会津藩
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斗南藩
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。容大が知藩事に正式に任命されたのは明治3年(1870年)5月15日である[55]。
会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)[59]。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。
郡名 | 村数 | 石高(石.斗升合) |
---|---|---|
二戸郡 | 12 | 3,969.416 |
三戸郡 | 50 | 22,048.680 |
北郡 | 46 | 8,729.369 |
総計 | 108 | 34,747.465 |
ただし、旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年(1870年)1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方、当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される[61]。また葛西富夫は、「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している[62]。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門[63] の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。松平容大は藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎなかった[64]。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は柴五郎によって語られている。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は岩手県に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7327人のうち3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた[65]。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。明治17年(1884年)の華族爵制の開始に伴い、容大は子爵に叙された。
- 藩主:松平容大(まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕
注釈
出典
- ^ 野口 2005, p. 10.
- ^ 野口 2005, p. 11.
- ^ a b 野口 2005, p. 12.
- ^ a b c 野口 2005, p. 14.
- ^ 野口 2005, p. 13.
- ^ a b 野口 2005, p. 15.
- ^ 野口 2005, p. 16.
- ^ a b c 野口 2005, p. 17.
- ^ a b c 坂本 2011, p. 13.
- ^ 糠澤 2011, p. 12.
- ^ a b c 野口 2005, p. 19.
- ^ 糠澤 2011, p. 13.
- ^ 野口 2005, p. 20.
- ^ a b 野口 2005, p. 21.
- ^ a b 野口 2005, p. 22.
- ^ a b c d 野口 2005, p. 23.
- ^ a b c 野口 2005, p. 24.
- ^ 尾下 2021, pp. 206–208.
- ^ a b 野口 2005, p. 25.
- ^ 尾下 2021, pp. 256–257.
- ^ a b 野口 2005, p. 26.
- ^ a b c d e 野口 2005, p. 27.
- ^ 糠澤 2011, p. 14.
- ^ 糠澤 2011, p. 15.
- ^ a b c 野口 2005, p. 28.
- ^ a b 野口 2005, p. 29.
- ^ a b 野口 2005, p. 30.
- ^ a b c 野口 2005, p. 31.
- ^ a b 糠澤 2011, p. 23.
- ^ a b 野口 2005, p. 34.
- ^ a b 野口 2005, p. 40.
- ^ 野口 2005, p. 41.
- ^ 野口 2005, p. 35.
- ^ a b 野口 2005, p. 43.
- ^ 野口 2005, p. 47.
- ^ 野口 2005, p. 57.
- ^ a b 野口 2005, p. 56.
- ^ 野口 2005, p. 87.
- ^ a b 野口 2005, p. 88.
- ^ 野口 2005, p. 89.
- ^ 野口 2005, p. 91.
- ^ 野口 2005, p. 92.
- ^ 野口 2005, p. 86.
- ^ a b 野口 2005, p. 112.
- ^ a b 野口 2005, p. 113.
- ^ a b 野口 2005, p. 157.
- ^ a b 野口 2005, p. 153.
- ^ 野口 2005, p. 159.
- ^ 野口 2005, p. 162.
- ^ 会津若松市観光公社『えっ!?会津が首都??』。
- ^ 2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面
- ^ 「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『読売新聞』朝刊2017年5月17日文化面
- ^ 「松平容保城地ヲ没シ実子慶三郎ニ高三万石ヲ賜ヒ華族ニ列ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071356400
- ^ 野口 2005, p. 197.
- ^ a b 「松平容大ヲ以テ斗南藩知事ニ任ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15070262300
- ^ 『「明治150年」を強調』朝日新聞2018年1月23日
- ^ a b c d 野口 2005, p. 45.
- ^ a b c d 野口 2005, p. 44.
- ^ 野口信一著『会津えりすぐりの歴史』平成22年6月歴史春秋社
- ^ 『青森県史 第8巻』 161頁
- ^ 『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁
- ^ 葛西富夫著『斗南藩史』昭和46年8月斗南会津会
- ^ 『五戸町誌下巻』五戸町誌刊行委員会
- ^ 『秩禄処分顛末略』 229頁
- ^ 『会津若松史』 240頁
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