懲毖録平凡社東洋文庫、1979年、40-43頁。ISBN 4582803571 
  451. ^ 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-」『東洋学報』79-4、1998年3月。
  452. ^ 関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」『印度學佛教學研究』 54-(1)、2005年12月、219頁
  453. ^ 新倉善之「日蓮伝小考 --『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜--」『立正大学文学部論叢』 10号、110-144頁、1959年1月
  454. ^ 新倉善之「日蓮伝小考」110-111頁、119頁
  455. ^ 川添昭二 1977, p. 70, 82, 89.
  456. ^ 川添昭二 1977, p. 89.
  457. ^ 川添昭二 1977, pp. 134–135.
  458. ^ 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年
  459. ^ 川添昭二 1977, pp. 111–122.
  460. ^ 川添昭二 1977, pp. 121–122.
  461. ^ a b 「〔按〕本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。)太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。)トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。(百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。)トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。」山田安栄編『伏敵編』巻二、1891年6月、11-12頁。
  462. ^ 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し。」(建治二年閏三月五日筆「妙密上人御消息」:『鎌倉遺文』12295号、『鎌倉遺文』 古文書編 第16巻、239頁)
  463. ^ 『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.181。
  464. ^ 『続文献通考』巻二百三十四・四裔考・日本条「願蒙古戎狄莅華、以小国視我。乃趙良弼「言朮」我好語。初不知覘我国也。既而発舟数千襲我。」(山本光朗 2001, p. 2)
  465. ^ 八代國治「蒙古襲来に就ての研究」『史学雑誌』29編1号、史学会、1918年1月
  466. ^ 元冠の油絵 本仏寺 / うきは市”. うきは市生涯学習課 (2011年3月16日). 2022年12月11日閲覧。
  467. ^ 近代デジタルライブラリー、朝日日本歴史人物事典、諏訪春雄記事。伊原敏郎『明治演劇史』
  468. ^ 朝日日本歴史人物事典『勝諺蔵(3代)』 - コトバンク
  469. ^ 百合若大臣コトバンク






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