佐藤康光 エピソード・人物

佐藤康光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 02:40 UTC 版)

エピソード・人物

対局に関するエピソード

  • プロとして最初の公式戦(1987年5月26日・早指し将棋選手権予選)の対局相手であった木村嘉孝が、事情により欠場したため、プロ初白星が不戦勝という、棋界では非常に珍しい記録を残すことになった。
  • 2000年の第58期名人戦においては、挑戦者であった丸山忠久の得意戦法(丸山が先手の場合は角換わり戦法、丸山が後手の場合は横歩取り8五飛車戦法)を堂々と受けて名人位を防衛しようとした[注釈 11]。しかし、結果的に3勝4敗で丸山に名人位を奪われた。
  • 2002年の第51期王将戦では、おやつに大量のキウイフルーツを食べつづけ、羽生善治から王将を奪取したことから、ネットで話題になった[21][22]
  • 渡辺明に挑戦した2006年の第19期竜王戦の第6局で、渡辺の初手▲7六歩に対して2手目△3二金と指し、居飛車党の渡辺を「挑発」[注釈 12]した(3二の金は、相手が振り飛車の場合には適さない位置とされる)。結果は、挑発に乗って不慣れな振り飛車を採用した渡辺の負け。そして迎えた最終の第7局でも、振り駒で後手となった佐藤は再び2手目△3二金と指したが今度は矢倉戦になり、結果は渡辺が勝って防衛。そして渡辺に2年連続で挑戦した第20期竜王戦の第6局でも、佐藤は2手目△3二金を採用。プロ棋界では非常に珍しい相中飛車に進み、最終的に渡辺が勝利を収めた[注釈 13]
第61期王将戦第1局
第25手 ▲5七玉まで
△久保利明王将 持駒:角
987654321 
  
      
   
        
        
      
   
       
   
  • 久保利明に挑戦した第61期王将戦の第1局で、久保のゴキゲン中飛車に超速戦法で応戦、乱戦に持ち込んだところに▲5七玉という空前絶後の妙手を指し、度肝を抜いた(対局は111手で佐藤の勝ち)[注釈 14]。本局を含めた意欲的な指し回しが評価され、佐藤は第18回升田幸三賞を受賞している[23]
  • NHK杯戦で連覇を経験しているため、同棋戦で13連勝の記録を持つ。本人曰く羽生さんの連勝(編注:24連勝。後述書p.194参照)に比べたら問題にならないが、実は密かな自慢であるとのことである[24]
  • 2008年度の第58回NHK杯3回戦・金井恒太との対局で、時間が迫り「▲5九飛車」と指す場面で飛車駒を落としてしまう。しかし指し手の位置である5九を指で示し「飛車」と発言したことから時間内に指したとされ事なきを得た(駒を落とした場合について連盟の対局規定第5条[25]に従った形)。

人物・エピソード

  • 3人兄妹の長男。弟は歌舞伎役者の市川段一郎である[26][27][28]
  • 特技はヴァイオリン演奏。将棋を覚える以前の4歳から習っており、奨励会入会の中学1年生まで週1回レッスンに通っていたと語っている[29]。棋聖戦の就位式に演奏を披露していたこともあった。将棋雑誌の企画でヴァイオリニストの千住真理子と対談した際に、千住の目の前で演奏を披露し、腕前を絶賛されたこともある[30]
  • 高校進学を悩んだ時期もあったが、米長邦雄の著作の影響を受け、進学を決意した[31]。國學院高校を選んだ理由として「千駄ヶ谷の将棋会館から1番近い高校ということで受験して合格した」と語っている(都立高校も検討したとのこと。)[29][27]
  • 若手時代に、そのルックスと名前に引っ掛けて先崎学から「もてみつ君」というあだ名を付けられる。それが由来で、ファンの間では「モテ」と呼ばれる[22]。他に、父親が製薬会社勤務だったことから、米長邦雄にはその勤務先に引っ掛けて「グロンサン」と呼ばれていた[30]
  • 将棋マガジン(日本将棋連盟)のコーナーである「佐藤康光と森内俊之のなんでもアタック」の1996年2月号の企画で、目隠し五面指し(目隠しした佐藤が、目隠ししていない5人のアマチュアと同時に対局)に挑戦し、反則なしの五戦全勝で見事に成功した。
  • 熱血漢でアツくなり易いという一面を持っており、対局で負けたときは涙を流して悔しがることもある[注釈 15]
  • タイトル戦以外でも、ここ一番の大勝負(挑戦者決定戦やTV棋戦の決勝など)では和服で対局に臨む。
  • 竜王奪取の前年(1992年)にゴルフにはまり、「趣味はゴルフ」と公言するまでになった[32]
  • 2006年、米長邦雄会長(当時)からBonanza戦を打診され、佐藤はプロ棋士が将棋ソフトに負けたら恥で引退も覚悟しなければならないとして悩んだ末に「固くお断りします」という佐藤に対して、米長が「負けたところで恥になるわけでもない、考えてみろ。しょせん遊びだ。機械相手に数時間遊びで指してくれれば、1000万円以上の収入になる」というと、佐藤は「米長先生、そこに正座してください。プロが将棋を指すのに”遊び”ということがありますか。先生はそんな気持ちで将棋を指していたんですか。私は固くお断りをいたします」と米長を諭した(米長著「われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る」より)。将棋は遊戯ボードゲームだがプロ棋士として仕事で指している真面目な佐藤に米長が遊びと称したことに佐藤は立腹し、打診を拒否した佐藤の代わりに渡辺明が挑戦して勝利した。
  • 2008年10月、フランスパリで行われた第21期竜王戦七番勝負第1局(渡辺明竜王対羽生善治名人)の記録係を務めていた中村太地が会場設営の際に感電する事故があり、解説で同行していた佐藤(当時棋王)は「もしものことがあれば私が記録係を務めます」と申し出ていた。(大事には至らず、中村が記録係を務めた。)
  • 2016年10月10日 島朗宅で行われた将棋ソフト不正使用疑惑に関する会合に参加し、後に三浦弘行の出場停止処分について、苦渋の決断と発言した。
  • NHK将棋講座」講師を3回務めている。(1994年度冬期、2007年度後期、2015年度前期)
  • 朝食は大の納豆派で、パン食のときも必ず納豆をつけるほど。本人曰く「納豆はデザートだと思っている」[33]冷やし中華追加で話題になったが「2度とやらない」とのこと[34]
  • 佐藤が運転免許取り立ての頃、「王将戦」第2局(1995年1月24日)の対局会場の栃木県日光市中禅寺湖付近まで、冬の装備のない車を佐藤自ら初運転して日光いろは坂経由で向かおうとしたが、冬の装備が不十分であることを理由に同乗の森内俊之に制され、途中の日光駅までの運転に切り替えた。帰路では羽生善治も同乗したが、この日が初運転であることを佐藤から告げられた森内・羽生が、佐藤のあまりの運転未熟さに肝を冷やしたという(いろは坂事件)[35]。当時の棋譜研究はプロ棋士や奨励会員であっても現地観戦するしかなく、康光は免許取り立てで運転したくてドライブと棋譜研究ができる一石二鳥だとして森内を誘って行った。これ以後、羽生は佐藤が運転する車には同乗していない、森内はその後も若干数であるが乗車している。
  • いろは坂事件の際は1995年1月で当時25歳の若気の至りもあり青年でワイルド(野性的)で猪突猛進であったが、それからわずか10年強の2006年に、米長邦雄会長(当時)の将棋ソフトとの対戦打診を断った際は達観して熟考した上に断っているほど変化が大きい。

棋士会長から連盟会長として

2018年1月 第30期竜王就位式を連盟会長として取り仕切る佐藤。左は永世七冠の資格を獲得した羽生善治
  • 2011年4月1日から日本将棋連盟棋士会長を務める[36]
  • 2017年2月、谷川浩司の会長辞任を受け、第二次世界大戦後16人目となる日本将棋連盟会長に就任した[37][38]
  • 2017年(第3期)からタイトル戦に昇格する叡王戦において、七番勝負の持ち時間について「対局者が持ち時間の長さを選択する」という変則ルールを考案した[39]
  • 2023年6月9日を以って日本将棋連盟会長を退任。

  1. ^ その前の3回戦では、村山聖と対戦して勝っている。ちなみに、このときの準優勝者は中井広恵。また、畠山成幸(前年準優勝)は佐藤と同じく3位であった。5年生の羽生善治(翌年に優勝)も出場していた。
  2. ^ 佐藤が奨励会に在籍していた当時は、三段リーグの制度がなかった。
  3. ^ 2017年現在、佐藤の後に「前竜王」の称号を名乗る権利を行使した棋士はいない。
  4. ^ 羽生は、この竜王戦の直後の王将戦も制し、史上初の七冠独占を達成することとなる。
  5. ^ 開幕から谷川浩司とともに4連敗し、「このまま2人そろって降級か」ということで一般紙でも話題として取り上げられた。その後、谷川は連敗を4で止め最終局を前に残留を確定させたが、佐藤は6連敗を喫した。
  6. ^ 将棋界のいちばん長い日」と呼ばれる
  7. ^ なお、棋王戦第2局と第3局の間の3月2日に行われたA級順位戦最終局(いわゆる‘将棋界のいちばん長い日’)は、勝っても負けても次期のB級1組での順位さえ変わらない全くの消化試合であったが、名人挑戦の可能性を残していた丸山忠久を負かしている。
  8. ^ 一般的にそうした将棋は型に嵌らない「力戦」と呼ばれることが多いが、本人によれば、それらの作戦はすべて論理的に考えた帰結であるので、力戦と呼ばれることには抵抗感があると言う(佐藤康光 『佐藤康光の力戦振り飛車』(毎日コミュニケーションズ、2010年)3頁)
  9. ^ ▲9六歩を初披露したのは2005年2月17日(朝日オープン将棋選手権・対山崎隆之戦)である(結果的に負けたが内容は十分)。しかし、そのときは棋士達の間で見向きもされず、5か月後にタイトル戦で羽生を相手に指して勝ったときから流行り出した。佐藤は「真似されるのは素直にうれしい」と語っている(『将棋世界』2006年7月号)
  10. ^ 室岡は当初「10億」と言った筈がいつの間にか「1億」になった、と将棋世界2009年9月号で述べている。もちろん佐藤自身も否定しているが、『日本将棋用語事典』p.173 -によれば、1000手を超えることはあるとのことである。
  11. ^ 前期の谷川との名人戦でも、そのような傾向が見られた。
  12. ^ なお、佐藤本人は2手目△3二金について、将棋世界の「イメージと読みの将棋感」の中で「挑発ではなく、論理に基づく手」と語っている。実際、第19期竜王戦第7局では2手目△3二金のあと4手目△4一玉の新手を披露しており、これが矢倉戦法を指向する相手に効果的だったことから、渡辺竜王も「ただの挑発ではありませんでした」と評価している。
  13. ^ この1局で、渡辺の竜王4連覇が決まった。
  14. ^ 将棋世界2012年6月号「プレイバック2011」に於いても、本局を評した棋士の全てが佐藤の▲5七玉についての驚きを口にした。一方、やられた久保は同誌2012年8月号「イメージと読みの将棋観」に於いてこの局面が取り上げられた際に、「もう一度この局面が現れたら、(本局と同じく)後手を持ってみたい」と述べた。
  15. ^ 先崎学著 先崎学の「浮いたり沈んだり」の「敗戦の夜に…」にて対局に負けた後に「わんわん泣きます」と佐藤が語ったエピソードが紹介されている。






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