交響曲第9番 (ベートーヴェン) 初演

交響曲第9番 (ベートーヴェン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 06:25 UTC 版)

初演

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デルマーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる[15]

演奏史

初演

1824年のベートーヴェン
初演の会場となったケルントナートーア劇場

初演は1824年5月7日、ベートーヴェンによる立ち会いの下、ウィーンのケルントナートーア劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」、「献堂式」序曲とともに初演された。指揮はミヒャエル・ウムラウフ(Michael Umlauf )。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い留めた。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話まで残っている。

このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話におかれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある[16]。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた[17]。過去1809年の『合唱幻想曲』の初演では実際に合奏が崩壊して、最初から演奏し直して大失敗した。

さらに5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ・アリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている。

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演ではあらかじめ1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。後年プロイセン王への献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られたが、宝石鑑定士に鑑定させた結果300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった。その指輪は今でも行方不明である。

その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたが、全て失敗か微妙な評価に終わった。また、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」とされ、「長大すぎる」ということで演奏機会に恵まれなくなった。実際にベートーヴェンも初演の後、第4楽章を器楽のみの編成に書き改める、またソロ・テナーパートを歌いやすくすることを計画していた。1827年、まともに評価されることなくベートーヴェンは死去する。

初演以外の演奏が失敗に終わった理由の一つに、当時のオーケストラの演奏水準の問題があった。ベートーヴェンの時代は、プロの音楽家養成機関が未整備で、宮廷オーケストラの類を除くと、「プロ・オーケストラ」は民間に存在しなかった。プロ・オーケストラによる正当な演奏は後世を待たなければならなかった。

パリでの部分的再演

世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アントワーヌ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は、「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者をつとめるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。

1831年、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。ただし、第4楽章は上記のような理由で演奏されず、第1-3楽章のみの演奏だった。その後、アブネックは度々、「第4楽章抜きの第九」を演奏した。この演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。

一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズ。彼は、ベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。このころから第9は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。

ワーグナーによる復活演奏

リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年ドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。

ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声が挙がったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得につとめるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。

彼は、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。

徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。[18]

日本初演

『第九』日本初演が行われた板東俘虜収容所。【左】1919年当時の収容所平面図。【右】テーマパーク阿波大正浪漫 バルトの庭」(現在は閉園)に於いて再現された収容所正門。

1918年(大正7年)6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年(昭和16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代(平成2年)になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ松平健ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された[19]。鳴門市では日本における第九初演を記念して毎年6月の第一日曜日を『第九の日』に制定して定期演奏会を開催している[20]。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、鳴門市ドイツ館前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された[21]

『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には収容所内の演奏会だったため、『第九』を聴けた日本人は、収容所関係者のみだった。

1919年(大正8年)12月3日、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所のオーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている。 二日後の12月5日、久留米収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた。

1924年(大正13年)1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニーオーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』のメロディにアレンジしたものだった。 これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。 また、果たして第4楽章が通して演奏されたのか、それとも合唱を伴う部分を抜粋・編曲したものだったのかについても、当時の演奏資料が乏しく意見が分かれている。

日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日に東京音楽学校のメンバーがドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年(昭和2年)5月3日に行われた。

東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高が、「演奏中にコンサートミストレス安藤幸幸田露伴の妹。姉の幸田延ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。

全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年(昭和38年)11月7日日生劇場にて行われた。

この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくした騒ぎもあった。

日本での年末の演奏の歴史

1940年(昭和15年)12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられる。厳密にいうと、それを模倣するオーケストラがいくつかあるものの、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は、深夜に行われるものではない。よって、そういった慣習があるとは言えず、何らかの意思疎通や通訳の誤りが原因の勘違いをしたのではないのかと思われる。

日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後間もない1940年代後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時(クラシックの演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう[22]。1956年(昭和31年)に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている[23]

バイロイト音楽祭と第九

1872年バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年リヒャルト・シュトラウス1951年1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー1953年パウル・ヒンデミット1963年カール・ベーム2001年クリスティアン・ティーレマン

ライプツィヒ・ゲヴァントハウスと12月31日の第九

1981年の新ゲヴァントハウスこけら落とし公演

1918年、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーベンの第九は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている。(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時) 1944年、ライプツィヒのコンサートホール、ゲヴァントハウスは戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されるとクルト・マズアは生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーベンの第九を選んだ。東ドイツ崩壊後の統一ドイツではMDR=Mitteldeutscher Rundfunk (中部ドイツ放送協会)が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立され、それ以来毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーベンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオFigaroによって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には香港、オランダ、アメリカなどにも演奏がライブ放映・放送された。

フルトヴェングラーと第九

指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。[24]
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮しゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった。

1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し再開を祝した。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。もともとこの演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。[25]

しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。
近年もう一種類の録音(バイエルン放送の放送録音)がCD化(「オルフェオ」レーベル)され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある[26]

戦後復興と第九

1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。

ドイツ分断と第九

1964年東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。

1989年ベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国アメリカイギリスフランスソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一のときの統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。

演奏のみのバージョンがEUの国歌として使用されている。2007年にはルーマニアブルガリアがEUに加盟したが、2007年の1月元旦の0時を切ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。

長野オリンピックと第九

1998年2月7日長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小澤征爾がタクトを振った長野県県民文化会館中国北京紫禁城オーストラリアシドニー(翌々年の五輪開催地)のオペラハウス前、ドイツベルリンブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国ケープタウン喜望峰アメリカニューヨーク国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、日の出と重なり徐々に明るくなってゆくケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者の小澤も別会場で演奏する必要があった)。

レコード録音史

アコースティック録音時代

1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮 シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。

1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラードイツ語版指揮 新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。

1923年10-11月に収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。

1924年1-2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった。(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表)。

1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から発売された。

なお、これらの録音は全て『合唱が原語(ドイツ語)ではない』あるいは『曲の一部がカットされている』のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後1928年のオスカー・フリートとベルリン国立歌劇場管弦楽団によるものが世界で初めてである。

電気録音時代

1926年3月16-17日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ロンドン交響楽団(英訳詞による合唱)

1926年10月、アルバート・コーツ指揮 交響楽団(英訳詞による合唱)

1928年オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音)

1934年4月30日、レオポルド・ストコフスキー指揮 フィラデルフィア管弦楽団(英訳詞による合唱)

1935年2月2-4日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(世界初の交響曲全集に収録された)

以降はオイゲン・ヨッフム1938年)、カール・ベーム(1941年(昭和16年))、橋本國彦1943年5月・日本初録音)、山田一雄1943年11月・日本初全曲録音)、ユージン・オーマンディ1945年)と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月のアルトゥーロ・トスカニーニ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団

またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『時計じかけのオレンジ』にも使われた62年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)スーパーオーディオCD(SACD)に加えガラスCD化も行われた。




  1. ^ 第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない
  2. ^ ローデシアの概要
  3. ^ “「第九」手書き楽譜を公開 NY、楽聖のコメントも”. 共同通信47NEWS. (2003年5月10日). オリジナルの2014年12月28日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141228094438/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html 2017年4月22日閲覧。  ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
  4. ^ ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの頌歌『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語では "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本でCDの表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な形容詞名詞だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「コラール」にあるように「賛歌」「賛美歌」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。
  5. ^ Beethoven Symphony No.9”. rovimusic.rovicorp.com. 2019年11月21日閲覧。
  6. ^ 初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳にはこの次に「45分」という記述もある(第2楽章から第4楽章まで何分ですかという問いが消失した可能性がある。)が、あまりに短すぎるということで『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章のテンポも「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、ベートーヴェンの勘違いではないかと考えられている。
  7. ^ 大町陽一郎「指揮者としてのリヒャルト・シュトラウス」日本リヒャルト・シュトラウス協会編『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』音楽之友社、2000年、115頁。
  8. ^ カール・ベームが最晩年の1980年に録音した演奏は18:34/13:22/18:15/28:35で78分を超える。
  9. ^ PRESTO CLASSICAL - クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  10. ^ 1979年(昭和54年)からCD の開発に当たったフィリップスソニーはディスクの直径を11.5cmとするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、当時のソニー副社長でバリトン歌手の大賀典雄は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60分)と12cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。カラヤンの「第9」は約63分~69分であり、ほとんどの指揮者による演奏時間は60分を超えているからだ。この「カラヤン裁定」を要因として、最終的に12cmに決定したというもの。
  11. ^ Symphony No.9”. images-na.ssl-images-amazon.com. 2019年11月15日閲覧。
  12. ^ BEETHOVEN Symphony No 9 (Zander)”. www.gramophone.co.uk. 2019年11月15日閲覧。
  13. ^ Beethoven: Symphony No. 9 "Choral"”. www.allmusic.com. 2019年11月15日閲覧。
  14. ^ クリスチャン・ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団 King International KKC-5119 (59分44秒)
  15. ^ 楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これはバッハマタイ受難曲における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。
  16. ^ エステルハージ家の秘書官だったJ.C.Rosenbaum(1770-1829)の日記より。"The diaries of Joseph Carl Rosenbaum"はHaydon Yearbook V所収。日本語ではC.ダールハウス著/杉橋陽一・訳「ベートーヴェンとその時代(西村書店,1997)」p.384で紹介。
  17. ^ これはベートーヴェンに限った問題ではなく、クレメンティも自作の交響曲の際にピアノを用い、ピアノの音とオーケストラの音が度々ずれると記録が残されている。(クレメンティ 生涯と音楽 - レオン プランティンガ、ISBN 978-4276222175 音楽之友社)
  18. ^ ワーグナー改変版は販売されなかったが、ピアノ編曲版が販売された。外部リンク
  19. ^ 捕虜作成の測量図「正確」 板東収容所跡調査まとめ - 徳島新聞2012年4月24日《2017年4月22日閲覧;現在はインターネットアーカイブ内に残存》
  20. ^ 『鳴門の第九』というブランド (PDF) 」 『広報なると』第723号、鳴門市秘書広報課、2011年7月1日、 1-7頁、2017年4月22日閲覧。“全7頁構成。4頁目左上『第1回鳴門「第九」演奏会』欄中に「第九の日」制定に至る経緯に関する記述有”→アーカイブ (PDF)
  21. ^ “第九 鳴門で初演100周年 再現に喝采 歓喜の歌声響く”. 毎日新聞. (2018年6月3日). https://mainichi.jp/articles/20180603/ddl/k36/040/335000c 2018年6月5日閲覧。 
  22. ^ 黒柳徹子は父の黒柳守綱(新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元コンサートマスター)から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」 東京新聞 2007年12月25日朝刊、中日新聞東京本社。
  23. ^ NHK プロジェクトX〜挑戦者たち〜 第127回 「第九への果てなき道」(群馬交響楽団 10月14日)
  24. ^ トスカニーニとフルトヴェングラーの芸術性の違いを示す例として、音楽著述家のハンス・ケラーはドキュメンタリー「アート・オブ・コンダクティング」でトスカニーニ指揮の『第九』演奏会で客席に居たフルトヴェングラーが第1楽章冒頭の弦楽器による6連符刻みを聴くなり「時間刻み屋!(time beater)」と大声で野次を飛ばし退席したエピソードを示し、不明瞭に演奏されたフルトヴェングラー指揮の冒頭部分と比較している。
  25. ^ 音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言ってマイクロフォンを撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によればこの日の終演後楽屋を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。モノラルLP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に祥訳あり。
  26. ^ レコード芸術誌に載った中村政行の報告によると、バイエルン放送のテープはEMI盤でも音質変化の認められる2か所で編集が施されているだけでなく、「断片的であっても放送利用は禁止」という指示が添えられているが、今日では経緯や理由を知る関係者はなく、解明も進んでいない。
  27. ^ 佐野之彦『N響80年全記録』文藝春秋、2007年
  28. ^ 井上道義『第九をうたおう』〈NHK趣味講座〉、日本放送出版協会、1986年、61頁で金子建志が指摘している。ベートーヴェンはトレモロの要求を"tr."と波線、あるいは斜線付きの音符という方法で書き分けている。トライアングルには自筆スコア以降斜線が二本付けられており、分割すると16分音符=ヴァイオリン2音ごとにトライアングルが一音叩く計算になる。
  29. ^ VIII. Die "Ode an die Freude"”. Unser Namenspatron. Freimaurerloge 'Schiller' (unter der Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland). 2013年8月19日閲覧。
  30. ^ Symphonie zum Frieden 平和の交響曲 (PDF)”. 大阪教育大学 亀井研究室. 2013年8月19日閲覧。
  31. ^ 旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は『ある指揮者の提言』で、マーラー版については『マーラーの交響曲』で詳しく紹介されている。長年マーラー自身の書き込みがある楽譜が使われて来たが、近年は校訂版もマーラーが編曲したベートーヴェンの交響曲3,5,7,9番や序曲「レオノーレ」2番、3番のJosef Weinberger版(David Pickett校訂、貸し譜のみ)が利用可能で、2006年クリスチャン・ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の演奏がSACD化された。
  32. ^ 第1楽章81小節に行われた全集版独自の改変などはどの資料にも存在しない音形であるにも関わらず、本格的な原典版が演奏されたときには衝撃をもって迎えられた。同じ改変が最新のハウシルト版でも分析検証の上ではあるが、採用されている。
  33. ^ 有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられたデクレッシェンドの処理なども聴いて判りやすい。
  34. ^ その研究を参考に音楽学者・指揮者の金子建志も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。
  35. ^ この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デルマー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デルマー版の知名度を大いに上げたのはアッバード指揮のベルリン・フィル盤(1996年)やデヴィッド・ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照し新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だが、これらは殆ど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている
  36. ^ 例えば先述の第4楽章330小節について、デルマーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。クルト・マズアらが参照している)に従い、合唱以外の全楽器にデクレッシェンドをつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の朝比奈隆にインタビューした際「噪音の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、またリストワーグナーによるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している。(『レコード芸術』誌2007年10月号、p164-)
  37. ^ ヘンレ社は室内楽・管弦楽曲のパート譜は基本的に供給せず、新ベートーヴェン全集の管弦楽曲はヘンレ社が新全集版を刊行した数年後、校訂報告が付属しない新全集版スコアをパート譜セットと共にブライトコプフ&ヘルテル社が販売するのが通例。同社が2007年までに刊行したハウシルトとブラウンによる新校訂版とは別系統のシリーズとなる。ヘンレ社の告知が2019年初旬に行われた後実際の刊行は同年中には行われず、ブライコプフ社がスコアとパート譜の告知を始めた2020年1月にようやく新全集版本体の価格が発表されるなど、予定は遅れている。
  38. ^ 外部リンク




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