佐藤愛子 (作家) 佐藤愛子 (作家)の概要

佐藤愛子 (作家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 13:51 UTC 版)

佐藤 愛子
(さとう あいこ)
婦人生活』1964年2月号より
ペンネーム 佐藤 愛子
誕生 佐藤 愛子
(1923-11-05) 1923年11月5日(100歳)
大阪府大阪市
職業 小説家
エッセイスト
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 甲南高等女学校卒業
ジャンル 小説
エッセイ
代表作 『青い果実』(1950年)
『ソクラテスの妻』(1963年)
『花はくれない 小説佐藤紅緑』(1967年)
『戦いすんで日が暮れて』(1969年)
『女優万里子』(1974年)
『血脈』(1989年-2000年)
『晩鐘』(2014年)
『九十歳。何がめでたい』(2016年)
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年)
主な受賞歴 直木賞(1969年)
女流文学賞(1979年)
菊池寛賞(2000年)
紫式部文学賞(2015年)
旭日小綬章(2017年)
デビュー作 『青い果実』
配偶者 森川 弘(死別)
田畑麦彦(離婚)
親族 佐藤紅緑(父)
三笠万里子(母)
サトウハチロー(異母兄)
大垣肇(異母兄)
杉山弘幸(娘婿)
杉山響子(長女)
杉山桃子(孫)
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経歴

直木賞受賞までの経緯

初めの結婚に破れた佐藤愛子は、資産家の子息である田畑麦彦と再婚し一女を設けた。

田畑麦彦は、新人賞クラスの小説家であったが、結婚後は事業家としての活動に力を入れるようになっていった。

その事業だが、いっときは軌道に乗ったようにも思えたが、田畑のある意味、特殊な金銭感覚が禍し、結局は大きな借財を抱えることになった。

佐藤愛子は、その田畑と離婚をする。田畑自身の説明によれば 、「借金の火の粉が妻に降りかからないための偽装離婚」のはずだった。

だが、いざ離婚してみると、田畑は銀座で飲食店を経営する女性と密かに入籍していた。それでも佐藤愛子は、元夫の莫大な借金を返すため、身を粉にして働き続けた。

全国のテレビ局のワイドショーのご意見番から、作家としての本来の仕事まで、馬車馬のように走り続けた。

そんな状況下で一気に書き上げた小説『戦いすんで日が暮れて』 が図らずも、直木賞を受賞する。1969年(昭和44)、佐藤愛子が45歳のときであった。

作品は、文庫本で50ページほどの短編だ。主人公の「私」が、元夫の借金返済のために東奔西走する。実話をもとにした奮戦記である。

以下にそのラストシーンを掲載した。作品中の桃子というのは、主人公の愛娘である。

暮れなずむ空の下で渓流のように車が走っていた。歩道橋に上って南の方を眺めると、既に暮れた鼠色の町の果からヘッドライトをつけた車が際限もなく湧き出して来て、まるで無人車のように機械的な速度でまっしぐらに走り、あっという間に足の下に消え去る。警笛も人声も聞えぬ、ただ轟々と一定の音のかたまりが、環状七号線をゆるがしている。 「うるさいぞオーッ、バカヤローッ!」突然、私は歩道橋の上から、叫んだ。「桃子、あんたもいってごらんよ」桃子は喜んで真似をした。「バカヤローッ、うるさいぞオーッ」私と桃子の声は轟音の中に消えた。私はどなった。 「いい気になるなったら、いい気になるなーッ」車は無関心に流れていた。沿道に水銀灯がともった。轟々と流れる車の川の上で、私と桃子は南の方を向いて立っていた。(終)
直木賞作家 佐藤愛子、『戦いすんで日が暮れて』

「バカヤローッ」、という台詞が読者に鮮烈な印象を与える。

この直木賞受賞後も、佐藤愛子は数々の輝かしい賞を受賞している。

だが、『戦いすんで日が暮れて』が彼女のもっとも素晴らしい作品である、と評する者がいる。「なんといってもその文章に勢いがある」というのが、この識者の観点である。

佐藤愛子は、実は、友人である芥川賞作家 北杜夫楡家の人びとような大作を書いて世に出ることを自身の青図に描いていた。

つまり直木賞受賞に関しては、「ちょっと待った」というのが、佐藤愛子の本音であった。

以上が、直木賞作家 佐藤愛子誕生の経緯である[3][4]

佐藤愛子奨励賞の新設、随筆春秋との関わり

堀川とんこう(当時はTBSプロデューサー)の母親 堀川としが、実業家として働く傍ら、1993年に同人誌 随筆春秋を創設する。エッセーが専門の純文学同人誌である。それから間もなくのある日、彼女は、直木賞作家 佐藤愛子の自邸を訪れ、随筆春秋の指導者になってくれないかと迫る。応接間で機関銃のようにまくし立てられた佐藤愛子は、とうとうその申し出を引き受けてしまった。佐藤愛子自身、どうしてそんなことになってしまったのか、今もって分からないのだという[5]

また、堀川とんこうの妻 高木凛(脚本家)が、随筆春秋と佐藤愛子とを結びつけるべく、内助の功を尽くした事実も忘れてはならない[5]

つまり、佐藤愛子は、創成期から、随筆春秋の指導者を務めている。2023年で丸30年となる。

2020年には、佐藤愛子自身の希望もあって、既存の随筆春秋賞とは別に、佐藤愛子奨励賞が新設された。佐藤愛子が唯一の審査員である。随筆春秋事務局員らがそれを支える[6]

随筆春秋誌|表紙ギャラリー

略年譜

  • 1923年 - 11月5日(戸籍上は11月25日)、佐藤洽六(筆名 佐藤紅緑、50歳)とシナ(30歳)の次女として、大阪市住吉区帝塚山で出生した。母親の「シナ」は、元女優の三笠万里子。父親は、先妻の「はる」を棄て、シナ(25歳)と再婚していた。
  • 1925年 - 兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。佐藤愛子は「私の故郷」と呼んでいる[7]
  • 1931年 - 小学校時代、大衆小説の大家である父親に送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふける。算術は苦手であった。
  • 1936年 - 4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。
  • 1941年 - 3月、甲南高等女学校卒業。雙葉学園で英語の講習会が開かれたのでちょっと行ってみようか、ということになり参加。夏期講習とか春期講習を受けた。当時、佐藤愛子にはすることもなく暇だった。肋膜炎(現在の結核)にはかかっていなかったが、微熱が続いた時期でもあった[8]
  • 1942年 - 防火演習や防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず、無為な青春時代を過ごす。
  • 旧日本陸軍の伊那飛行場跡
    1943年 - 12月、最初の夫となる森川弘と見合結婚し、長野県伊那市で暮らす。佐藤愛子は、「戦争だから、しようがないから結婚していた」という[9]。 森川は、陸軍航空本部勤務のため、飛行場設営隊の主計将校として陸軍伊那飛行場[10]へ赴任。※旧日本陸軍の伊那飛行場跡、の画像あり(右下)。同地(長野県伊那市)で約5か月の新婚生活をおくる[8]。森川は長男で、実家は岐阜県恵那市(旧大井町)で病院を営んでいた。
  • 1944年 - 11月、静岡県静岡市清水区興津に疎開中の実家にて長男 頸介[11]を出産[8]。佐藤紅緑と妻 三笠万里子の隠居用の邸が静岡県の興津にあったことは、佐藤愛子の長編『血脈』にも記されている。なお、興津は「おきつ」と読む。あの有名な三保の松原の近くである。
  • 1945年 - 夫の実家のある大井町にて敗戦を迎える。大井町とは、岐阜県恵那市の旧大井町のことである。「戦争が終わったことで、目の前が開けたような気持になった。普通なら『これで自分の好きな道に進める』とも思うところだが、当時の私にはまだ好きな道なんかなかった」という[8]。人の大勢いる病院で、穏やかな日々を過ごす。この年、次兄が被爆死。つき合いのある女社長と広島へ赴き、2人で宿泊したところ、米軍機により原子爆弾が投下された。現場へ赴くと、辺りは瓦礫の山で、遺体の確認はできなかった。三兄がフィリッピンで戦死。暑さのため、走行する戦車上部のハッチを開け頭を出したところ、被弾した。2人の兄の非業の最期については、佐藤愛子『血脈』に記述がある[3]
  • 1946年 - 復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村、現柏市で帰農生活に入る。夫の森川弘は軍隊で原因不明の激しい腹痛に悩まされ、その対症療法として、軍医は鎮痛剤としてモルヒネを打った。そのために夫はモルヒネ中毒にかかっていた。夫は、終戦後もモルヒネをどこかから仕入れて来ては、自分で注射するようになっていた。
  • 1947年 - 長女 素子を出産。ネット上には夏子との記述も見受けるが、事実ではない。作品で使った名前ではないか、との憶測もあるが、佐藤愛子自身の弁によると、「私の好みの名前じゃないよ」とのことである[8]。佐藤愛子は、死別した森川弘との間に、上から、長男と長女を設けている。その長男[11]岐阜県恵那市(旧大井町)の実家の病院(森川クリニックHP)を継いだ。病院は開業中[11]である。
  • 1949年 - 父親の佐藤紅緑が死去。享年76歳。 夫のモルヒネ依存症は戦後も治癒せず、そのことが原因で、佐藤愛子と夫の森川弘とは別居することになる。別居先は、世田谷区上馬にあった邸宅は母親がひとりで暮らしていた。
    1951年に、別居した夫・森川弘は病で亡くなった、2人の子供は婚家の両親が引き取った。佐藤愛子は、森川弘とは死別、後年の夫田畑麦彦とは協議離婚した。すなわち佐藤愛子は、1回の死別と1回の離婚を経験した。
    母親に勧められて、田中村の生活を書いた小説を、生前の父親に見せたところ「面白い」と言われて、佐藤愛子は文学を志した。その父親の紹介で、作家 加藤武雄に師事した。ちなみに佐藤愛子は、その後、作家 北原武夫(作家 宇野千代の夫)に師事する。門人には、川上宗薫もいた。佐藤愛子とは異性の親友となった。
  • 1950年 - 同人雑誌「文藝首都」に参加。北杜夫田畑麦彦なだいなだらがいた。同誌に処女作『青い果実』が発表され、同作で文芸首都賞受賞。
  • 1951年 - 夫 森川弘が死去。同人誌に「西風の街」6月号に『宇津木氏の手記』を発表。同人誌仲間と渋谷、新宿を歩きまわる。同人仲間に田畑麦彦がいた。
  • 1952年 - 「冷焔」を発表。その後、しばらく文学創作への自信を喪失。
  • 1953年 - 母親と衝突し、信州伊那谷の鉱泉に約一カ月滞在。田畑麦彦が訪れ合流し関西地方まで共に旅行をしたことが、結婚の契機となる。6月に実家を出て自立。聖路加国際病院で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始める
  • 1954年 - 『埋もれた土地』を「三田文学」に発表。
  • 1955年 - 12月、聖路加病院を退職。佐藤愛子自身が、作家以外の仕事に就いたのは、後にも先にも、このときだけであった。
  • 1956年 - 田畑麦彦(本名:篠原省三)と2度目の結婚。披露宴が4月1日であったため、嘘(エイプリルフール)だと思いこみ、出席しなかった招待客もいた。同年、田畑と暮らしていた渋谷区初台の家を売却。さらに、母親の世田谷区上馬の家も売却し、世田谷区太子堂で、母親 シナとも同居を開始。新居は文学仲間のサロンとなった。
  • 1957年 - 田畑、川上宗薫らと同人誌「半世界」を創刊。
  • 1959年 - 「三田文学」に作品掲載
  • 1960年 - 3月、田畑と(愛子にとっては次女)響子を出産。母との共同出資で自宅を新築。
  • 1962年 - 最初の著作『愛子』を刊行。 田畑麦彦が第1回文藝賞を受賞。 田畑の父親は生前、東京急行電鉄の社長を務めていたことがある。同年より、田畑麦彦は佐藤愛子と共に産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立と経営に参画する。大雑把に言うと、教育映画を作成し、それを使って企業などの社員教育を行う会社である。田畑麦彦は、1964年より日本ソノフィルムやエスプリ企画の代表取締役社長を務めるが、事業の失敗により離婚。佐藤愛子はその経緯を『戦いすんで日が暮れて』に書き直木賞を受賞した。なお、田畑麦彦の父親は大実業家の篠原三千郎で、東京急行電鉄の創業者 五島慶太の右腕でもあった。その関係で、1期だが、同社(東京急行電鉄)の社長も務めた。なお渋沢社史データベース[12]によると、昭和19年(1944年)2月24日、東急電鉄 社長に篠原三千郎、副社長に池辺稲生が各就任と記述。田畑麦彦自身は、いわば銀のスプーンをくわえ出生したといえる。それ故にか、その金銭感覚には常ならざるものがあり、後年大きな借財を抱えることになった。
  • 1963年度 - 上半期『ソクラテスの妻』で芥川賞候補[13]。連続して下半期『二人の女』で芥川賞候補。
  • 1966年 - この頃からエッセイの注文が増える。
  • 1967年 - 12月、夫である田畑麦彦の会社が倒産した。妻である佐藤愛子は、夫の借金を背負う。倒産額は2億円で、その内の3500万円位を佐藤愛子が引き受ける[14]。債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続いた。借金返済のために多数のジュニア小説(現在はジュブナイル・ノベル)を執筆した。
  • 1968年- 1月、「借金から身を守るための偽装離婚」という夫・田畑麦彦の説得を受け入れ離婚。
  • 1969年度上半期 - その体験を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞。波乱万丈の人生経験は、その後の執筆活動にも活かされた。
  • 1972年 - 母シナが死去。享年78歳。
  • 1979年 - 4月、『幸福の絵』(新潮社)を刊行し、女流文学賞を受賞。
  • 1980年 - 娘・響子と共に、タイインドエジプトギリシアイタリアイギリスへ23日間外国旅行。11月『娘と私のアホ旅行』を刊行。この前年(1979年)にメス犬のチビを飼う[8]
  • 1984年 - 迷いイヌのタロを飼う。
  • 1988年 - 秋に響子がジュエリーデザイナー杉山弘幸と結婚。一人暮らしとなる。
  • 1989年 - 7月から『血脈』(第1部)を「別冊文藝春秋」に連載開始。
  • 1991年 - 孫・桃子が生まれる。
  • 1994年 - 娘一家と一緒に住むため、2世帯住宅を新築。
  • 2014年 - 91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行[15]
  • 2020年 - 指導者を務める同人誌 随筆春秋で、既存の随筆春秋賞とは別に、佐藤愛子奨励賞が新設された。
  • 2023年 ‐ 10月25日、『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』の映画化が公表された[16]。今回は、短編エッセイ集が映画化される稀有なケースである。監督である前田哲もその件について肯定的な考えを持っている。「エッセイなんて映画にならないわよ」という佐藤愛子の一声に対し、「それが、映画になります。だからこそ、面白いのです」と語った[17]
  • 2023年 ‐ 11月5日、満100歳の誕生日を迎えた。

注釈

  1. ^ 本名は、佐藤洽六(さとう こうろく)。
  2. ^ 本名は、佐藤シナ。1893年1972年

出典

  1. ^ 「九十歳。何がめでたい」2016年、小学館、37頁。
  2. ^ https://www.shinchosha.co.jp/writer/1624/ 左記、新潮文庫のウェブページに佐藤愛子の写真と簡単な経歴が掲載されている。
  3. ^ a b c d e f g h i 佐藤愛子の作品『血脈』に、当該事実が描かれている。小説であるが、大筋において事実が盛り込まれている。『血脈(下)』(文藝春秋刊)の「あとがき」には、作者自身の筆で、「暴露小説だと批判されるかもしれないとも思った」と記している。以下が、本書のAmazon販売サイト。https://www.amazon.co.jp/dp/4167909804/
  4. ^ 佐藤愛子著『晩鐘』 2014年 文藝春秋刊の284ページ冒頭には、以下のように書かれている。―― いかなる神のご差配か。倒産して間もなく原稿料欲しさに書きなぐった小説が直木賞を受賞したものですから、それで私は雑多な仕事がどっと来ていました。背負った借金を返すためには、どんなつまらない仕事でも喜んで引き受けました。―― 倒産というのは夫 田畑麦彦の会社のことである。佐藤愛子が直木賞を受賞した作品は『戦いすんで日が暮れて』という、会社経営で失敗した田畑麦彦の借金を返すための奮戦記である。この記述からも、佐藤愛子がその直木賞を喜んだとは思えない。
  5. ^ a b これらの事実は、随筆春秋創刊号(1993年発刊)にも、記述されている。随筆春秋創刊号は以下のAmazon版売サイトに掲載されている。https://www.amazon.co.jp/dp/491058501X/
  6. ^ a b https://zuishun-episode.amebaownd.com/posts/34241301左記の随筆春秋資料室HPに、佐藤愛子奨励賞についての記述がある。それによると、2021年には、第2回 佐藤愛子奨励賞 受賞者が決定し、2022年には、第3回目を迎える、という。
  7. ^ 佐藤愛子「淡路島」(『文藝春秋』2007年5月号)
  8. ^ a b c d e f このあたりのことは、佐藤愛子と田畑麦彦の長女である、杉山響子のブログ「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯 おかわりっ!!」の中に記述がある。タイトルは「ちょっとコワイWikipedia」URLは以下。https://ameblo.jp/podel1007/entry-12652162336.html
  9. ^ 北杜夫『マンボウ談話室』p.115(講談社、1977年)
  10. ^ 「空港探索・2」というブログに、旧陸軍伊那飛行場のことが特集されている。https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/ina-airfield それに当該飛行場に関しての記述がある。以下は、それをもとに編集した文章である。―― 陸軍恵伊那飛行場というのが正式名称である。種別は陸軍の秘匿飛行場。面積は150万㎡。東大本郷キャンパスのおよそ3倍というところだ。所在地は、長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市上の原他)。標高は650m~700m。滑走路は、1,300m×80m(芝)。1943年8月に軍用地として接収され、着工から1年で完成した。同年11月からは、上伊那各地の住民による勤労奉仕が実施された。――
  11. ^ a b c 森川勁介(2022年現在、70代後半)は、恵那市長島町の病院(森川クリニック)の医師。
  12. ^ 渋沢社史データベース”. 公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター(旧・実業史研究情報センター). 2022年5月16日閲覧。
  13. ^ 佐藤愛子『出身県別 現代人物事典 西日本版』p889 サン・データ・システム 1980年
  14. ^ 佐藤[2011:愛子の詰め合わせ 205]
  15. ^ a b “91歳・佐藤愛子さん「晩鐘」、紫式部文学賞に”. YOMIURI ONLINE. (2015年8月3日). https://web.archive.org/web/20150810070623/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150803-OYT1T50151.html 2015年8月6日閲覧。 
  16. ^ https://www.shogakukan.co.jp/pr/medetai/ 小学館|公式Webページ内に、映画化に関する情報が記述されている。
  17. ^ 朝日新聞 (2023.10.25). “ENTERTAINMENT:『九十歳。何がめでたい』映画化”. 朝日新聞デジタル. 
  18. ^ 吉行淳之介『新面白半分対談』p.40-41(講談社1975年
  19. ^ 佐藤愛子著『私の遺言』
  20. ^ 佐藤愛子『マドリッドの春の雨』
  21. ^ https://eiga.com/movie/37397/ 左記、映画.comに映画「スローなブギにしてくれ」についての記述あり。主役「さち乃」を演じたのが、女優 浅野温子だった。
  22. ^ “春の叙勲4080人 森元首相、作家の佐藤愛子さんら受章”. J-CAST. (2017年4月29日). https://www.j-cast.com/2017/04/29296877.html 2023年1月26日閲覧。 


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