井上ひさし 人物

井上ひさし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 23:55 UTC 版)

人物

作家としての特徴

  • 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」[† 5]を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。
  • 言葉に関する知識が、「国語学者も顔負け」と称されるほど深く、『週刊朝日』において大野晋丸谷才一大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関するエッセイ等も多い。
  • 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名。自ら「遅筆堂」という戯号を用いるほどで、特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は有名。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補塡したという。1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立したが、その後も唯一の座付き作家である井上の遅筆により、公演中止や幕開け初日の延期による公演期間短縮などの騒動も何度か起こしている。
  • あまりの遅筆のため、ふつうは上演前に台本の原稿が仕上がると業者に回して謄写版を切ってもらうのだが井上の場合それが間に合わず、自らガリ版を切ることが多かった[20]。娘の麻矢によると「書き始めると早いのだが、それまでに時間がかかった」とのこと[21]。親交のある永六輔によると「『遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えている』と話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」という。ただし、自ら台本のガリ版を切っていただけあって、井上の原稿は丁寧で大変読みやすいものだった。
  • 戯曲の完成度の高さは現代日本においては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。
  • 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。
  • 井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある[22]
  • 井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』と広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した[23][24]
  • 後年、作家となった井上ひさしは、彼独特のユーモアを交えてこんな言葉を残しています。『浅草フランス座は、ストリップ界の東京大学だった。』[25]

ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって

ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが交際するきっかけとなった。

ひさしの三女である石川麻矢が1998年に自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)によると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っており[26]、子どもに対して暴力をふるったことはなかった。当時は家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している[27]。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした[28]。やがて、筆が進まなくなるなどで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った[27]。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している[27]

ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している[29]。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている[29]

この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1985年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている[30]

離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」[31]と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れている。一方で、好子がひさしに「嚙み付く、ひっかく、飛び道具を使う、嚙んだら離さない」等の暴力を一方的に振るわれていたわけではなかったという矢崎泰久の目撃証言もある[32]

これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起らずに話題としては終息した。小谷野敦も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、ひさしが人気作家であることから、いかに出版社の人間たちがひさしを守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお『激突家族 井上家に生まれて』には、都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。

後妻の井上ユリはひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。

また、西舘好子は2018年2月20日に発行された『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』(幻冬舎)の「第四幕 切っても切れない深い結びつき 家族の晩期」において、「泥沼離婚をしたあと、私たちは真夜中の電話を二十数年間続けていました。(中略)今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない、と思います。冗談を言い合い、ふざけ合っていたときは、単なる仲のいい友人同士でした。」と述べ、また「家族戦争を終えた今は、井上さんの書いた作品が次の世代に読み継がれ、多くの人に笑ったり泣いたりしてもらえることを、私は心より願っています。」と記した。


注釈

  1. ^ 山元護久と共に第1シリーズ実写版『忍者ハットリくん』(1966年)、第2シリーズ実写版『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』(1967年)を手がけた時の共同ペンネーム。
  2. ^ 山元護久と共に『ピュンピュン丸』(1967年、1970年)を手がけた時の共同ペンネーム。
  3. ^ 西舘代志子と結婚していた当時は、西舘の実家である「内山」姓が本名であった。これは結婚に際して、それまでの転居の間に本籍地が遠くなり取り寄せが手間になったことから、好子の実家に婿入りする形にすれば手続きが簡便になるという理由であったと著書『ブラウン監獄の四季』に記している。
  4. ^ しかし、井上の孤児院時代の友人は「彼の輝かしい経歴というのを奥さんは信じているのですか? 僕は彼が東北大学と東京外語大学の受験に失敗して、早稲田大学と慶応大学に合格を果たしたが、学費が払えずやむなく上智大学に入ったという箇所では笑いましたね。おまけに医師を志して東北大と岩手大の医学部(ママ)を志したって言うのですから、あきれて物も言えません。孤児院がどんな所か、大学受験などどうしてできるんですか。有名になれば何を言ってもいいんですね。たまたま学生の少ない上智大学に推薦してもらっただけでしょう」と語り、井上の自称する経歴に多数の虚構が含まれていると主張している。西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.207による。
  5. ^ 「法に則り、比喩を用い、因縁を語るべし」という、永六輔が紹介した仏教説教者の話術の極意を分かりやすく言い換えたもの。
  6. ^ 遠藤征広『遅筆堂文庫物語―小さな町に大きな図書館と劇場ができるまで』(日外教養選書 1998年によれば、1980年1月から翌年12月まで大江健三郎の後を継いで朝日新聞「文芸時評」を担当することになるが、時評のために月に四、五百万も本を購入し、一冊のためにその作家の全集まで読破したという)。

出典

  1. ^ a b “市川の偉大な文化人 井上ひさし氏が死去 20年間在住、文化振興財団の理事長も”. 千葉日報 (千葉日報社): pp. 朝刊 1,15,18. (2010年4月13日) 
  2. ^ 井上綾さん、父の残した仕事を世間に 亡くなって7年…恩返しの思い込めて出版決意zakzak 2017年7月9日
  3. ^ 井上ひさし氏略歴(川西町)
  4. ^ a b c d e 井上ひさし(こまつ座)
  5. ^ a b すばる2011年5月号「座談会 井上ひさしの文学」
  6. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.146
  7. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.206
  8. ^ 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.211
  9. ^ 井上ひさし『本の運命』(文藝春秋、1997年)p.105
  10. ^ 井上ひさし『続家庭口論』、中央公論社
  11. ^ 井上ひさし『ブラウン監獄の四季』、講談社
  12. ^ 井上ひさし『モッキンポット師ふたたび』、講談社文庫(1985年)、巻末の年譜(1984年10月著者自筆)の中に述べられている。
  13. ^ 井上ひさし、中山千夏宇野誠一郎「近い昔の物語 ひょっこりひょうたん島の真実 田中角栄の一言で『ひょっこりひょうたん島』打ち切り!?」『論座』第107号、朝日新聞社、2004年4月、 pp. 102-117。
  14. ^ 「前口上集」は扇田昭彦責任編集『井上ひさし』(白水社2011年に再掲)。
  15. ^ 『井上ひさし全芝居』第4巻、p.514。
  16. ^ 井上ひさしさん逝く 闘病半年…最後まで創作意欲衰えず
  17. ^ “「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去”. 産経新聞. (2010年4月11日). http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110201000-n1.htm 2010年4月11日閲覧。 
  18. ^ “激痛耐え闘病、井上ひさしさん支えた創作意欲 三女語る”. 朝日新聞. (2010年4月15日). http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201004140508.html 2013年9月26日閲覧。 
  19. ^ 石川麻矢 1998, p. 50.
  20. ^ 井上ひさしさんのこと(文壇こぼれ話)
  21. ^ 司馬遼太郎も認めていた「遅筆堂」井上ひさしの伝説(週刊朝日)
  22. ^ 第42回「井上ひさしとクニオ」鈴木邦男の愛国問答)
  23. ^ 中国新聞、2009年7月2日13面
  24. ^ 【天風録】井上ひさしさん - 中国新聞
  25. ^ 「井上ひさし」“ストリップ界の東京大学”から飛び立った天才作家!<第3回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ” (日本語). 月刊浅草ウェブ【毎日10時更新!】伝統と革新の交差点「浅草」の魅力を配信. 2021年6月27日閲覧。
  26. ^ 石川麻矢 1998, p. 45-46
  27. ^ a b c 石川麻矢 1998, p. 76
  28. ^ 石川麻矢 1998, p. 73.
  29. ^ a b 『激突家族 井上家に生まれて』55、77ページ
  30. ^ 石川麻矢 1998, p. 103.
  31. ^ 西舘好子 1998.
  32. ^ 矢崎泰久x永六輔の「ぢぢ放談」、『創』2013年4月号 創出版
  33. ^ 今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん 毎日新聞 2008年2月4日。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られる。
  34. ^ すばる」2000年10月号 座談会「三島由紀夫と安部公房」=『座談会 昭和文学史四』2003年集英社刊にも収録
  35. ^ 井上ひさしのボローニャ日記”. NHK (2020年11月13日). 2021年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月24日閲覧。
  36. ^ 笹沢信『ひさし伝』(新潮社 2012年pp.238)。
  37. ^ 扇田昭彦「『昭和庶民伝』三部作を書き上げた井上ひさしに聞く」『井上ひさし』(白水社 2011年pp.99-111)。
  38. ^ 笹沢信『ひさし伝』(新潮社 2012年pp.421-457)。『初日への手紙: 「東京裁判三部作」のできるまで』。
  39. ^ 川西町立第一中学校”. 山形県川西町. 2011年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月28日閲覧。
  40. ^ 川西町立第二中学校”. 山形県川西町. 2011年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月28日閲覧。
  41. ^ 7/3情報更新しました”. 川西町立川西中学校. 2020年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月28日閲覧。
  42. ^ 井上ひさし文楽を舞台初上演 拝金オヤジが恋したら?”. Yahoo ニュース (2016年7月25日). 2021年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月15日閲覧。
  43. ^ “井上ひさし文楽、初の舞台化…国立文楽劇場で”. 読売新聞. (2016年5月24日). http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160524-OYO1T50009.html 2016年5月25日閲覧。 [リンク切れ]






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