人民寺院 カリフォルニア州時代

人民寺院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 03:25 UTC 版)

カリフォルニア州時代

カリフォルニアへの移転

ジョーンズは1963年中にインディアナへと戻ってきた[3]。ジョーンズは、1960年代後半になるまで常々社会的福音の美徳について語っていたが、ジョーンズの語る福音が実際には共産主義であることを公にしなかった[3]。1960年代後半になると、ジョーンズは人民寺院の集会で彼の「使徒社会主義」(英語: apostolic Socialism)という考えを公にするようになった[3][19]。この考え方は、様々な社会主義の考え方をゆるく混ぜ合わせたものであった[注釈 7]。この時期の間、ジョーンズは新しい人民寺院信者達に、聖霊は彼らの中にあると説法を行っていたが、ジョーンズの治癒力は、彼が「キリスト革命」の特別な兆候であると実物宣伝していた[3]。ジョーンズは更に、アメリカが反キリストであり、資本主義は「反キリスト教的システム」であると説いていた[3]

ジョーンズは、差し迫った核虐殺、そして神に選ばれた生存者たちが地球に新しい社会主義者の楽園を作ると説いた[3]1965年、ジョーンズは1967年7月15日に核攻撃が世界に起こるだろうと予言した[3]。そして、ジョーンズは、人民寺院はカリフォルニア州レッドウッド・ヴァレー英語版に移転しなければならないとも予言した[3]。ジョーンズは、1965年7月に約140人の信者[注釈 8]を伴って、レッドウッド・ヴァレーに彼の教会を設立した[7][25]。この地区の代表弁護士・ティモシー・ストーン英語版が、この地区の人民寺院の信頼性を大いに向上させ、急激に信者数を増やす結果となった[25]

ジョーンズは、伝統的なキリスト教を「軽薄な宗教」であると嘲笑うようになり、聖書女性を支配し、有色人種を奴隷にするための白人男性の正当化である見做し、拒絶した[3]。ジョーンズは、「ザ・レター・キレット」(英語: The Letter Killeth)と題された小冊子を作り、寺院で配布し始めた[26]。この小冊子では、ジョーンズが聖書内で否定的に感じたり、不条理、非道を感じた部分を指摘していたが、同時に聖書は素晴らしき真実を含んでいるとも述べていた。ジョーンズは、「神の教義」とは「愛」と同等であり、愛とは「社会主義」と同等であると説いた[3]。彼は、聖書には「天の神」(英語: Sky God)か「猛禽の神」(英語: Buzzard God)についての信仰しか含まれていない、それらは神でもなんでもないと述べていた[3]

都市での拡大

1977年1月にインターナショナル・ホテル英語版での反立退き運動に参加する人民寺院信者

レッドウッド・ヴァレーからユカイア地域における拡大の限界を理由に、都市部へ教会本部を移動する戦略的な必要性があった[27]1970年に人民寺院は、サンフランシスコロサンゼルスでの奉仕活動を始めた[28]1971年1972年にそれぞれの場所で拠点となる建物を建設した[27]

1972年まで、人民寺院はレッドウッド・ヴァレーを「州全体の政治運動」の「母なる教会」と呼んでいた[27]。当初から、ロサンゼルス施設の最も重要な目的は、信者の獲得とカリフォルニア中からバスが毎週運行されるバス停の獲得であった[27]。人民寺院は、ロサンゼルスに常勤のスタッフを配置し、隔週でバスをロサンゼルスへと走らせるように変えた[27]。ロサンゼルスでの堅固な集会出席者と集金が、人民寺院信者への要求を膨張させることとなった[27]。ロサンゼルスの施設は、サンフランシスコのものよりも大きかった[27]。この施設は、アルヴァラード通りとフーヴァー通りの交点にあり、黒人信者が多数いたワッツ英語版コンプトンからも容易に訪れることが出来る場所であった[27]

ロサンゼルスとサンフランシスコへの信者獲得旅行は、1970年代半ばまでに数百から3000人近い信者を獲得するものとなった[29]。後に、人民寺院本部がレッドウッド・ヴァレーからサンフランシスコへと移転した際、寺院側は多くのロサンゼルス在住信者達をこの新しい寺院本部へと移住させた[27]

組織の構造

人民寺院の記述は、ジョーンズが寺院全体に独裁的支配体制を敷いていたと強調しているが、実際には人民寺院は信者間で不平等な政策決定力を持つ複雑な権力構造を持っていた。この様な構造の中で、人民寺院信者達は、知らず知らずの内、徐々に、中国洗脳から借用したマインドコントロール行動変容英語版技術に慣らされていった[30]。寺院は、人民寺院の「離反者」の様な教団の「敵」による、彼ら自身の危険に対する心理的境界線を厳密に定義した[30]。彼が信者獲得の中で求めた秘密事項と用心は、信者数全体を減少させる結果につながったものの、信者達は、ジョーンズが「究極の社会主義者」であるという英雄視を増長させた[30]

1970年代、人民寺院は社会主義モデルのために、より形式ばったヒエラルキーを形作った[31]。その頂点は、教団の職員、そして人民寺院のために最重要機密を内密に行う、大学で教育を受けた確実に従順な8から10人の女性たちによって構成された選ばれたグループであった[31]。彼らは、必ず「目的は手段を正当化する」という哲学に染められていた[31]。この中で最も若い信者は、サンディ・ブロードショー[注釈 9]であった[31]。他の信者としては、キャロライン・レイトン[注釈 10]、シャロン・エイモス[注釈 11]、パティ・カートメル[注釈 12]、テリー・ビュフォード[注釈 13]がいた[31]。このグループは、平等主義の教団に在ってエリート主義であると嘲笑の対象となっており、教団の秘密警察であると見做されていた[31]

人民寺院の計画委員会(英語: Planning Commission)は、教団の理事会であった[32][33]。この委員会の人員数は、50人から100人以上へと急増した[32][33]。1週間の間、委員会のメンバーはレッド・ウッドヴァレーの様々な場所で会合を開いた[32]。それはしばしば夜明けまで続いた[32]。この計画委員会は、日々の教会の運営に責任を持っており、その中には重要な意思決定、財政的、法的な計画、教団組織の監視までが含まれていた[34]。計画委員会は、様々な他の委員会の上に位置していた。その中には、多様委員会(英語: Diversions Committee)やマーテル委員会(英語: Mertles Committee)があった。多様委員会は、アメリカ中の様々な場所から、実在しない人物の名前を騙って大量の手紙を政治家に書くという役目を担っており[35]、マーテル委員会は離反者であるアルとジャーニのミルズ夫妻英語版に対する地下活動を行っていた[36]

外部の人間に「軍隊」(英語: The troops)と呼ばれていた一般の信者グループは、労働階級の信者によって構成されており、その70から80%が黒人であった[31]。そのグループは、会合の席を用意したり、供物箱の充填、その他の事を担っていた[31]。彼らの大半は、教団の半社会主義的アプローチに惹き付けられていた[31]。これは、人民寺院の政治的教育によるものと、人民寺院の非常に情熱的な集会が未だに福音主義的信者達と黒人主義を保持していたことによる[31]。ジョーンズは、何十人かのほぼ白人で構成された信者達に囲まれていた[31]。彼らは、20人から30人ぐらいおり、法律、会計、看護、教育、音楽、経営の知識、能力を持つ者であった[31]。後者のグループは、教団外の仕事によって得られる給金を教団に上納するだけでなく、公的な関係や財務義務、更には世俗的な雑用を担っていた[31]

信者獲得、霊感療法、そして財政潤沢化

人民寺院は、10から15台のグレイハウンドタイプのバスを使って、毎週、信者獲得と財政改善のためにカリフォルニア州の北部から南部まで信者達を送り込んでいた[37]。ジム・ジョーンズはいつも7号車のバスに乗っており、そこには自警団も同乗しており、保護鉄板で仕切られた特別な場所にいた[37]。ジョーンズは、信者達に10万ドルから20万ドルの利益を得ることが出来ない限り、この旅行の行程に頭を悩ます事になると語っており、加えて教団の目標は年100万ドルの収入をこのバスによる勧誘で得ることであるとも語っていた[37]

1970年代初めには、このバスを使ったキャラバンは、年4回ワシントンD.C.を含むアメリカ合衆国中に向かうようになった[37]1973年6月には、下院議員のジョージ・ブラウン・ジュニア英語版が、人民寺院についての長くて冗長な説明を連邦議会議事録英語版の中に記載している[37]。1973年8月18日のワシントン・ポスト社説で、660人の人民寺院からの訪問者はワシントンD.C.の敷地を約1時間清掃した後、「年間の観光客賞の受賞者である」と述べた[37]

教団は、パンフレットをバスで移動したルートにある町々で配布した[37]。このバンプレットは、ジョーンズの「心霊治療」の能力を自慢する内容が記載されていた一方で、教団の掲げるマルクス主義的目標については一切記載していなかった[37]。滞在地の中には、ヒューストンデトロイトクリーブランドといった都市が含まれていた[37]。教団の信者達は、地元民であるかのように装い、様々な偽りの治療や「天啓」の中でサクラを演じていた[37]。地元民の観覧者たちは、自分たちが聴衆の中で少数派であることに気付くことは無かった[37]。1週間で上納されたり治療代としての入金が、ロサンゼルスで1万5千ドルから2万5千ドル、サンフランシスコで8千ドルから1万2千ドル程度あった[38]。レッド・ウッドヴァレーの「母なる教会」周辺からはさらに少額の収入しかなかった[38]

人民寺院は、更にトゥルース・エンタープライズ(英語: Truth Enterprise)を立ち上げた。これは、月に3万から5万通の手紙を人々に送るダイレクト・メーリング部門であった。この手紙は、人民寺院のサービスを利用したことがあるか、教団のラジオ番組を聞いて手紙を送ってきた人物に送られた[38]。募金は、アメリカ合衆国大陸部はもとより、ハワイ南アメリカ、そしてヨーロッパから送金された[38]。募金集金に加えて、寺院はジョーンズのローブの一部や、ヒーリングオイル、指輪、キーチェーン、ロケットペンダントといった小物の販売を行っていた[38]。絶頂期には、送金額は日300から400ドルに上っていた[38]。この数字は、ジョーンズでさえも驚かすものであった[38]

ジョーンズは、初期においては、自身をカトリックが「石膏の像を崇める」ように自身を崇拝してほしくないと信者に求めていたことから、信者達に自分自身の写真を廃棄するように依頼していた。ジャーニーとアルのミルズ夫妻[注釈 14]は、ジョーンズに人民寺院の収入を増やすために聖別され祝福された写真を販売することを提案した[38]。ジョーンズは、「やつらはいつか郵便詐欺に自分自身を巻き込むつもりだろう」とよくイラついていた[38]。1973年、寺院はブラザーフッド・レコーズ(英語: Brotherhood Records)を設立した[39]。このレコード会社は、人民寺院の「大規模な人種混合の合唱団とオーケストラ」によるレコードを作成する子会社であった[39]

規模と範囲

人民寺院の2万人かそれ以上の信者がいるという誇張した主張に反して、ある文献では、実際に教団に登録した信者は最多でも3000人前後であったとされている[40]。しかしながら、教団が崩壊した後5000人の個人写真が寺院の記録の中に存在した[41]。公式な信者かどうかに関係なく、教団は登録された信者かどうかにかかわらず、定期的に3000人の人々を個別にサンフランシスコの奉仕に連れて行っていた[42]。政治家にとって特に興味のあることは、2000人の人々を働かせたり、6時間の集会のためだけにサンフランシスコに集めることが出来る教団の能力であった[25]

1970年代中ごろまでに、レッド・ウッドヴァレー、ロサンゼルスとサンフランシスコに加えて、人民寺院はカリフォルニア州の他数十の町に支部を設立した[30]。ジョーンズは、サンフランシスコ、ユカイア、ロサンゼルス、ベーカーズフィールドフレズノサクラメントに言及していた[43]。教団は、大学授業プログラムの様な部門や、サンタ・ローザ短期大学英語版を運営していた[44][45]

同じ時期に、ジョーンズと彼の教会は、町々の貧しい人々、特に人種マイノリティー、薬物中毒者、ホームレスを助ける活動によって評判を受けるようになった。そして、人民寺院は、カリフォルニア州の福祉システムを強いつながりを持つようになった[46]。1970年代の間、人民寺院は少なくとも9つの介護老人福祉施設、6つの里親施設、発達障害の人々のための国家に承認された40エーカー(160,000m2)の農園を所有、経営していた[47]。教団のエリート層は、信者の保険金請求や法的問題、顧客保護グループの様な効果的演技を担っていた。これらの理由で、社会学者のジョン・ホールは、人民寺院のことを「カリスマの官僚主義」であると述べた[48]。これは、ジョーンズがカリスマリーダーとして方向づけられている一方で、官僚的社会奉仕組織として運営されていたことに由来している。

キンソルヴィングの連載

1972年、サンフランシスコ・エグザミナー誌インディアナポリス・スター誌に、レスター・キンソルヴィング英語版による人民寺院に関するレポート[注釈 15]が掲載された[49]。これが、最初の公への暴露であった[49]。キンソルヴィングは、教団の取引、心霊治療の主張、ジョーンズの聖書を投げ捨てる儀式、「この黒い本にあなた方は2000年もの間抑え付けられてきたのです。これに力などないのです。」といった絶叫等、いくつかの側面からレポートを行っている[50]。人民寺院は、エグザミナー誌に策を巡らし、車の中で[注釈 16]エグザミナーの編集者を怒鳴りつけたり、両紙に対して名誉毀損訴訟による脅しをかけたりした[49]。両紙は、7編の連載の内、4編のみで連載を中断した[49]。これから少しして、ジョーンズはアメリカ合衆国憲法修正第1条を支持するという名目で、カリフォルニア州の新聞各社に助成金の交付を始めた[51]

脱退

いくつかの脱退者が現れた[52]が、最も有名なものは1973年のものである。最も若かった信者の内8人、一般に「ギャング・オヴ・エイト」(英語: Gang of Eight)として知られる信者達が、共に教団を脱退したのである[53]。ギャング・オヴ・エイトのメンバーは、脱退の可能性がある信者に対して不吉な脅しがかけられていたことを知っていたため、ジョーンズが彼らを探すための調査団を送り込んでくるのではないかと疑っていた[53]。この恐れは現実のものとなり、ジョーンズは複数の調査団を雇用した[54]。この中には、レンタルした飛行機から高速道路を調査する様なものまであった[54]。ギャング・オヴ・エイトは、銃火器を積載した3台のトラックを、監視されている国道101号線を避けて、カナダに向かって走らせた[53]。銃火器をカナダとアメリカ合衆国の国境に持ち込むことを恐れたため、ギャング・オヴ・エイトは、代わりにモンタナ州の丘陵地へと向かい、そこで彼らの申立を記述した長い手紙を書いた[54]

人民寺院元信者のジャーニー・ミルズは、後にジョーンズは30人の信者を自宅に招き、ギャング・オヴ・エイトの離反について予言的に宣言した。「我々の使徒社会主義の持続のために、我々は我々自身を殺して、嫌がらせによって現在においては、社会主義グループが存在出来ないという記述を残さなければならない。」[55]ジョーンズは、人民寺院の計画委員会の会合で、潜在的脱退者に対して脅迫をしながら、拳銃を振りかざし激怒していた[56]。そして、ギャング・オヴ・エイトを「トロツキー派の脱退者」や「コカ・コーラ革命者」であるとしていた[56]。人民寺院は、ジョーンズが言及した自殺計画を実行しなかったが、その後の数年間、疑似自殺儀式を行っている[55]




注釈

  1. ^ ガイアナへの移転前。
  2. ^ 20,000以上と主張されたが、実証されたことは無い。
  3. ^ 実証は無く、実態は3,000から5,000人程度であったとされる。
  4. ^ この人物とジョーンズは、アメリカ共産党を通じて知り合った訳ではなかった。
  5. ^ 「解放の翼」の意。
  6. ^ ただし、イジェムズは早々に組織化された人民寺院を辞している。
  7. ^ 人民寺院は設立メンバーに対して「宗教は人々を麻痺させるものだ」と公に説経していた[20]。それ故、「宗教の麻薬に麻痺している人々は、教化 - 社会主義化しなければならない[21]と言い、ついには「人々を教会へと連れて行き、その人々を無神論へと導く」と公に述べていた[22]。ジョーンズは、「もし貴方達が、この教会で、社会主義者の革命の中で生まれていたならば、あなた達は罪の中で生まれてくることなど無かったのです。あなた達が資本主義国家アメリカ、差別主義国家アメリカ、ファシスト国家アメリカで生まれたならば、あなた達は罪に塗れ、大きな張り型と共に生まれてきたのです。しかし、もし貴方達が社会主義の中で生まれてきたならば、あなた隊は罪に塗れて生まれて等来なかったのです。」などと説教をするなど、これらの考え方をしばしば混合させた[23][24]
  8. ^ 半分が黒人であった。
  9. ^ ニューヨーク州シラキュース出身で24歳。
  10. ^ 当時31歳で、15歳の時にジョーンズとの間に子供をもうけてから、共産主義者であった。
  11. ^ 社会サービス部門で働いていた。
  12. ^ ジョーンズの秘書。
  13. ^ 海軍軍人の子供で平和主義者となった。
  14. ^ 夫婦は後に人民寺院を離反している。
  15. ^ 7編の内、最初の4編が掲載された。
  16. ^ この際には、編集者は屈強な教団の「赤旅団」の警備員に挟まれて座らされた。
  17. ^ ロサンゼルス・南アルヴァラード通り1366番地(1366, South Alvarado Street, Los Angeles)。
  18. ^ サンフランシスコ・ギアリー・ブールバード1859番地(1859, Geary Boulevard, San Francisco)

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