今井正
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いまい ただし 今井 正 | |||||||||||||||||||
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朝日新聞社(現・朝日新聞出版)『アサヒカメラ』4月号(1953)より | |||||||||||||||||||
本名 | 同じ | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1912年1月8日 | ||||||||||||||||||
没年月日 | 1991年11月22日(79歳没) | ||||||||||||||||||
出生地 | 日本・東京府豊多摩郡渋谷町[3](現在の東京都渋谷区広尾) | ||||||||||||||||||
死没地 | 日本・埼玉県草加市 | ||||||||||||||||||
職業 | 映画監督 | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1939年 - 1991年 | ||||||||||||||||||
活動内容 |
1935年:J.O.スタヂオに入社 1937年:監督昇進 1968年:ほるぷ映画社長に就任 | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
『青い山脈』 / 『また逢う日まで』 『ひめゆりの塔』 / 『にごりえ』 『ここに泉あり』 / 『真昼の暗黒』 『米』 / 『キクとイサム』 『武士道残酷物語』 / 『橋のない川』 | |||||||||||||||||||
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戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。東京帝国大学中退後、東宝の前身J.O.スタヂオに入り、入社2年で監督に昇進。戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、キネマ旬報ベスト・テンでは5本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、賞歴も多く作品の評価は高い。日本映画復興会議初代議長でもある。主な監督作に『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。
- ^ 川本三郎・筒井清忠『日本映画 隠れた名作 昭和30年代前後』(中公選書、2014年)での川本の発言によれば、後年気の毒だったのは、この映画のことを蒸し返されて、「左翼のくせにあんな映画を作って」と若い批評家に批判されたという。双葉十三郎は「気の毒ですよ。レッド・パージに遭って屑屋の親方ぐらいのことまでした人を、そんなに責めてはいけないですよ」と擁護している
- ^ 今井は「ジャーナリストには常に『レッドパージ」で東宝を追い出されたうんぬん』と書かれて来た。私はすすんでフリーになったのだ。おそらく監督としては、日本で初めてのフリー、実質的なフリー第1号であったと思う。それを私は心ひそかに誇りにしている」と語っている[13]
- ^ 「日鉄社長に今井氏」日本経済新聞・2024年1月12日、第1面。
- ^ "日本製鉄 社長就任挨拶(代表取締役社長兼COO 今井 正)" (Press release). 日本製鉄株式会社. 1 April 2024. 2024年4月4日閲覧。
- ^ a b c 論創社2012、p.10
- ^ a b 論創社2012、p.11
- ^ a b 論創社2012、p.14
- ^ a b c d キネマ旬報1976、p.53
- ^ a b 論創社2012、p.16-17
- ^ 論創社2012、p.18
- ^ a b 論創社2012、p.22
- ^ a b 論創社2012、p.24
- ^ 論創社2012、p.178
- ^ 論創社2012、p.26
- ^ a b 論創社2012、p.30-31
- ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、37頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 論創社2012、p.98-99
- ^ a b キネマ旬報1976、p.54
- ^ 『今井正の映画人生』、新日本出版社、1992年、p.40
- ^ 論創社2012、p.234
- ^ a b 論創社2012、p.48
- ^ 論創社2012、p.245
- ^ 論創社2012、p.50
今井正と同じ種類の言葉
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