中西太 経歴

中西太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 10:21 UTC 版)

経歴

プロ入り前

幼少期は野菜行商をしていた母の手で育てられる。小学6年生だった1945年7月4日、住んでいた高松で高松空襲に遭う。一度は防空壕に逃げ込んだが、周りの大人たちに招かれるように防空壕を出て、間もなくして自分が避難していた防空壕は爆撃された。本人も「あのまま防空壕にいたら命は無かったから、運が良かった」と語っている[12]1946年、旧制高松一中に入学(高松一中は1948年に学制改革により高松一高となる)。高松一高時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた[13]。中西が打撃練習を始めると、打球が速すぎて危険なため内野手は外野に移動していたという[14]。甲子園には三塁手として3度出場。1949年春の選抜は準々決勝に進むが、小倉北高のエース福嶋一雄に完封負けを喫する。同年夏の選手権は、準決勝で佐々木信也高橋)のいた湘南高に延長10回にサヨナラ負けする。

1951年夏の選手権は準決勝に進むが、優勝校となる平安高清水宏員毎日)、上市明(大映)のバッテリーに抑えられ3-4で惜敗。この大会では岡山東高秋山登大洋)らから2試合連続でランニングホームラン、計6打点を記録した[15]。同年の広島国体では準々決勝(初戦)で都島工と対戦、延長21回の熱戦の末に0-1でサヨナラ負けした。高校の2年上に山下健阪急)、1年上に玉木春雄(西鉄)、同期には松岡雅俊東映)、1年下には荒井健近鉄)、松井清(西鉄)と後にプロ入りするチームメイトが揃っていた。

国体出場後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷・香川の先輩で早大OBでもある西鉄ライオンズ三原脩監督と出会った[15]

三原は貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業したら入団するように約束をさせた。しかし毎日オリオンズ若林忠志監督が毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押しした。最終的には「郷里の先輩を信じるのが一番良い」という母親の決断により、西鉄入りが決まった。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた[16][17]

現役時代

1952年に西鉄へ正式入団すると、開幕から七番打者、三塁手に抜擢され活躍。プロ初本塁打はランニングホームランであった(高校時代に甲子園で記録した本塁打も2本ともランニングホームランである)。同年は打率.281(17位)、12本塁打で新人王を獲得。

1953年には7月から四番打者に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)[18]を史上最年少で達成[19]。同年から6年連続でベストナインに選出される。また、36本塁打は2021年現在も2019年村上宗隆と並び高卒2年以内の選手の最多本塁打記録であり、86打点も同年の村上が抜くまで高卒2年目以内の選手の最多記録だった[20]。その後も1958年まで毎年の様に三冠王に近い成績を残し、1956年パシフィック・リーグMVPを受賞。1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王を獲得。1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、1954年は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。他にも、1955年は17敬遠でパ・リーグの初代最多敬遠となり、翌年も山内和弘と並ぶ17敬遠を記録した[注 2]

大下弘豊田泰光関口清治高倉照幸河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでも25打数8安打3打点と活躍。稲尾和久が入団した1956年からは水原茂監督率いる巨人を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女・敏子のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1956年の巨人との日本シリーズでは第2戦に安原達佳、第4戦に中尾碩志から本塁打を放つ。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。

1957年日本シリーズは21打数5安打無打点とあまり活躍の場はなかったが、1958年の日本シリーズは第5戦から3試合連続本塁打を放ち本領を発揮した。

1958年は打率.314と23本塁打で二冠王に輝くも、打点王の葛城隆雄大毎)に1打点差で届かず、三冠王を逃す。なおこの時の打率.314は、1953年の岡本伊三美近鉄)の.314を下回り、2リーグ分裂後パ・リーグの首位打者としては最低打率記録で、1976年に西鉄の後進・太平洋クラブの吉岡悟が.309で首位打者となるまて最低打率だった[注 3]

1958年までは常にタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、1959年の6月3日の近鉄戦(平和台)で鈴木武に利き手をスパイクされて6針縫う負傷[21]。さらに1960年には左手首に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、常時出場は困難になる。

1961年には回復が見られ、主に一塁手として78試合に先発出場、打率.304、21本塁打を記録。しかしベストナインには9試合のみ起用された三塁手として選出された。

1962年からは西鉄の選手兼任監督に就任。再び怪我が悪化し開幕から欠場、28試合の先発にとどまる。同年オフには豊田が国鉄スワローズに移籍した。

1963年は開幕から一塁手として出場。チームも好調を維持し、トニー・ロイジム・バーマジョージ・ウィルソンら「三銃士」が活躍。若生忠男畑隆幸田中勉安部和春井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げる。最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める[注 4]同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。

1964年からは代打での出場が主になる。チームは稲尾を故障で欠いたため、5位へ転落。同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。実はこの時、若林退団の真の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向からその事実は本人にも伏せられ、真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は中西が見舞いに来るたびに、「自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい」と語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は1965年、58歳で死去した。

1965年はルーキーの池永正明が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。

1966年は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、大館勲夫の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している[22]

1967年宮寺勝利を正捕手に据えたため、和田博実を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。

1968年は「猛打西鉄」復活を狙って、高木喬広野功を獲得。東田正義竹之内雅史の台頭もあったが、5位に終わる。

1969年は宮寺に代わって村上公康が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続で5位となる。広野が20本塁打、村上が14本塁打を放った。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。

中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年、西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。

引退後

引退後に1年だけTBS解説者(1970年)を務めた後、ヤクルト1971年 - 1973年ヘッドコーチ, 1983年 - 1984年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、日本ハム1974年 - 1975年監督)、阪神1979年 - 1980年一軍打撃コーチ, 1980年 - 1981年監督)、近鉄1985年 - 1988年一軍打撃コーチ, 1989年 - 1990年ヘッドコーチ)、巨人(1992年一軍打撃総合コーチ)、ロッテ1994年ヘッドコーチ)、オリックス1995年 - 1997年ヘッドコーチ)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、九州朝日放送1976年 - 1978年)・毎日放送1982年, 1991年)解説者、日刊スポーツ評論家(1977年 - 1978年, 1982年 , 1991年, 1993年)を務めた。

ヤクルトコーチ1期目にはプロ入り前から若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた。後に若松が野球殿堂入りを果たした時は「自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもお褒めの言葉を授かり、非常に嬉しかった」と述べている[23]。2期目には八重樫幸雄と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した[24]。1984年4月には武上四郎辞任に伴い監督代行を務めるも、体調不良と成績不振のため18試合で辞任。

日本ハムでは初代監督に就任するも2年連続最下位で解任され[25]、代表取締役社長兼球団代表の三原は、初回に走者が出た場面でバントのサインを多用していた中西の采配を見て、監督の器ではないと思ったという[26]。また、張本勲は一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していた中西の采配について、選手も戦う気になれなかったと振り返っている[27]

阪神時代はドン・ブレイザーの辞任に伴い、監督へ昇格したが、5位に終わる。1981年は3位になるも同年退任し、在任中はコーチ時代から折り合いの悪かった江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言され[28]、確執が修復不能なほど悪化して引退に追い込んでしまう[29]。ただし、引退後しばらくしてからは、会えば会話をし、肩を組んで写真を撮ることもある関係に回復している[30][31]。一方で、掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を横溝桂打撃コーチと共に築き上げた。掛布から師と仰がれ「中西さんは選手のいい所をどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」。球を呼び込んで打つよう大きなジェスチャーで求める中西に、掛布は「バットを大きく引いて打つイメージが、より鮮明になった」と振り返る[32]

近鉄コーチ時代は盟友の仰木彬監督とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と1996年の日本一に貢献。特に近鉄コーチ時代は10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木とのコンビで、球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。伊東勤はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、中西について、教えるのが好きな人だったと振り返っている[33]新井宏昌は「打撃の師。中西さんの教えで初の首位打者。打者に会ったスタイルを見つける中西さんの教えを受けたことは、その後指導者人生にもプラスになった。」[34][35]と述べている。1989年近鉄優勝の立役者となったラルフ・ブライアントは、1988年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現[36]。その後はマンツーマンの練習を行い成功に繋げ[37]、後に日本での成功の秘訣を訊かれたブライアントは、中西の口癖である「シンボウ」(辛抱)と答えている[38]。なお、西鉄時代は中西の参謀役を、まだ現役選手だった仰木が務めていた。

ロッテ時代はシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。

オリックス退団後も様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めたが、1999年にはヤクルト監督を務めていた若松の依頼により、バッティングアドバイザーに就任。同年には野球殿堂入りを果たし、2001年まで務めた。在任中は宮本慎也を指導し[39]、当時の宮本は守備の人であったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている[40]。並行して2000年からは4度目の日刊スポーツ評論家となり、2002年からは評論活動に専念。

1997年[41]甲状腺がんを患ったが克服し、経過は良好であり、2007年2月にはメジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板[42]。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどだった。

自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ[43][42]、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。2007年10月には現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松に寄贈し、2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されていたが、2012年3月11日限りで建物が閉館となった。その後は市民文化センターの後継施設として2016年11月23日にオープンした高松市こども未来館(たかまつミライエ)1階の「市民交流ゾーン」に「怪童中西太コーナー」が改めて設置されている[44][45]

2008年第90回全国高等学校野球選手権記念大会開会式前に「甲子園レジェンズ」の一人として登場。

2019年4月2日

2017年に学生野球の指導資格を回復[46]2018年3月には高倉照幸前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任[47]。同年夏には第100回全国高等学校野球選手権記念大会香川県大会[48]と本大会(大会14日目)[49]で始球式を行った。2019年4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、メットライフドームにてパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式に招聘された。

2023年5月11日、心不全のため死去[4][2]。90歳没。同年シーズンオフの11月3日に高松市内でお別れの会の開催が予定されている[50]。墓所は世田谷区実相寺。


注釈

  1. ^ 「高松讃紫会」は高松商業高等学校高松第一高等学校高松高等学校の野球部OB連合会[5]
  2. ^ パ・リーグ記録としては1959年に豊田泰光が更新
  3. ^ なおその後、2012年角中勝也ロッテ)が.312、2023年頓宮裕真オリックス)が.307といずれも中西の.314を下回る記録で首位打者となっている。
  4. ^ これが西鉄最後の優勝となった。2017年現在、最大ゲーム差の逆転優勝である

出典

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