以仁王の挙兵
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以仁王の令旨
治承4年(1180年)4月9日、源頼政と謀った以仁王は、「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形式の命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分を冒してこう称した。
原文は『吾妻鏡』や『平家物語』に納められているが、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同がある。内容は自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえ、皇位をだまし取る平家を討って皇位に就くべきことを宣言するものであった。
『平家物語』には、挙兵を呼びかける諸国の源氏の名が列挙されている。源光信(美濃源氏)、多田行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐源氏)、伊豆の源頼朝、陸奥の源義経などの名があるが、当時の重要人物の欠落や錯誤が多く、後世の創作と考えられている[6]。その一方で、以仁王は園城寺退去以後に1通の文書を作成しており、これが令旨であった可能性も指摘されている。これは『愚管抄』に以仁王が滞在している間に「宮の宣」が出されたというもので、『平家物語』においては5月19日に源行家が伊勢神宮に納めたとされる願文にも「最勝親王の勅」というものが登場し、4月9日の令旨に類似する部分もあるものの、5月15日に園城寺に逃れた件まで引用されている。つまり、園城寺に逃れた直後に作成されたもので、行家が(4月9日の令旨ではなく)これに基づいて活動しているというものである。宣者が源仲綱(頼政の子)になっており作成日時が頼政らが合流した22日以後になるという矛盾はあるものの、「最勝親王の命」・「一院第三親王の宣」という命令書が出されて王の没後も流布していたことが『玉葉』や『明月記』にも登場すること(ただし、両書とも以仁王生存説にかこつけた偽書と推測しているが、両者とも実物は見ていない)から、4月9日の令旨は創作としても、園城寺に入った後に「以仁王の令旨」と呼ばれるのに相応しい文書が作成され、『吾妻鏡』に先行して成立したとみられる『平家物語』がそれをモデルとした可能性は考えられる[7]。
この令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(源為義の末子)が起用された。行家は八条院の蔵人で、以仁王と近い関係にあった。行家は令旨の日付と同じ4月9日に京を立ち、諸国を廻った。4月27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館を訪れ、源頼朝に令旨を伝えたという。
- ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』p124-150
- ^ 竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』p454。多賀宗隼『人物叢書 源頼政』p131-133
- ^ 上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』講談社、1973年。上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』p24-25
- ^ 関幸彦『合戦地図で見る源平争乱』p44。上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』p24-25
- ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』p189-198・204-207
- ^ 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』p27-28
- ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』p195-198
- ^ 河内祥輔は園城寺はアジールとしての立場から以仁王個人を匿いこれに賛同したとする立場から、源頼政及び武士集団の寝返りが却って大衆を分裂させたとする説を採る。河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』p207-208
- ^ 戸川点「軍記物語に見る死刑・梟首」(初出:『歴史評論』637号(2003年)/所収:戸川『平安時代の政治秩序』(同成社、2018年)) 2018年、P98-100.
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