信貴山城 沿革

信貴山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 21:47 UTC 版)

沿革

黎明期

信貴山城の城域は、古代山城高安城の範囲に含まれるが、城域には高安城の遺構は現存していない[1]。また、南北朝時代楠木正成によって築城されたという伝承も存在するが、しかし、同時代史料の裏付けはない[4]

経覚私要抄』には、長禄4年(1460年)10月、応仁の乱の過程で戦闘に敗れた畠山義就が「信貴山」に陣を退いたという記述がある[4]。城郭史研究者の中川貴皓によれば、これが信貴山城の史料上の初見である[4]

さらに明応年間末期から永正年間初頭のいずれかの時点で、畠山尚慶が「信貴城」を使用したという『 足利季世記』の記述などが残っている[5]

木沢長政の時代

その後本格的な城郭を築いたのが木沢長政である。中川貴皓によれば、『細川両家記天文五年(1536年)三月二十六日条において「信貴城」の使用が確認できるため、この頃には一定の規模の城が築かれていた[6]。『証如上人日記』の天文5年6月26日によると、

「木沢方へ、今度信貴山之上二城をこしらへ候て、はや移候間、従所々樽共行候条、遣候可然よし」

という記載が見受けられる[2]。信貴山城の完成を祝して本願寺より酒を贈ったと思われる[2]

16世紀前半には、従来の城郭とは異なる多様な機能を有する、いわゆる「戦国期拠点城郭」が各地に登場している[7]。そして、大和国においては木沢長政の信貴山城が「戦国期拠点城郭」の嚆矢となった[7]

しかし、長政が天文11年(1542年)3月太平寺の戦いで敗死すると信貴山城は二上山城と共に落城してしまう[1]

松永久秀の時代

松永久秀画像
信貴山城の戦い
戦争攻城戦
年月日永禄11年(1568年)6月29日
場所:信貴山城
結果筒井順慶三好三人衆連合軍の勝利
交戦勢力
筒井順慶
三好三人衆
松永久秀
指導者・指揮官
三好康長 不明
戦力
不明 不明
損害
不明 信貴山城は落城

その後十数年もの空白を経て[2]、1559年8月に松永久秀が大和へ侵攻し[8]、8月8日に修築し入場[9]永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした[10]。信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である[1]。久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる[10]。なお、松永久秀の信貴山城入城は通説では永禄2年のこととされてきたが、中川貴皓によれば、これは誤りであると考えられる[11]

また、久秀は多聞山城も築城し、多聞山城は政治目的、信貴山城は軍事目的と異なった目的でそれぞれを使用した[2]。信貴山城と多聞山城との間は20kmほどあり、出城の構築や龍田城・筒井城の使用によって連絡路を確保していた[1]

永禄6年には、信貴山城は一時的に筒井氏の手に渡ったが、久秀は同年中にこれを奪還している[10]。なお、この頃、信貴山城には「信貴城衆」(「信貴在城衆」)という勢力が存在している。山口秀勝に率いられた「信貴城衆」は、地域社会の中に根付き、法隆寺とも政治的関係を結ぶなど強い力を有していた[12]

永禄11年(1568年)には信貴山城に再び危機が訪れる。松永久秀・三好義継と三好三人衆のあいだの政権抗争の過程において、同年6月29日、三人衆方の三好康長が信貴山城を攻め落とした[13]。しかし、同年9月の足利義昭・織田信長の上洛により、義昭方の援軍を得ることができた久秀は信貴山城の奪還に成功している[14]

信貴山の山頂には空鉢堂が建つ
4層の天守櫓が建っていたと推定されている本丸跡地

廃城

信貴山城は松永氏の中心的軍事拠点として機能しており、さらに元亀元年(1570年)には、久秀は本拠地を多聞城から信貴山城に移した[14]元亀2年(1571年)8月には、久秀は信貴山城から出軍し、三好義継軍とともに辰市城を攻撃したが敗れている(辰市城の合戦[14]

ところが、天正5年(1577年)8月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した[15]。信長は松井友閑を信貴山城に派遣して翻意を促したが、久秀の決意は応じなかった[15]。そのため、信長は9月29日に信貴山城攻撃のための軍を出撃させた[15]。10月3日には、織田信忠に率いられた織田方の軍勢が城下を焼き払い、9日には信貴山城が炎上している[15]。翌日、信忠らが本城を包囲して攻めると、ついに久秀は「天主」を自焼して自害した[15]。これ以後、信貴山城が使われた形跡はなく、この時に廃城になったとされる[15]

信貴山城の略年表

和暦 西暦 主な出来事
天文5年 1536年 河内国守護職畠山氏の被官、木沢長政によって築城される。
天文11年 1542年 木沢長政が河内太平寺の戦いで討ち死にする。
永禄2年 1559年 三好長慶被官松永久秀によって修復・改修される。
永禄3年 1560年 松永久秀、信貴山城に四階櫓を設ける。
永禄5年 1562年 松永久秀、大和国北部に多聞山城を築いて、居城を移す。
永禄11年 1568年 三好三人衆方の三好康長に攻められ、一度は落城するも織田信長の上洛に応じ、これを奪還した。
天正5年 1577年 織田信長に攻められ松永氏滅亡、信貴山城は廃城となる。

  1. ^ a b c d e f g 平井他 1980, pp. 323–326.
  2. ^ a b c d e f g 村田 1987, pp. 337–338.
  3. ^ a b c 中川 2017, p. 181.
  4. ^ a b c 中川 2017, p. 167.
  5. ^ 中川 2017, pp. 167–168.
  6. ^ 中川 2017, p. 168.
  7. ^ a b 中村, pp. 170–171.
  8. ^ http://www.shigisan.org/images/shigisancastlepamphlet.pdf
  9. ^ 谷口克広:織田信長家臣人名辞典第2版p443
  10. ^ a b c 中川 2017, pp. 171–172.
  11. ^ 中川 2017, p. 191.
  12. ^ 中川 2017, pp. 172–173.
  13. ^ 中川 2017, p. 172.
  14. ^ a b c 中川 2017, p. 178.
  15. ^ a b c d e f 中川 2017, pp. 179–181.
  16. ^ 小学館 1977, pp. 140–141.
  17. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年[要ページ番号]
  18. ^ 平井聖監修『城 5 近畿』毎日新聞社 1996年[要ページ番号]
  19. ^ a b c d e f g h 学習研究社 1998, pp. 150–153.






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