人間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 02:41 UTC 版)
- 人の住むところ。世の中[2]。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表す。仏教用語。
- 上記から転じて、社会性または人としての人格を中心に捉えたありかたや関係性。また、その全体[2]。
- ひとがら[3]。「人物」[2]。
概説
関係性を重視して「人‐間(あいだ)」という名称があてられたとされている。旧約聖書の『創世記』において、人間はすべて神にかたどってつくられた(「神の似姿」)、とされ、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、とされた。アリストテレスは著書『政治学』において、人間とは、自分自身の自然本性の誠意をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人々の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物とは異なった)独特の自然本性を有する動物である、と説明した。キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承され、平等が重んじられ、一番大切なのは(自分だけを特別視するような視点ではなく)「神の視点」だとされるようになった。→#人間観の遷移
「人間らしさ」について、説明する方法は幾通りもあるが、「言葉を使うこと」「道具を使うこと」などはしばしば挙げられている。→#性質
人間観の遷移
旧約聖書
旧約聖書では、すべては神というフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や世界観が語られている。殺人、不倫、近親相姦、大量殺人、権力抗争といった人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある[4]。
創世記には天地創造がしるされているが、そこには以下のようなくだりがある。
「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配させよう」神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 — (創世記 I章26-27)
旧約聖書以前の時代、古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、とされた。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられている[5]。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている[5]、とも言われる。
古代ギリシャ
人間については、古くから哲学者らによって考察されていた。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによって構築された人間観は、人間の普遍的特質に関心を集中させている。古代ギリシャの人間像というのは、近現代に見られるような、具体的な犯すべからざる個人としての人間といったものではない、とビショフベルゲルは指摘した[6]。
アリストテレスは『ポリティカー』の一節において人間を「ζῷον πολιτικόν (zoon politikon ゾーン・ポリティコン)」と呼んだ。(『ポリティカー』 1252b-1253a[7])
アリストテレスはその直前の文で、ポリスというものを「ポリス的 - 政治的 - 共同体」と定義した[8]。アリストテレスの言うポリスとは、単に生きることではなく、《善く生きること》を目的に掲げて互いに結びついた市民(= politai)の共同体のことであり、人間がつくるさまざまな共同体の中で最高最善の共同体だと位置づけられていた[8]。ポリス的共同体においてこそ人間の自然本性が完成されるのだから、とアリストテレスは考えた[8]。そしてポリスというのは、人間にとって究極の目的としての自然本性である[8]。よって、アリストテレスが主張したことは、人間とは自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(=《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、他の動物には見られない自然本性を有する動物である、ということである[8]。
(誤解が流布しているようだが)アリストテレスは、人間が単に社会を形成している、とか、社会生活を営む一個の社会的存在である、などと言ったのではない[8]。
ζῷον πολιτικόνは日本語での訳語は定まっていないが、「ポリス的動物」、「政治的動物[注釈 1]」、「社会的動物[注釈 2]」などと訳されている。
キリスト教
キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)創造主である神の眼、神の視点である[9]。さらに、4〜5世紀の神学者アウグスティヌスによって原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった[注釈 3]。キリスト教では、イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した[11]。
正教会では、神の像と肖として人間が創られたという教えが人間観において強調される。アウグスティヌスの影響は正教会には希薄であった。
中世〜近世
1400年代〜1500年代の頃になり、ガリレイやケプラー、ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。ただし、デカルトは心身二元論を採用しつつ、人間と動物をはっきりと区別した[11]。
1700年代になると、ラ・メトリーがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィンが自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた[11]。
近代
人間は(肉体はともかくとして)精神の働きという点であらゆる存在に対して秀でているという考え方から「万物の霊長(英語: The Lord of Creation)」とさかんに呼ばれた(霊長とは、霊すなわち精神的に優れている、の意味)[12]。
現代
現代の生物学ではネオダーウィニズムが主流で、それは「生物の進化」という考え方を基盤として成り立っているため、自然科学者や先進国の知識人などで、現代生物学を受け入れている人々は「人間は猿、ネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきた」といったように見なしている[注釈 4](生物学的な人間像はヒトが参照可)。
ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人が必ずしも多数派というわけではなく、例えばアメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ち続けている人の方がむしろ多数派であることなどが知られている(詳細は「アメリカ合衆国の現代キリスト教」を参照)。
現在、人間の学名は「ホモ・サピエンス」(知恵のあるヒトの意)で、やはり言語や文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている[注釈 5]。この学名と同時に作られた名に「ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に社会面から捉えられた「ホモ・○○○(〜するヒト)」といった造語の元となった。遊びに目を留めたホイジンガの「ホモ・ルーデンス」といった表現はその典型である[13]。
技術との融合により圧倒的な進化を遂げた人間の姿として、ポストヒューマンというアイデアも出てきている。
教育と人間
『論語』の陽貨篇第十七には右のように書かれている。「子曰く、性、相近きなり。習い、相遠きなり」 (意味:師は言われた。人間は、生まれつきの性質は同じようなものであるが、習い(=教育、しつけ)によって、大きく異なってゆくものだ。)
ジャン=ジャック・ルソーは「植物は耕作によりつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べた。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べた。
現代でも日常的に「人は教育によって人間になる」「人は教育によってのみ人間となる」「しつけと教育によって人間になる」「教育によってヒトが人間になる」 といったことが多くの人々によって言われ続けている。
注
- ^ 政治学科では一般にこう訳している。
- ^ 生物学科の人間などが、こうした翻訳をしたがる傾向がある。ただし、アリストテレスが「ポリス」という言葉に込めた意味をあまり理解していない場合が多く、しかも原著の内容を確認しないまま自己勝手に意味を歪曲していることが多い。
- ^ アウグスティヌス以前には原罪という思想は明確にはなかった、また東方正教会にもなかった、とされる[10]。
- ^ こうした観点を端的に表現した概念としては、社会生物学の「利己的遺伝子」の概念などが挙げられるリチャード・ドーキンスの著『利己的な遺伝子』で広く知られるようになった。
- ^ 生物学的観点だけで人間のことを探求し記述したとしても人間のことを把握したことにはならないということである。ただし社会学などの、文化的側面が生物学的側面と独立している、あるいは対比的であるという前提についてはE.O.ウィルソン『知の統合』などの批判はある。
- ^ 勿論その時代にあっても多くの場合は相手も同じ人間である(理解し合うこともできるし、子供も作れる)ということを理屈の上では理解していたであろう。しかし感情的に同類と見なすことができなかった。
- ^ もしも 地球外生命、異人類が存在し、もしも それが独自の文化や社会(いわゆる宇宙人、地球外文明)を形成していたとした場合には、「どの段階から人間として尊重すべきか?」「彼らがその形質上において地球上の生物とは異なる存在であろうとも、その何等かの特徴を持って人間として扱うべきではないか?」「ヒトという動物の中の一種族のみが人間と言えるのか?」「文化や知能が一定レベル以上であれば人間と見なしてもよいのではないか?」などということを大真面目に考えたり議論したりしている者たちもいるということである。SF作品(あくまでフィクション)では、我々の考える所の人道と同じ概念を共有出来る生命ならばそれは即ち人間である、などとして物語を展開することなどは多々見受けられる。
- ^ 俗に、「人」という漢字には、2つの存在が支えあっている様子が描かれている、ともいう。
出典
- ^ ジーニアス和英辞典「人間」
- ^ a b c 広辞苑第六版「にんげん【人間】」
- ^ “人間(にんげん)の意味”. goo国語辞書. 2020年11月5日閲覧。
- ^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.29, PHP研究所, 2004, ISBN 456963494X
- ^ a b 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.38
- ^ (尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264)
- ^ Politika 1252b-1253a
- ^ a b c d e f 平子友長「西洋における市民社会概念の歴史」2007
- ^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p21
- ^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.20
- ^ a b c 尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264
- ^ 表現自体は「書経」の泰誓上から来たものである
- ^ 「ホモ・エコノミクス(経済人)」といった表現もある。
- ^ “Harvard Health” (英語). www.health.harvard.edu. 2021年10月23日閲覧。
- ^ 岩田好宏『「人間らしさ」の起原と歴史』
- ^ 村上恭一『哲学史講義』成文堂、2010年 第一章
- ^ 養老孟司『死の壁』新潮社、2004年、90-94頁
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