中日ドラゴンズ
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球団の歴史
戦前
横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日した1934年、読売新聞社が大日本東京野球倶楽部(1936年に東京巨人軍に改称)を日本のプロ野球球団として結成したのを契機として、読売新聞社の社長であった正力松太郎が新愛知新聞社編集主幹の田中斉に名古屋を本拠とするプロ野球球団結成の働きかけを行った。新愛知と傘下の國民新聞では当初、正力が推し進めていた日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)とは別個に、独自リーグの大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を4球団結成し、配下には3A相当の下部組織を作る当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫し、日本職業野球連盟へ合流することになった。新愛知が設立した名古屋軍の商号が株式会社大日本野球連盟名古屋協会、國民新聞が設立した大東京軍の商号が株式会社大日本野球連盟東京協会と、いずれも大日本野球連盟構想の名残が見られる。
新愛知の球団設立準備段階では名古屋城の雅称から取った金城軍(きんじょうぐん)を仮の名称としていたが[2]、新愛知の競合紙であった名古屋新聞が対抗して名古屋金鯱軍を発足させたため、新愛知側の球団は金鯱軍との混同を避けるために名古屋軍(なごやぐん)とされた。球団の発足は1936年1月15日で、会長には新愛知の社外から弁護士・元名古屋市会議員の大野正直が迎えられたが[3]、実質的なオーナーは副会長で新愛知支配人の大島一郎が務め、運営業務を取り仕切ったのは専務に就いた田中であった[注釈 2]。名古屋軍は大日本野球連盟構想の頓挫を受け、大東京軍と共に2月5日付で結成された日本職業野球連盟へ合流する。発足当初の陣容は河野安通志を総監督(ゼネラルマネージャー)に迎え、池田豊が監督に就任。明治大学の中根之、アメリカ人で捕手のバッキー・ハリス、内野の名手・芳賀直一、日系アメリカ人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂ら。
1937年に河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根やハリス、高橋らが後を追い、池田も混乱を嫌って監督を辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことでチームは低迷し、慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など、好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総合力は東京巨人軍や大阪タイガースに及ばなかった。
1942年、戦時下の新聞統廃合令によって親会社の新愛知新聞社と地元でライバル関係にあった金鯱軍の親会社・名古屋新聞社が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少したのに加え、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社の初代社長に就いた大島一郎が自己資金を投じて1943年のシーズンを終えることはできたものの、大島個人の財力には限界があった。そのため、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れて選手を転籍させる。この措置に伴い、球団名を産業軍(さんぎょうぐん)に改称、理研工業副社長の松根宗一が新オーナーとなり、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った[4]。産業軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一[注釈 3]をはじめ、戦禍に散った。
戦後
終戦後の1945年11月には大島一郎が球団スポンサーに再度就任したが、本業での戦争協力への責任を理由に中部日本新聞社長を退いたため、新愛知時代からの大島の部下で後任の社長に起用された杉山虎之助が新しくオーナーとなる。1946年2月1日のリーグ戦再開に伴い、中部日本新聞社が経営に正式復帰する。子会社としての「株式会社中部日本野球倶楽部」設立登記に伴い、球団名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発を図り、球団愛称は中部とした。同年、現役遊撃手の杉浦清が監督に就任し、球団史上初の選手兼任監督となっている。
1947年の開幕前に日本野球連盟で各球団にニックネーム導入の申し合わせが行われたが、杉山が1904年(明治37年)の辰年生まれだったことから龍の英訳"dragon"を採用し、中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称した。この年のシーズンは服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせて戦後すぐの球団を支え、2位に終わる。しかし、オフの11月1日付で解雇された赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手も退団し、藤本英雄も巨人に復帰。またしてもチーム力が低下。退団した赤嶺一派は各球団を渡り歩き、赤嶺旋風と言われる混乱を巻き起こした。
1948年には球団名を中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に改称したが、同年は球団史上ワーストタイ記録となる83敗を記録し[5]、最下位に低迷した。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより球団初の本拠地として使い始めた。
1949年は天知俊一が監督に就任し、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日に復帰。シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、中日はセ・リーグに所属することになる。
5月25日、大リーグに倣い、球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併され、商号が名古屋野球株式会社となった。この年は球団史上最多となるシーズン89勝を記録したが[5]、セ・リーグ最多となる98勝を挙げた松竹ロビンスに及ばず、8球団中2位に終わる。
この年、西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、セ・リーグは7球団体制になる。1月25日、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。2月6日より名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に参加し、球団名も名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改称。名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。8月19日に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。この年は、優勝した巨人に18ゲーム差をつけられての2位。
中日新聞社が経営し、顧問で名古屋新聞創業家の小山龍三がオーナーとなる。巨人・大阪との優勝争いの末、7ゲーム差で3位に終わる。6月3日の大洋ホエールズ戦(門司)で山崎善平が1試合6盗塁の日本記録を樹立。
名古屋鉄道が経営し、大洋と松竹ロビンスが合併し、セ・リーグは6球団体制となる。このシーズンは3位に終わる。中日スタヂアムのナイター設備が完成し、6月25日の広島カープ戦で初ナイターを開催。
第1次天知監督時代
前年12月19日に今後は中日新聞が球団経営を行うと決定していたのを受け、1月14日に株式会社中部日本野球協会に商号を変更して、球団名も中日ドラゴンズに戻した。1月30日には、名古屋鉄道が球団経営から撤退した。
監督は天知俊一が3年ぶりに復帰した。天知監督は選手からの人望が篤く、監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。西沢道夫・杉山悟・杉下茂・石川克彦らが主力となり、活躍した。7月25日、大阪球場での対阪神戦は観客が球場に乱入し、放棄試合が宣告された。8月31日、中日球場の巨人戦はNHKがテレビで初の中継をした。10月19日に2位の巨人が敗れたことで、初優勝達成。その日は東京遠征の移動日であり、監督・選手らは横浜駅到着後、電報で優勝を知ることとなった。同年の勝率.683は2022年時点で球団最高記録である[5]。日本シリーズでは西鉄ライオンズを相手に4勝3敗で初の日本一達成。しかし、オフに天知は体調不良を理由に監督を退任[注釈 4]し、中日球団の副代表に就任した。なお中日は、この年を最後にリーグ優勝をした上で出場した日本シリーズには全て敗退しており、2007年にクライマックスシリーズを制覇し、年間勝率2位から日本一になる(下剋上優勝)まで53年の月日を要した[注釈 5]。
野口監督時代
選手兼任監督として、野口明が就任したが、優勝した巨人と15ゲーム差の2位。
優勝した巨人と8ゲーム差の3位。西沢道夫、児玉利一、原田督三ら打線の中心となるベテラン勢の衰えが目立ち、チーム打率は2割2分8厘、本塁打は52本と、大矢根博臣と中山俊丈が20勝をマークした投手陣の足を引っ張る形となった。
第2次天知監督時代
1954年に日本一に導いた天知俊一が監督に復帰したものの、3位が続いた。1958年オフ、この年の選抜高校野球大会において83奪三振で奪三振の大会記録を作った板東英二が入団。
第1次杉下監督時代
エース杉下茂が監督に就任。球団の方針により30歳以上の選手が全員解雇となり、杉下も選手兼任が認められなかった。同時に西沢道夫の15番と服部受弘の10番が永久欠番に制定される。伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える[注釈 6]。伊奈努、児玉泰、大矢根博臣ら若くて威勢のいい投手陣に、野手は捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した[6]。この年は優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位[注釈 7]。
2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。投手陣が崩れ[6]、優勝した大洋と9ゲーム差の5位。杉下監督は退任し、大毎に移籍した。
濃人監督時代
前任の小山に引き続き名古屋新聞出身の与良ヱがオーナーとなる。濃人渉が監督に就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが2位。
日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが、3位。
第2次杉浦監督時代
杉浦清が再び監督就任。優勝した巨人と2.5ゲーム差の2位。全球団に勝ち越しながら優勝を逃したのはセ・リーグ初の出来事。
開幕カードとなった大洋との3連戦で30失点したのが響き、3月の9試合を2勝7敗と開幕ダッシュに失敗。以降も立ち直れず、1948年以来2度目となる球団ワーストタイ記録の83敗を記録し[5]、2リーグ分立後初の最下位に終わる。なお、同シーズン途中からは西沢道夫が監督を務めた。
西沢監督時代
西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢が監督を途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが、2週間ほどで復帰)。
第2次杉下監督時代
キャンプイン直前に西沢監督が十二指腸潰瘍の悪化で辞任、杉下茂が監督に復帰。4月20日から5月1日まで9連勝するが翌日から8連敗を喫するなどチーム状態が安定せず。5月16日、ノースリーブユニフォームが登場した阪神タイガース戦で連敗が止まるが、5月29日から11連敗。6月12日に止まったものの、翌日から連敗。3回目の7連敗となった6月24日に杉下監督が解任。本多逸郎二軍コーチが監督代行となるものの8月24日から再び11連敗を喫するなど立ち直る気配が見られず、2リーグ分立以降初めて同一リーグの全球団に負け越しての最下位となる。オフに元・巨人、東映フライヤーズ監督の水原茂が監督に就任。ドラフトでは1位で星野仙一、3位で大島康徳、6位で竹田和史、9位で島谷金二と後に1974年の優勝に主力として活躍する選手を指名。
水原監督時代
1969年から元巨人の水原茂が監督就任するが、4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし、水原監督下で育った選手が1972年から大きく開花し、1974年の優勝につながっていく。
与那嶺監督時代
中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず、経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったため、たちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て、1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され、1996年まで本拠地運営した。
1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。与那嶺監督、近藤貞雄ヘッドコーチともに巨人から中日に放出された経験があるため、巨人に対しては闘志をむき出しにし、2年連続で勝ち越してV9巨人を苦しめた。
高木守道、トーマス・マーチン、谷沢健一、星野仙一、松本幸行らが活躍し、巨人のV10を阻止して20年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした。しかし、日本シリーズではロッテオリオンズに2勝4敗で敗退。
巨人(同年は球団史上唯一の最下位に沈んだ)以外の5球団が入れ替り立ち替りで首位に立つ「5強1弱」のペナントレースで広島と最後まで優勝を争ったものの、「赤ヘル旋風」の前に2位に終わり、連覇を逃す[7]。
後楽園球場の人工芝に全く馴染めず、後楽園球場での対巨人戦に全敗したのが響き、Bクラスに沈み、4位に終わった[注釈 8]。シーズン終了後、近藤貞雄ヘッドコーチが辞任。
阪急ブレーブスとの大型トレードが歴史的な失敗に終わり(放出した島谷が打率.278→.325、稲葉光雄が3勝→17勝、獲得した森本潔が出場120試合→49試合、戸田善紀が12勝→6勝)、何とか5割3位は確保したものの、与那嶺監督はこの年限りで退団する。
中監督時代
中利夫が監督になる。高木が2000本安打を達成するも、その直後に相手選手と衝突して離脱、谷沢がアキレス腱痛で長期離脱し、大島も死球で左手小指を骨折するなど主力野手に怪我人が続出した。初年度は5位。
大島が打率.317、36本塁打、103打点と活躍し、高木も打率3割を打ち、投手陣も2年目の小松辰雄がリリーフに定着、3位とAクラス入りを果たす。アキレス腱痛で長期離脱していた谷沢がシーズン終盤に復帰。藤沢公也が新人王に輝く。
谷沢が打率.369を記録し、カムバック賞を受賞するも、前年度新人王に輝いた藤沢が大不振に陥るなど、投打共に振るわず、球団ワーストとなる開幕6連敗を記録するなど12年ぶりの最下位に沈んだ。この年は1950年以降で球団史上最低勝率(.372)を記録し[5]、中監督は同年限りで辞任。高木が現役を引退した。
近藤監督時代
近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わる。
星野、木俣達彦らベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二ら若手を起用した。他の野手では大島康徳、田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると、巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムで大洋との最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝を達成。2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。最終成績は64勝47敗19分け(130試合)だが、全試合の半分に満たない勝利数で優勝したのは1975年の阪急に次いで2チーム目である[注釈 9]。また、この試合で田尾が大洋から5打席連続敬遠を受け、首位打者を逃した。中尾孝義がMVPを獲得した[8]。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。星野、木俣が現役を引退した。
戦力不足からチームは5位に終わる。オフに近藤貞雄が監督を退任。
山内監督時代
山内一弘が監督に就任。巨人戦に14連勝するなどして優勝した広島と3.0ゲーム差の2位となった。
球団創設半世紀となったこの年は谷沢が球団史上2人目の通算2000本安打を達成したものの、5位に終わった。
阪神が日本シリーズで西武を下したことにより、2リーグ制になってから初の日本一を達成したため、中日はセ・リーグの中で「リーグ優勝した上での日本一に、最も遠ざかっている球団」となった[注釈 10]。
2年連続5位。山内はシーズン途中で解任[9]。開幕から監督を務めていた山内のシーズン途中での解任を受け、ヘッドコーチの高木守道がシーズン終了まで監督を代行した。オフに星野仙一が監督に就任。享栄高校から近藤真一がドラフト1位で入団。ロッテから上川誠二、桑田茂、牛島和彦、平沼定晴との4対1トレードで2年連続三冠王の落合博満を獲得[注釈 11]。
第1次星野監督時代
ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームを開幕からドジャース風に変更。闘争心を露わにする星野監督の姿勢で度々の乱闘劇も見られた。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に最終的に2位。広島には1977年以来10年ぶりに勝ち越した。新人の近藤真一が8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。若手では仁村徹、彦野利勝、中村武志がレギュラーで台頭。PL学園から立浪和義がドラフト1位で入団。オフに日本ハムファイターズから大島康徳、曽田康二との2対2トレードで大宮龍男、田中富生、西武から平野謙とのトレードで小野和幸、巨人を自由契約となった仁村薫を獲得。
4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。しかし、翌日から巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率.769で10月7日に逆転で1982年以来6年ぶり4度目の優勝。生え抜き監督での優勝は球団史上初。西武から平野とのトレードで移籍した小野が最多勝で、小松と共に先発陣を牽引。米国留学から途中帰国した山本昌広が5勝無敗。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVP。立浪が新人王に輝いた。日本シリーズでは西武と対戦、第1戦・第5戦先発した小野を筆頭に第2戦の小松以外の先発投手が打ち込まれ、落合、この年から二塁手に転向した宇野の不振もあり[10]、1勝4敗と敗退[注釈 12]。3年間活躍したゲーリー・レーシッチが退団。また、6月に二軍にいたラルフ・ブライアントを近鉄に放出したが、彼は近鉄での伝説的な猛打によりパ・リーグを代表する選手となった。オフに巨人から中尾孝義との1対2トレードで西本聖、加茂川重治、広島から本村信吾、片平哲也とのトレードで斉藤浩行、片岡光宏を獲得。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、中日は「昭和最後のセ・リーグ優勝球団」となった。
野手では立浪が故障で離脱。投手陣は前年最多勝・小野の不振と小松も故障ながら郭は12試合連続セーブポイントの日本記録タイ。8月12日にはこの年20勝の斎藤雅樹から9回1死まで無安打のところで反撃し、落合のサヨナラ本塁打で勝つなど、優勝した巨人に1984年以来5年ぶりの勝ち越しで3位。落合は打点王、巨人から中尾との1対2トレードで加茂川と共に移籍した西本聖は20勝で最多勝、新人の大豊泰昭はレギュラー定着。NTT東京から与田剛がドラフト1位で入団。オフに大洋から加茂川重治、片岡光宏との計2対2トレードで木田勇、北野勝則、日本ハムから小松崎善久、藤王康晴との2対2トレードで田中幸雄、早川和夫を獲得。
投手陣は苦しみながらも、新人の与田剛が開幕から奮投し、31セーブで最優秀救援と新人王。打撃は復活した立浪と新加入のバンス・ローが3割をマークし、落合が本塁打、打点王を獲得するがチームはBクラスと4位に沈む。巨人戦では頭部付近への投球を巡って、両軍による乱闘に発展して星野監督もエキサイトする場面があった。木田勇、田中幸雄が現役を引退した。オフに日本ハムファイターズから斉藤浩行とのトレードで小松崎善久が2年ぶりに復帰。
前半戦は首位で折り返すも、後半は失速し、優勝した広島と3ゲーム差の2位に終わる。ドラフト5位の新人森田幸一が開幕から活躍して50試合を投げて10勝、17セーブで新人王。落合は最後まで首位打者争いをするも、ヤクルトスワローズの古田敦也に敗れて打点王のみ。オフに小松崎善久が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。星野仙一は健康上の理由で監督を退任し、後任に高木守道が監督に就任。
第1次高木監督時代
この年のセ・リーグはまれに見る混戦だったが、成績は60勝70敗で1980年以来12年ぶりの最下位。この年、中日を扱ったアメリカ映画『ミスター・ベースボール(Mr.Baseball)』(トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)が公開されている。オフに西本聖が自由契約となった(オリックスに移籍)。ロッテから宇野勝、長嶋清幸との2対2トレードで今野隆裕、横田真之を獲得。
山本昌広と今中慎二のダブル左腕エースが共に17勝で最多勝、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルも獲得。しかし、前半戦で2位以下に大差をつけて独走したヤクルトが優勝、2位に終わる。早川和夫が現役を引退した。オフに落合博満が巨人にFA移籍。
中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる高木守道の後任として星野仙一の名が報じられ、この時点で高木守道も監督の辞意を仄めかしていたが、9月20日からの9連勝などで首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合は3対6で敗戦し、2年連続2位に終わった。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率のタイトルを獲得。球団の引き留めに応じて、高木守道も契約延長となった。オフに近鉄からFA宣言した金村義明を獲得(中日では初のFA入団)。
前年から一転、不振に陥り、6月2日の対阪神戦の試合前に高木守道が監督を辞任[注釈 13]。その後、徳武定祐が監督代行となるも、7月23日に解任され、二軍監督の島野育夫が監督代々行となった。こうして監督人事が迷走したことも響き、5位に終わり[注釈 14]、9月20日に星野仙一の2度目の監督就任が発表された。パウエルが2年連続首位打者に輝いた。オフにロッテから無償トレードで愛甲猛、仁村、酒井忠晴、山本保司との3対3トレードで樋口一紀、前田幸長、平沼定晴(10年ぶりに復帰)、西武から前原博之、清水雅治との2対2トレードで山野和明、村田勝喜、新外国人として宣銅烈[11]を獲得。
第2次星野監督時代

韓国の至宝といわれた宣が抑えとして期待されるも、日本の野球に馴染めず、不振に終わった。一方、8月11日の対巨人戦で野口茂樹がノーヒットノーランを達成[13]。この年は長嶋巨人による「メークドラマ」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。10月6日、ナゴヤ球場での最後の公式戦を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフという状況で、3試合目に2対5で敗戦で2位に終わったが、阪神には5年ぶりに勝ち越した。この年は本塁打王になった山﨑武司、3年連続で首位打者になったパウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜打線”の愛称も一層の定着を見せた。オフに新外国人として金銭トレードでレオ・ゴメスを獲得。

狭いナゴヤ球場から一転して広くなったナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、前年の強竜打線も沈黙し、チーム防御率は11位と低迷し、1992年以来5年ぶりの最下位に終わる。不振に終わった主軸の中で、新外国人のゴメスが打率.315、31本塁打と唯一気を吐き、前年不振だった宣が38セーブを挙げ、山本昌が3年ぶり3度目の最多勝を獲得した。ドラフトでは川上憲伸を1位、井端弘和を5位指名した。オフに守備力と機動力を確保するため、パウエルが解雇され(阪神に移籍)、新外国人として李鍾範、サムソン・リー、阪神から大豊泰昭、矢野輝弘との2対2トレードで関川浩一、久慈照嘉、ロッテから小島弘務、樋口一紀との2対2トレードで岸川登俊、南渕時高を獲得。平沼定晴が西武に移籍。
宮田征典を投手コーチに招聘した[14]。前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦からは独走していた横浜をハイペースで追走し、8月27日に1ゲーム差に迫った。しかし、終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。北野勝則が現役を引退した。野口が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向した落合英二が最優秀中継ぎ投手、ルーキー川上憲伸が新人王を獲得し、チーム防御率12球団1位となった。ドラフトでは福留孝介を1位、岩瀬仁紀を2位指名した。オフにダイエーからFA宣言した武田一浩を獲得。
開幕から11連勝。投手陣は野口や山本昌、川上憲伸や武田の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン、落合英二らと共に不動のセットアッパーとなる。抑えの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。一方、6月にダイエーから鳥越裕介とのトレードで河野亮を獲得。巨人との優勝争いの最中、この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝し、9月30日の神宮球場での対ヤクルト戦で、11年ぶり5度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ダイエーとの日本シリーズでは中日圧倒的有利とされていたが[15]、レギュラーシーズンで前年ほど活躍できなかった川上憲伸が第2戦で勝利するものの、野口は2戦2敗、関川が21打数2安打、福留が3戦から5戦まで3試合連続失策、井上一樹は13打数0安打に終わり、1勝4敗で敗退。オフに宣が現役を引退し、サムソンが退団した(ボストン・レッドソックスに移籍)。オリックスから岸川登俊、河野亮との2対1トレードで鈴木平を獲得。南渕時高がオリックスに移籍。
メルビン・バンチが開幕して間もない4月7日の横浜戦でノーヒットノーランを達成[13]、またシーズンを通じて14勝で最多勝のタイトルを獲得した。序盤は投手陣の不調、また5番レフトとして期待されたディンゴの不振で出遅れたものの、5月には10連勝を記録。しかし、投打ともに前年の面影はなく、特に対巨人戦は対戦成績で9勝18敗。9月24日の東京ドームでの対巨人最終戦では4対0でリードの最終回に抑えのエディ・ギャラードが江藤智に同点満塁本塁打、二岡智宏にサヨナラ本塁打で4-5で敗戦、巨人の優勝が決定し、2位に終わった。オフにゴメスが退団した。新外国人としてティム・アンロー、オジー・ティモンズ、ヤクルトからFA宣言した川崎憲次郎、広島から鶴田泰とのトレードで紀藤真琴を獲得。阪神を退団した大豊が4年ぶりに復帰。
開幕直後の4月に横浜から種田仁、山田洋士との2対1トレードで波留敏夫を獲得。4月に原田政彦が金銭トレードで日本ハムに移籍。4月21日に前年オフに退団したゴメスが復帰。5月に益田大介が金銭トレードで近鉄に移籍。5月に李鍾範(起亜タイガースに復帰)、8月2日にアンローが退団した。不調が響き、1997年以来4年ぶりのBクラスと1995年以来6年ぶりの5位が確定した。オフに星野仙一は健康上の理由で監督を退任し[注釈 15]、後任にヘッド兼投手コーチの山田久志が監督に就任。中日OB以外から選ばれる監督としては山内一弘以来となる。前田幸長が巨人にFA移籍。ティモンズが退団し、武田、鈴木が自由契約となった(前者は巨人、後者はダイエーに移籍)。新外国人としてスコット・ブレット、巨人にFA移籍した前田の人的補償として平松一宏、横浜からFA宣言した谷繁元信を獲得。中村武志が金銭トレードで横浜に移籍。
山田監督時代
6月にキューバの至宝と呼ばれたオマール・リナレス、新外国人としてマーチン・バルガスを獲得。8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成[13]。チームは対巨人戦9連敗が響き、3位に終わった。福留が松井秀喜の三冠王を阻み、首位打者に輝いた。オフに大豊、ゴメス、バンチが現役を引退し、久慈照嘉が自由契約で退団し(阪神に移籍)、ブレットが解雇された。ロッテから波留とのトレードで酒井忠晴(8年ぶりに復帰)、阪神を解雇されたマーク・バルデス、新外国人としてイバン・クルーズ、オリックスから山﨑武司とのトレードで平井正史を獲得。鈴木郁洋が金銭トレードで近鉄に移籍。
1度は入団契約を交わしながらも、突如翻意(ケビン・ミラー問題)し、ボストン・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。3月20日に金銭トレードで近鉄を自由契約となった大塚晶文を獲得。巨人との開幕カードを勝ち越し、その後も好調で開幕後約1ヶ月は首位を走っていたが、5月以降は失速し、阪神の独走を許す。チーム最多勝は平井正史(12勝)で、川上憲伸[注釈 16]、朝倉健太と前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけである。7月5日の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が球団史上3人目の通算2000本安打達成。一方、7月22日に首脳陣との確執を起こしたギャラードが退団した(同月28日にウェイバー公示で横浜に移籍)。打線は4番打者が流動的で固定できず、5位に低迷していた9月9日に監督の山田が休養(事実上の解任)し、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行となった。9月10日にクルーズが退団した。
佐々木の監督代行就任後は14勝5敗1分と好成績を残したが、最終的には優勝した阪神に勝ち越しながらも、14.5ゲーム差の2位に終わった。
オフに落合博満が監督に就任。巨人を退団した川相昌弘、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマン、広島を解雇された筒井正也を獲得。
落合監督時代
広島との開幕戦はFA移籍から3年間一軍登板がなかった川崎憲次郎が先発。2回途中5失点で降板する[17]も、その後チームは逆転勝ち。開幕3連勝するなど、4月を勝率5割で終えるが、5月11日には2000年以来4年ぶりに最下位に転落[18]。しかし、中旬以降は立ち直り、26日には首位に浮上[19]。6月は巨人と首位争いとなり、20日から7連勝で首位に立つと以降は首位を譲ることなく、安定した戦いぶりを見せ、10月1日にマジック対象の3位のヤクルトが敗れた事で、1999年以来5年ぶりのリーグ優勝を達成。巨人とヤクルトには負け越したものの、他球団には大きく勝ち越した。アライバコンビが本領を発揮し、チーム防御率3.86と12球団トップ[注釈 17]の投手陣[20][21]とリーグ初となる同一チームから6人のゴールデン・グラブ賞受賞となったリーグ記録の45失策という堅い守備力でリーグ最少の本塁打とリーグ5位のチーム打率と得点をカバーした。日本シリーズでは西武と対戦、2度の逆転負けもあり、3勝4敗で敗退。ドラフトでは中田賢一を始め、即戦力となりうる新人を獲得した。オフにリナレスが戦力外通告を受け、その後現役を引退し、バルガスが自由契約となった。横浜からタイロン・ウッズ、ロッテから山北茂利とのトレードで清水将海を獲得。
球団史上初の開幕から2試合連続のサヨナラ勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられ[22]、一時は交流戦最下位にまで低迷した上に首位を走っていたリーグでも3位にまで転落したことから、「降竜戦」と揶揄された[23]。特にそのシーズンからパ・リーグへ新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスには初の3連戦(ナゴヤドーム、5月24日 - 26日)で3連敗を喫し、同球団にとっては球団史上初となる3連勝を献上したほか[24]、セ・パ11球団で唯一負け越す結果となった[22]。交流戦での低迷により、首位を阪神に明け渡す。オールスター前後の11連勝など、後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの、連覇はならず、最終的には優勝した阪神と10ゲーム差の2位に終わった。岩瀬が佐々木主浩の日本記録を塗り替えるシーズン46セーブを挙げた。オフに大西崇之が金銭トレードで巨人に移籍。野口が巨人にFA移籍。日本ハムを自由契約となった上田佳範、巨人にFA移籍した野口の人的補償として小田幸平、元横浜のデニー・友利を獲得。
投手陣と堅守、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で6月半ばから首位を独走。一方、6月20日に日本ハムから金銭トレードで奈良原浩を獲得。8月12日の阪神戦(ナゴヤドーム)に勝ち、球団史上最速でマジックナンバー(M40)を点灯させた[25]。9月16日の対阪神戦では山本昌が史上最年長でのノーヒットノーランを達成[26]。シーズン終盤には阪神の猛追に遭うものの、1度も首位を明け渡すことなく、10月10日に2004年以来2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての「完全優勝」だった。川上憲伸が最多勝、最多奪三振、岩瀬が最多セーブ、福留孝介が首位打者とMVP、ウッズが本塁打王と打点王のタイトルを獲得するなど、個の力が際立ったシーズンでもあった。しかし、北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズではシリーズ全試合1番・2番を張ったアライバコンビが38打数5安打(1番・荒木が18打数2安打、2番・井端が20打数3安打)と絶不調。本塁打王と打点王のタイトルを獲得したはずのウッズが本塁打も打点も全く稼げず、1勝4敗で敗退した。10月26日に札幌ドームで行われた第5戦を最後に川相、オフに奈良原浩が現役を引退し、アレックスが自由契約となった(広島に移籍)。新外国人として李炳圭、ジョー・バレンタイン、サンティアゴ・ラミレス、フランクリン・グラセスキーを獲得したと同時にエンリケ・ラミレス、ラファエル・クルス、オリックスを自由契約となった中村紀洋と育成契約を結んだ。
翌年からクライマックスシリーズが導入されたため、中日は「リーグ優勝 = 日本シリーズ進出を経験した最後のセ・リーグ優勝球団」となった[注釈 18]。

3月22日に中村紀洋を支配下選手に昇格させた。前年MVPだった福留孝介が怪我もあって、シーズン中に戦線離脱するものの、前年レギュラーに定着した森野将彦がその穴を埋めるように打撃面でさらなる成長を見せた。一方、6月8日にバレンタインが解雇された(ロングアイランド・ダックスに移籍)ため、27日にクルスを支配下選手に昇格させた。しかし、8月17日にグラセスキーがウェイバー公示された(ニューアーク・ベアーズに移籍)。投手陣では川上憲伸、朝倉、中田を中心としたローテーション投手が活躍した常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、勝負どころでの取りこぼしが響き、最終的には2位に終わる。セ・リーグでは初のプレーオフとなるクライマックスシリーズでは第1ステージでは3位の阪神と対戦し、2連勝、第2ステージではレギュラーシーズン1位の巨人と対戦し、3連勝。計5連勝で球団史上初となる2年連続の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは2年連続で日本ハムと対戦し、第5戦で山井大介と岩瀬の継投による完全試合[注釈 19]もあり、4勝1敗で日本ハムに前年の雪辱を果たし、1954年以来53年ぶり2度目の日本一を達成した[27]。アジアシリーズでは初戦の韓国代表SKワイバーンズに敗れ、予選2位で決勝戦に進むが、予選1位のSKワイバーンズに勝って優勝し、日本勢として3年連続のアジア王者となった。オフに渡邉博幸、デニーが戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退し、E・ラミレスとS・ラミレスの両外国人選手が自由契約となった(S・ラミレスはモンテレイ・サルタンズ、E・ラミレスは2009年にヌエボラレド・オウルズに移籍)。福留孝介がシカゴ・カブスにFA移籍。西武からFA宣言した和田一浩、新外国人としてトマス・デラロサ、マキシモ・ネルソンを獲得。FA入団した和田の人的補償として岡本真也が西武に移籍。
落合は「レギュラーの野手(荒木、井端、和田、ウッズ、森野、中村紀、李炳圭、谷繁)は決まっている」と宣言した。就任当初は一軍と二軍の枠を撤廃してまでチーム内の競争を煽った事を考えれば、方針を大きく転換したが、5月14日の東京ヤクルト戦で森野が左脹脛肉離れを起こしたのをはじめ、6月には李炳圭と井端、8月の北京オリンピックでは森野と荒木、レギュラーが次々と離脱した。平田良介以外に、それを補うべき若手も現れず、535得点と111併殺打はセ・リーグワースト、チームの得点圏打率とチーム打率(共に2割5分3厘)は12球団ワーストだった。しかし、6月16日に横浜から石井裕也とのトレードで小池正晃を獲得。また、投手面も前年活躍を見せた中田(14勝)は怪我と不振、朝倉(12勝)は7月に右腕の血行障害を発症、川上(12勝)は北京オリンピック参加での離脱およびその後も調整に時間がかかった事も重なって、3人合計で19勝どまり。山井も怪我で2試合の登板に終わった。7月11日にクルスがウェイバー公示された。吉見一起が先発・中継ぎフル回転し、後半戦は2年目の清水昭信が完投するなど、若手でカバーしたが、先発ローテーションが1年間固まらず、チーム史上初の規定投球回到達者なしに終わった(最も多く投げたのは山本昌の133回と3分の2)。また、中継ぎの勝ちパターンも、1年間固まらず、当初の構想から修正を余儀なくされ、新セットアッパーを予定していた鈴木義広が開幕から8試合投げただけで右肘を疲労骨折してシーズン絶望となったのを皮切りに、ベテランの平井正史が37試合で防御率5.14と不振に陥った。54試合登板の高橋聡文と44試合に登板した2年目の浅尾拓也でカバーしたが、投手陣で固まったのがクローザーの岩瀬仁紀だけだった。事実5人以上投手を起用した試合は前年は30勝16敗1分けだったのが、16勝22敗5分けと投手陣を多く起用すればする程苦しい展開だったが、3位となり、クライマックスシリーズの出場権は確保した。9月27日にナゴヤドームで行われた引退試合を最後に上田佳範が現役を引退した。クライマックスシリーズ第1ステージは阪神との接戦を2勝1敗で制したものの、第2ステージでは拙攻と投手陣の不調(特に救援陣)もあり、巨人に1勝3敗1引分けで敗退、3年連続日本シリーズ進出はならなかった。8月4日、山本昌が史上最年長となる42歳11カ月で通算200勝を達成した[28]。オフに浪人していた河原純一が入団テストに合格。ウッズが自由契約となった。日本ハムを自由契約となった小山桂司、新外国人としてトニ・ブランコ、ネルソン・パヤノを獲得。中村紀洋が楽天、川上憲伸がアトランタ・ブレーブスにFA移籍。
ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の候補にドラゴンズから4選手が選ばれたが、全員が辞退したことが話題となった。序盤は下位に低迷したが、交流戦辺りから追い上げを見せ、一時は首位巨人とのゲーム差を1.5まで縮めた。しかし、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが最後まで響き、最終的には首位巨人に12ゲーム差をつけられ、2位に終わった。3位のヤクルトとのクライマックスシリーズ第1ステージは初戦を落とした後に連勝し、2勝1敗で制したが、巨人と対戦した第2ステージは初戦に勝利した後、3連敗で1勝4敗で敗退。新外国人のブランコが本塁打王と打点王の二冠に輝く活躍を見せ、前年不振だった立浪も代打で好成績を残して勝利に貢献した。川上の移籍に伴い、生じた先発投手陣の穴もそれぞれ16勝で最多勝と防御率1.51で最優秀防御率のタイトルを獲得した吉見やチェン・ウェインの活躍によって埋まり、また川井雄太が球団新記録の開幕11連勝を達成した。立浪、井上一樹、デラロサが現役を引退した。オフに李炳圭がウェイバー公示され、中里篤史、パヤノが自由契約となった(中里は巨人、パヤノはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)。新外国人としてエドワード・バルデス、ディオニス・セサルを獲得したと同時にフォアキン・サンタマリア、カンディド・ヘススと育成契約を結んだ。
6月25日にソフトバンクから清水将海とのトレードで三瀬幸司を獲得。8月9日にサンタマリアが自由契約となった。
チーム打率(.259)、チーム得点(539得点)が12球団中11位だった[29][30]ものの、チーム防御率3.29、チームセーブ43、チームホールド113、チームホールドポイント135はいずれも12球団最高だった[31][32]。特に山井、中田、チェンが先発した7月16日 - 18日にそれぞれ完封勝利を成し遂げる[33][34][35]と、同月19日は先発岩田が7回2/3まで無失点で抑えた後、浅尾-高橋が救援しての完封[36]、20日はネルソン-清水-高橋-浅尾-河原-岩瀬-平井がシャットアウトした結果の延長11回サヨナラ勝ち[37]と5試合連続完封勝利のプロ野球新記録を樹立(翌年、日本ハムも同じく5試合連続完封勝利のタイ記録を達成)するほどだった。また、ホームゲームでは53勝18敗1分けと圧倒的な強さを見せた[38]。巨人戦[注釈 20]はナゴヤドームでは9連勝を含む10勝2敗(クライマックスシリーズでは3勝1敗)、対阪神戦も10勝2敗と大きく勝ち越している一方で、ロードゲームでは26勝44敗2分けと差が激しかったが、セ・リーグ5球団で負け越したのはヤクルト[注釈 21]だけだった[38]。
1年を通してみると、序盤には先発投手陣の不調およびネルソンが逮捕されたことによる調整不足、野手では主力の井端がシーズン中盤から故障による長期離脱などがあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられたが、浅尾や高橋ら中継ぎ投手陣の活躍、和田や森野らがチームを牽引する一方で、井端に代わってレギュラーに定着した堂上直倫ら若手の台頭などもあり、後半戦から追い上げを見せた。優勝マジックを1とした10月1日、チームは試合がなかったものの、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから、2006年以来4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。なお、この年はJリーグ・名古屋グランパスもJ1リーグ初制覇を果たしており、プロ野球・Jリーグの双方で名古屋市に本拠地を置くチームが優勝に沸くことになった。自己最多の37本塁打を放った和田一浩がMVPに輝いた。クライマックスシリーズでは3位の巨人と第2ステージを戦い、4勝1敗で2007年以来3年ぶりに日本シリーズ出場を決めた。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第6戦(延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末に引き分け、16残塁は日本シリーズ史上最多)、第7戦で2試合連続の延長戦となるなど、接戦を演じたが、21試合連続ホールドポイントを達成、最終的には日本新記録となるシーズン47ホールド、59ホールドポイントを記録し、大車輪の活躍だった浅尾が名古屋に戻った第6戦、第7戦で打たれたのが祟り、2勝4敗1分で敗退した。オフに横浜を自由契約となった佐伯貴弘、新外国人としてジョエル・グスマン、フェリックス・カラスコ、エンジェルベルト・ソトを獲得。
交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど、好調であったが、高橋聡文、中田、山本昌、ブランコ、谷繁、井端ら主力選手の故障が相次いだことに加え、統一球の影響などで前年MVPの和田を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。8月3日には首位ヤクルトに10ゲーム差が付き、10日には借金6で5位にまで転落したが、リーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したソトの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると、谷繁、ブランコ、井端の復帰や大島洋平、平田良介ら若手の成長もあり、徐々に首位ヤクルトとの差を縮めていく。その最中、任期満了による落合博満のシーズン限りでの監督退任と高木守道の2度目の監督就任が9月22日[39]、コーチ11人の退団が10月6日に発表された[40]。前後して9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝ち越し、10月6日に首位に浮上。10月18日の対横浜戦でブランコの同点本塁打で引き分けに持ち込み、142試合目にして球団史上初の2年連続セ・リーグ優勝を達成し、1982年以来29年ぶりに横浜スタジアムでの胴上げを実現した。チーム打率(.228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初である。セットアッパーとして0.41という防御率を記録した浅尾拓也がセ・リーグMVPを獲得した。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージは4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。9月28日にヘススとカラスコの両外国人選手との契約を解除し、11月1日にグスマンがウェイバー公示された(シンシナティ・レッズに移籍)。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは第6戦までお互いの本拠地で敗戦する展開(外弁慶シリーズ)となったが、ダイエー時代に続いて名古屋で3戦全敗したことが祟ったのと、キャッチャーの谷繁がヤクルトとのセ・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ第1戦の第1打席から43打席連続無安打と極度の不振で足を引っ張り、ヤフードームでの第7戦に敗れ、3勝4敗で敗退した。2010年もロッテに敗れているので、史上6チーム目[注釈 22]の同一チームによる2年連続日本シリーズ敗退となった。また、1974年から続いている「リーグ優勝した上で出場した日本シリーズの連敗記録」を2年連続で更新し、2022年現在で9回優勝し、8連敗中である。オフにチェン、河原、佐伯が自由契約となった(チェンはボルチモア・オリオールズ、河原は愛媛マンダリンパイレーツに移籍、佐伯は浪人)。楽天を自由契約となった山﨑武司が10年ぶり、アトランタ・ブレーブスを自由契約となった川上憲伸が4年ぶりに復帰。小池正晃がFAでDeNAに復帰。小山桂司が金銭トレードで楽天に移籍。新外国人としてビクトル・ディアス、ホルヘ・ソーサを獲得。
第2次高木監督時代
開幕戦の広島戦に勝利し、引き分けを挟んで5連勝で、5月8日に首位に立つと、途中1日を除いて6月30日まで首位だった。交流戦ではセ・リーグでは巨人に次いで2位で、6月を5割の成績とすると、7月1日には巨人に抜かれて2位となる。その後は巨人に離される展開で8月末には6.5ゲームとなり、最終的には巨人と10.5ゲーム差の2位に終わった。小笠原孝、英智が現役を引退した。クライマックスシリーズのファーストステージでは2勝1敗でヤクルトに勝利したものの、続く巨人とのファイナルステージでは3連勝の後、3連敗で敗退した。シーズン途中、主砲のブランコやエースの吉見一起が故障で離脱するなど、共に規定打席、投球回に達せず、クライマックスシリーズでは吉見を欠いたのが響いた。ナゴヤドームでは途中球団新記録の14連勝など貯金20としたが、ビジターでは負け越し、特に対巨人・対ヤクルトとの関東での試合は開幕から15連敗となった。オフに久本祐一、平井正史、ネルソンら外国人選手4人が自由契約となった(久本は広島、平井はオリックス、ネルソン以外の外国人選手3人はDeNAに移籍)。新外国人としてブラッドリー・バーゲセン、エクトル・ルナ、ダニエル・カブレラ、マット・クラークを獲得。岩﨑達郎が金銭トレードで楽天に移籍。
開幕直後の3月30日にディアスが自由契約となった(4月1日にウェイバー公示でブリッジポート・ブルーフィッシュに移籍)。4月終了時点で5位のDeNAに0.5ゲーム差の最下位。しかし、5月以降はヤクルトがビジターにおいて1勝10敗1分と負け越したため、シーズン初の最下位脱出を果たす。一方、6月14日に新外国人としてワーナー・マドリガルを獲得。その後、山井が6月28日の対DeNA戦(横浜)でノーヒットノーランを達成した[42]。だが、チームの調子が上がることなく、9月3日にブラッドリーがウェイバー公示され、25日の対広島戦(ナゴヤドーム)に0対2で敗れ、球団史上初めてクライマックスシリーズ出場を逃し[43]、最終的には2001年以来12年ぶりのBクラスと1990年以来23年ぶりの4位が確定し[44]、前年のDeNAに続いてセ・リーグ5球団に負け越した[45]。10月5日にナゴヤドームで行われた引退試合を最後に山﨑武司が現役を引退した。オフに高木は2年契約の満了で監督を退任し[46]、後任に谷繁元信が選手兼任監督として就任[47]。選手兼任監督は2006年から2007年のヤクルトの古田敦也以来、中日としては1955年の野口明以来3人目となる。前監督の落合博満が球団初のゼネラルマネージャー、中日新聞社常務の佐々木崇夫が球団社長に就任[47]。井端(巨人に移籍[48])、クラークとマドリガルの両外国人選手が自由契約となった。ロッテを自由契約となった工藤隆人、巨人からFA宣言した小笠原道大[49]を獲得。パヤノが5年ぶりに復帰し、新外国人としてアンダーソン・エルナンデス、アレクシス・ゴメスを獲得したと同時にレアンドロ・メジャと育成契約を結んだ。中田賢一がソフトバンクにFA移籍[50]。
谷繁監督時代
選手兼任監督の谷繁は「守りの野球」を掲げ、守備力の向上が見られた[51]ものの、序盤は低調だった。一方、5月2日に西武から金銭トレードで武山真吾を獲得。交流戦では一時首位に立つ一方で、7月29日にオリックスから岩﨑恭平とのトレードで三ツ俣大樹を獲得。7月終了時点で首位巨人と5ゲーム差の貯金2であったが[51]、8月6日の対広島戦で和田一浩と岩瀬仁紀の両名が離脱する[51]と、打撃陣が軒並み不振に陥り、投手陣もQSを達成した試合が8試合に留まるなど[51]、球団ワースト記録の月間20敗を記録[52][53]。9月2日にゴメスとの契約を解除した。山本昌が9月5日の対阪神戦(ナゴヤドーム)に先発として登板し、5回無失点で勝利投手となり、浜崎真二の持つNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)とNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)などの最年長記録を更新したが[注釈 23][54]、20日の対阪神戦(甲子園)、23日の対巨人戦(ナゴヤドーム)に敗れ、1986年以来28年ぶりの2年連続負け越しおよびBクラスと4位が確定した[55]。三瀬幸司、小林正人、鈴木義広が現役を引退した。オフにパヤノとカブレラの両外国人選手が自由契約となった。ソフトバンクを自由契約となった亀澤恭平と支配下契約を結び、オリックスを自由契約となった八木智哉、新外国人としてラウル・バルデス、アマウリ・リーバス、リカルド・ナニータを獲得。
チームは1980年以来35年ぶりの開幕3連敗を喫した。4月にヤクルトと首位争いを繰り広げるも、5月に入ると、徐々に後退し、Bクラスに転落した。6月9日の対ロッテ戦に7-6で勝利して球団通算5000勝を達成、巨人・阪神に次いで3球団目となった[56]。和田が6月11日の対ロッテ戦で史上45人目となる通算2000本安打を達成した[57]。交流戦は7勝10敗1分で2013年以来2年ぶりの負け越しとなり[58]、総合順位は10位に終わった。交流戦終了後、連敗が嵩み、6月末時点で借金9の最下位に沈んだ。7月に入ってからも、なかなか浮上のきっかけをつかめず、前半戦は1995年以来20年ぶりの最下位に終わるも、首位のDeNAとは4ゲーム差だった[59]。一方、7月13日に新外国人としてラファエル・ペレス、ドリュー・ネイラーを獲得。しかし、翌14日にメジャとの契約を解除した。8月26日、DeNAに代わり、5位に浮上[60]。しかし、直後に最下位に逆戻りとなり、8月30日の対巨人戦に敗れ、巨人に対し、2リーグ制後球団史上ワーストとなる5年連続負け越しが決まり、9月2日の対DeNA戦に5対6で敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出が消滅し[61]、3年連続Bクラスと2001年以来14年ぶりの5位が確定し、94失策は12球団ワースト、内野陣は53失策を記録した[62]。朝倉健太、小笠原道大、和田一浩、選手兼任監督の谷繁元信、現役最年長投手で中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った当時50歳の山本昌[63]が現役を引退し、川上憲伸が退団した。なお、同年には現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持った日本ハムのバッテリーコーチ兼捕手の中嶋聡が現役を引退したため、昭和時代にドラフトされた選手が全員引退した。ドラフトではこの年の夏の甲子園胴上げ投手である小笠原慎之介を1位指名し、日本ハムとの競合の末に交渉権を獲得した。オフに高橋聡文が阪神にFA移籍。リーバスが解雇され、山内壮馬、ルナとペレスの両外国人選手が自由契約となった(山内は楽天、ルナは広島に移籍)。ソフトバンクから金銭トレードで大場翔太、新外国人としてジョーダン・ノルベルト、フアン・ハイメ、ダヤン・ビシエドを獲得。DeNAを自由契約となった多村仁志と育成契約を結んだ。
球団創設80周年を迎えた[64]。創立80周年記念CMが制作され、OBである和田が出演[65]。
序盤はビシエドの活躍でAクラスに食い込んでいたが、抑えの福谷浩司が安定せず、二軍落ちするなど、救援陣が固定できない一方で、6月5日に新外国人としてレイソン・セプティモを獲得。7月1日~3日の対阪神3連戦で勝ち越し、その後14日に近藤弘基を支配下選手に登録させるも、9カード連続勝ち越しなし(この間7勝18敗)[66]と極度の低迷を受け、8月9日に監督専任となった谷繁と守備コーチの佐伯が休養(事実上の途中解任)し、併せてヘッドコーチの森繁和が監督代行として指揮を執ることを発表した[67]。
森監督時代
※2016年の監督代行時代も含める。
- 2016年
8月19日~21日の対DeNA3連戦で勝ち越すまで12カード連続勝ち越しなし(この間9勝25敗)[68]と一気に低迷した。雄太、岩田慎司が現役を引退した。9月25日の阪神戦に敗れ、1997年以来19年ぶりの最下位が確定した。9月27日の巨人戦に敗れ、1964年以来52年ぶりの81敗を喫した[69]。2ケタ勝利を挙げた投手、規定投球回に到達した投手は共になしで、同球団にとっては2リーグ制以降初の記録となった[70]。打撃陣はチーム得点500、本塁打89本はリーグ最下位、チーム打率.245は5位と低迷した[71]。監督代行の森が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した[72]。ドラフトでは明治大学の柳裕也を1位指名し、DeNAとの競合の末に交渉権を獲得した[73]。オフに呉屋開斗、大場翔太、多村仁志が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退し、濱田達郎が戦力外として育成契約を結び、ナニータ、ネイラー、セプティモら外国人選手5人が自由契約となった(エルナンデスはラグナ・ユニオン・カウボーイズ、ハイメはサルティーヨ・サラペメーカーズに移籍)。岸本淳希、三ツ間卓也を支配下選手に登録させた。新外国人としてアレックス・ゲレーロ[74]、エルビス・アラウホ、ホルヘ・ロンドンを獲得。楽天を自由契約となった岩﨑達郎(5年ぶりに復帰)、新外国人としてキューバから派遣したライデル・マルティネスとレオナルド・ウルヘエスの両名と育成契約を結んだ。GMの落合博満が契約満了となる翌年1月限りでの退団を発表した[75]。
3月19日に川上憲伸が現役を引退した。開幕から1分けを挟み、5連敗のスタートとなり[76]、引分数の違いで何度か最下位争いのヤクルトを抜き、5位に上がったものの、その後も最下位に低迷。開幕から20試合目でようやく先発投手(バルデス)に勝ちが付いた[注釈 24][77]。6月3日のナゴヤドームでの対楽天戦で荒木雅博が史上48人目、球団生え抜きとしては立浪和義以来史上4人目の通算2000本安打達成[78]。7月10日に岩﨑達郎を支配下選手に復帰させた。投手陣の不調を受け、NPBのトレード期限当日の7月31日に日本ハムから金銭トレードで谷元圭介を獲得[79]。8月6日の巨人戦で岩瀬がプロ野球最多記録となる950試合登板を達成[80]。しかし、9月4日に友利結一軍投手コーチがチーム防御率リーグ5位の4.11と低迷したことの責任を取り、コーチ登録を外れた[81]。9月9日の広島戦の敗戦で今季36度目の逆転負けを喫し、2リーグ分立後の球団ワースト記録を更新する5年連続負け越しが決まった[82]。9月24日にナゴヤドームで行われた引退試合を最後に森野将彦が現役を引退した。投手陣の不振や主力に怪我人が続出した影響で、最終的には59勝79敗5分と2年連続で60勝に届かず、5年連続Bクラスと2015年以来2年ぶりの5位が確定した[83]。京田陽太がリーグの新人選手としては歴代2位のシーズン149安打を達成するなど活躍し、新人王を獲得した[84]。オフに岩﨑達郎、武藤祐太、岸本淳希、ウルヘエスら外国人選手5人が自由契約となった(武藤はDeNA、ジョーダンはヤクルト、アラウホはボルチモア・オリオールズ、バルデスはサルティーヨ・サラペメーカーズ、ロンドンは福島レッドホープスに移籍)。来日1年目で本塁打王を獲得するも、残留交渉が決裂したゲレーロが巨人に移籍[85]。日本ハムからFA宣言した大野奨太[86]、新外国人としてソイロ・アルモンテ、スティーブン・モヤ、オネルキ・ガルシア、ディロン・ジーを獲得。前ソフトバンクの松坂大輔が入団テストに合格[87]。新外国人としてキューバから派遣したアリエル・マルティネスと育成契約を結んだ。
マツダスタジアムでの開幕3連戦は1938年以来80年ぶりに全試合逆転負けでの3連敗を喫し[88]、出足から躓いた。松坂大輔が4月5日の巨人戦で2006年以来12年ぶりに日本で先発登板を果たす[89]。その最中、4月19日にR.マルティネスを支配下選手に昇格させた。その後、松坂大輔が4月30日のDeNA戦で2006年9月19日のソフトバンク戦以来12年ぶり、日数にして4241日ぶりにNPBで勝利投手となった[90]。一方、7月19日に小川龍也が金銭トレードで西武に移籍。また、7月25日に新外国人としてジョエリー・ロドリゲスを獲得。8月16日のDeNA戦で平田良介が史上68人目、73度目のサイクルヒットを達成した[91]。森監督時代で初となる勝率5割や3位も経験したが、9月12日の阪神戦に敗れ、優勝の可能性が消滅した[92]。9月28日に岩瀬仁紀がプロ野球史上初となる1000試合登板を達成した[注釈 25][93]が、6年連続Bクラスと2年連続5位が確定した[94]。チーム打率は前年リーグ5位の2割4分7厘から同2位の2割6分5厘と改善し、個人成績でもビシエドが首位打者と最多安打を獲得したほか、平田とアルモンテが打率5傑に入るなど、打撃陣の奮闘が目立った。一方、投手陣は柱として期待された大野雄大、田島慎二、又吉克樹などがいずれも不振で、チーム防御率4.36は12球団最下位と課題を残した。浅尾、野本圭、荒木、岩瀬、谷哲也、工藤が現役を引退した。荒木の引退により、ナゴヤ球場時代に在籍した選手が全員引退した。オフに森は監督を退任し、シニアディレクターとして球団に残り[95]、後任に球団OBの与田剛が就任[96]。ドラフトでは大きな注目を集めた根尾昂(大阪桐蔭)を1位指名し、4球団との競合の末に交渉権を獲得した[97]。ジーが自由契約となった。来日1年目でチーム最多の13勝を挙げるも、残留交渉が決裂したガルシアが阪神に移籍[98]。ゲレーロに続き、2年連続で主力選手の同一リーグへの移籍を許した。渡辺勝を支配下選手に登録させた。新外国人としてエンニー・ロメロを獲得、その後サンディ・ブリトーと育成契約を結んだ。
この年は平成最後のペナントレースだったので、中日はセ・リーグ全球団の中で広島、阪神と共に「平成時代に1度もリーグ優勝した上での日本一になれなかった球団」となった[注釈 26]。
与田監督時代
春季キャンプで松坂大輔が右肩を故障、藤嶋健人が血行障害、根尾昂が肉離れを起こすなど、怪我人が相次いだ。3・4月は首位争いをするなど、善戦していたが、アルモンテ、笠原祥太郎、平田良介、福田永将ら主力選手が怪我や不調などで相次いで離脱してから一転、借金9になるなど、苦戦が続いた。5月は高橋周平が猛打賞を8回達成し、史上12人目となる月間猛打賞記録を達成した[99]。交流戦では柳裕也が3戦3勝で防御率1.17を記録し、日本生命賞を受賞した[100]。一方、6月30日にオリックスから松井雅人、松井佑介との2対2トレードで松葉貴大、武田健吾を獲得[101]。モヤが金銭トレードでオリックスに移籍[101]。7月に8連勝し、2位タイまで追い上げたが[102]、その後好調の高橋、アルモンテが相次いで負傷離脱したこともあり、大幅に失速。9月に入ると、上位球団相手に善戦し、自力でのCS出場の可能性も残っている中、大野雄大が同月14日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーランを達成した[103]ことで、ナゴヤドームでは山本昌以来2人目の快挙となった。その後、9月24日の対DeNA戦(ナゴヤドーム)に敗れ、7年連続Bクラス[104]と3年連続5位[105]が確定した。この年の失策は45で2004年に並ぶ最少タイ、守備率の9割9分2厘はセ・リーグ新記録となった[106]。大野雄大が自身初のタイトルとなる最優秀防御率[107]、大島洋平が自身初の打撃タイトルとなる最多安打[108]を獲得した。ドラフトでは高校No.1野手とも名高い地元愛知出身の石川昂弥(東邦)を1位指名し、3球団との競合の末に交渉権を獲得した[109]。根尾に続き、2年連続で地元の高校生選手の複数球団との競合の末の1位指名での交渉権獲得に成功した。オフに武山真吾、近藤弘基が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退し、松坂大輔が退団し(西武に復帰)、丸山泰資が戦力外として育成契約を結んだ。最優秀中継ぎ賞を受賞するも、契約交渉を打ち切ったロドリゲスがテキサス・レンジャーズに移籍[110]。これで3年連続での主力選手の流出となった。濱田達郎を支配下選手に復帰させ、新外国人としてモイセ・シエラと育成契約を結び、またルイス・ゴンサレスを獲得、さらにキューバから派遣したヤリエル・ロドリゲスと育成契約を結んだ。
2月7日、世界的な新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)の流行を受け、26日には3月2日に名古屋市内で予定していた球団OBで元監督の高木守道(1月17日逝去)のお別れの会、2月29日のナゴヤドーム(対広島東洋カープ戦)、3月4日の岐阜長良川球場(対埼玉西武ライオンズ戦)で施行予定だった追悼試合(両試合ともオープン戦として施行)を延期することを発表した。また、3月9日にNPBより20日にプロ野球が開幕になっていたが、延期を発表。3月20日から22日までナゴヤ球場で行われていたウエスタン・リーグの練習試合に参加していた阪神タイガースの伊藤隼太が新型コロナウイルスに感染していたことを受けて聞き取り調査した結果、中日の選手など15人が伊藤と接触していたことが28日に明らかになった。29日には選手2人を4月5日まで自宅待機とし、12人の選手・スタッフについては時間をずらして練習、仕事を行わせると発表した。
2月28日に李鍾範を研修コーチに招聘した。3月26日にシエラを支配下選手に昇格させた。6月19日に延期となっていた公式戦を無観客で神宮球場で開幕。1993年以来27年ぶりに開幕18安打という記録を残し、2016年以来4年ぶりの白星発進をし[111]、21日には2012年以来8年ぶりの開幕カード勝ち越しを決める[112]一方で、7月1日にA.マルティネス、その後は敗戦が多く、14日に最下位に転落する[113]一方で、8月3日にロドリゲスを支配下選手に昇格させた。ただ、8月6日に負け越しが9にまで膨らんだが[114]、16日に最下位から脱出する[115]と、19日に3位に浮上[116]。2011年以来9年ぶりに5カード連続勝ち越しを記録する[117]など、Aクラスを争う。その最中、9月23日にマルクを支配下選手に登録させた。10月3日に3位に浮上する[118]と、11日から7連勝を達成[119]。11月11日には対広島戦に勝利し、2008年以来12年ぶりの3位と2012年以来8年ぶりのAクラスが確定した[120]。
開幕投手を務めた大野雄大は6戦して未勝利だったが、7戦目の7月31日に完投で初勝利を挙げる[121]と、その後球団記録に並ぶ5試合連続完投勝利[122]、10月22日のDeNA戦(ナゴヤドーム)において連続イニング無失点を45とし、1956年の大矢根博臣(40回1/3)を抜き、球団新記録を達成し[123]、最終的には6完封を含む10完投で11勝6敗の活躍を見せ[124]、最多奪三振と2年連続での最優秀防御率のタイトルを獲得し[125]、沢村賞も受賞した[126]。祖父江大輔、福敬登、R.マルティネスらリリーフ陣も安定した活躍を見せて6回終了時点でリードしていた試合で37連勝を果たし[127]、祖父江と福は共に最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した[128]。先発に転向した福谷浩司は8勝と復活を果たした[129]。打撃陣では大島洋平が2年連続となる最多安打を獲得した[130]。一方、11月6日にナゴヤドームで行われた引退試合を最後に吉見一起が現役を引退した[131]。
10月26日に開催された異例のドラフトでは高校No.1投手や世代No.1とも名高い地元愛知出身の髙橋宏斗(中京大中京)を単独で1位指名し、交渉権を獲得した[132]。これで3年連続での地元の高校生選手の1位指名での交渉権獲得となった。
オフに鈴木翔太、ブリトーら外国人選手5人が自由契約となった[133](鈴木は阪神、アルモンテはKTウィズ、シエラはドスラレドス・オウルズ、ゴンサレスはサンフランシスコ・ジャイアンツ、ロメロは2021年シーズン途中、ロッテに移籍)。新外国人としてマイク・ガーバー、ランディ・ロサリオを獲得したと同時にルーク・ワカマツと育成契約を結んだ。阪神を自由契約となった福留孝介が14年ぶりに復帰。楽天を自由契約となった山下斐紹と育成契約を結んだ。
木下雄介がオープン戦の登板で肩を痛める重傷を負い、リハビリで復帰を目指していた7月6日の練習中に呼吸困難を訴えて突如意識不明となり、救急搬送され、入院加療中だったが、8月3日に意識が回復しないまま27歳の若さで急逝した。木下の訃報は8月6日に球団を通して発表された。木下の詳しい死因については木下の遺族の意向により、公表されなかった。なお、2010年の小瀬浩之(当時オリックス・バファローズ外野手)以来となる現役選手の死は、中日はもとより日本プロ野球界全体に衝撃を与えた。
ナゴヤドームが興和とネーミングライツ契約を結び、1月1日付で「バンテリンドーム ナゴヤ」に改称された。開幕から打低に苦しんだだけではなく、前年沢村賞だった大野雄大の成績不振でBクラスに低迷する中、3月30日に近藤廉を支配下選手に登録させた。交流戦前半は活躍する中、6月1日に山下斐紹を支配下選手に昇格させた。その後、6月15日にロッテから加藤匠馬とのトレードで加藤翔平を獲得。しかし、8カード連続勝ち越しなしで負け越しが10となり[134]、前半戦最後の広島戦で同一カード3連敗を喫し[135]、前半戦終了時点で3位との差が10ゲームに広がる[136]と、後半戦ではDeNA、広島との最下位争いを繰り広げ、巨人を除くセ・リーグ4球団には大きく負け越したものの、最下位を免れ、2019年以来2年ぶりのBクラスと5位が確定した[137][138]。藤井淳志、山井大介が現役を引退した[137]。オフに与田は成績不振のため、監督を退任したが、投手陣を建て直し、柳裕也が最優秀防御率と最多奪三振の二冠を獲得し、チーム防御率3.22と12球団トップで[139][140]、規定投球回到達者を3人(大野雄大、柳裕也、小笠原慎之介)輩出したが、打撃陣はチーム打率2割3分7厘、69本塁打、405得点[注釈 27]と12球団ワーストだった[141][142]。そのため、3失点以下で負けた試合が12球団ワーストの24試合あるなど、投手陣の頑張りに野手陣が応えられない試合が多かった[143]。また、伊東ヘッドコーチ、パウエル・栗原両打撃コーチ、村上巡回打撃コーチ、阿波野・赤堀両投手コーチ、中村バッテリーコーチ、仁村徹二軍監督、立石二軍野手総合コーチ、武山二軍バッテリーコーチ、工藤二軍外野守備走塁コーチなど、首脳陣が相次いで退団した。後任に球団OBの3代目ミスタードラゴンズこと立浪和義が就任。ガーバーとロサリオの両外国人選手が自由契約となり、濱田達郎が戦力外として育成再契約を結んだ。又吉克樹がソフトバンクにFA移籍。新外国人としてキューバから派遣したフランク・アルバレスとギジェルモ・ガルシアの両名、ロッテを自由契約となった大嶺祐太と育成契約を結び、ソフトバンクにFA移籍した又吉の人的補償として岩嵜翔を獲得。
立浪監督時代
昨シーズンよりコーチ陣が大幅に刷新され、昨シーズンから一軍で留任したコーチは荒木内野守備走塁コーチだけになり、波留打撃コーチが二軍打撃コーチ、英智外野守備走塁コーチが二軍育成野手コーチに配置転換され、球団OBで2年間二軍投手コーチを務めた国際渉外担当の大塚晶文が投手コーチ、球団OBで2年間打撃コーチを務めた森野将彦が打撃コーチとして復帰し、球団OBの落合英二がヘッド兼投手コーチ、元巨人バッテリーコーチの西山秀二がバッテリーコーチ、球団OBで生涯現役の中村紀洋が打撃コーチ、球団OBの大西崇之が外野守備走塁コーチに就任した。中村紀ら3コーチはこれが現役以来の球団復帰となったが、5月23日に打撃コーチが中村紀から波留に変わった。
1975年以来47年ぶりに本拠地開幕カードで3連敗を喫する[144]など、開幕6試合で1勝5敗のスタートとなる[145]も、序盤は好成績を残す一方で、5月7日に上田洸太朗を支配下選手に登録させた。しかし、5月27日の対オリックス戦では石川昂弥が走塁中に右足を負傷し、左膝前十字靱帯不全損傷と診断され、チームの課題である打撃不振が深刻さを増す中、30日に元広島のジョアン・タバーレスを獲得。大野雄、柳といった主力投手陣、岡林勇希、高橋宏といった若手野手の成長も、交流戦ではロッテ、日本ハムに対して3連敗を喫し、調子を取り戻した阪神に抜かれ、交流戦終了から最下位に低迷すると、6月15日に新外国人としてキューバから派遣したペドロ・レビーラと育成契約を結んだ。また、7月1日に石川昂弥が再建手術を受け、シーズン絶望となったのも重なり、8日にオリックスから石岡諒太とのトレードで後藤駿太を獲得。その後、高橋周平の負傷離脱など、内野陣の離脱者続出を受け、7月17日にワカマツ、27日にガルシアとレビーラの両外国人選手を支配下選手に昇格させ、得点力アップを試みる。だが、チームはそのまま一度も最下位から脱出することはなく、波留の打撃コーチ就任後の貧打に苦しみ[注釈 28]、2016年以来6年ぶりの最下位が確定し、414得点に62本塁打と断トツで、12球団ワースト[注釈 29]の得点力不足が足を引っ張り、この年優勝したヤクルトと、クライマックスシリーズ進出を争った広島に勝ち越す意地を見せたが、阪神、巨人、DeNAを相手に負け越しが決まり、特にDeNAには6勝18敗[注釈 30]と大きく負け越した。9月23日にバンテリンドーム ナゴヤで行われた引退試合を最後に福留が現役を引退した。福留の引退により、逆指名制度によって入団した選手が全員引退した。最下位チームが優勝チームに勝ち越したのは実に1994年の横浜が巨人に勝ち越して以来のことであり、小笠原が唯一10勝を挙げ、ロドリゲスとR.マルティネスの両外国人選手が45ホールドポイントと39セーブで最優秀中継ぎと最多セーブのタイトル[注釈 31]、岡林が161本のヒットで最多安打のタイトルを獲得するなど、明るい話題もあった。オフにA.マルティネスら外国人選手3人、三ツ俣大樹が自由契約となり(三ツ俣はヤクルト、A.マルティネスは日本ハムに移籍)、岩嵜翔が戦力外として育成契約、レビーラとガルシアの両外国人選手が育成再契約を結んだ。楽天から阿部寿樹とのトレードで涌井秀章、DeNAから京田陽太とのトレードで砂田毅樹、アルモンテが3年ぶりに復帰したと同時に新外国人としてオルランド・カリステ、アリスティデス・アキーノを獲得。ロッテから無償トレードで加藤匠馬が1年半ぶりに復帰。濱田達郎、大嶺祐太、山下斐紹、平田良介が戦力外通告を受け、4人ともその後現役を引退した。コーチ陣では波留打撃コーチが退団した。
球団OBの和田一浩が打撃コーチに就任した。和田コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。
開幕前にロドリゲスが亡命。5月24日に新外国人としてウンベルト・メヒアを獲得。6月5日に松山晋也を支配下選手に登録させた。6月21日に日本ハムから山本拓実、郡司裕也との2対2トレードで齋藤綱記、宇佐見真吾、7月20日に西武から髙松渡とのトレードで川越誠司を獲得。7月26日に樋口正修を支配下選手に登録させたと同時に新外国人としてマイケル・フェリスを獲得。
開幕から成績不振に陥り、昨季同様に得点不足が原因で前年の覇者ヤクルトと最下位争いを繰り広げた。日本ハムから宇佐見と齊藤、西武から川越をトレードで補強するも、最下位のまま後半戦に迎えた。8月に入ると球団ワースト記録のビジター14連敗を喫し、5位とのゲーム差を大きく拡がり8月30日に早くも優勝が完全消滅。更に9月10日にクライマックスシリーズ出場チームが決まってないにもかかわらず両リーグ最速で3年連続のBクラスが確定した。10月3日の最終戦も連敗を喫し、翌4日の試合で、ヤクルトが阪神にサヨナラ勝ちを決まった事で、球団初の2年連続最下位が決まった。79年ぶりに4連勝を挙げれなかった。
その後球団側は成績不振にもかかわらず立浪の監督続投を発表した。
阪神が2005年以来18年ぶりのリーグ優勝、1985年以来38年ぶり2度目の日本一になったことにより中日は、リーグ優勝・日本一が1回のみの楽天を除く現存11球団の中で「年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一が最も少ない球団」となった。
注釈
- ^ ナゴヤ球場は、1996年まで一軍の本拠地として使用されていた。
- ^ 田中は大東京軍でも専務兼オーナーとなり、大島も大東京軍の監査役を兼務していたが翌年には球団が国民新聞傘下を離れたため、この体制は初年限りであった。
- ^ 特攻で戦死したプロ野球選手2名の内の1人。もう1名は、渡辺静(朝日軍)。
- ^ 日本シリーズの優勝監督が同年オフに退任したのはこの年の天知と2014年の秋山幸二(福岡ソフトバンクホークス)の2人のみである。
- ^ そのため、「リーグ優勝した上で日本一」になったのはこの年が唯一である。
- ^ 台風が上陸した9月26日以降、中日のホームゲームは8試合残っていたが、10月3日(国鉄戦)と10月6日(大阪戦)は中日球場で行い、巨人戦3試合、広島戦2試合、国鉄戦1試合はビジターゲームに変更された。
- ^ この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。
- ^ この年の後楽園での対巨人戦成績は0勝12敗1分、翌年も開幕から7連敗で9月13日の試合で6-5で勝利し、ようやく連敗を19で止めた(この当時のセ・リーグの同一球場における連敗記録は20)。
- ^ 当時のパ・リーグは前後期制を採用しており、前期優勝の阪急が後期優勝の大阪近鉄バファローズをプレーオフで破り、優勝したもの。通年成績では64勝59敗7分け(勝率.520)の阪急を、71勝50敗9分け(勝率.587)の近鉄が上回っていた。
- ^ 上記でも触れているように、2007年は「下剋上優勝」である。
- ^ このトレードに際しては牛島が当初拒否し、監督の星野が自ら説得にあたった。
- ^ 祝勝会(ビールかけ)や優勝パレードなどは昭和天皇の体調悪化により、自粛となっている。
- ^ 高木はこの試合で、審判へ判定に対する抗議をして退場処分を受けている。またこの日、オーナーの加藤巳一郎が死去している。
- ^ 6位の阪神タイガースも監督が中村勝広が途中休養し藤田平が監督代行になっており、交代人事が発生していた。
- ^ 翌年より阪神の監督に就任。
- ^ 野口に代わり、エースと呼ばれた。
- ^ 同年、12球団でチーム防御率3点台のチームは中日のみだった。
- ^ 新型コロナウイルス感染拡大防止により、セ・リーグのみ中止となった2020年は除く。
- ^ 継投なので参考記録となる。この継投は物議を醸した(2007年日本シリーズ完全試合リレー参照)
- ^ 15勝9敗(ホーム:10勝2敗、ビジター:5勝6敗1分け)
- ^ 8勝15敗1分け(ビジター:3勝9敗、ホーム:5勝6敗1分)
- ^ 1951年から1953年と1965年・1966年のいずれも南海、1956年から1959年と1976年・1977年のいずれも巨人、1967年から1969年と1971年・1972年の阪急、1979年・1980年の近鉄、1993年・1994年の西武。
- ^ その他に自身の先発勝利投手と、浜崎の登板、奪三振、先発出場、打席のそれぞれ史上最年長記録も更新。
- ^ 開幕から先発投手に勝ちが付かなかった試合数の歴代ワースト記録は広島東洋カープが1953年に記録した23試合である。
- ^ 最終的に1002試合まで記録を伸ばした。
- ^ 千葉ロッテマリーンズも平成に「年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一」になれなかった。
- ^ 本塁打、得点は飛ばないボールが使われた2011年(82本塁打、419得点)、2012年(70本塁打、423得点)よりも少ない。
- ^ 実際、中村紀が打撃コーチだった3・4月は17本、5月は15本だったが、波留が打撃コーチに就任した6月と8月と9月はいずれも6本、7月は12本と月単位でのホームラン数が減少している。
- ^ 得点数は3年連続で、本塁打数は4年連続で12球団ワーストである。また100試合以上戦ったシーズンにおいて2年連続でシーズンの本塁打数が70本を割ったのは、1955年から1957年にかけて以来66年ぶりである。
- ^ バンテリンドームでは3勝10敗である。
- ^ ホールドポイントもセーブも球団の外国人投手としてはシーズン最多である。
- ^ 2007年から採用されたクライマックスシリーズでは2012年まで6年連続でファイナル(2nd)ステージ進出を果たしていた。
- ^ パシフィックと同率。
- ^ 1946中部日本軍試合一覧を参照。2リーグ制以降では1968年の11連敗がワースト記録。
- ^ プロ野球記録は1942年の1リーグ時代だった阪神軍と2011年の北海道日本ハムファイターズが記録した52。
- ^ 加藤が入社したのは大島家がオーナーの新愛知新聞社だが、3年後に合併して中部日本新聞社が発足して以降は販売業務に従事する中で旧名古屋新聞系の小山家に接近していたとされる。
- ^ CSの制度は2004年から2006年の3年間でパ・リーグで先行導入されたプレーオフとは違い、年間勝率1位のチームがリーグ優勝という制度のため。
- ^ 1988年に発売された初の日本野球機構公認ゲームソフト『スーパーリアルベースボール'88』のパッケージにも小さいロゴのデザインが見られる。
- ^ 西沢道夫の実使用ユニフォームが野球体育博物館に保管されている。
- ^ 同スタイルのユニフォームには、背番号の上にアルファベット(ローマ字)の選手名入りのバージョンもあるが、1974年当時のものは選手名が入っていないため(1976年まで使用)、背ネームは入れていない。ただし背番号のサイズが当時のものより小さい。
- ^ 復刻版には、袖に「中日新聞」の広告とセ・リーグのチャンピオンマークが入る。
- ^ ホーム用の右腰部のスズキのスポンサーロゴは引き継がれたので、通常は兼用ではないが、ホーム用ユニフォームでもスポンサーロゴの掲示が認められないオールスターゲームに限っては兼用が可能である。
- ^ この球場で開催される試合は東海ラジオの主催のため、テレビ中継は系列局である東海テレビや三重テレビで放送される。
- ^ 同年6月16日にナゴヤドームで振替開催。なお、この振替試合では、中日主催としてはナゴヤドーム開場以来最低の観客数(6,947人)を記録した。シーズン券が使えなかったことと、開催日などの周知が徹底されていなかったことが主な理由。
- ^ 中日のビジターゲームではあるが2010年、7月27日に読売ジャイアンツと長野オリンピックスタジアムで、そして2012年、8月12日に横浜DeNAベイスターズと松本市野球場で行われた。
- ^ フランチャイズ制度以前に中日球場全焼事故のための代替で彦根球場を使用したことはあった。
- ^ ナゴヤドーム(バンテリンドームナゴヤ)が、毎年3月上旬に行われる名古屋ウィメンズマラソンの発着点として使用されるため、その設営準備などの関係で使えない日があるため
- ^ 本来は前日の刈谷球場での中日対西武戦を中継する予定だったが、雨天中止となった。
- ^ 2011年3月下旬頃より、生放送分をユーストリームでも配信(次回放送までは、Ustreamで配信)している。
- ^ メ〜テレ開局前は、CBCテレビと東海テレビのいずれかが日本テレビ系列にも中日主催ゲームを配信していた。
- ^ 1973年3月まではメ〜テレ・中京テレビ並列で両系列に参加(正式にはテレビ朝日系列には両方が、NNNには名古屋テレビのみが加盟)し、同年4月からメ〜テレはNET→テレビ朝日系に、中京テレビは日本テレビ系に一本化した。
- ^ ラジオ部門は、JRN・NRNの双方に加盟しているため、CBCラジオと東海ラジオを通じて中日主催試合の放送権を持っていた。
- ^ テレビ神奈川は中日新聞(東京新聞を含む)との資本関係がある。
- ^ 岐阜新聞・岐阜放送とも新聞紙面やwebサイト上の中日ドラゴンズ関連記事では「中日」を使用している。
- ^ その一方で、ビジター側の系列局が同時ネットまたは独自の実況で放送することがある。2016年7月6日の対広島戦(金沢)は中国放送が別制作を実施したが、同日登板した黒田博樹が日米通算200勝まであと1勝という状況だったため、広島からのオフチューブから現地乗り込みに変更となり、中国放送にはCBCテレビに加えて北陸放送が製作協力に参加した(同局ではCBCテレビ・中国放送制作分のどちらも放送しなかった)。
- ^ 試合開催は引き続きフジテレビ系列局が勧進元となっている。石川県・富山県のTBS系列局は、中日新聞との資本関係はあるものの、それ以上に全国紙各紙や中日新聞と競合する地元県紙(北國新聞/富山新聞・北日本新聞など)との関連性が強い。また福井県にはTBS系列局が存在しない。
- ^ 地元県紙や放送局が勧進元となった中日以外の球団が主催する試合や、ベースボール・チャレンジ・リーグの試合は、年度により地元局が特例で放送することがある(特に富山県開催の広島主催ゲームでのチューリップテレビなど)。
- ^ 過去にラジオ日本が予備カードを設定していた時代は、予備から昇格した場合に限りCBCラジオ発ラジオ日本向け裏送り中継の中日主管試合の岐阜ラジオへのネットが行われた。また中日が関与しないナゴヤ球場・ナゴヤドームで開催のパ・リーグのカードや、放送権が広島球団側にある長良川球場での広島主催の中日戦では、CBCラジオ発の裏送り分が岐阜ラジオに本番カードとしてネットされたことがある。また後者の場合はラジオ日本が直接岐阜に乗り込み、岐阜ラジオの技術協力で放送されることがあった。2016年からラジオ日本とTBSラジオ・JRNの提携関係が本格的に再開されることになったが、岐阜放送では原則として巨人戦のみとするも、巨人戦を含む中日主催試合、並びに雨天中止の予備カードや、基から中日戦の開催がないか、JRNに放送権が与えられていないヤクルト主管の中日戦開催日においてのCBCラジオの本番カードと重複する場合は、サービスエリア重複(双方とも東海3県のほぼ全域と滋賀・静岡・富山・長野・和歌山・奈良などの周辺県一部で聴取可能)による干渉を防ぐ目的で、岐阜放送での放送が行われない試合もあった
- ^ 2013年から2015年までのナイター開催時はトップ中継のみ別制作となり(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)、リレー中継のみ地上波中継と同じ出演者が担当する形式だったが、2016年以降のデーゲーム開催時は原則としてリレー中継のみ実施し、CBCテレビのみ16時以降も中継するが、地上波同時放送とせず、TBSチャンネル1との同時放送となる。
- ^ 特に中国放送ではCBCテレビからのネット受けと中国放送の解説者・アナウンサーの実況への差し替えの両方を行った年がある(いずれも番組名は『Veryカープ! RCCカープデーゲーム中継/カープナイター』に差し替え)。
- ^ この年の第1戦も中日主管であるが、球団の親会社・中日新聞本社の意向によりCBCテレビ・TBSテレビの共同制作の体裁(実際の製作と送出はCBCテレビが行ったが名目上はTBSテレビが製作著作)で放映された。
- ^ 3試合開催時の地方開催分の放映権はNPB主導となって以降フジテレビ系列(FNN/FNS)が中継している。
- ^ 中日ドラゴンズにおける、ドミニカ共和国出身の助っ人外国人選手である、ルナ、エルナンデス、ナニータの3人を総称する際の愛称。
出典
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