佐藤春夫
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佐藤 春夫 (さとう はるお) | |
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ペンネーム |
佐藤 潮鳴 沙塔子 |
誕生 |
1892年4月9日 ・和歌山県東牟婁郡新宮町 (現・新宮市) |
死没 |
1964年5月6日(72歳没) 日本・東京都文京区関口 |
墓地 | 日本・京都知恩院と文京区伝通院 |
職業 | 小説家・詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学部文学科中退 |
ジャンル |
小説 詩 随筆 翻訳 短歌 |
文学活動 | 主知主義・耽美派・芸術詩派 |
代表作 |
『西班牙犬の家』(1914年、小説) 『田園の憂鬱』(1919年、小説) 『殉情詩集』(1921年、詩集) 『都会の憂鬱』(1922年、小説) 『退屈読本』(1926年、随筆集) 『車塵集』(1929年、訳詩集) 『晶子曼陀羅』(1954年、小説) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1953年・1955年) 文化勲章(1960年) 贈従三位・賜銀杯一組(1964年、没時叙位下賜) |
デビュー作 | 『風』(1908年) |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。
『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。この間谷崎潤一郎との親交、谷崎夫人をめぐっての、潤一郎との絶交の中で『殉情詩集』(1921年)などが生まれた。
戦後は『晶子曼陀羅』(1954年)など、文人の伝記小説や随筆を書いた。1964年、自宅でのラジオの録音中に倒れ、心筋梗塞のために死去。
経歴
学生時代
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男[注釈 1]として生まれる。母・政代は旧紀州藩士で御庭奉行を務めた竹田家の娘。佐藤家の家系は代々紀州の下里町で医を業とし、父の豊太郎に至って九代を数えている。父の豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもある。
1898年(明治31年)4月に新宮第一尋常小学校(丹鶴小学校)に入学。和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)在学中、佐藤潮鳴の筆名で校友会誌に「おらば籠」、1908年(明治41年)には『熊野実業新聞』に短歌6首掲載、『明星』に「風」の題で投稿し短歌が石川啄木の選に入り、和貝彦太郎主宰の「はまふゆ」の同人となり、「馬車・食堂」(短歌・詩)を発表。この頃に父は病院を一時閉鎖し、北海道十勝国中川郡で農場を経営する。『趣味』、『文庫』、『新声』、『熊野新報』に短歌や歌論を次々と発表し、1909年(明治42年)『すばる』創刊号に短歌を発表する。ここで生田長江、与謝野寛、石井柏亭を知り、また同盟休校事件の首謀者とみなされて無期停学を命じられた。
1910年(明治43年)卒業後、上京して生田長江に師事、与謝野寛の新詩社に入る。ここで同人の堀口大學を知り、堀口と共に旧制第一高等学校の入試に臨んだが、試験を中途で放棄し、慶應義塾大学部文学科予科に入学する。文学科では当時教授だった永井荷風に学び、また生方克三を知る。兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった『断腸亭日乗』に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていたため、和解した。
1909年(明治42年)から『スバル』『三田文学』に叙情詩、傾向詩を発表し、識者の注目を集める。1911年(明治44年)1月24日、幸徳秋水らに連座して同郷の医師である大石誠之助が大逆事件の被告として処刑されるが、その当時の心情を同年5月に詩「愚者の死」として『スバル』に発表し、評価されている[1]。
大正時代
1912年(大正元年)の秋に青鞜社の尾竹紅吉を通じて妹の尾竹ふくみを知り、その気持ちを早速詩に託したが、慢性の不眠症を患う。1913年(大正2年)に『黒耀』の同人となる。9月に慶應義塾大学部文学科を中退。雑誌『我等』の創刊発起人となる。この頃、高村光太郎のアトリエに通い、肖像画を描いてもらう。夏に、徴兵検査を受け丁種となる。12月に元芸術座の女優・川路歌子(遠藤幸子)と同棲し、この頃から散文詩に向かう一方、絵筆を執るようになり、第2回「二科展」に『自画像』と『静物』の2点が入選した。
1917年(大正6年)に神奈川県都筑郡中里村(現・横浜市)に移り、田園生活を始める。『病める薔薇』の執筆を始め、翌年『黒潮』に発表。第3回「二科展」に『猫と女の画』『夏の風景』の2点が入選。江口渙、久保勘三郎らと共に同人誌創刊の準備を行い『星座』を創刊(5月に廃刊)。また江口を通して芥川龍之介を知り、6月には谷崎潤一郎を知る。芥川の出版記念会「羅生門の会」に出席して開会の辞を述べ、第4回「二科展」に『上野停車場附近』『静物』の2点が入選。
1919年(大正8年)に前述の『病める薔薇』の後半を書き足した『田園の憂鬱』を完成させて『中外』に発表。膨大な量の評論を発表し、一作毎に新進作家としての地位を確立する一方、1920年(大正9年)に極度の神経衰弱に陥り、帰郷する。6月から10月にかけて台湾や中国の福建に旅行する。台湾在住の知人であった東熙市の紹介で森丑之助と知り合った。1921年(大正10年)に『殉情詩集』を発表し、小説家、詩人として広く認められる。また『新青年』誌などで多くの推理小説を発表。富ノ澤麟太郎を知る。谷崎潤一郎が妻千代に冷淡なのを見て同情から恋に変わり、谷崎はいったん佐藤に妻を譲ると言うが、谷崎は妻の妹せい子(『痴人の愛』のナオミのモデルとなった女優・葉山三千子)と結婚するつもりでいたがせい子に断られ、妻が惜しくなって前言を翻したため、谷崎と交友を断つ。谷崎は当時小田原に住んでいたためこれを小田原事件という。失恋に苦しみ、代表作である「秋刀魚の歌」(詩集『我が一九二二年』所収)などで千代への思慕を歌った。
東京市外目黒氷川に居を構えた弟の夏樹方に同居し、稲垣足穂、江川宇礼雄も同居した。翌年に父の豊太郎が還暦を迎え、家督を継いだ。「都会の憂鬱」を『婦人公論』に断続連載し始め、高橋新吉を知る。雑誌『月光』の同人となり、『聊斎志異』の翻訳「流謫の神」「碧色の菊」、今古奇観の翻訳「百花村物語」を手がける。中国文学に傾倒し、長期の旅行を計画するが関東大震災や島田清次郎事件のため中止する。1924年(大正13年)に帰郷し、約1年ほど郷里に留まる。
1926年(大正15年)に長谷川幸雄が門人として同居し、谷崎潤一郎と交友関係を復活させる。4月に3年間に長篇を2作ずつ書く約束で、菊池寛、宇野浩二、里見弴と共に報知新聞社客員記者となり、中国へ旅行する。10月にかけて魔女事件(山脇雪子)が発生。この頃、富沢有為男を知る。
戦前昭和時代
1927年(昭和2年)に小石川区町(現・文京区関口)の新居に移り、中旬から改造社の講演旅行に加わり九州、北陸方面を廻り、7月に中国旅行を行い、旅行中に芥川龍之介の訃を聞く。帰朝後に『芥川龍之介全集』の編纂にたずさわり、王秀楚の「揚州十日記」を翻訳発表した。『平凡』、『文學』の創刊に携わり、1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当。在職中に現在の同大学校歌を作詞する。翌年に兵庫県武庫郡に移り住むが、軽い脳溢血を病み、病気静養のため下里へ帰郷する。
谷崎潤一郎の妻・千代を、1930年(昭和5年)に譲り受けた。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こした。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。
1931年(昭和6年)に雑誌『古東多万』を創刊し編纂責任者となる。魯迅の翻訳「故郷」「孤独者」を手がけ、「危機」を『改造』に連載し始めたが、モデル問題が起こり中断する。長男の方哉が誕生し、1933年(昭和8年)に法政大学を辞職する。この年に中谷孝雄を知る。翌年に文芸懇話会が創立され会員となり、中旬から和歌山県名勝地踏破旅行に出かける。
1935年(昭和10年)芥川賞が制定されると選考委員11人のうちの1人となる[2]。また日本文学振興会理事の一人となった。しかし、第1回文芸懇話会賞をめぐって論争し、委員を辞任する。8月に太宰治を知る。翌年に文化学院の文学部長に就任する。1937年(昭和12年)に日本浪曼派の同人となり、7月に新日本文化の会設立に参加し、『新日本』の編纂人となる。翌年5月には文藝春秋社特派員として華北方面に出発し、9月に文学者従軍海軍班の一員として中国に赴く。1940年(昭和15年)初代・花柳寿美のために「八雲起出雲阿国」を書き下ろし、歌舞伎座、帝国劇場で上演。10月に慶應義塾特選塾員となる。
1941年(昭和16年)5月に文藝銃後運動のため、近畿地方に講演旅行。太平洋戦争(大東亜戦争)の文士部隊として中支戦線に従軍し、マレー及びジャワの南方方面へ視察旅行に出る。同年12月24日に大政翼賛会の肝いりで開催された「文学者愛国大会」に参加。会場で詩の朗読を行うなど、時世沿った行動も見られた[3]。
1945年(昭和20年)4月、長野県北佐久郡平根村(現・佐久市)に疎開。その地に1951年(昭和26年)10月まで留まり、「佐久の草笛」をまとめる[4]。
戦後昭和時代
1946年(昭和21年)から文芸誌『方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊に助力し、翌年から毎年全国各地に旅行に出る。1948年(昭和23年)から日本芸術院会員。水上瀧太郎賞が設定されると選考委員となる。翌年、誕生日を祝う会「春の日の会」第1回を日比谷陶々亭で催され、芥川賞の復活に伴い選考委員となる。慶應義塾大学で「近代日本文学の展望」を開講。この頃日照雨事件が起こる。1950年(昭和25年)宮中歌会始に列席する。『朝日評論』でエドマンド・ブランデンと東西の詩について対談する。翌年『三田文学』の編集委員となり、下旬から奥入瀬渓谷、恐山方面に旅行する。11月に「新宮市歌」を作詞し、制定される。
1953年(昭和28年)に青森県上北郡十和田湖町に「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑が建ち、雑誌『心』の同人となる。翌年に檀一雄と共に九州を旅行する。疎開地の佐久に別荘「見山居」の新築を始める。1956年(昭和31年)に芥川賞受賞作品『太陽の季節』をめぐって舟橋聖一と応酬する。翌年、千代田区10周年にともない「千代田区歌」を作詞し、制定。千葉県銚子市犬吠岬に「犬吠岬旅情のうた」詩碑建立。40年ぶりに鉄町に「田園の憂鬱」時代の旧居を訪ねる。
1959年(昭和34年)に宮中歌会始に召人として選任され列席。和歌山県那智に「秋刀魚の歌」詩碑建立。紀勢本線の開通に先立って試乗し、新宮市に帰郷。新宮市熊野速玉大社社頭に「望郷五月歌」詩碑建立。『小説永井荷風傳』について中村光夫との応酬が始まる。1960年(昭和35年)文化勲章を受章。長野県北佐久郡浅間町に「湖畔口吟」詩碑建立。1961年(昭和36年)1月に新宮市名誉市民となり、5月に東宮御所に招かれ文学を談義した。翌年に芥川賞選考委員を辞任し、9月に山口県の「山口県民の歌」(3代目)および「山口市の歌」(2代目)を作詞、それぞれ制定される[注釈 2]。翌年、井上靖を連れて北海道旅行に出かけ、『北海タイムス』夕刊に「北海道吟行」を12回連載。
1964年(昭和39年)慶應義塾大学で「詩学」を開講し、堀口大學と共に「ミロのヴィーナス展」を見る。5月6日、夕方頃に朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組の5月20日放送予定分を自宅の書斎で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。72歳没。京都の知恩院に葬られ、忌日を「春日忌」と呼ぶ。文京区伝通院にも墓碑がある。贈従三位、賜銀杯一組。法名は凌雲院殿詞誉紀精春日大居士。
1964年(昭和39年)、東京オリンピック開会式に、前年に作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われた。北海道十勝国中川郡豊頃町の長節湖畔に四行詩碑建立。
人物
- 明治期には大逆事件の影響を受けて、思想的な傾向を示す「傾向詩」を多く手がけるが、大正に入って、もっぱら小説家として生きることを目指す。第二次大戦中は、文学者として従軍し、戦争を賛美するかのような詩を残す。戦後は、B級戦犯に問われている知人などを弁護した。
- 春夫は日本文学報国会の理事だったため、戦後は戦争協力者の一人として批難されることにもなるが、その批難に対して「わたくしは民族感情を代表して、はじまってしまった戦争に勝つように協力しただけであった。」と答えた。
- 芥川龍之介とは友人で芥川からの手紙が残っている[5]。1926年に送られたとみられる佐藤宛の手紙が遺族により実践女子大学に寄贈されており、芥川の随筆集の表紙を描いてくれた感謝のほか、小説「妖婆」を失敗作だと断じた佐藤の論評について「始めて読んだ時には不快だつたが、今は平気でよめる」と記している[5]。
- 俗に門弟三千人といわれ、その門人もまた井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、龍胆寺雄、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄など、一流の作家になった者が多かった。また、芥川賞の選考をめぐる太宰との確執はよく知られている。自分を慕う者の世話はどこまでもみたが、自分を粗略にした(と思った)者はすぐに厚誼を途絶するという、ものごとを白・黒でしか見ない傾向があった。三島由紀夫も第二次大戦末期には春夫のもとに出入りし、初対面の折に「大家の内に仰ぐべき心の師はこの方を措いては、と切に思はれました」(1943年10月5日付富士正晴宛書簡)と記したこともあるが、三島が長篇小説『盗賊』(1948年)の序文を川端康成に依頼したことが春夫は気に入らず、以後は疎遠になっている。檀一雄は、川端家に遊びに行っても酒が出ないので閉口していたところ、春夫の家を訪れた折には春夫が下戸なのにもかかわらず気前よく酒を振舞われて感激し、それ以後弟子を自任するようになったという。
- 息子の佐藤方哉(まさや、1932年-2010年)は、心理学者。慶應義塾大学文学部で長く教鞭を執り、国際行動分析学会会長、慶應義塾大学名誉教授・帝京大学文学部教授、星槎大学学長などを歴任した。
- 甥の東洋史家の竹田龍児[6]は、谷崎の実娘・鮎子と結婚している。
- 姪の智恵子は詩人の三好達治と結婚していたが、三好の師匠である萩原朔太郎の妹アイと結婚するため離婚。後にアイと三好も離婚することになるが、三好は亡くなるまでアイの事を愛していた。
- 『新潮』編集長の齋藤十一から原稿を没にされてからは、齋藤および新潮社と縁を切った。
- 佐藤春夫は、自分はただの「支那趣味愛好者ぐらゐ」と謙遜していたが、下の世代の中国文学者・竹内好は春夫の中国論に影響を受けた[7]。
- 太宰治の『道化の華』、『虚構の春』は佐藤が命名した。
- 芥川賞創設初年度の芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まり、太宰治のデビュー作『逆行』は次席となった。太宰はこの結果に納得できず、落選後、川端康成に抗議文を送ったり、佐藤に来年の受賞を懇願するなどして、文壇に波紋を広げた[8]。
- 石原慎太郎の『太陽の季節』が自分の意に反して芥川賞(第34回下半期)を受賞した際には激怒した事で知られる。詳細は「太陽の季節#反対派」を参照
- 「H賞」(現H氏賞)が創設された際には基金出資者なのではないかと疑われた。
- 毎年11月3日の文化の日に、新宮市の主催により「筆供養」が行われている。
- ^ 『日本文学 第22巻』 日本文学協会 1973年
- ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業』1935年(昭和10年)8月11日
- ^ 文壇・詩壇・歌壇の三百五十人が参加『東京朝日新聞』(昭和12年1月19日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 草間文男「佐藤 春夫「佐久の草笛」における佐久方言」『信州短期大学紀要』第18巻、信州短期大学、2007年、71(五) - 75(一)、NAID 110006483343。
- ^ a b “芥川の内面伝える手紙発見 佐藤春夫宛て、深い交友”. 共同通信 (2022年7月30日). 2022年8月12日閲覧。
- ^ 1908年2月11日、父・西浦綱一と母・竹田保子の間に生まれる。『熊野誌』第十二号(昭和40年11月号)に龍児が寄せた「叔父の思ひ出」には、5歳の時に両親が離婚して母方に引き取られ、佐藤春夫の養子になるも、約20年後に実子の方哉が誕生したため、二番目の叔父・夏樹の養子になり、竹田姓となったと記されている。なお、妹の智恵子(1909年7月30日生)は、三好達治の妻となっている。
- ^ 『大正幻影』 川本三郎 筑摩書房 1997年
- ^ 『発見!意外に知らない昭和史―誰かに話したくなるあの日の出来事194』 東京書店 2007年 ISBN 4885740517
- 1 佐藤春夫とは
- 2 佐藤春夫の概要
- 3 著書
- 4 短歌・評論・随筆
- 5 作詞
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