五大湖 歴史

五大湖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 04:22 UTC 版)

歴史

この地域に最も早く訪れたヨーロッパ人はフランス人カルチェである。1608年、セントローレンス川河口のケベックシティサミュエル・ド・シャンプランによって定住植民地が建設されると、シャンプランはここを拠点としてセントローレンス川をさかのぼり、オンタリオ湖とヒューロン湖東岸を自ら探検するとともに、ミシガン湖以外の五大湖のあらましを現地のインディアンから聞き取って明らかにした。このほかにも、スペリオル湖を「発見」したエチエンヌ・ブルレなど数人の探検家や毛皮商人、宣教師によって、1634年には最後のミシガン湖の存在も明らかになり[14]1670年代までには五大湖沿岸はヨーロッパ人にすべて知られるようになっていた。この沿岸を拠点としてフランス人はなおも奥地の探検を進め、1673年にはルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達し、1681年にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピを通ってメキシコ湾にまで到達した。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、五大湖水系とミシシッピ川水系を拠点としてフランスは広大なヌーベルフランス植民地を建設した。しかし、ヌーベルフランスは面的には広い地域だったものの人口は非常に少なく、五大湖周辺にもいくつかの交易の拠点が置かれているのみであり、都市といえるほどの都市は存在していなかった。ただし、フランスが建設した砦のいくつかは現在でも地名として残っており、デトロイトなどのフランス語由来の地名や、シカゴの読み方(英語読みならチカゴになる[15])などにその名残を残している。

フランスは五大湖水系およびミシシッピ川水系全域の領有権を主張しており、北アメリカ大陸内陸部に広大な植民地を築くことで、北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となっていた。このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けたが、結局最後の戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年パリ条約でフランスは五大湖地域全域をイギリスへと割譲することとなった。その後、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年9月3日パリ条約によって五大湖の南岸地区は新しく独立したアメリカ合衆国へと割譲された。一方、五大湖北岸のカナダはイギリス領にとどまり、以後ミシガン湖を除く4つの湖はアメリカとカナダの国境線をなすこととなった。

アメリカ合衆国独立時において、13植民地の領域は五大湖に到達していなかった。これは五大湖地域がイギリスに割譲された際、1763年宣言によってアパラチア山脈以西の植民が禁止されていたからである。しかしすでに独立戦争時から、いくつかの植民地は五大湖地域への領土要求を本格化させ、植民地間で領土要求が重複する地域も存在した。この状況を調整するため連邦政府による調停が行われ、結果オンタリオ湖南岸とエリー湖東端はニューヨーク州に、エリー湖南東部はペンシルベニア州に属することとなり、残りの五大湖沿岸地域は1787年7月13日連合会議で可決された北西部条例によって、北西部領土として連邦政府の管轄下に入ることとなった。ただし、エリー湖南岸に関してはコネチカット州コネチカット西部保留地として領有権を保持し、1800年にこれを放棄するまでコネチカット州の統治が続いた。この北西部領土の地域には開拓者が東部から押し寄せるようになり、五大湖沿岸地域は1803年のオハイオ州を皮切りに次々と州へ昇格していった。インディアナ州が1816年、イリノイ州が1818年、ミシガン州が1837年、ウィスコンシン州が1848年、そして最後のミネソタ州が1858年に州に昇格し、五大湖沿岸のアメリカ領部分はこれですべて州に組織されることとなった。一方北岸のカナダにおいては、1791年に植民地が改組され、五大湖沿岸地域はアッパー・カナダ植民地となった。植民地の首都は当初ニューアーク(現在のナイアガラ・オン・ザ・レイク)におかれていたが、1796年にヨーク(現在のトロント)へと移された。その後、1841年にいったんローワー・カナダと統合されてカナダ植民地となったのち、1867年に再度この地域は分離されてオンタリオ州が成立した。

1817年には五大湖初の蒸気船であるオンタリオ号がオンタリオ湖において就航した[16]が、五大湖地域の開発を大きく進めることとなったのは、1825年エリー運河の開通である。これにより、エリー湖からハドソン川を通ってニューヨーク港にいたる航路が開通し、輸送に著しい改善がなされた。エリー湖からデトロイト川、セントクレア湖、セントクレア川、そしてヒューロン湖からミシガン湖にかけては高低差が少なく船舶がそのまま通航できたため、この時点でシカゴまで至る長大な水路が利用可能となった。同年セントローレンス川の急流であるラシーヌ瀬にラシーヌ運河が建設され、さらに1829年にはウェランド運河が開通し、ナイアガラの滝を避けてエリー湖とオンタリオ湖の間の通航ができるようになった。ただしウェランド運河は問題が多く、何度かルートが変更された。2015年現在使用されているウェランド運河は、1932年に建設された4代目のものである[17]。1848年には五大湖の南端にあたるシカゴからミシシッピ川の支流であるイリノイ川を通ってセントルイスにいたるイリノイ・ミシガン運河が完成し、五大湖水系とミシシッピ川水系が結びついたことによって北アメリカ大陸を東から南へ抜ける大水路が完成し、沿岸地域の発展はこれによってさらに弾みがついた。両水系の結節点となったシカゴは農産物の集散地や交通の要所として発展し、急速に大都市へと成長していった。1855年にはスーセントメリー運河が完成し、五大湖水路はさらにスペリオル湖にまで延長された。こうした輸送の改善を受け、19世紀後半より特にエリー湖・オンタリオ湖・ミシガン湖畔の工業化が急速に進んだ。

セントローレンス川の水路は船舶は通航できたものの大型船舶が通行できるようなものではなく、外洋船が通行できるように改修することが長年叫ばれていたが、実際に一部の外洋船がここを通って五大湖に通行できるようになったのは、現在使用されているセントローレンス海路が建設された1959年になってからだった。このセントローレンス海路の開通により、エリー運河は重要性を減じた。


注釈

  1. ^ 厳密には“湖峡”であるが、: straits にあたる日本訳語が“海峡”以外にない。
  2. ^ 現在発見されている隕石孔としては南アフリカフレデフォード隕石孔に次ぐ世界第2位の大きさがある。衝突により五大湖に匹敵する大きさのクレーター湖が出現したと考えられるが、痕跡はいまでは地下構造のみが残る。このときの隕石を起源とするニッケル鉱床が形成された。

出典

  1. ^ National Geophysical Data Center, 1999. Bathymetry of Lake Erie and Lake Saint Clair. National Geophysical Data Center, NOAA. doi:10.7289/V5KS6PHK [access date: 2015-03-23].
  2. ^ National Geophysical Data Center, 1999. Bathymetry of Lake Huron. National Geophysical Data Center, NOAA. doi:10.7289/V5G15XS5 [access date: 2015-03-23].
  3. ^ National Geophysical Data Center, 1996. Bathymetry of Lake Michigan. National Geophysical Data Center, NOAA. doi:10.7289/V5B85627 [access date: 2015-03-23].
  4. ^ National Geophysical Data Center, 1999. Bathymetry of Lake Ontario. National Geophysical Data Center, NOAA. doi:10.7289/V56H4FBH [access date: 2015-03-23].
  5. ^ National Geophysical Data Center, 1999. Bathymetry of Lake Superior. National Geophysical Data Center, NOAA. [access date: 2015-03-23]
  6. ^ National Geophysical Data Center, 1999. Global Land One-kilometer Base Elevation (GLOBE) v.1. Hastings, D. and P.K. Dunbar. National Geophysical Data Center, NOAA. doi:10.7289/V52R3PMS [access date: 2015-03-16].
  7. ^ 「ベラン世界地理体系18 カナダ」p143 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2009年7月15日初版第1刷
  8. ^ 「ベラン世界地理体系17 アメリカ」p108 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2008年6月30日初版第1刷
  9. ^ 「世界地誌シリーズ4 アメリカ」p17 矢ヶ崎典隆編 2011年4月25日初版第1刷 朝倉書店
  10. ^ 「舟運都市 水辺からの都市再生」p31 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行
  11. ^ 「舟運都市 水辺からの都市再生」p27 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行
  12. ^ 「世界地誌シリーズ4 アメリカ」p29 矢ヶ崎典隆編 2011年4月25日初版第1刷 朝倉書店
  13. ^ 「世界地誌シリーズ4 アメリカ」p46 矢ヶ崎典隆編 2011年4月25日初版第1刷 朝倉書店
  14. ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p111 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行
  15. ^ 「アリステア・クックのアメリカ史(上)」p82 アリステア・クック著 鈴木健次・櫻井元雄訳 NHKブックス 1994年12月25日第1刷発行
  16. ^ 「商業史」p197 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  17. ^ 「舟運都市 水辺からの都市再生」p36 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行
  18. ^ 倉田亮 『世界の湖と水環境』p67 成山堂書店、2001年、ISBN 4-425-85041-6






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