催馬楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 03:09 UTC 版)
歴史
起源
催馬楽は、民間の俚謡や流行歌の類が、貴族の宴席の「歌いもの」にとりいれられたものである。このなかには貴族の新作和歌や新年の賀歌も加わり、また大嘗会の風俗歌がはいっている。室町時代の楽書『體源抄』には「風俗は催馬楽よりは述べて歌うべし」「風俗は拍子あり。多くは催馬楽拍子なり」の記載があり、両者の楽曲の類似性が示唆されるほか、現代に伝わる歌詞の内容もほぼ同類であって、風俗歌と催馬楽とは互いにきわめて近い性質をもっていたと考えられる[8]。ただし、風俗歌が東国を起源とする歌謡であるのに対し、催馬楽はより都に近い地方を発生地とすることが明らかとなっている[注釈 1]。
『日本書紀』天武4年(675年)条には、大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の諸国から歌を能くする男女が朝廷に貢されたという記事があり、藤田徳太郎は、これらの国名が催馬楽の歌詞の含む国名とほぼ全て一致していることを指摘している[9]。このことより、古来朝廷との交渉が密であった上記の諸国は一度のみならず風俗歌を奉っていたものと推定され、催馬楽は、このような長く繰り返されてきた慣行ののち、地方出身の歌謡が外来音楽による編曲を受けたものであろうと考えられる[10]
催馬楽はまた、神楽の余興としても歌われていて、大小前張、早歌、雑歌の類は、催馬楽に起源をもつとする見解がある。神楽歌の大前張を「催馬楽曲」と表記した譜本があり、嘉禎節付本には「大前張以下半出二於催馬楽一」(一、二は返り点)と注されている。また、神楽「其駒」について『吉野吉水院楽書』では「本催馬楽也」と記され、「朝倉」について『郢曲抄』には「朝倉催馬楽の音にして三段に唱ふ」と記し、『神楽譜』には「朝闇吹二返催馬楽拍子一」(一、二は返り点)と記されていて、神楽と催馬楽の近縁性が示される。上述のとおり、折口信夫は、催馬楽は神楽歌における「前張」歌群を直接の母胎として発生したものであるという見方に立っている[6]。
その多様な歌詞内容から考慮して、催馬楽は奈良時代の末から平安時代の初めにかけて発達、成立したものと考えられる[4]。それが宮廷歌謡として雅楽化されたのは平安時代前葉と推定される。
変遷
催馬楽の文献資料における初出は、『日本三代実録』貞観元年(859年)10月23日条に、80余歳で薨去した尚侍の広井女王が催馬楽歌をよくされたという記事である[4]。史料の検討より、催馬楽流行の一頂点は、それより20年ないし30年さかのぼった仁明天皇(在位:天長10年(833年) - 嘉祥3年(850年))の時代にあったと考えられる[4]。
催馬楽のなかの古歌は、「我駒」が『万葉集』巻12にあり、「葛城」は光仁天皇(在位:宝亀元年(770年) - 天応元年(781年))即位のときの童謡で『続日本紀』、『日本霊異記』にある。また、「妹之門」は『万葉集』巻11にあり、「河口」は「古今六帖」にある。畿内をはじめ三河、越前、尾張、伊勢などの民謡と思われる歌が多くはいっている。上に述べたような歌謡が貞観年間(859年 - 877年)ころにひとつの書物にまとめられ、ついで、藤原忠房によって延喜20年(919年)ころ撰譜され[注釈 2]、以後、平安中期には藤家(とうけ)および源家(げんけ)によって郢曲として伝承された。藤家より源家の方がさかんに活躍し、催馬楽の名人は源家のほうに多く出たとされる。しかし、藤家と源家とでは伝えられる曲に違いがあり、平安時代後期には若干ではあるが61曲のうち廃曲がすでにあったといわれる。なお、催馬楽の曲名は、長保3年(1001年)文献初出の紫式部『源氏物語』の巻名にも「梅枝」「総角」「東屋」などとして採用されている[4]。鳥羽天皇は催馬楽を好み、祖父である白河法皇の60歳の祝いの席で演じている(『中右記』天永3年3月18日条および『古今著聞集』管弦歌舞第7)[11]。
催馬楽は宮廷芸能として長く続いたものの徐々に楽曲が減っていき、室町時代には廃滅の危機に瀕し、戦国時代にはほぼ廃滅した[4]。しかし、江戸時代に入ると復興が図られ、寛永3年(1626年)9月には徳川秀忠上洛の際、後水尾天皇が四辻季継に対して詔を下し、「伊勢海」が復興された。天和2年(1682年)2月にも催馬楽の会が催されて「梅枝」などが復興されている。
1876年(明治9年)宮内庁楽部の選定曲として、呂歌の「安名尊」「蓆田」「簑山」「山城」、律歌の「伊勢海」「更衣」の計6曲が、また、1931年(昭和6年)には「美作」「田中井戸」「大芹」「老鼠」の4曲が再興されて追加された[4]。現行曲は、宮内庁の雅楽公演などにおいて、管絃演奏の合間に奏されることがある[4]。
催馬楽と法会
催馬楽は、中世においては催馬楽のつくりかえの歌が寺院の法会などで歌唱された。たとえば、「青柳」は
「青柳を片糸に縒りてやヲケヤ 鶯のヲケヤ鶯の縫うといふ笠はヲケヤ梅の花笠や」を
「極楽は日想(にさう)観に寄せてや思へ其荘厳(かざり)めでた水を見て瑠璃の池に思をかけよ深き益(やく)ありや」
とうたい、「伊勢海」は
「伊勢の海の清き渚に潮間になのりそや摘まむ貝や拾はむや玉や拾はむや」を
「瑠璃の地の木立めでたや宝の池の黄金の浜ごとに玉や拾はむや玉や拾はむや」
のようにうたった。このように中世には雅楽は法楽にもちいられることが多かった。
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注釈
参照
- ^ a b c 秋澤(2010)p.65
- ^ a b c 増本(1990)p.108
- ^ 吉川(1990)p.78
- ^ a b c d e f g h i 多田(2004)
- ^ a b c 声楽(日本辞典)
- ^ a b 西村(1966)pp.90-91。原出典は『折口信夫全集 第14巻』p.185
- ^ a b c 増本(1990)p.109
- ^ 西村(1966)pp.89-90
- ^ 西村(1966)p.90。原出典は藤田『日本文学大辞典』「催馬楽」の項
- ^ 西村(1966)p.90
- ^ 豊永聡美「平安時代における天皇と音楽」(初出:『東京音楽大学研究紀要』25号(2004年)/改題所収:豊永「鎌倉期以前の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P31)
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